【ホタル】ーーねぇ、こいしちゃん、
もう帰ろうよぉ……。
無言で蟲群街の大通りを歩くこいしに、
ホタルが背後から声を掛ける。
もう何度目の呼び掛けか判らない。
何を言ってもこいしは反応しないし、
無理やり腕を引いても止まらない。
寝室から、ずっとこの調子。
勝手にどこかへ行こうとするこいしを
連れ戻そうと四苦八苦してる内に、
屋敷からこんなに離れたところにまで。
どうしよう。
ホタルの胸の内には、
そんな五文字がめくるめく。
夜遅くに勝手に外に出て、
きっとママはカンカンに怒る。
もしかしたら、パパまでも。
でも、でも、
こいしを放ってなんておけない。
パパの大事なお客様。
だけど、それ以上に、
せっかくできた同い年くらいの友達。
そんな彼女を、置いて帰れない。
たくさんのどうしように
溺れそうになりながらも、こいしを追う。
【???】ーーおよ?
どうしたんだい?
おチビちゃんたち。こんな時間に。
【???】ここじゃ、今は夜なんだろ?
二人っきりじゃ、危ないぞー。
見知らぬお姉さんに声を掛けられて、
そこで初めてこいしが立ち止まる。
彼女はジッとお姉さんを見る。
助けを求めてると思ったのか、
お姉さんはこいしと目線を合わせて、
【にとり】迷子かな?
それなら、にとりお姉ちゃんに
お任せあれ、と言いたいとこだけどーー
【にとり】生憎、私もこの辺はさっぱりだ。
ま、私も迷子みたいなもんだよ。
奇遇だねぇ。あっはっは。
朗らかに笑って、お姉さんは
こいしの頭をポンポンする。
相変わらず、こいしは無反応のまま。
自分たちの状況をどう説明すればいいか、
ホタルは迷いながら言葉を探す。
【こいし】ーー帰った方がいいよ。
不意にこいしが口を開く。
これまで黙りこくっていたのに。
どういう意味なんだろう。
お姉さんもホタルも目をパチクリさせて。
【にとり】ん? どういうこと?
【こいし】アナタの探し物は、ここには無いよ。
だから、もう帰った方がいい。
【こいし】私たち、逃げてきたの。
もうすぐ、ここも地獄になる。
無限雑踏街の焔を見たでしょう?
【こいし】それとも、本当に欲しいものが
見つからないまま、死んでも構わない?
なら、止めはしないけど。
こいしが冷たく言い放つ。
お姉さんは、みるみる内に
顔を青ざめさせていくのがホタルにも判った。
でも、唐突に過ぎる言葉の真意は、
ホタルにはさっぱり判らない。
彼女には、何がーー
視えている、のかーー
【にとり】…………。
【にとり】……あ、あはは、はは。
そ、そうか、そうか。
なるほどね。なるほど、なるほど……。
【にとり】な、なんだか判らないけど、
お邪魔、だったみたいだね……。
いやぁ、失敬、失敬。
【にとり】あ、じゃ、それじゃ、
私は、この辺で……。
おチビちゃんたちも、気を付けて……。
尻切れトンボな言葉を残して、
踵を返したお姉さんが走り去っていく。
その背中を見送りつつ、ホタルはこいしに、
【ホタル】こ、こいしちゃん?
その、どうしたの……?
問い掛ける。
するとこいしは、弱々しく微笑んで、
【こいし】ごめんね、ホタルちゃん。
【こいし】でも、こうでもしないと、
アナタを連れて来れないと思ったの。
【ホタル】連れてくる、って……。
【ホタル】どうして……?
それに、地獄になる、って……。
【ホタル】どういう、こと……?
ぎゅっと手を握る。
何も判らなかった。何も、何も。
けれど、こいしの言葉の端から
匂い立つものの気配は感じ取っていた。
それは、優しい両親から遠ざけられていたもの。
それは、この瞬間まで感じずに済んでいたもの。
地下世界において何人も逃れ得ぬもの。
人ならざる者さえも絡み取られるもの。
理の残骸に宿る手慰み。
刈り取られるべき収穫。
ーー恐怖。
【???】ーーあああああああぁぁぁぁ!!!!
【ホタル】っ!?
張り詰めた空気をつんざくような叫び声。
ホタルが声にならない悲鳴をあげて身を竦める。
長屋の障子を突き破って、
一人の蟲妖が大通りに転がり出る。
その手には包丁。
それも、べっとりと血のこびり付いた。
蟲妖は叫びながら、
上下左右に視線を向けながら、
四方八方に包丁を振り回しながら、
【蟲妖】どこだぁ!!?
ここはどこだあああぁっ!!!?
助けて、助けてくれええぇぇっ!!
【蟲妖】来るな、来るな来るなああぁぁ!!!
あっち行けえ!! 嫌だ、嫌だ嫌だ!!!
死にたくない!! 死にたくないいぃぃ!!!
【こいし】走って!!
こいしがホタルの手を掴んで走り出す。
包丁が血の滴を散らしながら空を切る音。
気付けば、悲鳴はあちこちから。
忙しなく視線を移ろわせ続ける
亡者のような同胞が群れを成して、
阿鼻叫喚をなすが如くに湧いて出て。
振り回される凶器の先端が頬を掠める。
繰り返される狂気の叫びが心を鷲掴む。
何が起きてるのか判らない。
何に巻き込まれそうなのか、知る由もない。
身体。どうして動いているか判らない。
心の底まで冷たく凍りついているのに。
困惑と恐怖が小さな胸の中、縛っているのに。
ホタルの手を引く、
こいしの掌の温かさだけが、
足を動かす原動力となって。
【こいし】逃げるの!!
立ち止まらないで!
振り返らないで!!
【こいし】ホタルちゃんは助かるから……!
ホタルちゃんは、今なら、まだ……っ!
諦めなくても、済む、から……っ!
【こいし】だから、どうか、お願い……!
間に合って……っ!
走りながら、息も絶え絶えに、
こいしが叫ぶ。叫ぶ。
物静かだった彼女のどこに、
そこまで振り絞る力があったのか。
どうして、そこまで、必死になって。
今日逢ったばかりの、私に。
ほんの少し、一緒に遊んだだけの、私に。
何も判らない。
ホタルには難しいことは判らない。
でも、それでも、判るような気がした。
繋いだこの手の優しさに、嘘は無いから。
【ホタル】こいしちゃん……。
【ホタル】っ!? 危ない!!
細道から躍り出た蟲妖のひとりが、
手にした角材をこいし目掛けて振り下ろす。
ホタルが咄嗟にこいしを突き飛ばす。
バランスを崩して転んだこいしを掠め、
角材が地面を穿った。
【こいし】う、うぅ……。
ホタル、ちゃん……!
這いつくばるこいしが、
ホタルへ手を伸ばす。
急いで彼女の手を取ろうとした刹那、
ホタルは恐怖に息を詰まらせた。
角材を持った蟲妖が、自分を見ている。
【蟲妖】……化け物め。
男が角材を持ち直す。
【蟲妖】いくら殴っても、
後から後から……。
男がホタルの方へ一歩、踏み出す。
【蟲妖】ここは俺たちの街だ!
