俺は自室のドアを閉めるなり、
思い切り壁をぶん殴る。
左手でだ。ダメだ、右手では。
いくら頑丈に設計した壁でも、壊しちまう。
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も。
この身体を蝕む激情を叩きつける。
少しで良い。ほんの少しで。
僅かでも、この衝動が軽くなれば。
足りない。
【リグル】……足りない。
『足りない。足りないんだ』
『そうだろう? そうなんだろう?
なぁ? 我が盟友よ』
【リグル】……黙れ。
囁く声を振り払おうと、
俺は左手で頭を抱える。
特別な防音壁を完備した俺の部屋で、
それでもなお、俺の耳に、魂に、
まるで僅かな隙間から侵食するかの如く。
『いい女たちじゃないか。
スカベンジャーの鳥と猫。
それに、こいしとかいうガキも』
『喰ったらどんな味がするんだろうなぁ?
どんな風に鳴くと思う?
泣き声、喚き声、喘ぎ声……』
『気になるなぁ。気になるよなぁ?
なぁ、考えてもみろよ?』
『お前がちょっとその気になりゃ、
すぐにでもお前のモンにできるんだぞ?』
【リグル】うるせぇッ!!
壁を殴る。鈍い拳の痛みが、
飲まれそうな意識を薄く削ぐ。
いつもより餓えがひどい。
足りない。満たされない。
身体に虚穴が空いてるかのよう。
際限のない欲求は、
俺の右腕のせいだ。
俺の閻魔のオーパーツ。
永遠供給源。
動力を無限に貯蔵し、
自在に放出する機関機械。
右腕に埋め込んだ動力源。
俺は莫大な力の代償に、
けっして満たされることのない
飢餓感を植え付けられている。
贅を尽くした飯をどれだけ喰っても。
神に捧げる美酒を浴びるほど飲んでも。
餓えた俺が満たされることはない。
【リグル】くそっ、あぁ、クソったれ……!
衝動のまま部屋の奥へと赴き、
積み上げた樽のひとつに手を突っ込む。
冷めきったポリッジを左手に塗り付けて、
叫びだしそうな喉へ詰め込むように、
飲み込んでいく。
水でふやかしただけの燕麦。
吐瀉物のようで、ひどくマズい。
だが食い物には違いなかった。
食い物を頬張っている時は、
ほんの少しだけ飢えが和らぐ。
気休めに過ぎないが、縋るには充分だ。
【リグル】俺には、必要ない……ッ!
ポリッジを飲み下しながら、
自分に言い聞かせるように呟く。
【リグル】満足だ、もう満足してる……。
これ以上、何も必要ない……。
【リグル】俺はリグル・ナイトバグだ……。
俺には責任がある、義務がある……。
綺麗な嫁も、可愛い娘もいる……。
【リグル】俺は満ち足りてる、
俺は幸せだ、俺は果報者だ、
俺は――
【ラルバ】……あなた。
ポリッジを食い漁っていた俺の背中に、
ラルバの声が投げかけられる。
ハッとする。
口の周りを汚すポリッジを拭い、
振り返り、不安げに佇むラルバの
もとへと足早に歩み寄って、
【リグル】どうして入ってきた。
ラルバの胸ぐらを掴む。
かっとなった俺の胸中を代弁するように、
右腕が唸りをあげて蒸気を吐き出す。
ラルバは俺から視線を逸らさなかった。
こいつは、いつもそうだ。
俺の右腕の力に、けっして気圧されない。
【ラルバ】苦しいだろうと、そう思って。
【リグル】俺は苦しくない。
【ラルバ】私の目を見て言って。
【リグル】…………苦しくない。
【ラルバ】判りやすいヒト。
ラルバが嘆息して、
俺の左頬を撫でてくる。
心地の良い冷たさが皮膚に染みる。
その感触が、俺の心の張りつめた個所を
幾分か和らげてくれた。
俺はラルバから手を離して、
【リグル】……悪い。かっとなった。
すまん、もう大丈夫だ。
目を逸らす。
罪悪感で、ラルバの顔を
まともに見れなかった。
罪の意識。手を出したことよりも、
手を差し伸べられたというのに、
変わることなく感じる餓えに。
そのことが何よりも、
俺の心に影を差す。
そんな俺の心を見透かすように、
ラルバは何も言わず、
俺にキスをして、
【ラルバ】ホタルの寝顔を見に行ってあげて。
【リグル】……そうだな。
俺の顔を見て頷いたラルバが、
静かに花を綻ばせるように微笑む。
――あぁ、俺は満たされている。
そう、強く再認識する。
どれほどの空腹感に苛まれても。
餓えた感覚が脳髄を食い漁っていても。
俺は幸せだ。
家族がいる。何より大切な存在。
こいつらの笑顔を守るためなら、
俺は今この瞬間に死んだって構わない。
誇張ではなく、本気でそう思う。
【リグル】燐と空は?
