Coolier - 新生・東方創想話

緋焔のアルタエゴ_第二章

2024/11/06 00:35:32
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【さとり】…………。

ガリガリ、と耳障りな音。
機関式通信機に特有の、
鼓膜を砂粒で引っかくような。

みんな、押し黙っている。
私もお燐も、こいしも。
だから通信機のノイズが、耳を突いて。

【さとり】……駄目だ。繋がらない……。

【さとり】どうしてだろう……?
早く、報告しなきゃいけないのに……。

【燐】壊れたんじゃないのかい?
通信機なんて、壊れてナンボじゃないか。
よくあることだよ。

ソファに腰を落ち着けたお燐が、
ぬるい珈琲を傾けて言う。
今日は珍しく、私の分もあった。

砂糖と合成ミルクをたっぷり入れて、
ぬるい珈琲を啜る。甘くて美味しい。
ミルクの薬臭さに目をつむれば、だけど。

【さとり】いや、そんなわけは……。

さとりが首を傾げて、
通信機をいじりながら、

【さとり】是非曲直庁からの官給品ですし、
数時間前は問題ありませんでした。

【さとり】火急の事態だというのに、
そう都合よく繋がらなくなるなんて、
何者かに妨害されてるとしか――

【燐】そうかねぇ? そういうもんだよ。
厄介ごとってのは大体が、
起きて欲しくないときに起きるのさ。

【燐】ま、あたいは繋がらなくて、
ホッとしてるけどね。
閻魔連中が押し寄せてくるなんて、震えちまうよ。

【燐】商会の連中に知れたら、
どうなるか判ったもんじゃない。

【燐】是非曲直庁と全面戦争なんて、
棺桶がいくつあったって足りゃしない。
あたいの猫車だって満杯さ。

言って、お燐が舌を出す。
本気で嫌そうな顔だった。
無理もないな、と私は思った。

今の旧都に閻魔が来るとなれば、
信じられないような大混乱になる。

閻魔や獄卒が居なくなったから、
その空白地帯に間借りして、
今のこの地下世界は成り立ってるのだ。

そんな場所に彼らが戻ってくれば、
10年掛けてできた社会が、崩壊する。
それくらいのことは、私でも判った。

……それよりも、

【空】本当に、是非曲直庁のヒトなの?
その、さとりくんは。

【さとり】さとり、で良いですよ。

どうしてか、ちょっと嫌そうな顔をした
さとりが、そう訂正してから、

【さとり】そうですね。えぇ、はい。
僕もこいしも閻魔や鬼じゃなくて、
サトリ妖怪なのですが。

【さとり】読心の能力を買われて、
是非曲直庁に拾われたんです。
此岸で活動する新規事業の先鋒として。

【さとり】本来は、生きている人間の罪を、
死ぬ前から軽減する役割を担う筈でしたが、
まぁ、色々とありまして。

【さとり】それで、10年放置されてた
旧地獄の管理を任されることになったんです。
施設やら地獄跡やら、怨霊やらの管理を。

【さとり】……まぁ、こんなことになるとは、
ちっとも思ってませんでしたが。

さとりは流石に諦めたのか、
雑音を垂れ流すだけの機関式通信機を、
ため息交じりにカバンへ仕舞った。

【さとり】無人の筈が、都市が作られてる。
是非曲直庁の施設――
地霊殿も見つからない。

【さとり】閻魔なんて存在しない筈なのに、
閻魔の権能たる現象数式が顕現して、
報告しようにも通信機が通じない。

【さとり】踏んだり蹴ったりの八方塞がりですよ。

【空】閻魔の、けんのう?
げんしょ……?

【燐】お前さんを酷い目に合わせた奴。
そいつが妙な技を使ったから、
お空は、あぁなったんだってさ。

【空】……あの仮面の。
あれが、閻魔さま?

【さとり】見てるんですか!? 犯人を!?