男が啖呵を切る。
ホタルの両足から力が抜ける。
怯えていた。いつもは優しい同胞の
豹変したような意味不明の怒声に。
凍えたみたいに、
魂の奥底から震えが止まらない。
こいしが何かを叫んでいる。
だめ、だめ。聞き取れない。
ただ、自分の心臓の音が
嘘みたいに大きくて。
男が角材を振りかぶる。
何の抵抗もできない。
助けて、と口を開くことすら。
逃げることすら思い浮かばない。
強烈な害意に当てられて、
頭の中が真っ白になって。
ホタルにできたのはーー
ただ、目を閉じることだけーー
ーーッ!!
衝撃はーーいつまで経っても来ない。
目蓋の裏、煉獄のように
間延びした暗闇の只中、
彼女は暖かな手の感触に気付く。
それは。
大好きなパパの、優しい左手の感触。
【リグル】ーー二度は言わん。
なぁ、同胞よ。
恐々とホタルが目を開く。
リグルの右腕が唸りを上げながら、
蟲妖の振り下ろした角材を受け止めて。
【リグル】加減できる気がしねぇ。
怪我、させたくねぇんだ。
その手を下ろしちゃくんねぇか。
無間地獄の底から響くような声だった。
凍てつくほどに冷たい怒気を孕んで。
【空】ーー間に合った……!
私はホッと胸を撫で下ろす。
蟲妖の男に睨みを効かせる
リグルさんに走り寄りながら。
さっき目の当たりにした
刹那の光景を思い返す。
彼の右腕が機関音を唸らせた途端、
まるで無限のエネルギーを得たかのように、
彼が私たちを置き去りに走り抜けたのを。
火事場の馬鹿力なんてレベルじゃない。
妖怪のスケールで考えても非常識。
ーーあれがリグルさんの持つ
閻魔のオーパーツ、
”永遠供給源”の力。
あれだけのエネルギー。
ホタルちゃんに襲い掛かった蟲妖を
薙ぎ飛ばすなんて造作もないはず。
でも、彼はそれをしない。
振り下ろされた角材から
ホタルちゃんを守る体勢のまま。
【蟲妖】ーーリ、リグルさん……?
男が角材を取り落とすのが見えた。
私たちも、あともう少しで追い付く。
どうすればいいのかは判らない。
だけど、ここは危険だ。
さっきから発狂状態の蟲妖たちばかり。
何が起きているにせよ、
こいしとホタルちゃんを連れて
ここを離れないと。
ーーと、
角材を取り落とした蟲妖が、
慌ただしく四方八方に視線をやりながら、
【蟲妖】リグルさん!?
こ、ここに居るんですか!?
【蟲妖】すぐに離れてください!!
さっきから、化け物どもが
うじゃうじゃしてやがって……!!
男は目の前のリグルさんに
気が付いていないのか、
キョロキョロと周囲を見回しつつ、
【蟲妖】リグルさん、リグルさん、
どこですか!!?
リグルさん!!!
【リグル】……おいおい、お前。
何が、見えてるってんだ……?
胸元にホタルちゃんを
抱き寄せたリグルさんの困惑した声。
男の呼び声はどんどん大きくなっていく。
男の踊るような狂騒も、みるみるうちに強く。
その声を聞きつけてか、
周囲で無秩序に暴れていた蟲妖たちが、
リグルさんたちの方に走り寄ってくる。
【蟲妖たち】リグルさん、リグルさん!!
【蟲妖たち】ここは俺たちで食い止めます!!
【蟲妖たち】早く安全なところに!!
【蟲妖たち】アンタが無事じゃないと、
俺たちは……!
【蟲妖たち】怯むな! 進め!
リグルさんを守るんだ!
【空】っ!?
瞬く間に蟲妖たちが殺到する。
口々に主人の名前を呼びながら。
大通りを埋め尽くすほどの
狂乱した蟲妖怪たちの群れ。
【燐】わ、わわっ!?
ち、ちょっと! 退いとくれ!
と、通れないって!
【空】お燐!?
振り返る。
お燐が、蟲妖たちの波に
もみくちゃにされていて。
【燐】先に行きな! お空!
あ、あたいはちょっと無理そうだ……!
【燐】ひゃんっ!?
お、お尻、触らないで!!
【空】お燐ー!
密集する蟲妖の波に飲まれていくお燐に
手を伸ばし掛けたところで、
私の肩をラルバさんが掴んで、
【ラルバ】今は我慢を! 空さん!
子供たちが先決です!
【ラルバ】同胞たちは錯乱しています!
こいしちゃんを助けないと、
踏み潰されてしまうかもしれないんですよ!
ラルバさんに叱咤されて、
私はグッと息を呑む。
こいしはさっきまで倒れてた。
今どうなってるか判らない。
ひしめき合うような群衆の間を
スレスレで回避しながら
さっきこいしがいたところへ走る。
どんどん蟲妖の密度が増えていく。
もうほとんど走れる空間もない。
【空】退いて!
行く先を塞いでいた蟲妖を
押しのけて、強引に開けた隙間に
身体を捩じ込むように、前へ。
前へ。あともう少しのはず。
焦燥が胸の中で膨らんでいく。
蟲妖たちの狂騒に当てられて、強く。
【空】(こいしは、どこ?!
こんなにヒトが多いと判んない!
早く見つけないと……!)
【リグル】静まれ! 同胞たち!
【リグル】幻覚だ!
お前ら、幻覚を見せられてやがる!
見えるもんに反応すんな!
【リグル】俺はここに居るぞ!
無事だ! 何の問題もねぇ!
【リグル】聞け! 俺は無事だ!!
リグルさんの声。
見ると、リグルさんが蟲妖たちの
掲げる手を足場に群衆の上に立っていた。
片手にはホタルちゃんを抱いて。
そして機関機械の腕の方に、
こいしを抱いている。
良かった。
こいしは無事だった。
ちゃんとリグルさんが助けてくれてた。
蟲妖たちの狂騒が弱まっていく。
リグルさんの声が聞こえたからだ。
主の声を聞き漏らすまいと、
蟲妖たちが声をつぐみ始める。
ざわめきが鳴りを潜めていく。
幻覚なんて見せられているのに、
リグルさんの声ひとつで
落ち着きを取り戻せるなんて。
【リグル】ラルバ、居るか!?
【ラルバ】はい、主! ここに!
ラルバさんが声を上げると、
周囲の蟲妖たちが瞬時にそれを察して、
彼女を自分たちの頭上へと持ち上げる。
蟲妖の人々が作り上げる頭上の道を渡り、
ラルバさんがリグルさんの元へと辿り着く。
彼らが誇る蟲妖の統率を垣間見た気がした。
この状況で、こんなにも団結できるなんて。
【リグル】二人を連れて
先に家へ戻っていろ。
俺は同胞を惑わせた奴を探す。
【ラルバ】はい! 仰せのままに!
