『――こんにちは』
『――お空』
誰かの声がした。
耳元で囁くように。
彼方から語り掛けるように。
小さすぎて聞こえない、と思った。
大きすぎて聞き取れない、と感じた。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
時計の音。秒針が時を刻む音。
なぜか、それがそうだとすぐに判った。
チクタク、歯車が回転する。
チクタク、喜劇が推移する。
チクタク、悲劇が展開する。
『――こんにちは』
『――お空』
『――絶対に、虚穴を覗いちゃダメだよ』
『――真っ黒な闇を見ては、いけないよ』
『――どこまでも、深い深い闇の底』
『――何よりも、黒い暗い深淵の奥』
『――それは、もうアナタを観てるけれど』
『――お願いだから』
『――気付かない振りを、していてね』
『――そのまま、ずっと』
『――判らないままで、知らないままで』
『――お空』
「――おい、お空?」
【空】……。
【空】…………んにゅ?
【燐】起きな。もう着くってさ。
【燐】蒸気路面車は、
お前さんが起きるまで
待っちゃくれないよ。
お燐に揺さぶられて、
私は目を覚ます。
蒸気路面車の速度、徐々に緩やかに。
景色の流れる速さ、どんどんゆっくりに。
いつの間にか、眠っていて、
いつの間にか、もう降りる駅。
【空】(夢を、見たような……?)
そう、夢。
誰かが私に語り掛ける夢。
内容は……よく、覚えてない。
覚えてるのは、チクタク、という音。
時計の音、歯車の音。一定の律動。
【こいし】…………。
いつの間にか起きていたようで、
行儀よく席に座っていたこいしが、
ひらりと立ち上がって私の前に来る。
彼女は私の顔を覗き込んで、
【こいし】……チクタク、チクタク。
【こいし】虚空からの囁き。
這い寄るカケラがめぐる音。
此方から彼方から、響く音。
【こいし】……聞かない方が、いいよ。
【空】へ、あ、うん……。
私の曖昧な返事を聞いたのか、
それとも聞いていないのか、
こいしは私から離れていく。
お燐とラルバさんの待つ乗降口へ。
蒸気路面車は蒸気を吹き出しながら、
ターミナルへとたどり着く。
【ラルバ】おはようございます。
少しでも休めましたか?
【空】あ、はい。
ありがとうございます。
【ラルバ】私が起こそうとしたのですが、
燐さんに止められまして。
【燐】やめたほうがいいですよ、ってね。
お空は、あたい以外に起こされると
最悪、ぶっ放すから。
【空】……あぁ、確かに。
そうかも。
パルスィに起こされた時のことを
思い出して、私は苦笑する。
お燐に起こしてもらわないと、
とっさに不安になるんだ。
無防備な姿を知らない人に見られた、って。
そうなってしまうと、
どうしても銃に手が伸びる。
私に染みついてしまった防衛機構。
圧縮蒸気が機関に充填される音。
それと同時にドアが開いて、
私たちはターミナルへ降り立つ。
ステーションは閑散としていた。
本当に誰の姿も見当たらない。
交通拠点の要みたいな飲食店も、
蒸気路面車を待つ人々の談笑も、
欠片すらない。シンと静まり返って。
【空】静かすぎて、なんか気持ち悪い……。
【ラルバ】そうですね。
街の外に出ようとする蟲妖がいませんから。
【ラルバ】そして逆に、蟲群街に来ようとする
他の種族の妖怪も滅多に現れません。
【ラルバ】閉鎖的なコミュニティなのです。
良くも悪くも。
私のそばから、あまり離れないように願います。
【空】へ? どうして?
【ラルバ】余所者を嫌うのです。この街は。
同胞は、蟲妖でない者に不寛容です。
致し方ない面もありますが。
【燐】……あぁ、かなり有名ですね。
蟲群街に行ったやつが帰ってこないとか、
行商人が通り魔にあったとか。
【空】……襲われる、ってこと?
私は周囲に気を配り、
コートの中の銃のグリップを掴む。
けれど、臨戦態勢に入った私の頭に、
お燐からチョップが入れられた。
【空】? 痛った……。
【燐】お馬鹿。ラルバさんの同胞さんだよ。
殺しちゃダメに決まってんだろ。
【空】? どうして?
襲ってくる相手なのに?
【ラルバ】……私と一緒なら大丈夫です。
同胞も無分別ではありません。
【ラルバ】ですから空さん、お願いです。
どうか、私から離れないように。
【ラルバ】アナタなら、襲われても容易く
返り討ちにするでしょう。私はそれが怖い。
同胞の命を無為に散らせたくはありません。
【空】でも……。
【燐】あーもー、しょうがない奴だね。
ラルバさんと一緒なら襲われないっての。
だから離れるなって言われてんの。
【燐】判る?
【空】それは、うん……。
【燐】襲われないなら殺す理由ないだろ?
それも判るね?
【空】まぁ、うん……。
【燐】……あんまり判ってないみたいだね。
お燐が大きなため息をつく。
その向こうで、ラルバさんが不安そうに
私とお燐のやり取りを眺めてた。
【燐】――じゃ、こうしよう。
こいし、ちょっとおいで。
そんで、空の右手を握ってやって。
ラルバさんの隣に立っていたこいしが、
コクンと頷いて、歩み寄ってくる。
そして、私に左手を差し伸べてきた。
【燐】いいこ。
ほらお空、こいしの手を握りな。
そんで、絶対に放さないように。
【燐】できるね?
【空】うん……判った。
お燐のキツイ口調に圧されて、
不承不承こいしの手を右手で握る。
右手を塞ぐのは不安で仕方ない。
銃を出すのがコンマ1秒でも遅くなる。
それをお燐は判ってるし、
こいしも判ってたようだし、
どうやら私も判ってる。理屈だけ。
殺しちゃ駄目、という要望はひどく窮屈だ。
私は掃除屋で、殺すのが仕事なのに。
【空】……むー。
むくれてみる。
私、とっても不満です、の顔。
もちろん、そんなことをしても無駄。
どころか、手を繋いだこいしが私を見上げて、
【こいし】空さん。
私と手を繋ぐの嫌?
なんて聞いてくるものだから、
私はぐぅの音も出なくなってしまう。
【空】……うん、そんなことないよ。
【こいし】よかった。
【燐】まったくだ。
……というわけで、如何ですかね?