さとりがいきなり大声を出すものだから、
ビックリして彼の方を見る。

私が何も言えないでいるうちに、
彼は私を3つの瞳でジッと見つめて、

【さとり】……黒い仮面の人物。
空気から出現して、
声1つで身体の自由を奪う……。

【さとり】……なるほど、そうですか。
その仮面を被せられて、
空さんは天使になったと……。

【空】お燐、ねぇ、お燐。
何なの、この子。怖いよ。
ちょっと撃ちたいくらい。

私はコートの中の銃に触れて、
お燐にひそひそ声で言う。
お燐は猫耳をピクンと動かして、

【燐】やめときな。慣れるしかないよ。
気持ち悪いのは最初だけだから。

【さとり】そこ、聞こえてますからね。

【燐】うわぁ、気持ち悪。
(おや、そいつは悪かったね)

【さとり】逆ですから。
本音と建前が逆になってますから。
そのボケ、僕らしか判りませんから。

ムッとした顔で、さとりが突っ込む。
何だか判らないけど、ちょっと面白くて、
私はクスクスと笑った。

するとさとりは、
不意に私の方を向いて、
こっちに歩み寄ってきて、

【さとり】――その、銃。

【さとり】やはり、手放す気は?

【空】は?

【さとり】いや、その……ごめんなさい。

唐突な言葉に一瞬でピリッと来た
私の殺気に気付いたか、
さとりがしどろもどろで謝ってくる。

銃。私だけの銃。
天使になって燃え上がった私に、
ただひとつ残された装備品。

さとりが言わんとしていることは判る。
私だって、変だと思うもの。

服も銃弾も悉く燃え尽きたのに、
この銃だけは焼け焦げひとつなく、
無事な状態で残ってたなんて。

【さとり】……変どころではありません。
明らかに異常です。
常軌を逸してる、とさえ言えるほど。

さとりは私からの視線を避けようとしてるみたく、
帽子を目深に被り直して呟くように言う。
彼の3つの目は、ベッドの方を向いていた。

その視線の先にいるのは、妹のこいし。
彼女はベッドに腰掛けて、窓の外を見ていた。
ブラブラと退屈そうに両足を揺らしながら。

【さとり】あれほどの熱で変形すらないのもそうですが、
何よりも僕には、その道具の機能が理解不能です。

【さとり】弓の原理でも、投石の原理でもない。
圧縮蒸気を用いているわけでもない。

【さとり】それを使うと、指先に力を込めるだけで、
目にも留まらない速さの鉛が飛び出る?
そんなの、妖術や魔法の域じゃないですか。

【さとり】明らかなオーバーテクノロジー。
蒸気機関や現象数式と同じです。
恐らくそれも、”閻魔のオーパーツ”でしょう。

【空】オーパーツ。
……閻魔の。

私は珈琲の液面に視線を落とす。
脳裏をよぎるのは、ジクジクと記憶の傍らで
倦み続けるトラウマの痕跡。

――誰も、抗えない。誰も、逃げられない。
――カミサマからの贈り物。

ザラザラと機関式通信機のノイズみたく、
厭な音を立てながら、心の奥が軋む。

――これが銃だ。俺だけの力だ。
――特別な力だ、生死を自由に扱う力だ、
――俺だけのオーパーツ、俺だけの武器。

呪いでもあり、祝福でもある言葉の群れ。
深く刻まれ過ぎて、もう縋るしかなくなった文句。

吐き気がこみ上げる。身体の芯が冷たくなる。
イライラと落ち着かなくて、煙草に指が伸びる。
誰かを殺すとき、いつもこんな気分になる。

【さとり】……………………。

【さとり】……”閻魔のオーパーツ”。
かつて、時計閻魔(チクタクマン)と呼ばれた
存在がもたらしたとされる技術の結晶。

【さとり】現象数式。蒸気機関。
そして恐らくは、拳銃というその武器も。

【さとり】時計閻魔についての詳細は、
僕には知らされていません。
何しろ、是非曲直庁の最重要機密ですので。

【さとり】けれど、明らかに異常すぎる。
幻想として、信仰として在るはずの僕たちが、
こんな発達した技術を持つだなんて。

【さとり】僕は時計閻魔について何も知らない。
時計閻魔という名を口にすることも許されない。
彼は既に存在しないモノとされている。

【さとり】――でも仮に、今回の裁きが、
存在しないはずの時計閻魔の仕業だったなら?

【さとり】時計閻魔に裁かれた理由が、
その拳銃という、
閻魔のオーパーツのせいだったなら?