言って、ラルバさんが
こいしを先に抱き上げる。
こいしに怪我はなさそうだった。
ホッとする。困惑の中、
最悪の可能性も考えられたから。
【ラルバ】さ、空さん。こいしちゃんを。
頭上から私の姿を認めたラルバさんが、
私の元にこいしを連れて来てくれた。
引き渡されたこいしを抱っこする。
こいしは、何の表情も浮かべていなかった。
まるで出会ったばかりの時のように。
【空】心配させて。
彼女の無事に安堵しつつも、
危なかったのは事実。
叱るような気持ちで言う。
【こいし】間に合わなかった。
ポツリ、こいしが呟く。
声に、何の感情も宿ってなかった。
無関心を、タール状になるまで煮詰めたような。
ゾッとする。
その声が放つ虚無に。
その瞳が宿す虚空に。
まるでーー
あの時、みたいにーー
【リグル】落とし前はつけさせないとなぁ。
リグルさんが怒りの滲む声で言う。
ホタルちゃんをラルバさんに渡しながら。
【リグル】誰だか知らんが、
同胞をこんな目に合わせて、
ただで済むと思っちゃ困る。
【リグル】そうだろ、お前ら。
俺たちに喧嘩売ったこと、
後悔させてやらぁ。
【???】ーーそうもいかない。
この程度で満足されても困る。
【???】今夜の主菜はお前だからだ。
リグル・ナイトバグ。
【???】全員、動くな。
瞬間。
まるで時間が止まったように。
誰も彼もが身じろぎひとつしなくなる。
【空】ッ!!?
【空】(この声、はーー!)
心臓が鷲掴みにされたみたく、軋む。
身体中に氷水を流されたような、寒気。
声も出ない。視線も動かない。
頭のてっぺんから爪先まで。
あの時と、まったく同じように。
【???】――チク・タク、チク・タク……。
静かな朝の笑い声のように。
穏やかな深夜の歌のように。
声がする。声が聞こえる。
それは歯車の噛み合う音を模して。
この世界の理、すべてを嘲弄して。
――チク・タク、刻み込むように。
――チク・タク、教え諭すように。
――チク・タク、皆を嘲るように。
縫い留められた視界に、それは現れた。
――仮面。
蟲妖の群れも、リグルさんたちも、
まるで神託を待つ哀れな生贄のように、
静止したまま、黒白の仮面が躍り出る様を見る。
【仮面の者】克己。悔悛。大いに結構。
新たな罪業を積むまいと
励み続けた研鑽は評価しよう。
【仮面の者】だが、すべてに意味はない。
貴様は過去に罪を犯した。
断罪から逃れる道などあろうものか。
【仮面の者】略式裁判は結審した。
――被告、永遠供給源のリグル。
――判決、有罪。
【仮面の者】これは『赤の女王』の悲願と知れ。
『時計仕掛けの閻魔』の名において、
貴様はここに報いを受ける。
【仮面の者】チク・タク、地獄の再臨を唄え。
イア・イア、嗤う閻魔の採決だ。
己が貪食の限りに、不慳貪戒を破った咎人よ。
【仮面の者】――被告を、『貪食する無限の虚』の刑に処す。
仮面の者が、コートの内側から何か取り出す。
チク・タク、唄うように。
チク・タク、嗤いながら。
私の時とは別の仮面。
絶叫するように大口を開ける
黒く禍々しいそれ。
仮面の者が面から手を離す。
面はひとりでにフワリと浮かび上がり、
まるで周囲を見物するかのように滞空する。
【空】(リグルさん……!!)
駄目。あの仮面は、駄目。
あれを被ると、天使になる。
この世界を罰する装置になる。
嫌だ。
あんな想いをさせたくない。
あんな地獄を味わわせたくない。
そう思うのにーー。
あの時と同じ。私の身体は動かない。
どんなに力を込めても。
どんなに必死になっても。
――罪深き者の元へ、天使は来る。
――断罪のために。
【空】(何が……!)
何が、罪だ。
何が、罰だ。
リグルさんに罰される理由なんてない。
彼はいいヒトだ。
家族思いで、仲間思いのいいヒトなのに。
天使にされなきゃいけない理由なんてない。
過去にどんな罪を犯していようが、
あんな地獄の苦しみを味わう理由なんて。
【仮面の者】…………。
不意に、仮面の者がこちらを見る。
目が合ったかどうかは判らない。
仮面に遮られて、表情は窺えない。
でもーー。
でも、嗤ってるのだけは判った。
あの仮面の下が嘲弄で歪んでいるのが。
まるで、地表を見下ろす月のように。
【仮面の者】面白い奴がいるな。
【仮面の者】足掻いても無駄だ。
せいぜい眺めていろ。
自分の無力さに絶望しながらな。
【空】(……っ!)
【こいし】…………。
【仮面の者】さぁ、刑を執行しよう。
いま。この場で。
せいぜい、厄災を振り撒いてくれ。
【仮面の者】箱庭の相似よ。人間の信仰の切れ端よ。
今この瞬間より、在るべき姿に回帰せよ。
【仮面の者】黒く、白く、食い尽くせ。
秩序など、何の意味もない。
その恐れにも、何の意味もない。
【仮面の者】例えば、喰らってしまえば、何の意味もない。
【仮面の者】なぜなら――
喉を鳴らすような笑い声を出した仮面の者が、
舞台に上った役者のように手を広げる。
それに呼応するみたく、滞空していた仮面が、
グルン、とリグルさんに裏面を向けて。
【仮面の者】――ここは、辺獄なのだから。
滞空していた仮面がリグルさんの顔に
へばりつくのと同時に、
仮面の者が空気に溶けるように消える。
それまで私を縛っていた硬直が解けた。
動けるようになった。視線も、身体も。
まるで何事もなかったみたいに。
【リグル】ーーうああああああっっ!!!!
リグルさんの絶叫が轟く。
彼は生身の方の左手で、
必死に仮面を剥がそうとしていた。
彼の右腕が空気を震わせるほど駆動している。
とんでもないエネルギーを費やして、
それでも仮面は剥がれない。
【ラルバ】あなたっ!!?
【ホタル】パパ!!
二人の悲痛な叫び。
周囲の蟲妖たちも口々に
リグルさんの名を呼ぶ。
ラルバさんがリグルさんに走り寄る。
彼らの足元の蟲妖たちは、
暴れるリグルさんを懸命に支えて。
【空】っ、駄目!!
私はこいしを抱えたまま、
周囲の蟲妖を無理やり踏み付けて、
リグルさんたちの元へ。
のたうち回るように暴れていた
リグルさんが、不意にだらりと
両手を下ろす。
彼の絶叫が止まる。
走り寄ってきた
ラルバさんとホタルちゃんを、
緩慢にあげた両手で抱き寄せる。
【ホタル】パパ?
ホタルちゃんが恐々と声を上げる。
その、瞬間ーー
彼にへばり付いていた仮面が
真一文字に割れるかのように開いてーー
ーーッ!!
【ラルバ】ーーあ、っ……。
ラルバさんの首元に、噛み付いた。
【ホタル】ーー。
【空】ッ!!?
【こいし】…………。
鮮血。
静寂。
ーー絶叫。
【蟲妖】うわああああああっっ!!?