【ラルバ】燐さんは、お部屋で休んでる。
あなた、飲ませ過ぎよ。
【ラルバ】空さんは、どうだろう……。
お部屋にいるはずだけれど。
【リグル】そうか。
ラルバを伴って部屋をでる。
その前に。
俺はラルバの肩を左手で掴んで。
【リグル】――お前じゃなかったら殺してた。
【リグル】お前でさえ、辛うじて、だ。
いつでも俺に分別があると思うな。
【リグル】今日のお前は運が良かっただけだ。
俺の右腕は、俺の飢えは、
何より大事なモノさえ容易く、俺に忘れさせる。
【リグル】俺に家族を殺させるな。
【ラルバ】……判ってる。
【ラルバ】……ごめんなさい。
ジッと、ラルバの両目を見据える。
ラルバは俺から視線を逸らさないが、
自分の非は承知の上らしく、
普段の威勢は感じなかった。
俺はそのことにひとまず安堵し、
ラルバから左手を放す。
【リグル】まぁ、鍵を忘れた俺も悪かった。
もう寝るか?
【ラルバ】うぅん、もう少し。
【リグル】そうか。
それじゃ、娘の寝顔を拝むとするか。
言って、俺は今度こそ部屋を後にする。
俺たちは寝室を分けている。
ラルバとホタルは2階の寝室。
俺はもちろん、鍵付きの自室。
家族の時間は大切にしたい。
だが、俺は自分を信じないことにしている。
当然の防衛策だ。
廊下を進み、2階へ至る階段へ。
上がっていく。静かな夜だ。
燐が酔い潰れてから静かになったわけだが。
【リグル】――ん?
階段を上りきる寸前、
スッと戸が開く音がした。
寝室の方だ。奇妙に思って足を止める。
寝ているホタルがいるはずなのに。
ざわりと背筋に警戒が走る。
知らず息を殺していたが、
角からひょっこりと出てきたのは、
こいしちゃんだった。
ほっと胸をなでおろす。
だが、子供はもう寝る時間だ。
俺はこいしちゃんのもとに歩み寄る。
【リグル】眠れないのかい。
窓から外を見ていたこいしちゃんは、
声を掛けた俺の方を見たが、
すぐにふいと窓の方へ向き直る。
俺が言うのもなんだが、
二階の窓から外を見ても、
大したものは見えない。
蟲群街には明かりが少ないし、
地下世界を覆う雲は、晴れることはない。
暗がりが広がり、室内の光景が反射する。
こいしちゃんの表情のない顔を、
窓ガラスが無機質に反射して。
【こいし】ホタルちゃんのパパ。
【リグル】うん、何だい?
【こいし】アナタが死んだら、
次のリグル・ナイトバグは
ホタルちゃんになるんだよね。
――それは。
それは、まるで奇襲か、
不意打ちかのようだった。
まったくの死角から、
渾身の攻撃を食らったような。
耳を疑った。
あまりにも虚を突かれて、
まともに口も動かせなくなる。
クルリとこいしちゃんが
こちらを振り向く。
その顔。その表情。
俺に注がれる視線。
何も、ない。
そこには何も無かった。
一切の感情が、宿ってなかった。
能面のようでもあった。
人形のようでもあった。
その様子は、俺に忘れていた感覚を
呼び起させた。
この右腕を手に入れたときに味わったもの。
閻魔のオーパーツを前に想起したもの。
――虚無。
そんなはずは――
ないと、判っていても――
【こいし】お腹が空いてるのね。
【こいし】可哀想。
我慢して、我慢して、
罪を重ねないように生きてる。
【こいし】でも、アナタは家族を食べるよ。
【こいし】罪から逃げることが出来なくて。
罰に抗うことが出来なくて。
【リグル】こいし、ちゃん……?
心臓を冷たい掌で鷲掴みにされたかのよう。
振り絞る俺の声は震えていて。
俺の頭が、どうにかなったのか。
子どもの戯言と受け流すには、
あまりに凶兆が強すぎた。
かと言って、悪意や害意が
そこに在るわけではなかった。
こいしちゃんの表情も、声も、
一切の感情を内包してなかった。
ただ、ただ虚無だった。
虚無。
背筋に厭な汗が滲む。
空虚な視線に寒気を覚える。
虚空と相対する錯覚。
聞こえてくるようだ。チク・タク。
まるで嘲笑うように。イア・イア。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
――なのに。
この少女が、あの這い寄る混沌に、
あの、崇め奉るべき古きものに、
繋がっているような気がして――
【ホタル】――パパ?
張りつめた緊張の糸を絶つように、
ホタルの声が鼓膜に届く。
こいしちゃんが俺から視線を外す。
一拍の間をおいて、
どっと安堵が押し寄せた。
【ホタル】どうかしたの?
怖い顔、してる?
【リグル】あぁ、いや……。
なんでもない。
そう、なんでもないよ。
【リグル】ホタルこそどうしたんだ?
いつもなら、もう寝てるだろ?
【ホタル】……喉、乾いちゃった。
……あれ? こいしちゃん?
パパと、お話してたの?