【さとり】……えぇ、仮定に仮定を重ねた
デタラメな推論であることは否定しません。
けれど――

【さとり】――けれど、それを持ち続けることは、
僕は危険なことだと、そう思うんです。

さとりが人差し指を私に向けて言う。
私。うぅん、違う。
私が今も大切に携えている、銃に。

咥えていた煙草を灰皿でもみ消す。
火。ついさっきまで、私を包んでいたもの。
燃やすもの。焼き尽くすもの。何もかも。

あの感覚を、私は覚えている。
自分が燃え尽きていく、あの熱と痛みを。
死んで終わることを願っても、終わらない苦しみを。

――でも。

【空】手放す気はないよ。

改めて銃のグリップに触れてから、
さとりの顔を正面から見据えて言う。

さとりがため息を吐いて、
3つめの瞳を私から逸らした。

【さとり】…………そうでしょうね。

そう呟くさとりの口調には、
どこか私に気を使っているような
柔らかさがあって。

いま、私は心を読まれたのだろうか。
私という存在が、どれほどこの銃に
依存しているか、測られたのだろうか。

私が経験してきた辛いことや、
生きる力を手にした私の精神を、
余すところなく観察されたのだろうか。

……だとしたら。

【空】――ありがと。

【さとり】……え?

【空】さとりは優しいんだね。
私のこと、判ったうえで、
気を使ってくれたんでしょ。

【空】……私が辛かった、苦しかったこと、
お燐くらいしか、判ってくれるヒト、
居なかったから……。

【空】ちょっぴり、嬉しいな。

【さとり】っ。

さとりは目を見開いたかと思うと、
すごい勢いで耳まで顔を赤くして、
プイと私から顔を逸らしてしまう。

【さとり】……忠告は、しましたからね。

【さとり】アナタの身体の治癒に、
僕は天使を作る現象数式も組み込みました。
そうしなければ、アナタを救えなかった。

【さとり】――アナタの中には、
天使のカケラが宿っている。

【さとり】それがいつ暴走してもおかしくないんです。
僕がいる限りは、僕が何とか出来るでしょうが……。

【さとり】拳銃という力を持ち続けることで、
カケラが暴走する可能性が上がるかもしれない。

【さとり】そうなれば、またアナタはなりますよ。
――天使に。

【空】…………っ。

念押しするさとりの言葉に対して、
私はすぐに頷き返す覚悟を持ってなかった。

私の力。私の銃。

あんな思いを味わうのは、もう絶対に嫌だ。

でも、それでも――

すがりつくみたいに銃のグリップを握る。
嫌なこと、怖いこと、痛いこと。
何もかもブチ抜いてくれた、私のオーパーツ。

この力から離れることなんてできない。
たとえ、それがもたらす罪のひとつひとつが、
呪いの極致へと至るまでの舗装だとしても。

【こいし】……綺麗は汚い。
汚いは綺麗。

【こいし】祝福も呪詛も、カミサマからの贈り物。

いつの間にか私の前に立っていたこいしが、
まるで歌うように口ずさむ。

私を見つめる彼女の瞳は透き通っていて。
なのに、どこまでも見通すことのできない、
底知れぬ何かを感じさせて。

【空】……そうだね。

何も判っていない癖に、私は頷いた。
馬鹿な私は、何も決められないまま。

煙草に火をつける。
肺に導く紫煙は、何も考えてない私に、
何も考えなくていい時間をくれる。

誰も何も言わなかった。
無限雑踏街の喧騒が、遠く響くだけ。

――だからこそ。

不意に鳴り響いたその音に、
私たち全員が飛び上がった。

――――ッ!

壊れて、ただ立てかけておいただけの扉が、
室内を勢いよく水平に飛んで、
反対側の壁に叩きつけられる。

反射的に銃を抜いた私の指が、
トリガーを引きかけた状態で固まった。

玄関に佇む黒い影。
その人物に歯向かってはいけないことを、
私は本能で悟っていたから。

【美鈴】………………。

【燐】っ、美鈴!?
――さん!?