【リグル】ああ、あ、あああ、
あアア、アァ、AアAーー
AAAAAAAAーー
【リグル】ーーAAAAAAAAーー
骨が砕ける音がする。
肉が隆起する音が聞こえる。
リグルさんの背から白い翼が伸びて。
彼の身体が境界を喪う。
白いエネルギーの奔流が
何もかもを飲み込むように。
リグルさんたちの足元の蟲妖たちが、
次々に白い光に絡め取られて、
けたたましい悲鳴を残して消えていく。
逃げ出そうとするけれど、叶わない。
ここには彼らの同胞が集まり過ぎている。
押し合いへし合い、地獄のように。
【ラルバ】……うん、辛かったよね。
ラルバさんが血に塗れた手で、
白く塗り潰されていくリグルさんを抱いて。
【ラルバ】あなた、すぐ無理するから……。
何でもかんでも背負い込んで、
我慢して、我慢して……。
【ラルバ】あなたの空腹、
私、ちょっとは、
癒せたかな……?
【リグル】ーーA、AAA、AAーー
ラルバさんの身体が、
残酷なほどに血を流す彼女が、
リグルさんの白い光に蝕まれていく。
失われていく。
消えていく。
飲み込まれて、無くなってーー
【ラルバ】私は、いいよ……。
あなたになら……食べられても……。
【ラルバ】ーーでも、この子は渡せない。
【ラルバ】空さんッ!!
身体の大部分を白い光に飲み込まれた
ラルバさんが、きっと最期の力を振り絞って、
傍らのホタルちゃんを私に向けて、投げる。
ホタルちゃんの小さな身体が、
ふわりと弧を描いて空を舞う。
その軌跡を白い光が追って。
【空】っ!
こいしを片手で抱えて、
空いた片方の手でホタルちゃんを
受け止める。
勢いを殺しきれなくて、
足元で踏み付けていた蟲妖たち諸共
地面に崩れ落ちてしまう。
けど、ホタルちゃんは確保できた。
目を閉じた彼女は何の反応もしない。
気を失ってしまっているみたいだった。
【ラルバ】……後は、頼みます、ね……。
リグルさんから生じる白い光の奔流に、
完全にラルバさんが飲み込まれてしまう。
私は何も言えなかった。
何の言葉も出なかった。
ただ、目を見開くことしか。
空気が震える。
ーーA、AAAAA、AAAーー
無限の手指が折り重なるように白い光が膨張する。
ーーAAAA、A、AAAAーー
数多の同胞を喰らって、天使が開花する。
ーーAAAAAAAAAAAーー
ーーAAAAAAAAAAAAAAAAーー
異形に寄り集まった光が叫びをあげる。
光臨をいただくそれが、鋭く澄み切った声で。
それは祈りの声に似て。
それは何かを崇拝する呪の言葉に似て。
そして、激烈な叫び声のようでもあって。
ーー螺旋状に連なる翼を生やす大樹。
私の目に、それは、そう映った。
地下世界を眩く照らす大樹が、
無分別に枝葉を伸縮させ、
手当たり次第に蟲妖たちを飲み込んでいく。
悲鳴が上がる。悲鳴が伝播する。
そして次々に飲み込まれ、
切なる叫びが掻き消えていく。
同胞たちを無差別に喰らっては、
大樹は際限なく成長していく。
もう、永遠の灰色雲に届くほどに。
ーーAAAAAAAAAAAAAAAAーー
空気をつんざくような天使の声。
その声に突き動かされるように
私は周囲の蟲妖に混じって逃げ出した。
逃げ出すしかなかった。
あんな異形。あんな怪物。
【空】(あんなの……っ!)
【空】(何とかできるわけ、ない……っ!)
走る。必死に前へ進む。
土砂崩れのような混乱の最中、
蟲妖たちの群れをかき分けるように。
こいしとホタルちゃんを
離さないことで精一杯だった。
もうとっくに腕が悲鳴をあげていた。
【蟲妖】ひぃい!! 助けて!!
助けてくれ!!
【蟲妖】あぁぁあ!! 痛い!!
痛いいぃぃいいっ!!
やめてぇえええっっ!!
【蟲妖】リグルさん!!
リグルさんっ!! あがぁ!!
あああああああっっ!!?
一緒になって逃げていた蟲妖の
何人かが、白い枝葉に絡め取られて、
喰われながら引き抜かれていく。
無作為な選別。
私は悲鳴が上がるたび、
それが自分でなかったことに安堵する。
天使。あれが、天使。
罪を裁かれ、罰を振り撒く者。
秩序を否定し、断罪を成す者。
自分が、それに成った自覚すら遠く。
無我夢中で、ひたすらに逃げることしかーー
【燐】ーーお空!!
こいしを!!
逃げ惑う蟲妖たちの波に逆らって、
険しい顔をしたお燐が走り寄ってくる。
私は彼女が無事だったことに
ホッとする間もなく、
片手で抱えていたこいしを渡した。
気を失ったままのホタルちゃんを
背負うようにして、
蟲妖たちの流れに乗って走り出す。
【空】お燐……あれが……。
【燐】話は生き延びてからにしな!
とにかく逃げるんだよっ!
【空】で、でも、どこに……!?
【こいし】ーー『壁』の向こう。
それまで押し黙っていたこいしが、
お燐の背中でポツリと口にする。
【こいし】外なる神の権能を、
この世界の理で砕くことはできない。
でも、天使は『壁』を越えられない。
【こいし】天使は世界の断罪者。
この世界は『境界』で世界を分断されてる。
別の世界にまで、天使の力は及ばない。
【燐】そいつは重畳!
聞いたかい!? お空!
【燐】蒸気路面車に乗らなきゃ
『壁』は越えられない!
蒸気路面車の駅へ走れ!!
【空】う、うん……っ!
だけど……!
私は背後をチラと見やる。
逃げ惑う蟲妖たちの向こうに、
さっきより巨大に聳える天使の姿。
ーーAAAAAAAAAAAAAAーー
耳を塞ぎたくなるような声。
『壁』は天使の向こう側にある。
必然、蒸気路面車の駅もそっち。
【空】お燐、どうしよう!?
駅って、天使の奥にあるやつ!?
【燐】一番近いのはね!
でも、あんなとこ突っ込めるかい!?
蟲妖と天使の枝を潜り抜けて!?
【空】無理! 絶対に無理!
【燐】同感だ!
判ったら、早く反対側の『壁』にーー!
【こいし】無理だよ。間に合わない。
【燐】はぁ!? 聞き間違いかね!?
あたい、耳4つもあるんだけどね!?
【燐】ちなみに何でそうなるのか、
理由を聞かせて欲しいんだけど!?
【こいし】向こう側に着くまでに、
天使の捕食が終わっちゃう。
【こいし】あれ、無差別じゃない。
あくまで天使の基準だけど、
罪深い蟲妖から順に、喰われてる。
【こいし】蟲妖が全部取り込まれれば、
次は私たち。
【空】な、なら、逆に言うと、
蟲妖たちが食べられ終わるまで、
私たちの順番は、来ない……?