【こいし】うぅん、何も。
何も、話してないよ。
こいしちゃんがホタルに微笑みかける。
少し儚いながらも、朗らかな声、表情。
まるで別人のよう。
だがむしろ、別人ではないことが、
俺の意識をざわめかせる。
【こいし】喉乾いた? 私も。
一緒にお水飲みに行こ?
【ホタル】うん。行く。
……パパ、通ってもいい?
こいしちゃんと手を繋いだホタルが、
階段を塞ぐ俺に小首を傾げて問う。
【リグル】あ、あぁ……。
【ホタル】ありがと、パパ。
おやすみなさい。
俺の横を通って、
2人が階段を下りていく。
仲睦まじい様子の2人。
ホタルにできた新しい友達。
息をつく。身体に緊張が走っていた。
さっきの言葉は何だったのか。
こいしちゃんの瞳を想起する。
虚無を湛えていた2つの目じゃない。
胸の辺りについた、第三の瞳。
【リグル】(心を読まれた……?)
サトリと呼ばれる妖怪が持つ読心の能力。
知らないわけじゃなかった。
数こそ少ないが、地底にもかつて
他のサトリ妖怪が居たと聞く。
心を読めるのならば、
俺の事情を言い当てても、
不思議じゃない。
俺が抱える罪科と代償、
俺が持つ最大の怖れを見抜いても、
不思議じゃない。
――果たして、本当にそうか?
違和感があった。
心を読まれたのは初めてだが、
相手の力量を測る目は衰えてないはずだ。
【リグル】(一瞬で俺の意識の全てを、
余すところなく読み尽くすなんて
芸当ができるのか?)
【リグル】(意識には幅がある。
思念は絡み、混じり、複雑化する。
必然、情報量も増える。優先度も異なる)
【リグル】(あの娘が殊更に強い妖怪なら、
そんな芸当ができる可能性もあるが――)
断言できる。
あの娘の妖怪としての力は、
そこらの連中より弱いくらいだ。
意識なんて胡乱なモノを、
瞬時にすべてスキャンするなんて
高度な真似、あの娘には無理だろう。
俺の空腹。それは読めるだろう。
それは俺の意識の上辺で、
常に俺を苛み続ける情報だ。
だが、俺の最大の怖れ。
家族を喰うというトラウマを
読めるのは、明らかにおかしい。
そんなはずはない、と言っていい。
俺の心の奥底に眠る恐怖。
そんなもんまで読めるとしたら――
【リグル】(……アンテナの感度に対して、
妖力があまりに貧弱すぎる)
【リグル】(早晩、情報の多さに
処理能力がパンクして、
頭がおかしくなるに決まってる)
にもかかわらず――
あの娘は俺のトラウマを言い当てた。
いつか家族を喰うかもしれないという、
俺の意識の底の底に宿る恐怖の念。
……それは、何故だ?
【リグル】…………。
俺は首を横に振る。
これ以上、思考の足掛かりに
なりそうな情報はなかった。
あの娘は<根源存在>と繋がってるとか。
あの娘は未来が見えるのだとか。
仮説に仮説を重ねることはできるが、
それは何処まで積み重ねても
仮説の域を出ない。
だが、俺の見立てが
間違っていたのは確かなようだ。
当面は“拳銃使い”だけに
注意を払うつもりだったが……。
【リグル】――おい。
【恙虫】はい。
【リグル】監視をもう1人増やしてくれ。
“拳銃使い”だけじゃなく、
閻魔代行の妹もだ。
【恙虫】は。
襲撃条件は同じで構いませんか?
【恙虫】使う毒の準備も?
【リグル】そうだな。頼む。
娘に万が一のことがあったら困る。
【恙虫】承知しました。
【リグル】……やれやれ。
ため息を吐く。
同胞には頼りになりっぱなしだ。
頼った分の恩は返さなければ。
階段を下りながら、
煙草の箱を指先でもてあそぶ。
俺たちは群れだ。
蟲群街という共同体を形成する群れ。
だからこそ、俺の行動には責任が伴う。
群れ全体の利益がついて回る。
俺が大事に思うのは、この世界じゃない。
それは副次的なものに過ぎない。
大事なのは、俺たちという群れだけだ。
匿うのも、もてなすのも、奴らが有用だからだ。
害になるなら遠慮はしない。それだけのこと。
とはいえ、ようやく見つけた
時計閻魔への切り札。
無駄に消耗はしたくない。
できれば何事もなく2日後を迎えたい。
【リグル】(商会の連中は時計閻魔の権能を
手に入れたがってるだろうが……)
【リグル】(俺は違う。
時計閻魔は殺さなくちゃならない)
【リグル】(奴さんを完全に消さねぇと、
この世界は彼岸じゃなくなっても尚、
地獄であり続けるだろう)
【リグル】(そうなりゃ、いつまでも
地獄の瘴気が薄まらない。
同胞が安心して、家庭を持てない)
【リグル】ーーそんなもん、見過ごせねぇよな。
俺はリグル・ナイトバグだ。
俺には責任がある。俺には義務がある。
全ての同胞を導き、幸福にする責務が。
そのためにできることは何でもしたい。
泥を被ろうが、後ろ指を指されようが、
この身が朽ち果てようが、構わない。