フン、と鼻息を鳴らしたお燐が、
声色も身体の向きも180度ひっくり返して、
ラルバさんに尋ねる。
【燐】お空の奴も襲われなきゃ何もしませんし、
万が一の時にゃ、お空がこいしの手を放す間に、
あたいが同胞さんを無力化しますんで……。
【燐】申し訳ないんですが、
ちょっとこれ以上のことを要求すると、
お空の奴、情緒がアレになるんで……。
【ラルバ】……致し方ない、のでしょうね。
私も可能な限り、注意します。
最悪の事態は避けられるように。
【燐】ホント、すみませんね。
ご迷惑おかけします。
【燐】――頼むよ、お空?
【空】私に頼まれても、困るよ。
【燐】じゃ、こいしに頼むよ。
お空の手を放さないようにね?
【こいし】私がお姉ちゃん、だね。
今だけ、お空さんの、お姉ちゃん。
【ラルバ】はい。お願いしますね?
こいしお姉ちゃん。
【こいし】はぁい。
【ラルバ】ふふ、頼もしいです。
それでは、参りましょう。こちらです。
【空】(……殺さないって、大変)
こいしの手を握ったまま、
先導するラルバさんについていく。
がらんどうの入り口を通り過ぎると、
街の外郭が胡乱に浮かび上がる。
穏やかな明かりに内包される影。
【空】(ぜんぜん違う。
無限雑踏街と)
歪な積み上げ長屋の影はない。
建物はどこまでも平坦で。
闇をかき消す機関街灯の明かりさえない。
遠くに連なる街は、寝静まったように
暗く沈み込んでいて。
何より、音が聞こえない。
シンと静まり返っていて、
喧騒なんて縁すらもないかのよう。
強いて言えば、少しだけ無限雑踏街の外れに
雰囲気が似ている。そんな気がした。
誰も寄り付かなくなった、街の残骸の空気感。
【燐】……なんていうか、
静か、ですね。
あたい、ちょっと落ち着かないな……。
【ラルバ】無限雑踏街と比べると、えぇ。
あの街の栄えようは、
他の街の比較になりませんから。
【空】ねぇねぇお燐、
なんか、キーンって音する。
【ラルバ】静寂に慣れてらっしゃらないからかと。
私なぞは、戻ってきたという感覚があって
とても落ち着きますが。
【空】戻ってきた?
【ラルバ】はい。
やはり私は、帰属意識があるのです。
この街に。この空気に。静謐に。
微笑んだラルバさんが、
街の遠景に向けてまっすぐ伸びる
石畳の道を歩き出す。
周囲には何の気配も感じない。
ポツリ、ポツリと機関街灯が立っている。
きっと、この街では、ここにだけ。
ブゥン、と機関街灯の駆動音。
こんな音、無限雑踏街で聞いたこともない。
同じ機関街灯なのに。
周囲には何の気配も感じない。
拓けていて、誰かが隠れ潜むような場所もない。
なのに――
【こいし】――誰か、見てる。
こいしが、握る手に力を込めて。
私は不安げに見上げてくる彼女に、
コクリと頷いて。
【空】そうだね。見られてる。
【ラルバ】流石ですね。お気付きとは。
【燐】見張りを置いてらっしゃるんで?
お燐がキョロキョロと辺りを見回して、
それからラルバさんに問いかけた。
彼女はちょっぴり困ったように微笑んで、
【ラルバ】見張りを買って出る者がいるのです。
自主的に、当番を組んで。
【ラルバ】そして気付けば常時、誰かしらが
ターミナルを見張っていることに。
主も窘めてはいるのですが……。
【燐】うへぇ、そりゃ怖いですね……。
同胞さん方の余所者嫌いは、
かなりのもんですね……。
【ラルバ】そういうわけでもないので、
どうか、笑ってやってください。
田舎者の暇つぶしの延長線です。
【ラルバ】集まる口実のひとつですよ。
見張りといっても、たいていは
酒や遊びに興じているばかりですから。
【空】…………。
私は朗らかに同胞を庇うラルバさんから
目を逸らし、私たちを見ている誰かの
視線の方向を探ろうと試みる。
想定。準備。
監視は伝令を飛ばし、
伝令は戦える人員を揃える。
どれほどのヒトが集まるだろう。
街の規模は、けっして小さくない。
女子供を除いても、かなりの数になる。
頭の中で残弾数を確認する。
シリンダに6発。
コートの内ポケットに36発。
【空】(たった42発……)
途方に暮れる。42発の弾丸じゃ、
街ひとつなんか相手にできっこない。
そうでなくても、私は街ひとつを
相手に殺し合いができるほど強くない。
途端に、私は恐ろしくなる。
進む足が勝手に止まってしまう。
脈拍、どんどん高くなって。
お燐とラルバさんの背が、遠くなってく。
待って。そう言いたいのに、
喉から声が出ない。息、詰まって。
【こいし】――怖いときはね。
目をつむって、耳を塞ぐの。
傍らで私を見上げるこいしが、
ポツリと口にする。
【空】……え?
【こいし】何も見えない。
何も聞こえない。
世界に私はひとりきり。
【こいし】そう、思いこむの。
おまじないみたく、言い聞かせるの。
【こいし】そうすると、少し楽になる。
目の前の不安を、絶望で塗りつぶせる。
【こいし】……私は、そうしてきた。
そう言って、こいしは私の手を引いて
歩き始める。戸惑う私に構わず。
こいしの話はよく判らない。
判らないのに、妙に説得力がある。
その言葉は、私の心を直接、撫でてくる。
目を、閉じてみる。耳は今は塞げない。
何も見えなくなる。瞼の裏の漆黒だけ。
暗闇には根源的な恐ろしさがある。
地下世界の妖怪たちが、
それでも光を求め、焦がれるほどに。
【空】(恐怖を、別の恐怖で上書きする?)
ほんの少しだけ、その感覚が判った気になる。
目をつむったまま歩くと、
意識が歩くことに集中するような感じになる。
蟲群街の真ん中に歩み寄っていく事実が、
私の中で少しだけ軽くなる。
もうどうにでもなれ、という気分になる。
【こいし】その調子。
【空】うん、ありがと。
言いつつも、何かが胸に引っかかる。
……どうしてこいしは、こんな方法を?
……そうしてきた、って、なんで?
鎌首をもたげてきた幾つかの疑問。
不定形のそれらを言葉で掬い上げるより早く、
ラルバさんの声が聞こえてきて。
【ラルバ】そろそろ我らの生活圏内です。
空さん、どうかご自制を。
【空】へぁ、あ、はい……?