【こいし】たぶん。
でも判らない。
言って、こいしが私の方を見る。
底無しの穴のような虚色の瞳を向ける。
ーーいや、違う。
見てるのは私じゃなくてーー
【ホタル】…………。
【空】……っ。
どうしよう。
理解する。してしまう。
こいしが言い淀んだ理由を。
薄暗い想像が脳裏を過ぎる。
ホタルちゃんを見捨てれば、
もう少し、長生きできるかもしれないーー。
【燐】ーーお前が決めな。お空。
お燐がポツリと言う。
それは、ゾッとするほど冷たい声。
冷徹な視線が、私の胸を射抜くように。
【燐】こいしの言ってることが正しいなら、
危ないのはお前だ。
その子の巻き添えで、喰われるかもしれない。
【燐】リグルさんもラルバさんもいない。
義理立ても、命あっての物種さ。
今なら、その子自身に責められることもない。
【燐】どうするね?
冷めた表情で、お燐が事もなげに。
その雰囲気に飲まれて、揺らぐ自分がいた。
お燐が、そう言うなら、って。
天使は怖い。
金切り声のような叫びを聞くたびに、
身が竦むような恐怖に襲われる。
命は惜しい。
私は、それを再確認したばかり。
天使になって、燃えて、生還して。
【空】(でもーー)
【ホタル】『私もパパのこと好き。
ママのことも好き。
二人とも大好き』
【リグル】『それに俺は嬉しいんだ。
ホタルに新しい友達ができた!』
【ラルバ】『……後は、頼みます、ね……』
【空】ーー見捨てないっ!
見捨てられないよっ!!
【空】後悔したくないもんっ!!
利口なやり口とか、賢い振る舞いとか、
そんなの私、判んない!!
【空】でも私、私が死ぬことより、
天使に殺されることより、
この子を見捨てる方が、怖い!!
ホタルちゃんを支える手に力を入れる。
万が一にも、離してしまわないように。
私には判らないものだ。
親に対する愛情も、子に対する献身も。
同胞と認めたヒトたちに対する責任も。
でも、好きだと思ったんだ。
美しいって、思ったんだ。
捨てられない。捨てたくない。
それを捨てたら、私はきっと、
私自身を許せなくなってしまう。
私の言葉を聞いたお燐が、
フッと表情を柔らかくして、
【燐】良かった。
ここで腹括ってなきゃ、
あたいはお前さんをブン殴ってたよ。
【燐】覚えときな。そいつが矜持ってやつだ。
【燐】意地が張れなきゃ生きてたって仕方ない。
あたいたちは弱いから、何にも代えられない
ぶっとい芯が必要なんだ。
【燐】少なくともあたいは、
死ぬと判ってるガキを見捨ててまで
意地汚く生きちゃいられないね。
【空】お燐……。
【燐】さぁて、走るよ! お空!
【空】……うん!
私はホタルちゃんを背負って、
お燐はこいしを背負ったまま、走り出す。
さっきより、大通りにはスペースがある。
集まってた蟲妖たちが減っている。
天使から逃げ出して。天使に喰われて。
隙間を縫って、釣り上げられる蟲妖の下を
掻い潜って、蒸気路面車の駅へ向かう。
蒸気路面車は、まだ動いているだろうか。
あれはこの地下世界の根幹を担う、
彼岸の置き土産。簡単には壊れないけど。
ここからじゃ状況は判らない。
行ってみないと、判断できない。
だから、今は我武者羅に。
先のことは考えない。
不吉な想像に足を掬われないように。
余計なことは考えない。
嫌な感情に心を凍り付かせないように。
ーーAAAAAAAAAAAAAAーー
鳴動する天使の樹幹を大きく迂回して、
逃げ惑う蟲妖たちの流れに逆らって、
格子状の蟲群街を這いずるように。
そうして私たちは、何とか
蒸気路面車の駅が見えるところまで。
駅はーー無事だった。
蟲妖たちが駅舎に殺到している。
蒸気路面車が海を割る偉人のように
群衆の只中へ分け行って。
あんなにたくさんの蟲妖が集っていて、
乗れるかどうか判らないけど、早くーー
【こいし】ーー空さん、止まって!
不意にこいしが叫んだ。
反射的に足を止める。
奇妙な音が背後から聞こえてきた。
メキメキと木材が軋んで割れるような音。
俄かに周囲が白く照らし出される。
駅舎の方から地獄の釜の底が
開いたような悲鳴が上がり出す。
思わず、振り返る。
天蓋まで伸びていたはずの巨木が、
弓形に樹幹をしならせて、
梢を駅舎に叩きつけるようにしてーー
ーーーーッ!!!!
凄まじい音が轟いた。
何もかもが詰まっていた。
破壊も。惨劇も。恐怖も。悲鳴も。
狂想曲のように混じり合った音。恐ろしい音。
ーーAAAAAAAAAAAAAAーー
地響きを立てながら、
大樹の形をした天使が梢を引き上げる。
何も残っていなかった。
何も。
数百人はいた蟲妖怪も、ひとりも居ない。
ただの、ひとりも。
駅舎は粉々に崩れていた。
線路の上に瓦礫が積み重なって。
蒸気路面車もペシャンコに潰れていた。
まるで巨人に踏み潰された
哀れなドブネズミのように。
ーーAAAAAAAAAAAAAAーー
天使が叫ぶ。歌うように。
天使が鳴動する。踊るように。
私は。
【空】あ、あぁ……。
……私は。
【空】あ……。
震える足から力が抜ける。
座り込んだまま、
立つことを永遠に忘れたみたいに。
【空】立って……。
立たなくちゃ。
立ち上がって。
【空】逃げなくちゃ……。
ここに居ても助からない。
踏み出さなきゃ。走らなきゃ。
そう、思うのに……。
身体が、言うことを聞かない。
魂の芯から震えが止まらなくて。
力の入れ方、思い出せなくて。
視界がぼやける。
意識が虚ろに塗り潰されていく。
私は、この感情を知っている。
長らく忘れてた、この感覚の名前。
ーー絶望。
チク・タク。歯車が鳴るように。
チク・タク。嘲弄を囁くように。
すべてを諦めてしまえ、と。
何もかも捨ててしまえ、と。
『ーーもう、諦める?』
声がする。声が聞こえる。
私の心の内側を透かし見ながら。
けれど、穏やかで優しい声音で。
嫌だ。それは嫌。
私は諦めたくない。私は諦めない。
ひとりだったら頷いてたかもしれない。
自分以外どうでも良ければ、
諦めてしまえたかもしれない。
でも今、私はホタルちゃんを背負ってる。
側にお燐とこいしもいる。
ここで膝を折ったままじゃいられない。
どんなに絶望的な状況でも。
どんなに地獄のような場面でも。
だから、だから早く。
立って。立ちなさい。空。
前を向いて。歯を食いしばって。
苦しいとか辛いとか、
言ってる場合じゃない。
今じゃなきゃ。今、立たないと。
ーーAAAAAAAAAAAAAAーー
祈りのように叫ぶ天使が、
遂に私を諸共にホタルちゃんへ、
波打つように枝葉を伸縮させてくる。
【空】立って……! 立て、私!!
【空】……ッ! 足っ!
この、言うこと聞いてよ!!
意気地なし!!