佇む美鈴さんが、慌てて言葉を取り繕ったお燐を、
何を考えているのか判らない目でジロリと睨む。

その背後から、ぴょこん、と。
ほわほわな笑顔が飛び出してきた。

【饕餮】こんばんはー!
月が綺麗な夜ですねぇ♪
見たことないので、適当ですけどー。

【こいし】ひっ……!

饕餮さんを見た途端、こいしが小さく悲鳴をあげて
私の後ろに隠れてきた。

私のコートを掴む手が震えている。
おやおやぁ? と背伸びをした饕餮さんが、

【饕餮】恥ずかしがり屋さんですねぇ?
うふふ、可愛いなぁ、可愛いなぁ。
抱きしめてあげたくなっちゃいますぅ。

【さとり】な、何なんですか!? アナタは!

悔悟の棒を振り出したさとりが、
ほとんど叫ぶような声量で言う。

彼女を睨みつける視線こそ強気。
けれど、彼女から何を感じ取ったのか、
さとりの身体は一歩、後ずさって。

【饕餮】はーい♪
旧都中央街商業管理会の、
饕餮お姉さんですよぉ。

【饕餮】そ・し・て~?

【饕餮】アナタが、是非曲直庁の閻魔代行、
古明地さとりさんですねぇ?

【饕餮】ちょーっと、お喋りしたいのでぇ、
私たちと一緒にきてくれますかぁ?

【燐】……最悪、だ……。

青ざめたお燐が引きつった笑みを浮かべて、
掠れた声で呟く。
その言葉の意味は、教えてもらうまでもなかった。

今さら、是非曲直庁の介入なんて、
旧都を牛耳る今の支配者たちが許すわけもない。

そんなの、私でも判る。
判ってた。ただではすまないって。

そして今、それが現実になろうとしている。

【饕餮】おりーんさん?

【燐】はぃい!?

【饕餮】抜け駆けするだけじゃなくて、
彼岸の手先を匿うことまでしちゃうんですねぇ?

【饕餮】私ぃ、びっくりです~。
お燐さんも、なかなか度胸ありますねぇ~?
もしかして、もしかしてぇ――

【饕餮】……勘違い、しちゃいました?

【饕餮】まさかとは思いますけどぉ、
もしそうなら、お燐さんとも、
しなくちゃいけませんよねぇ?

【饕餮】――『お喋り』。

【燐】……………………ッ!!

饕餮さんの言葉に、お燐がすくみ上がる。

――無限雑踏街で今日を生き抜きたいなら、
絶対に、商会にだけは歯向かってはならない。

それは言葉を覚える前の子どもですら、
徹底的に叩き込まれるこの街のルールだ。

例外はない。
この街で息をしている誰もが、それを守ってる。

……何故なら、それを破ったヒトは例外なく、
もう既に息の根が止まっているから。

【饕餮】うんうん、判ってもらえて何よりです~。
じゃ、さとりさん。行きましょうか~。

【空】ま、待って……!

銃口を降ろして、三人の顔を見る。
お燐は顔面蒼白。さとりは冷や汗を垂らし、
こいしはギュッと目をつむったまま震えてる。

どうしよう。私、どうしたらいいんだろう。

饕餮さんに連れていかれれば、無事では済まない。
さとりはこいしのお兄ちゃんで、
『天使』になった私を、助けてくれたヒトで。

何とかしたい、と反射的に思った。
でも、思っただけ。
私には何もできない。

切り抜ける方法なんてない。
やりすごす方法なんてない。
商会に逆らうなんて、できるわけない。

【饕餮】………………。

饕餮さんが薄く目を開いて私を見る。
その視線だけで、心臓を掴まれたような心地になった。
私の銃より、多くのヒトを殺してきた彼女の瞳。

何も言えないでいる私を見て、
饕餮さんはゆっくりといつもの微笑みを浮かべると、

【饕餮】大丈夫、大丈夫。
何も怖くないですよぉ?
ちょっとお話をするだけですからぁ。

【饕餮】そんなに怯えた顔、しないでくださいよー。
私ぃ、そんなに怖いヒトに見えますかぁ?
とほほ~、ショックですぅ。

【さとり】何を、白々しいことを……!