目を開く。いつの間にか、
もう建物の近くまで来ていた。
積み上げられてない長屋が、
まっすぐ続いている。新鮮な光景だった。
橙色の明かりが静かに道を照らしてる。
木と紙で作られた灯篭。
仄かで控えめな光。何だかホッとする。
何より私は、ここまで来てもなお、
ヒトの気配が無いことが不思議だった。
誰も住んでない区画なのか、と思う。
大勢のヒトが私を待ち構えているって、
それが不安で仕方なかったというのに。
【空】……誰もいない?
【ラルバ】いえ……。
気を悪くされたら申し訳ないのですが……。
【ラルバ】皆、警戒して長屋に戻ったのかと。
見張り番が街に知らせたのでしょう。
その……余所者が来たぞ、と。
【空】……? 長屋に?
周囲を見回す。長屋と呼ばれた建物を。
木材と、漆喰と、障子紙で作られた建築物。
その在り方は、かつての旧都そのままで。
首を傾げる。昔のままの建物は構造的に弱い。
障子は簡単に穴が開くし、
木戸は簡単に蹴破れる。
敵が来ると判っていて、
どうして長屋に戻るのだろう?
備えにしては、あまりに頼りない。
【燐】ははぁ、思ってたより慎重なんですね。
あたいはてっきり、ひと悶着あるもんだと。
【ラルバ】いえ、蟲妖は基本的に弱い者なので。
面と向かって喧嘩を吹っ掛ける者には、
あまり心当たりはありませんね。
【燐】あ、そうでしたね。
……あぁいや、こいつは失敬。
【燐】でも、安心しました。
これなら、お空の奴も暴走しないでしょうし。
【こいし】……暗殺、奇襲。
闇討ち。
【空】!?
【燐】お馬鹿! 変なこと言うな、お馬鹿!
お前さんもだよ!
キョロキョロすんのはやめな!
【空】で、でも……。
【ラルバ】空さん、空さん、大丈夫です。
私が居ますので。私と一緒なら、
誰もそんな馬鹿な真似しませんので……。
【燐】すみません、ホントすみません。
コラ、お空! こいしから手を離すな!
しっかり握ってろっての!!
【空】……うん。
そーっとやったつもりだったのに、
あっさりとバレてしまって、
私は渋々こいしの手を握り直す。
視線を感じる。
どこからか誰かが私たちを見てる。
よくよく気配を辿れば、
視線の矢印は、そこかしこから。
注目されてる。それが不安になる。
お燐は気にならないのかな。
それとも気付いてないのかな。
どっちだろうと、
ちょっと聞けそうにない。
お燐は、ジトッと私を睨んできてて。
【ラルバ】行きましょう。
主は、奥屋敷で待っています。
あの建物です。
言って、ラルバさんが指を差した。
その先を辿ると、二階建ての一軒家が、
長屋群を突っ切った先に見えた。
【こいし】城下町、みたい。
【燐】ジョーカマチ?
なんだい、それ。
【こいし】お城があって、町があって。
領主がいて、臣民がいるの。
【こいし】でも、お城って言えるほど、
あのおうちは大きくない。
【空】お燐、お城って、なに?
【燐】知らないよ。こいしに聞きなよ。
【空】うーん……。
こいし? お城ってなに?
【こいし】権力の象徴。
領主の威光を示すもの。
殿上人のおわす、絢爛たる建造物。
私はお燐の方を見て肩を竦める。
こいしの言うことは、時々すごく難しい。
私が馬鹿だからなのかな、って思ってたけど、
お燐にもチンプンカンプンだったみたい。
お燐は難しい顔をして首を横に振った。
【ラルバ】いえ、そんな大層なものでは。
単に、主が住んでいるというだけです。
さ、参りましょう。
なんだか気楽な風に言ったラルバさんが
テクテクと屋敷の方へと歩き出す。
【空】……?
なんだろう。なんとなく違和感。
でも、その違和感の正体が判らない。
私が首を傾げていると、
お燐が私を急かすように、
【燐】ほら、お空。
【燐】くれぐれも、
こいしの手を離さないように。
【空】判ったって。
もごもごと言い訳しつつ、
こいしの手を引いて歩き出す。
その間も、視線で首の辺りがざわざわした。
目抜き通りを歩いているのに、
本当に誰の姿も見ない。
なのに、視線や気配は確かに感じる。
それがとっても居心地悪い。
この街そのものから拒絶されてるみたい。
心なしか、お燐も尻尾を丸めてる。
チラとこいしの横顔を見る。
彼女は平然としていた。
憂いも不安も、何もない無表情。
何を考えているのか、何を思っているのか、
その無表情から読み取ることはできない。
――不安じゃないはず、無いのに。
お兄さんであるさとりを、
饕餮さんに連れ去られて。
こんな不気味な街の只中で。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、って、
さとりを求めた悲痛な声を覚えてる。
あのときの、泣きそうだった顔も。
なのに。
こいしはその感情をぜんぜん出さない。
泣き言も言わない。心配する素振りさえ。
まるで何事もなかったみたいに、
平然と、当たり前のように無表情のまま。
【空】(…………)
【空】(……私も、しっかりしなきゃ)
こいしの手を握る力を、
ちょっぴり強くする。
私よりも不安なはずのこいしの前で、
弱気になってちゃいけないんだ。
そう思った。
私は前を向く。視線は気にしない。
歩を進める足に意識を集中させる。
しっかりと地面を踏みしめて。
――そうしてるうちに、私たちは
とうとう誰の姿も見ることなく、
その屋敷の前まで辿り着いた。
白い漆喰で塗り固められた塀。
石でできた灯篭、揺らめく蝋燭の火。
木製の大きな門扉は、少し開いていて。
【ラルバ】さ、こちらで主が――
……おや。
先導していたラルバさんが
こちらに向き直ったとき、
テン、テンと軽く何かが弾む音。
音の方を見る。
開いた門扉の隙間から、
艶やかな色の毬が転がってくる。
それを追いかけるように。
小さな人影が、慌ただしく姿を現す。
パタパタと控えめな足音と一緒に。
【少女】あ……っ。
女の子だった。
涼しげな浴衣姿の少女が、
私たちの姿を見て凍り付く。
転がる毬は私の足にぶつかって、
動きを止めた。私の右手を離したこいしが、
屈んでそれを拾い上げる。
【ラルバ】……ホタル。
お客さんに、ご挨拶は?