震える足に怒鳴りつける。
懸命に、身体を動かそうとする。
なのに、どうしても、力が入らなくて。
枝葉が伸びてくる。
白く、禍々しく、光を放ちながら。
それは瞬く間もなく、
私のすぐ前に迫ってきてーー
【???】ーーま、良いんじゃないですかぁ?
無理しなくても〜。
私と天使の枝葉の間に割って入る影。
それが構える冗談みたいな
巨大な先割れスプーンが、
クルクルと、パスタみたいに
天使の枝葉を巻き取って、
【饕餮】私たち、仲間ですもの〜。
こういう時こそ助け合わなきゃーー
【饕餮】ね!!!
凶悪な笑みを浮かべた彼女が、
力任せに引きちぎってしまう。
信じられない。
目を疑う。なんて力。
仄かに紫色に輝く先割れスプーンを
バトンのように軽々と扱った饕餮さんが、
にっこり、いつも通りの笑みを浮かべて、
【饕餮】きゃ〜! 恥ずかしいですぅ!
お空さんに、本当は強いところ
見られちゃいましたぁ!!
【燐】と、と、と、饕餮さん!!?
な、なんで、ここに……っ!?
お燐が目を見開いている。
きっと、私も似たような顔をしている。
リグルさんと商会の会長が
交わした共同戦線は2日後のはず。
なのに饕餮さんは平然と、超然と微笑んで。
【饕餮】私だけじゃないですよぉ?
私は単なる付き添いの
お姉さんですもの〜。
【饕餮】さーて、さてさてぇ〜。
それでは、さとりちゃん!!
やっちゃってくださーい!
【こいし】……っ。
お燐に背負われたままの
こいしが、僅かに息を呑むのが聞こえた。
饕餮さんが見上げた方に目を向ける。
半壊した長屋の上。
美鈴さんに付き添われて。
小さな身体を、
しかし威風堂々といった風に、
凛と背筋を伸ばしてーー。
【さとり】――御使い。神の裁きの伝搬者。
輝く白。白きモノ。
罪業を裁き、世界の在り方さえ変える力。
【さとり】翼ある大樹。
貪食に、何もかも喰らい尽くす災厄の虚。
この街に蔓延る罪を裁くカタチが、それか。
さとりが天使をまっすぐに見つめる。
今もなお、無数の枝葉で
無慈悲に同胞を喰らう巨大な怪物を。
私は目が離せない。
声を上げることもできない。
張り詰めた空気の中、さとりは朗々と。
【さとり】無限の虚空を騙るモノ。
『貪食する無限の虚(トコヨノカミ=アルタエゴ)』。
しかし、私はその審判を拒絶する。
【さとり】閻魔代行者、
古明地さとりの名において――
さとりがスーツの中から
何かを取り出した。
私は覚えてる。
その道具のこと。
この世界が地獄だった頃、
何よりも絶対的だった物。
かつての恐怖の対象でもあり、
かつての秩序の象徴でもあったそれ。
――閻魔の、悔悟の棒。
【さとり】――再審を、請求する!
その声を合図にして、
カチリ、と悔悟の棒が起動する。
歯車が回転を始め、蒸気が噴きだし始める。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
歯車同士が噛み合って、
時計のような音を奏で始めて。
さとりは毅然と立っている。
白きモノに相対して、少しも怯むことなく。
【さとり】――被告、永遠供給源のリグル!
判決は『有罪』!
刑の名は『貪食する無限の虚』!
【さとり】汝に問う! 判決に正当性ありや!?
否! ヤマの権能、恣に振るわれたるを
疑わざる由なしと知れ!
【さとり】故に、此度の裁判、無効とすべし!
裁定の撤回を! 断罪の返上を!
甚だしき越権に正当なる審判を下さん!
【さとり】見よ! 見よ!
これこそは天使を喰らう者!
ヤマの権能宿せし水の神龍なり!
【さとり】――現象数式『ヨルムンガンド』!!
起動した悔悟の棒で、
さとりが空間にスゥと円を描く。
描かれた円は空中で線を結び、
魔法陣のような模様を紡いだ。
複雑怪奇なパターンが形を為し、
その周囲で無数の数式が躍り出す。
凄まじい速さで、数式が演算を繰り返して。
途端、何かが爆ぜるような音がして、
浮かぶ魔法陣に亀裂が走った。
ゾクリ、と何かの存在をその向こうに感じる。
ーーAAAAAAAAAAAAAA!ーー
不意に、天使が捕食をやめる。
四方八方に伸ばしていた枝葉を、
すべてこちらに向けて伸ばしてくる。
魔法陣の亀裂はみるみるうちに
大きくなっていくけれど、
枝葉がこっちに到達する方が早いーー!
【饕餮】いえいえ、させませんよぉ。
美鈴さんっ! やって!
さとりの傍らに立つ美鈴さんが、
ズラリと銀のナイフを扇状に構える。
どのナイフも仄かな紫色の光を放って。
【美鈴】ーーっ!
美鈴さんが、殺到する枝葉に向けて
銀のナイフを次々に投擲していく。
ナイフの突き立った枝葉の悉くが失速して、
周囲の長屋を薙ぎ倒しながら
地面に落ちていく。
そうして先行する枝葉を
美鈴さんのナイフが
凌ぎ切ったところでーー
勢いよく割れた魔法陣から、
天の窯が割れたかのような水流が、
うねりを伴って噴出する!
―――――――――!!
――GRRRRRR!!!――
濁流の中から巨大な何かが、
飛沫をあげながら宙へ飛び出してくる。
唸り声を轟かせるのは、巨大な蛇の姿。
濁流を伴って押し寄せる大蛇が、
聳える大樹の天使に向かって、
一直線に飛び掛かる!
――AAAAAAAAAAA――
――GRRRRRR!!!――
大蛇がその身を大樹に巻き付け、
締め上げる。とぐろを巻くように
空を駈ける激流が天使を飲み込んで。
大樹が激しく幹を揺さぶって抵抗する。
大蛇は更に締め付けを強めて、
一気に天使を打ち砕こうとする。
しかしーー
【こいし】ーー駄目。
――AAAAAAAAAAA!――
天使がすべての梢を一斉に広げる。
それは激流を突き抜けたかと思うと、
自らを掻き抱くように閉じていく。
天使の梢。捕えたものを喰らう権能。
それが、さとりの召喚した大蛇を襲って。
【燐】おいおいおい!
ありゃ、まずいんじゃないのかい!?
【さとり】ーーっ、く……!
まさか、こんな……っ。
この天使は、こんなにも……っ。
【さとり】わ、我がしもべたる、
現象数式よ……っ!
不当、なる判決、を……っ!
【さとり】天使をーー!
――AAAAAAAAAAA!!――
【空】っ!?