ギリ、と歯を食いしばったさとりが、
何かを呟いて、悔悟の棒を起動させる。

歯車の回る音、蒸気の噴出音。
低く唸りをあげるそれは、
饕餮さんの胸にまっすぐ向けられて。

【さとり】僕は腐っても閻魔代行だ!
彼岸の不始末を正す義務がある!
アナタの要請に従う筋合いなんかない!

【さとり】商会だか何だが知らないが、
此岸の自治や対立に介入するつもりはない!
無理強いするつもりなら……ッ!

【饕餮】えぇ~、イヤだ、怖ーい!

【美鈴】……………………。

はわわわ、と震え出した饕餮さんの前に、
美鈴さんが割り入るように身を滑り込ませて、
ジロっとさとりを睨みつける。

美鈴さんの背に隠れた饕餮さんが、
どこまで本気か判らないけど、
今にも泣き出しそうに目を潤ませて、

【饕餮】はわわ、怖いです怖いです~。
閻魔の裁きなんて受けたら、
私も美鈴さんも死んじゃいますぅ~!

【饕餮】絶体絶命の大ピンチ!
えっとえっと、こんなときは、
こんなときはどうすれば~……。

【饕餮】ピンポーン! 閃きましたぁ!
やっぱり持つべきものは、
友好なビジネスの関係ですよねぇ!

【饕餮】燐さーん! 空さーん!
どうかどうか、私たちを助けてくださーい!

【さとり】……っ!

饕餮さんのその言葉に、
いち早く反応したのは、さとりだった。

さとりが、お燐と私を見る。
その視線には、明らかに焦りがあった。
それを受けて、私は饕餮さんの言葉の真意を悟る。

【空】え……そ、それって……。

【饕餮】――もちろん、助けてくれますよねぇ?
ね? スカベンジャーのお2人さぁん?

まるで媚びを売るように、
ねっとりとした口調で饕餮さんが言う。
でも、私たちを見る目には、愉悦の色が滲んでいた。

――さとりを差し出せ。
――さもなければ、反逆とみなす。

言外のメッセージ。
鋭いナイフを、喉元に突きつけられたかのよう。
全身の血管が凍り付いたみたく、血の気が引く。

さとりへの恩か、自分たちの命か。
どちらもは選べない。
どちらか、捨てなきゃいけない。

思考が固まる。意識が空白になる。
私の両足、地面を踏んでいるという実感を失って。
混乱。判らなくなる。何も。

【燐】……お空。

俯いたままのお燐が、小さく呼びかけてくる。
それは、躊躇いからくる言葉じゃなかった。
それは、意思と決意なき言葉じゃなかった。

死体みたいに血の気の引いた彼女の横顔が、
何よりも雄弁に語っていた。
この場で私たちが下すべき決断を。

【空】お燐――

【燐】仕方ないんだ。
どうにもならないことくらい、判るだろ。

【燐】……だからお前さんも、判ってくれよ。
なぁ、さとり。

【さとり】…………っ。

さとりが、お燐を見る。視る。
心を読む力があるという、第三の眼で。

さとりは何も言わなかった。
理解したんだ。してしまったんだ。

商会を前に、私たちがどれほど無力なのかを。
逆らう気力さえ起きないほど、
絶対的な存在だと感じてしまっているのだと。

そう。逆らえない。
商会の決定は絶対。
抵抗すれば、無意味に死ぬだけ。

だから、お燐の言ってることは正しい。
私たちは言われた通り、
さとりを差し出すほかにない。

それが、力の差。この街の摂理。
生きて明日を迎えるための、当然の判断。

――でも

――本当に、それでいいの?

——確かに、さっき会ったばかりの男の子。
——何が好物なのかさえ知らない、他人のような子。

——でも

――さとりは、燃え上がる私を救ってくれて。
――さとりは、私のトラウマを判ってくれて。
――さとりは、こいしのたった一人の肉親で。

――そんなヒトを差し出せという命令に……

——本当に、従って、いいの?