【少女】あ、あぅ……。
ホタルと呼ばれた少女は縋るように
ラルバさんを見上げたかと思うと、
怯えた表情で私たちの方を見る。
いや、私たちの方というよりは。
こいしが拾った毬を、ジッと。
その視線につられるように、
私もこいしの方を見てしまう。
お燐も、ラルバさんも。
こいしはまるで私たちの視線を
一本ずつ確認するみたく順繰りに
私たちの顔を見ると、小さく微笑んで、
【こいし】――私、こいし。
古明地こいし。
【ホタル】あ、ぅ……。
……私、ホタル……。
【こいし】遊び方、教えて?
【ホタル】……うん。
……こっち。
ホタルがおずおずと手招きした。
こいしはその招きに応じて、
ホタルとともに門の向こうへと。
【燐】……えぇっと。
この屋敷にいるってことは、
あの子は、リグルさんの?
【ラルバ】はい。
お気を悪くされたら……。
【燐】いえいえ、とんでもない!
いやぁ、可愛らしい子でしたねぇ。
儚げで、優しそうで。
【燐】――だろ? お空。
お燐が肘で私の横腹を小突く。
私は特に空気を読むでもなく、
自分が感じたとおりに頷いて、
【空】うん、そうだね。
言いつつ、ちょっぴり嫌な気持ちになった。
嫌な気持ち。
自己嫌悪。
可愛らしくて気弱な子。
女衒の格好のターゲット。
そんな風に連想してしまう自分が、
とても汚らしい存在のように感じて。
見えない悪意が怖い。
手繰り寄せて根を絶つまで、
怖いのは、ずっと続く。
壊れてしまいそうなモノを見るのは、
だから怖いんだ。その後ろに、
無限に続く悪意を見出してしまいそうで。
【???】――おぅ、帰ったか。
不意に男のヒトの声がして、
ドキリと背筋に冷たい物が走って、
思わず拳銃に手が伸びそうになる。
お燐が反射的に私の右手を掴む。
何も言わないお燐の顔には、
落ち着け、と書いてあった。
落ち着く。頑張って呼吸を整える。
状況を判断する。
それさえ判れば、考えが巡るようになる。
声。男のヒトの声は、屋敷の中から。
それは、ここに住んでいるヒトのもの。
リグル・ナイトバグさん。
蟲群街を統べる、支配者。
それが判ると、少しだけ気が楽になった。
声のした方を見る。
門から出てくるヒトの姿にギョッとする。
灰色の和装を纏ったヒト。
驚くべきは、彼の持つ右手の異形。
もはや原型すら留めてない金属の寄せ集め。
それを振るうだけで、
並みの妖怪なら再起不能にできそうだった。
カチコチと絡繰りが動く音が響く。
【空】(機関機械だ。あの右腕)
見える限りでは、アタッチメントの類はない。
生えているのか、本来の右手と取り換えたか。
私の視線に気づいたのか、彼がこちらを見て、
【リグル】脅かしちまったなら、悪い。
だが生憎、外せねぇんだ。
勘弁してくれよな。
【リグル】赤毛の姉ちゃんが燐で、
黒髪の姉ちゃんが空だな?
そうだろ? スカベンジャー。
【燐】あ、えっと、はい、そうです。
【リグル】モザミの件では……世話んなった。
うちの同胞が、そっちで迷惑かけたな。
すごく落ち着いた声で話すヒトだった。
浮かべている表情も穏やか。
でも、視線には圧みたいなものがあった。
同じような目をするヒトを知ってる。
美鈴さん、タッカー、鏡の中の私。
いざという時に、
誰かを殺すことを躊躇わない輩特有の、
殺し屋の目付きだった。
【燐】いやぁ、その節はお世話になりました。
改めて、よろしくお願いしますね。
【燐】ほら、お空も、挨拶しな。
【空】あ、えっと……初めまして。
空、です。
【リグル】おぅ。初めまして、だな。
リグル・ナイトバグだ。
何にせよ、お前を保護できてよかった。
【リグル】まぁ、上がってくれ。
色々と話したい。
お前たちも、聞きたいことがあるだろ。
【リグル】ラルバ。
アザミたちは?
【ラルバ】……モランは死にました。
アザミとニンビに、
遺体の回収を頼んでます。
【リグル】……そうか。
モランが、死んじまったか……。
リグルさんは寂しそうに呟く。
その悲しそうな横顔が、
やっぱり私には印象的だった。
ラルバさんの様子を見たときも思った。
例えば饕餮さんなら、
私やお燐が死んでも何とも思わない。
美鈴さんも、きっと何とも思わない。
誰かを従えるヒトというのは、
そういうものなのだと思ってた。
それが当前で、それが普通なんだと。
そういう価値観で生きてきた私には、
だからリグルさんが悲しそうなのが、
変なように見えてしまう。
この街は、この世界は、
無限雑踏街と比べると圧倒的に、
命という奴の価値が高いんだ。
それは無限雑踏街で生きてきた私が
知らない価値観だったし、
理解できない捉え方だった。相変わらず。
【ラルバ】主、モランのことは、
アザミとニンビが帰ってから、
私が。
【リグル】………。
【リグル】……そうだな。頼む。
まずは、客人をもてなさなくちゃ、だ。
ラルバ、茶か何か頼む。
【ラルバ】はい。
【リグル】悪かった。さ、入ってくれ。
【燐】はい、お邪魔しますね。
【空】お邪魔します。
先に門の向こうへ入っていった
ラルバさんに続くようにして、
私たちも屋敷の中へ入る。
石畳が玄関へと続く右手側に、
広い庭が設けられている。
真ん中に石灯篭があって、
塀を添うように岩で囲まれた池。
そこに、こいしとホタルがいた。
2人で何かを話しているようだった。
だけど、話の内容までは聞こえない。
こいしはこちらに背を向けてる。
けれど、幼いながらも真剣なホタルの顔が、
石灯篭の仄かな光に照らされていて。
【リグル】珍しいな。
人見知りする子なんだが。
背後で、門を閉じたリグルさんが
感心するような声で呟く。
すると、お燐がそそくさと
私のもとに歩み寄ってきた。
お燐は、娘を眺めるリグルさんに
聞こえないような小声で、
【燐】……なあ、お空。こいしは大丈夫かね?
【燐】ご令嬢に変なことしないか、
あたいはハラハラしてんだけどさ……。
【空】……どうだろ?