天使が空気を裂くように一際大きく叫ぶ。
それまで天使を責め立てていた激流が、
不意に勢いを失って、落ちていく。
再び、天使が梢をゆっくりと開く。
無惨に喰い荒らされて
ボロボロになった大蛇が
声もなく落ちていく。
半壊状態の長屋を巻き込んで
墜落した大蛇が、喰われた傷口から
紫色の光になって解けて消えていく。
【燐】そんな……。
呆然としたお燐が、その場に膝をつく。
きっと、さっきの私と同じ顔。
長屋の上に立っていたさとりが、
その場に崩れ落ちる。
美鈴さんがさとりを抱き止めて。
こいしがお燐の背から降りて、
何の感情も見えない虚無色の表情で、
【こいし】再審請求は却下された。
【こいし】罪は確定した。
私たちにできることなんて何もない。
ここで天使に罰されるのを待つだけ。
【こいし】もう、おしまい。
リグル・ナイトバグはもう戻れない。
私たちは、彼だった天使に喰われる。
【こいし】みんな死ぬんだね。
こいしが白く輝く大樹の天使を見上げて、
ポツリと、どうでも良さそうに呟く。
……死ぬ?
みんな、ここで?
いま?
きっと、そうなのだろう。
天使には勝てない。
この世界の理では、天使は砕けない。
逃げることもできない。
この街から出る手段は、
さっき叩き潰されてしまった。
ーーなら、私は諦めるしか、ないの?
ここでこうして天使を見上げながら、
喰われる順番が回ってくるのを、待つしか?
――AAAAAAAAAAA――
鳴動した天使が、
枝葉をこちらに伸ばしてくる。
美鈴さんや饕餮さんが抵抗しようとする。
でも、彼女たちの武器に宿っていた
紫色の光も、さとりが倒れると同時に
かき消えてしまっていた。
ナイフがどれだけ刺さっても、
先割れスプーンが枝葉を巻き取ろうとしても、
天使の枝葉の勢いは微塵も衰えない。
まっすぐ、倒れ伏すさとりに伸びてくる。
最初にさとりを喰らう気だ。
恐らくこの地下世界で唯一、
自分を滅し得る存在を。
私にはどうすることもできなかった。
誰にも、どうにもできなかった。
美鈴さんも饕餮さんも、
殺到する梢に軽々と弾き飛ばされて。
お燐が息を呑む。
こいしが目を見開く。
立ち尽くす私は、
背中がいつの間にか
軽くなっていることにも気付かない。
そして。
鞭のようにしなる天使の枝葉が
さとりに群がるーー
その瞬間。
「ーーゴメンね。みんな」
「ーー行って!」
ーーウオォォォォッ!!!
雄叫びが轟く。空気が震えるほど。
瓦礫の合間から、
ボロボロの得物を手に手に、
凄まじい数の蟲妖たちが殺到する。
【空】っ!?
彼らは天使の枝葉を前に
ほんの少しも怯む様子なく、
地面を揺るがしながら突撃する!
先頭を率いていた蟲妖が
枝葉とさとりの間に身を投げ出して、
あえなく絡め取られて喰われてく。
それを見ても、後続の蟲妖は止まらない。
あとからあとから群がる枝葉に、
次々と突っ込んでいく。
彼らは足を止めない。
彼らは突撃を止めない。
むしろ先に喰われた仲間を見て、
さらに奮起して死の行軍に加わっていく。
誰ひとりとして怖気づいていなかった。
笑っている者すらいた。
誰も彼も誇らしげに突き進んでいた。
――AAAAAAAAAAA――
さとりを絡め取ろうとしていた
天使の枝葉が、次から次に
命を捨てて突っ込んでくる蟲妖を喰らう。
でも、あまりにも物量が違った。
洪水のように押し寄せる蟲妖が
生きる壁となって、さとりを守ってる。
【燐】これは、いったい……?
呆然とお燐が呟く。
私だって同じ気持ちだった。
眼の前で繰り広げられる
蟲妖たちの暴挙としか思えない
行動に、ただ目を見張る。
ーーと。
「みんな、聞いて!」
高らかに声が響く。
聞き覚えのある、けれど
私の記憶よりもずっと堂々とした声。
声は微かに震えていて。
でも、それ以上に強い覚悟を感じさせて。
ズラリと整列した蟲妖たちの向こう側。
彼女は、精一杯に胸を張ってーー
【ホタル】先行のみんなは
防衛ラインを死守して!
後続のみんなで、あの子を保護して!
【ホタル】あの子だけが天使と戦える!
あの子をここで死なせちゃ駄目!
みんな、同胞のみんな、力を貸して!
ーーウオォォォォッ!!!
【空】……ホタルちゃん……?
彼女の激に呼応して、
蟲妖たちが空気を揺るがすほどの
雄叫びを轟かせる。
先行した蟲妖たちが次々に喰われてく。
なのに、少しも士気が落ちてない。
天使が喰うよりも多く、押し寄せる。
私が目を見張っている間に、
さとりが救出されていく。
次々と、バケツリレーのように。
【こいし】ーーお姉ちゃん!
運ばれてきたさとりに、
こいしが駆け寄る。
【さとり】ーーう、ぅ……。
呻き声を上げるさとりを、
こいしが呆然と抱きしめる。
【こいし】ホタルちゃん。
こいしが、ホタルちゃんの方を見た。
私もそちらへ視線をやる。
彼女は居た。蟲妖たちを率いて。
重装歩兵の隊列めいて立ち並ぶ
蟲妖の男たちが一糸の乱れもなく、
一斉に、同じタイミングで足を踏み鳴らす。
雷のような轟音が、
ますます蟲妖たちの
士気を高めていって。
【ホタル】私たちは群れだ!
【【【蟲妖】】】応!!
【ホタル】ここは私たちの街だ!
【【【蟲妖】】】応!!
【ホタル】誰にも、何にも、
私たちを勝手に裁かせない!
【【【蟲妖】】】応!!
【ホタル】私たちは抗う!
私たちは戦う!
最後の一匹が力尽きるまで!!
【ホタル】集え、同胞たち!
私たちが群れる限り、
最後に一匹でも残れば私たちの勝ちだ!
【ホタル】理不尽な断罪に異議を!
不条理な裁定に抵抗を!
【ホタル】新たなリグル・ナイトバグが
ここに告げる!
【リグル】弾劾を!!
【【【蟲妖】】】応!! 応!! 応!!!
ホタルちゃんがーー
ーー否、リグルちゃんが鼓舞した
蟲妖たちが天使に向かっていく。
彼らに迷いはなかった。
彼らに憂いはなかった。
誰も絶望なんて、してなかった。
雲霞のように集った蟲妖たちが、
あの恐ろしい大樹の天使に
脇目も振らず立ち向かっていく。
自分の眼が信じられない。
どうして、彼らは恐れないの?
どうして、彼らは足を止めないの?
私は知らない。
私には判らない。
自分の命よりも、大事なもの。
リグルちゃんが、こちらに歩み寄ってくる。
堂々とした演説を終えて。
毅然とした視線で同胞たちを見送って。
そして。
私の前まで来たかと思った途端、
グラリと姿勢を崩してしまう。
慌てて受け止める。
熱を持ったような彼女の身体は、
けれど私の手の中で震えていた。
【リグル】……わ、私……。
【リグル】……上手に、できた、かな……。
【空】ーーっ。
泣いていた。
彼女は、両目から大粒の涙を流して。
【リグル】パ、パパが、なっちゃったから、
アレに……。
【リグル】わ、わ、私、みんなを、
同胞の、みんなを……私が、
私が! なんとかしなきゃって……!