【こいし】……て。

声。ボソボソと聞き取りづらい、こいしの声。
私の腰にしがみつくこいしが、
私の身体を掴む両腕にギュッと力を込めて。

ボソボソ、ボソボソ。
まるで、私以外の誰にも聞かれまいとしてるみたく。
こいしが呟く。まるで、そうまるで、呪いのように。

ボソボソ、ボソボソ……。

【こいし】――めだよ手放しちゃダメだよ殺してよく考えてお兄ちゃんがいないとお空さんはいつ天使になるか判らないよだから殺せアイツらはお空さんからお兄ちゃんを奪おうとしてるんだよ敵だよ殺せ殺せ殺せ

【空】……こ、

【こいし】殺さなきゃダメだよ殺さなきゃ殺さなきゃ早く殺さないとまた天使になるよ今にでも天使になるよいいの?燃えるよまた燃える今アイツらを殺さないとお空さんは燃えて死ぬよすぐにでも死ぬよ早く殺せよ早く早く早く

【空】こ、い……?

【こいし】殺せコロセころせコロセ殺せコロセ殺せころせ殺せコロセころせコロセ殺せコロセ殺せころせ殺せコロセころせコロセ殺せコロセ殺せころせ殺せコロセころせコロセ殺せコロセ殺せころせ殺せコロセころせコロセ殺せコロセ殺せころせ

意味を――

意味を、理解できない。
こいしの口が紡ぐ言葉の、意味を。

私は何を聞いているの? 何が聞こえてるの?
音、こいしの口から湧く黒い言葉の奔流。
聞き違い? 幻聴? だって、そうとしか――

――考え、られない……。

【こいし】――じゃあ。

ピタ、とこいしの声をした呪いの唄が止んだ。
その声は、それまでのソレとは違って、
ハッキリと明瞭に、私の耳に届いた。

何の感情の色もない、無の極致みたいな。

【こいし】もういいや。

無関心を、タール状になるまで煮詰めたような。
そんな、声。

それは、命を放り捨てるような気軽さで。
それは、国を攻め滅ぼすような気楽さで。
それは、世界を滅亡させるように呆気なく。

――怖い。

心の底から、その声の無機質な響きが、怖くて。

まるで、宇宙の終焉に抱かれてるような気になって。

私は、それが怖くて。
怖くて、怖くて、何も考えられなくなって。
声にもならない悲鳴を上げて――

【空】ッ!!

【美鈴】…………っ!

瞬間――

私が銃を構えた瞬間、
美鈴さんが私に向かって踏み込んだ瞬間、
こいしが私の身体から離れた瞬間――

――――ッ!

割れた窓ガラスから飛び込んだ何かが、
コロコロと床を転がる。
それがさとりの足にコツンと当たった途端――

【空】――ッ!?

【美鈴】…………っ。

【燐】にゃあ!?

【さとり】わっ!?

【饕餮】ヒャッ!!?

強烈な閃光がすべてを白く塗りつぶす。
眼の奥がはじけたような痛み。
驚きと衝撃で、何も反応ができない。

ただその場に落ちるように、うずくまる。
身体が動かない。動けない。
眼を閉じても、瞼の裏が灼けるようで。

【???】――空さん。

未だ止まない強烈な光の中、
誰かがそっと肩を叩いて小さく耳打ちしてくる。

誰。聞き覚えのある声。
でも、とっさにそれが誰なのかが判らない。

【???】安全な場所へ誘導します。
こちらへ。

囁きかけてきた誰かが、そっと私の手を引いた。
安全、という甘い言葉に誘われて、
私は反抗さえ思いつかず、引かれるまま進んでく。

視覚は完全に死んでいたけれど、
住み慣れた部屋だ。裏口の方へと
連れられていることが判った。

気配。何人かのヒトが周囲にいるのが判る。
お燐、さとり、こいしの気配も近くに。

そこでようやく、私は思い出す。
私に掛けられた声の主。

ラルバ、と名乗った女の人のことを。

【ラルバ】失礼します。

【空】え、え?
……わっ!

唐突に私の身体が持ち上がる。
ちょうどお姫様抱っこのような体勢になって。

【ラルバ】舌を噛まないように。
――皆、跳べ!

抱えられたまま、フワリと浮遊感。
徐々に潰れていた視力が戻ってきて、
私は自分がどこにいるのかを理解する。

積み立て長屋の屋上。
黒い雨はやんでいた。

【空】ラルバさん……。
どうして?