肩を竦める。
正直、子どものことは判らない。
まして、こいしの挙動となると。
私には約束も契約も保証もできない。
たぶん大丈夫、って思うのが関の山。
【燐】どうだろ、ってお前……。
【リグル】まぁまぁ、保護者が気を揉んでも
しょうがねぇよ。
ポン、とリグルさんが
お燐の肩に左手を乗せる。
お燐は、腰を抜かしそうなほど驚いて。
【燐】……えっと、そのぅ……。
【リグル】子供は子供で、うまく折り合うさ。
大人はどっしり構えて見てりゃいい。
いざって時に守れればそれでいい。
【リグル】……って、お前らに言ってもな。
まぁ、気にすんな。
リグルさんは快活に笑って、
こいしとホタルの2人を横目に
玄関の方へと歩いていく。
お燐はリグルさんと庭の2人に、
落ち着かない様子で
交互に視線をやりつつ、
【燐】……気にすんな、っても……。
【燐】ハァ……あたい、子育て無理かも。
【空】お燐、心配性だもんね。
【燐】誰のせいだと思ってんだい?
【空】私のせい。
【燐】自覚だけあってもなぁ……。
【空】えへへ。
【燐】笑ってる場合じゃないんだよ、
お馬鹿。
やれやれって感じでお燐が
私の頭をチョップしてくる。
その痛みが心地よくて、
なんか、また私は笑った。
玄関で履物を脱いで、
リグルさんの後に着いていく。
私たちは、ソファのある部屋に通された。
長机に灰皿が置いてあるのが見えたので、
反射的に煙草に火をつけると、
お燐が慌てて、
【燐】こら、お馬鹿!
こういう時は一言入れるのが
マナーなんだよ!
【空】ふぇ?
【空】…………。
えっと、吸います。
【燐】そうじゃなくて……!
もう! お前ってやつは!
【リグル】ハハハハ!
いやいや、構わねぇよ。大丈夫だ。
私たちの対面に座ったリグルさんが、
楽しそうに微笑みながら、左手だけで
器用に煙草を紙箱から取り出す。
彼はそのまま左手だけで燐寸を擦って、
煙草に火をつける。
日常生活に、右手は使わないみたい。
【燐】すみません、
コイツ、ちょっとお馬鹿で。
【リグル】はは、お前も大変だな。
まぁ、気にすんな。
それより――
微笑んでいたリグルさんが
不意に真剣な表情で言う。
煙草の煙を薄く吐き出しながら。
【リグル】本題に入ろうか。
最初に言っておく。
これは局所的な問題じゃねえ。
【リグル】商会がどうとか、
街同士の派閥とか、そんな規模じゃねえ。
この地下世界すべてに関わる話だ。
紫煙の棚引く応接間に、
リグルさんの低い声音が静かに響く――。
【リグル】――すべての始まりは10年前。
是非曲直庁の連中が行った、
とある実験に端を発する。
【リグル】細かい経緯までは俺も知らん。
だが、連中は彼岸と此岸を管理する中で、
なにかひとつの“真理”に辿り着いていた。
【リグル】理。根源。混沌。根幹。
『それ』には多くの呼び名があった。
【リグル】だが彼岸の神々の多くは、
『それ』をこう呼んだ。
【リグル】――<根源存在(シン)>。
【リグル】<根源存在>の正体が何なのかは、
俺も判らん。
いや、判った奴なんかいないだろう。
【リグル】ありとあらゆる意味で、
<根源存在>は超越者だった。
【リグル】彼岸と此岸。理と混沌。
次元さえ超越した何か。
はるかに理解の及ばないモノ。
【リグル】とはいえ、<根源存在>は、
彼岸の連中にとっては有用だった。
【リグル】あらゆる叡智に長け、
乞われるまま、その叡智を
是非曲直庁の連中に提供し続けた。
【リグル】その象徴が、蒸気を吐き出す機関機械。
閻魔どもが操る現象数式。
そして――
【リグル】お前の得物もだ。“拳銃使い”の空。
俺の右腕の機関機械、
“永遠供給源”も、そのひとつさ。
【空】……閻魔のオーパーツ。
【リグル】今はそう呼ばれてるな。
それも、10年前の実験、
ないし事件が契機になっている。
【リグル】すなわち、<根源存在>の閻魔化。
<根源存在>への閻魔権限付与。
【リグル】この世界に形をもたない<根源存在>に、
相応しい器を用意し、11番目の閻魔として
迎えるための実験。
【リグル】だが、実験は失敗。
新たな閻魔となった<根源存在>は暴走。
是非曲直庁に牙を剥いた。
【リグル】連中は、それまでの栄華を
ツケとして払ってもまだ足りんほどの
犠牲を払って、11番目の閻魔を封印した。
【リグル】それが、10年前に起きた、
是非曲直庁移転の真相。そして、
その時に発生した新たな閻魔こそ――
【リグル】――時計閻魔。
彼岸の連中が、この地下世界に
残していった大いなる災厄だ。
そう言ってリグルさんが、
根元まで灰になっていた煙草を
灰皿に押し付ける。
難しい話だった。
どうだろう。私は、内容を
きちんと理解できているか怪しい。
時計閻魔。<根源存在>。
その2人は同じヒト?
<根幹存在>が、彼岸の実験で
時計閻魔というヒトになった?
そのヒトが、あの仮面の……?
【燐】――で、解けちまったんですか?
その、時計閻魔とやらの封印が。
お燐が出された湯呑みに手を出しつつ尋ねる。
リグルさんの話の途中、ラルバさんが
持ってきてくれたもの。
湯気が立っている湯呑みを傾けて、
けれどお燐は猫舌だから、
【燐】熱チチッ!
ふぅー、ふぅー……。
【ラルバ】あぁ、申し訳ありません。
少し冷まして持ってくるべきでしたね。
お茶を出してくれた後、
リグルさんの隣に立っていたラルバさんが、
心配そうにお燐を見下ろす。
【燐】あ、いや、すみません。
お気遣いなく……。
【リグル】解けた、と見て間違いないだろう。
先日は鬼寄街。今日は無限雑踏街。
どちらでも、閻魔の裁きが下された。
【リグル】もう、判ってるんじゃないか?
空、お前のことだ。
心当たりがないとは言わせない。
リグルさんが私の目をジッと見据える。
彼の鋭い眼光で射抜かれていると、
まるで蛇に睨まれた蛙のような気持ちになる。
いや、もしくは――
神に断罪される、罪人のような――
【リグル】――お前は、天使になった。
断罪のもとに、自らが断罪者となった。
そして……。
【リグル】――戻ってきた。
驚くべきことに。特筆すべきことに。
それが、俺がお前を保護した理由だ。
そう言って、リグルさんが再び煙草に火をつける。
私もそれにつられるように、煙草を咥える。
ライターの火に視線が吸い寄せられる。
火。炎。燃え盛る緋焔。覚えてる。
忘れられるはずもない。あの感覚。
けれど、そう、私は戻ってきた。
戻ってくることができた。
さとりのお陰で。
お燐と、こいしのお陰で。
【空】アナタは、どうして……?