【リグル】アレが、みんなを食べてて、
パパは、そんなの、
きっと、嫌だって思うから……!
【リグル】パパ……。
ママ……!
あ、あぁぁぁ、あぁ……っ!
ーーあぁ。
この子はーー。
精一杯に、背伸びをしたんだ。
お父さんの真似を、懸命に。
お母さんに言われたように、しっかり。
右も左もなく混乱する同胞たちのため、
彼らを率いる者の責任を果たすため。
ーーでも。
【さとり】……だ、駄目です。
天使への、抵抗は、
此岸の理では……。
倒れ伏したままのさとりが、
息も絶え絶えに言う。
うん。そうだね。
こいしが、言ってた。
天使は、この世界の理じゃ砕けない。
どんなに蟲妖たちの士気が高くても、
どんなに懸命に立ち向かっても。
彼らの力は、天使には届かない。
彼らの決意は、断罪を覆せない。
犬死にだ。
最後の一匹も残さず、天使に喰われ尽くす。
【空】ーーこのままじゃ、ね。
私はリグルちゃんの頭を撫でてやる。
頑張ったから。すごいから。偉いから。
私なんかより、ずっとしっかりしてる。
そんな彼女の精一杯の頑張りを。
無駄な足掻きだなんて、嘲笑わせない。
【空】さとり。
私を天使に戻すのって、できる?
【燐】ーーは?
【空】お燐、リグルちゃんをお願い。
私、行かなくちゃ。
お燐に、リグルちゃんを預ける。
リグルちゃんを支えながらも、
お燐は怖い顔をして。
【燐】おい、お空。
【空】矜持、でしょ? お燐。
私は胸を張る。精一杯に。
リグルちゃんが、そうしたように。
【空】意地を張れないなら、
生きてたって仕方ない。
そうだよね?
【燐】違う。お空。
あたいは……。
【さとり】……できます。
【燐】おい、さとり! お前!!
【さとり】空さんは覚悟を決めてます。
それに、他にもう、方法は……。
【燐】だからって!!
お空に、そんなことをーー!
【空】お燐。ありがと。
今まで楽しかった。
【空】辛いことも、迷うこともあったけど。
【空】お燐が私を助けてくれて、良かった。
【燐】おい、やめろよ、お前……!
縁起でもない!
そんな、遺言みたいに……っ!
【空】ごめんね。
でも私、行くよ。
【空】私、馬鹿だから。
言いたいこと、うまく言えないけど。
【空】もう諦めたくない。
もう絶望したくない。
【空】もう嘲笑われたくない。
誰にも、何にも、嘲笑わせない。
涙に暮れるリグルちゃんを見る。
全力で抗う蟲妖たちを見る。
倒れ伏すさとりを見る。
無表情のままのこいしを見る。
はち切れそうな顔のお燐を見る。
【空】ーーさとり、お願い。
聳え立つ大樹の天使を見る。
それに変貌したリグルさんを思う。
それに飲まれたラルバさんを思う。
天使を指差す。
もう二度と俯かないように。
もう二度と目を逸らさないように。
【空】ーー弾劾を。
【さとり】告げる。
閻魔代行者、
古明地さとりの名において――
さとりが握る悔悟の棒が駆動する。
それは蒸気を吹き出し、歯車を回し、
紫色の淡い光を輝く数式に変えて。
【さとり】弾劾裁判の開廷を!
さとりが悔悟の棒を振り下ろした途端、
紫色の数式が私の中に流れ込んでくる。
それを認識した途端、
私の心臓が、軋むほど強く脈を打つ。
ドクン。
【空】……うっ。
息ができなくなる。
全身をめぐる血管が、
いっせいに発火したような痛み。
膝を折る。
身体が、熱い。
私の中で、心臓が暴れてる。
太陽みたいに熱を持って、
私の胸を焼き尽くすみたいに。
『ーー私の力を貸してあげる』
声がする。声が聞こえる。
私の身体の中心から。
『諦めなかった、アナタに』
『罪さえ、罰さえ飲み下して』
『大切なものを見付けた、アナタに』
胸の内から何かが込み上げる。
それは私の胸の肉と骨をすり抜けて、
私の皮膚を突き破って。
涙のように血を滴らせながら、
私の胸郭の真ん中に、
真っ赤な瞳が花開く。
身体中を灼熱の血が流れる。
でも、その感覚を心地よく感じた。
迸るほどのエネルギーが全身に満ちて。
『すべての過去と未来、すべての並行世界から』
『最も強いアナタの可能性を導き出す』
『其はアナタという個の極地』
『緋焔のアルタエゴーー熱かい悩む神の火』
『ーー霊烏路空』
内なるその言葉とともにーー
私の身体が変わってくーー
私の力。
私が飲み下した、八咫烏様の力。
現象数式が導き出した私の極限の力。
核融合幻想。
今の私には、すべてが判る。
この身体が持つポテンシャルも。
それを引き出すための方法も。
みんなを巻き込まないよう、
私は高く空へと飛び上がる。
右腕に纏う第三の足を
大樹の天使に向ける。
エネルギーを制御棒に収束させて。
【空】ーー核融合シーケンス、開始。
原子核、収束。セルフトカマク、形成。
放射性物質発生、制御。
――AAAAAAAAAAA!!!――
大樹の天使が狂ったような叫びを上げて、
一斉にすべての梢を伸ばしてくる。
【空】ーー遅い。
もう、シーケンスは最終段階に突入している。
天使の梢が到達するより1秒早く、
現象数式の演算は完了する。
リグルさん、ラルバさん。
助けてあげられなくて、ごめんなさい。
でも、せめて、
忌まわしい天使としての役目は、
私が、終わらせるからーー
【空】出力解放方向制御、完了。
エネルギー圧縮率…80%…90%…100%、完了。
出力解放…2…1、イグニッション!
【空】この一撃で、天使を打ち砕く!
スペルカード制限、撤廃!
【空】『ギガフレア』!!!
ーーーーーーーー!!!
一瞬だった。
制御棒から放たれたエネルギーが、
一直線に、迫りくる枝葉もろとも
大樹の天使を焼き払う。
出力効果範囲に定めた天使の大部分が、
核融合の熱量に耐えきれず、
蒸発して消えていく。
地表付近に僅かに残った幹も、
焼け溶けた断面部分から紫色の光を放って、
解けるように空気に溶けていった。
勝ち目のない戦いを続けていた
蟲妖たちが私の方を見上げる。
まだ、何が起きたか判ってないみたい。
【空】……でも、良かった。
こんな私でも、誰かを救えたんだ。
こんな私でも、何かを守れたんだ。
大切なもの。
まだ私には、ふんわりとしか判らないけど。
好きだって、捨てたくないって、
そう思えるものが、私にもあったんだって。
そう、思って。
少しだけ、自分が誇らしくなって。
そして、私は急激にやってきた
虚脱感と睡魔に引き込まれるように、
意識を失っていくーー。
落ちていく。
落ちていく。
上から、下へ。
判らない。何も、判らなくなる。
もしかしたら、下から、上へ?
でも、少なくとも。
限られた空から、万魔蠢く地の底へ。
堕ちてーー。