【ラルバ】理由は後で。
今は急ぎ、アナタがたを保護します。

ラルバさんが小さく呟くように言う。
問答を許さない響きがあって、
私は口をつぐむ。

私を抱えるラルバさんの他にも、
3人の黒装束のヒトが後に続き、
それぞれがお燐、こいし、さとりを抱えていた。

【ラルバ】止まるな! 走れ!

ラルバさんが鋭く叫ぶと同時に、
お燐たちを抱えた3人が走り出す――

――ッ!

【黒装束】ングッ!?

風切り音とほぼ同時に、飛来した何かが
さとりを抱えていたヒトの頭蓋を貫いた。

【さとり】あ……っ!

【ラルバ】モランッ!!

さとりを抱えていたヒトが、
糸が切れたように崩れ落ちる。

抱えられていたさとりは、
しかし、そのまま投げ出されることなく、
フワリと差し伸べられた手の中に落ちた。

――フリフリした可愛らしいワンピース。
長毛種の猫みたく、ほわんとした髪。
そして、ツヤツヤと光沢のある角。

【饕餮】――やっほーぅ!
さとりさん、GETですぅ~!

【こいし】――お兄ちゃん!!

喉も千切れんばかりのこいしの叫びが響く。
抱えられていた彼女が暴れだすが、
黒装束のヒトは必死にそれを宥めていた。

【饕餮】あ、さ~て、さてさてぇ。
美鈴さ~ん、どんどんやっちゃってぇ。
GO! GO! 粛清ですよぉ~。

さとりを羽交い締めにする饕餮さんが、
ニパーッと笑って言う。

饕餮さんの向こう。
私たちの部屋がある積み立て長屋の上。

そこに、美鈴さんが立っていた。
銀色に光るナイフを扇状に携えて。

銀のナイフ。
さとりを抱えていたヒトの
後頭部に深々と突き立つそれと同じ――

【ラルバ】……散開ッ! とにかく逃げろ!

美鈴さんがナイフを持つ手を振り上げた刹那、
ラルバさんが叫ぶ。

投擲されたナイフが突き立つ音。
ラルバさんは私を抱えて、西の方へ跳ぶ。
モランと呼ばれたヒトとさとりを置いて。

【こいし】お兄ちゃんッ! 
お兄ちゃーんッ!!

こいしの叫び声が急速に遠のいていく。
さとりは饕餮さんの腕の中でもがいていたけど、
彼女はニコニコしたまま、さとりを放さない。

【空】ラ、ラルバさん……!
さとりは……っ!?

【空】さとりが、まだ……ッ!

【ラルバ】…………っ。

ギリ、と歯ぎしりの音。
積み立て長屋の屋根から屋根へ、
彼女は目まぐるしい速度で移動しつつ、

【ラルバ】……できません。
商会も、閻魔代行をすぐに
始末するほど愚かではない。

【ラルバ】主の命令は達せられています。
アナタを保護することだけは叶った。
……今のところは。

【空】――え?

思わず聞き返してしまう。

ラルバさんたちの目的。
てっきり、さとりを助けることだと、
そう思っていたのに……?

【ラルバ】主は――
リグル・ナイトバグは言いました。

【ラルバ】“拳銃使いの空だけでも助けろ”、と。
“アイツだけは、絶対に商会に奪われるな”、と。

【ラルバ】閻魔代行が奪われたのは痛手ですが、
我々の目的は、アナタです。
商会に、アナタを処理させないこと。

【ラルバ】――天使となったアナタを。

【空】……っ!

目を見開く。
ラルバさんが言ったこと。
聞き違いじゃない。

この人は知ってるんだ。
私が天使にさせられたことを。
燃え上がる炎の化け物になったことを。

閻魔代行。閻魔のオーパーツ。
チクタクマン。天使。

何かが起きている。
何か、言葉にできない大変なことが。
この世界の裏側で、巨大な何かが蠢いてる。

私は、もうすでに巻き込まれている。
見えない何かのうねりの中に、すでに私はいる。
ラルバさんは私を抱えたまま、西へ西へ進んでいく。

そうして行き着く先は――

蟲妖たちの縄張り。
――蟲群街。

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