不意に饕餮さんの顔が思い浮かぶ。
何でもかんでも先回りして、
何でも知ってる商会の偉いヒト。
リグルさんは、まるで饕餮さんみたく
何もかも知ってるように見えた。
私の心すら見透かしてるんじゃないか、と。
彼は小さく息を吐くと、
左手で機関機械の右腕を撫でて、
【リグル】御印だ。
【空】みしるし……?
【リグル】そうだ。御印。
閻魔のオーパーツ。
時計閻魔の残した遺物のひとつ。
【リグル】これは時計閻魔の権能の一部だ。
全知全能の神の力の一端。
そう言っても過言じゃない。
【リグル】チクタク、唄っているんだ。
イアイア、嗤っているのさ。
穢れよ、咎持つモノよ、我が祝福を受けよ――
【空】(……あれ?)
唐突な既視感。どこかで聞いた覚えがある。
思い出そうと記憶を検めるけれど、
それが叶うよりも早くリグルさんが、
【リグル】他者とは比較にもならんほど、
圧倒的な力を持つ者は、何をする?
【リグル】決まってる。
その力を行使するさ。結果として、
どれほど死体が積みあがっても関係ない。
【リグル】罪業を重ねるんだ。
初めからコイツは、それを目的にしてる。
持ち主が、罪に塗れることを。
【空】ど、どうして、そんなことを?
【リグル】罪深い者を裁くためさ。
時計閻魔は、閻魔としてしか、
この世界に介入することが出来んらしい。
【リグル】自分が裁きを与えるために、
罪をバラ撒いてやがる。
とんだマッチポンプだよな。
【リグル】……どうして、って聞くってことは、
お前はまだ、声を聴いていないのか?
【空】……声。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
【空】――いえ、聴いてます。
その、今まで、夢かと思ってたけど……。
【リグル】俺が他の連中より色々知ってんのは、
そのせいだよ。夜ごとに囁きやがる。
……まぁ、そんなわけで。
リグルさんは湯呑みを一気に傾けて、
入っていた熱々のお茶を飲み干してから、
【リグル】だいぶ、うだうだ話しちまった。
そろそろ、こんがらがってきたろ。
話をまとめよう。
【リグル】時計閻魔っていうイカレた奴がいる。
コイツは、閻魔の裁きを下して天使を作る。
【リグル】この地下世界を、
地獄に引きずり戻すつもりなんだろう。
そうは問屋が卸さねぇ。
【リグル】対抗策が必要だ。
これ以上、天使を増やさないことと、
天使になった奴を元に戻すこと。
【燐】その、時計閻魔とかいう奴を、
やっつけちまうってのは?
【リグル】それが出来りゃ良いんだが……。
生憎、どこに居るのか見当もつかん。
【リグル】そも、戦って勝てるかどうか。
地道にやっていくしかないのさ。
【リグル】空、お前の現状は、
お前の想像以上に奇跡だ。
時計閻魔に抗った、唯一無二の例だ。
【リグル】商会に始末されちゃ困る。
お前の例と、閻魔代行、古明地さとり。
その2つが、鍵だ。
【空】そ、それじゃ、どうして
さとりのことは見捨てたの!?
【リグル】まぁ、落ち着け。
見捨てたわけじゃない。
【リグル】時計閻魔なんて存在のことを、
商会の連中が知らないとでも思うか?
奴らはそんなにヌルくねぇさ。
【リグル】古明地さとりが、
時計閻魔の裁きへの対抗策だなんて、
とっくに把握してるだろう。
【リグル】絶対に殺しゃしない。
で、俺の見立てじゃそろそろ――
リグルさんがそう言いかけたとき、
応接間の隅に据えてあった
機関式通信機のベルが鳴り響く。
リグルさんは私たちの顔を見て、
フッと小さく笑ったかと思うと、
【リグル】そらきた。
商会からの直通だ。
まったく、もったいぶりやがる。
立ち上がったリグルさんが、
受話器を取る。ベルの音が鳴りやんで。
聞こえてくるのは饕餮さんの声だと
思っていたけれど、予想は外れた。
知らない女のヒトの声が、
ザラザラしたノイズ越しに聞こえてくる。
【???】『――アタシの街で、
好き勝手やってくれたね。
いつからそんな愚かになった?』
【リグル】知るかよ。
てめえが何にも知らねぇから、
ケツ拭ってやる羽目になったんだろ。
【リグル】うちの同胞が死んだ。
てめえの部下にやられたんだ。
どう落とし前つけるつもりだ?
【リグル】――なぁ、会長さんよぉ。
【空】…………ッ!?
息を呑む。
隣のお燐を見ると、
お燐も絶句していた。
商会の会長。無限雑踏街の長。
金と欲望が渦巻く眠らない街を
創り上げた、絶対の統治者。
あの街における神にも等しいヒト。
私たちみたいな木っ端は、
会うことはおろか声を聴いたのさえ初めて。
そんな雲の上のヒトと、
リグルさんが話してる。
息が詰まるほどの緊張を感じた。
【会長】『それこそ知るか、だ。
アタシの街で動くなら、
アタシの敷いたルールに従ってもらう』
【会長】『その結果に文句言うのは筋違いさ。
それが判ってて、大事な同胞を
寄こしたんだと思ってたけどね?』
【リグル】前置きが長いな。
俺の機嫌を損ねる前に要件を言え。
【リグル】――殺すぞ。
【燐】っ……!
お燐が身体を縮める。
私でさえ、気圧された。
リグルさんの言葉にこもった殺気。
その冷徹な響き。
喉元に刃物の切っ先を突き付けられたよう。
機関式通信機越しとはいえ、
そんな殺気を向けられながら、
通信機の向こうからは、笑い声が響く。
【会長】『フフ、まだ平和ボケにゃ早いか。
いいだろう。アタシとアンタの仲だ。
腹の探り合いは無しにしよう』
【会長】『単刀直入に言う。
古明地こいし、スカベンジャーの空。
身柄をこっちに寄こしとくれ』
【会長】『うちに招いたVIPがさ、
どうしても必要だって言うもんでね』
【リグル】おいおい、腹の探り合いは無し、
って話じゃなかったのか?
【リグル】商売人らしくもねぇ。
取引に何の対価も出さねぇつもりか?
【会長】『駄賃が欲しい。
……なんて言わないだろうね?』
【リグル】おぉ、言わんともさ。
俺が欲しいのは、保証だ。
【リグル】猫に小判をくれてやるか?
豚に真珠をくれてやるか?
お前は……どうだろうな?
【会長】『ふん、いけ好かない男だ。
またご自慢の右腕の話かい。
そこから得た神託ってわけだ』
【リグル】自力でのし上がった奴にゃ、
見えん景色というのもあるのさ。
【リグル】だが、俺とお前の目的は同じはずだ。
【会長】『いいだろう。
アンタの口車に乗ってやる』
【会長】『正式な席を用意しよう。
2日後、アタシの街まで来な。
共同戦線だ。これで良いだろう?』
【リグル】もったいぶるじゃねぇか。
2日も奴さんが待ってくれる保証はねぇぞ。
【会長】『そう言うな。アタシは忙しいんだ。
それに、表沙汰にするんだからね。
それ相応の準備ってやつがいる』
【会長】『ともかく、2日後だ。
お互いのカードを、
仲良く場に出そうじゃないか』
【リグル】あぁ、判った。
じゃあな。
【会長】『うん。
達者でな。蟲の王よ』
【リグル】……あぁ、クソ。
相変わらず、いけ好かねぇ。
通信機を切ったリグルさんが、
ソファにドカッと座ったかと思うと、
傍らに立つラルバさんを見上げて、
【リグル】ラルバ、やっぱ俺ぁ、
あの女だけは、駄目だ。
苦手だ。
【ラルバ】あの女傑が得意な方など、
この地下世界に居ないかと。
【ラルバ】私は、ここで、
お声を聞くだけですが。
【リグル】何が“蟲の王”だよ。
そう呼ばれんの嫌いなの知ってて、
わざわざ切り際に言ってきやがる。
【ラルバ】しかし、今はアナタが
リグル・ナイトバグなのですから。
あながち間違いではないのでは?
【リグル】こんな右腕引っ提げて、
蟲妖の王も何も無いだろう。
【リグル】実力じゃない。
閻魔のオーパーツの力だ。
本当は不服なの、知ってんだろ。
【空】?
今はアナタが、
リグル・ナイトバグ……?
【リグル】ん? あぁ、そうだよ。
【リグル】リグル・ナイトバグは、襲名制なんだ。
当世の蟲妖を統べる奴が継ぐ、
看板みてぇなもんだ。
【リグル】だがな。俺はコイツの力で――
リグルさんが右腕を動かす。
蒸気を重々しく吐き出しながら、
機関機械が駆動する。
動力源に当たるところだろうか。
紫色の光を妖しく放ちながら。
動く音。獰猛な獣の唸り声のように。
【リグル】遮二無二突っ走ってきただけだ。
俺本来の力じゃない。
それで蟲の王も何もねぇよ。
【ラルバ】主。
我々がアナタについていくのは、
強大な力を持つからではなく――
【リグル】判ってる。
俺にもケジメと矜持があるさ。
今は俺がリグル・ナイトバグだ。
【リグル】同胞を守るため、
蟲妖の代表として、
やるべきことをやらなきゃな。
【リグル】というわけで、
スカベンジャー。
お前らの身柄、俺が預かる。
【リグル】もちろん、閻魔代行の妹もな。
2日後の会合まで、身の安全を保障する。
まぁ、ゆっくりしてってくれ。
【燐】そう言っていただけるのは、
嬉しいんですが……。
お燐は決まりが悪そうに、
ほっぺたを人差し指の爪で掻きつつ、
【燐】……正直なところ、
ここの同胞さんの中に混じって
厄介になるのは厳しいと思うんです。
【燐】街はずれからここへ来るまでの、
あの歓迎されてない感じですと、
下宿先を見繕って貰うにしても……。
そこで言葉を濁したお燐は、
私のことをチラと横目で見て、
【燐】うちのお空と同胞さんが、
そのぅ、トラブる可能性がですね……。
【リグル】何言ってんだ?
ゆっくりしてってくれ、って言ったろ?
お前らの下宿先はウチだよ。
【燐】え゛?
何気なく、という感じで言われた返事で、
お燐が完全に固まってしまった。
私はそんなお燐の様子がおかしくて、
首を傾げる。だってリグルさん、
そう言ってくれてたのに。
【リグル】2階に客間があるんで、
そこを使ってくれ。遠慮はいらん。
【リグル】ラルバ、準備できてたっけか?
【ラルバ】えぇ、滞りなく。
【リグル】おぅ。すまん。
【燐】いやいやいやいや!!
それはちょっと、その、
あまりにも分不相応というか!!
【空】お燐、なに興奮してるの?
リグルさんにお世話になるんでしょ?
お言葉に甘えればいいんじゃないの?
【燐】お馬鹿!
商会の会長と対等に話すヒトのお宅だよ!
恐れ多いったら!
【リグル】まぁまぁ、遠慮すんなって。
もうちっと気楽に構えてくれ。
お前らは大事な客なんだから。
【燐】そ、そうは言いましても……。
あのそのえっと、何というか!
あたいらは、こんなんでも女ですし……!
【燐】その、奥方の了解も
あるでしょうし……っ!
【ラルバ】問題ありません。
私も歓迎しますので。
【燐】あ、そうですか。
良かった。
【燐】……………………。
……………………。
……………………。
【燐】……………………ぇ?
【ラルバ】えぇ、はい。
家内として、精いっぱい
おもてなしさせていただきます。
【燐】……………………。
……………………。
【燐】…………奥様?
なん、です……え?
【燐】――えええええええええええぇぇぇぇッ!!?
お燐が絶叫する。
ソファから転げ落ちながら。
私は両耳に人差し指を
突っ込みつつ、そんなお燐を見てた。
なんとなく、そんな気はしてた。
ラルバさんが、ホタルちゃんの
お母さんかもって。
びっくりしなかったって言うと嘘だけど、
納得、って感じ。
だってラルバさん、すごく綺麗だし。
【燐】あ、あわわわわ……。
お空、どうしよう、お空!?
あたい、てっきり……!
【空】てっきり?
【燐】いやいや促さないでおくれ!
その手には乗らないからね!!?
墓穴掘る気しかしない!!
【リグル】まぁ、よく誤解される。
嫁さんを危ねぇ場所に行かせるなんて、
みっともねぇ話だしな。
【リグル】でも聞かねぇんだ。コイツ。
リグル・ナイトバグの嫁だからこそ、
率先して動くんだって。
【ラルバ】聞かないのはアナタの方です。
この前だって畜生街の黒谷組長に、
危うく単身で突っ込むところで――
【リグル】その話は済んだことだろ。
蒸し返すなよな。
【ラルバ】そういうところが判ってないと――
【リグル】よせって。
客人の前で恥かかすなよ……。
頼むから。
言いつつ、リグルさんはバツが悪そうに
煙草を咥える。
ラルバさんはと言えば、
まだまだ言い足りないといった風で、
冷ややかにリグルさんを見下ろしていた。
なんだか笑ってしまいそうだった。
微笑ましいな、って思った。
そう思った自分に、すごく驚いた。
その形は、私の知る男女の関係じゃ無かった。
良く知るギラギラした油っぽさみたいな、
胸に込み上げる嫌悪感を感じなかった。
男のヒトと女のヒトが、
対等に接してる。仲良く話してる。
その事実が、私をひどく混乱させた。
何かが違う。
根本的に異なってる。
理解が及ばなくて、頭がグルグルする。
でもそれは、
けっして不快なものではなくて。
むしろ、心が温まるような感覚があって。
だからこそ、グルグルする。
戸惑う。混乱する。
私の知ってるモノと、在り様が違いすぎて。
【リグル】――まぁ、ともかくだ。
ともかく……。
【リグル】……おーい?
スカベンジャー?
リグルさんが左手をヒラヒラして、
私たちの顔を覗き込んでくる。
私はハッとする。
お燐はまだだった。
お燐は頭を抱えたまま、
何かブツブツ呟いていた。
【空】お燐、お燐?
【燐】……どーしよ、あー、
なんか失礼なこと……。
あー、やっば……。
【空】お燐? ねぇ、お燐?
ねぇってば。
ゆさゆさとお燐を揺すっても、
特に反応が無かった。
むぅ、と頬を膨らませて、
お燐の頭にチョップする。
アイタ! とお燐が頭を撫でつつ、
【燐】あ、え? あ……。
す、すみません……。
【リグル】……まぁ、慣れないだろうが、
我慢してくれ。2日の辛抱だ。
【リグル】滞在するうえで何かあれば、
遠慮なく言ってくれ。可能な限り叶える。
【燐】あ、すみません、恐縮です。
【リグル】構わん。俺には俺の目的がある。
俺は同胞たちを守らなくちゃならん。
【リグル】……モザミみてぇな奴をな、
もうこれ以上出したくねぇんだ。
リグルさんがため息に乗せるように言って、
スッと立ち上がる。
【リグル】じゃ、ラルバ。
後は頼んだ。
【ラルバ】えぇ。
どちらへ?
【リグル】部屋。
【ラルバ】あぁ、はい。
いってらっしゃい。
ラルバさんに見送られて
客間を後にするリグルさんが、
去り際、私たちに微笑みかけて、
【リグル】ま、ゆっくりしていけ。
そう残して、廊下の向こうへ。
お燐が、ふぅ、と息を吐いて、
私は煙草に火をつけた。
【ラルバ】燐さん、空さん。
どうでしょう。
客間へ案内しましょうか?
【ラルバ】もちろん、
まだこちらに居られても大丈夫ですが。
【燐】あぁ、ありがとうございます……。
頭を下げたお燐が、チラと私を見て、
【燐】もう少しこちらに居させてください。
客間では煙草は吸わない方がいいですよね?
【ラルバ】いえ、構いませんよ。
ただ……。
【燐】ただ?
【ラルバ】差し出がましいようですが、
娘の前では控えていただけると助かります。
【ラルバ】私もそうですが、
何より主が気にしますので……。
【燐】えぇ、えぇ、そりゃもちろん!
あたいの目の黒いうちは、
絶対そんなことさせませんとも!
【燐】――お空、判ったね?
【空】判った。気を付ける。
【燐】なら良し。
すみませんね、ほんと。
まさかご厄介になるだなんて……。
【ラルバ】いえ、とんでもないです。
お2人をお連れしたのは、
こちらですから、遠慮なさらず。
【燐】お気遣いありがとうございます。
お空、ご迷惑おかけしないようにね。
【空】……モザミ。
って、聞いたことあるかも。
何だっけ……。
【ラルバ】スカベンジャーのお2人に
殺害を依頼した、我々の同胞です。
【ラルバ】モザミはDeSに侵されていました。
主は、DeSもまた、時計閻魔に関係する
薬物だと考えているようで。
【燐】え、そうだったんですか……?
【ラルバ】はい。
【燐】……なんてこった。
あたいはもう、
頭がこんがらがりそうだよ……。
【燐】閻魔代行に時計閻魔、
お空が天使になって、
商会に追われる立場になって……。
【燐】そんで、DeSも天使も、
是非曲直庁が移転することになったのも、
全部その時計閻魔とやらのせい……?
【燐】なんじゃそりゃ……。
あたいは昨日まで、もっと
地に足ついた世界にいたってのに……。
【ラルバ】心中お察しします。
束の間ではありますが、
ご養生ください。
【ラルバ】すみません、私もそろそろ。
モランの件がありますので。
一礼をしたラルバさんが、
私たちに背を向けたかと思うと、
こちらを振り向いて、
【ラルバ】屋敷の中では、ご自由に。
ただし、絶対に奥の間には
入らないでください。
【ラルバ】客間を出て右手にある、
屋敷で唯一、鍵の掛かる部屋です。
主の自室になります。
【ラルバ】そこには入らないでください。
それだけ守っていただければ、大丈夫です。
そう、真剣な口調で言う。
私はお燐と目を見合わせて、
それからラルバさんに頷いてみせた。
ラルバさんは私たちの顔を見比べて、
それから念を押すようにゆっくりと
頷き返してきて。
【ラルバ】お願いします。
何か聞こえても、無視してくださいね。
それでは。
意味深な言葉を残して、
ラルバさんが客間から出ていく。
襖の閉まる音。
私はもう一度、お燐の方を見る。
お燐も私を見返してくる。
私は何も言わなかったし、
お燐も何も話さなかった。
静寂が私たちの間に降りてきて。
それからしばらく、
私たちは無言のままソファに
腰掛け続けていた。
静かだった。
何の音も聞こえなかった。
少なくとも、隣の部屋からも、何も。