【店主】――ハイ、いつもご苦労さん。
また、ご贔屓に。
【空】うん。ありがと。
影男の店主に銀貨を2枚渡して、
2つの紙袋を受け取る。
袋は温かいけれど、どこか油臭い。
酸化した油を含んだポテトフライと、
グリルチキンのセット。
【空】(……いつも思うけど……)
【空】(お燐は、どういう風に思ってるんだろ。
地獄烏の私にチキンを頼むことを)
こんがりと炙られたチキンに、
同じ鳥としてのシンパシー? だっけ?
なんて、感じたことはない。
料理は料理。お肉はお肉。
そして、私は私。
お燐が鳥肉を食べることを、
否定するつもりはない。
でも私は、それをお燐に言ったことがない。
こういうのは、妖怪ならではの難しい話。
気にするヒトは、すごく気にする。
自分と同種の生き物を喰えるか、って。
【空】(例えば、『茹で猫』なんて料理が
あったとして、私はお燐に気を遣わずに、
買ってきて、って言えるかな……?)
【空】(……………………)
【空】(……うん、よく判んないや)
デリケートな話。
立場とか、種族とか、自意識とか。
そういうモノが複雑に絡んだ問題。
それを、小難しいから、という理由で
考えないようにした途端、緑色の嘲笑が
意識の遠いところで響いたような気がした。
――馬鹿にされてるのよ。
舐められてるってこと。
パルスィがここに居たら、
きっとそんな風に言っただろうな。
なんて、どうでもいいことを考える。
本当、心底どうでもいい。
他人の思惑とか、心の機微とか、
賢い立ち回りとか。
この世界にはたくさんのヒトが居て、
その数だけたくさんの思惑がある。
それはほとんどの場合、何にも縛られない。
倫理やルールのない世界は自由だ。
けれど、自由には対価が必要になる。
それが、生存競争という争いの火種。
地下世界で、特にこの無限雑踏街で、
何も考えず生きていくことは、難しい。
油断すれば、すぐに足元をすくわれる。
それは、判ってる。痛いくらいに。
心、擦り潰されるくらいに。
【空】(――けれど、それでも)
【空】(私という奴はどうしようもなく、
賢い立ち回りをすることができないんだ)
変えようと思っても、
持って生まれた性というのは変えられない。
妖怪というのは、ほとんどそんなもの。
本当の私は、何も考えずに生きていたい。
身の危険とか、明日の心配とかとは無縁で、
怯えることなく純粋なままで居たい。
だけど、この世界はそれを絶対に許さない。
弱肉強食という原初の理を引きずって、
今日を生きることすら困難にしてしまう。
賢く生きるためには、
考えなきゃいけないことが多すぎる。
考えすぎれば、頭がグルグルしてしまう。
社会が要求することが、私にはできない。
みんなが当たり前だと思ってることが、
私にとっては、ひどく辛くて苦しい。
そんな私は、搾取されるために生まれたのかな。
誰かの食い物にされなきゃいけないのかな。
私が私のまま、生きてちゃいけないのかな。
パルスィの右眼。
私が考えないようにしていたことを
思い出させた、あの緑色の光。
彼女の言葉。
まるで、後からジワジワ効いてくる毒のよう。
今になって私、こんなにも揺さぶられている。
何も考えない方が楽だと判ってるのに。
多少の不利益なんて知らんぷりした方が、
気楽だなんて判っていたのに。
【空】……………………。
【空】……うるさいな、ここ。
雑踏の喧騒が、私の頭に染み入ってくる。
ガヤガヤ、ガヤガヤ。
落ち着かない。
考えろ、考えろと急き立てられるみたい。
一刻も早く、家に戻りたかった。
雨にも構わず、煙草に火を付ける。
左手で煙草をカバーして。
人気のない路地裏へと足を向けた。
普段は絶対に通らない。
襲ってくださいって言ってるのと、
同じだから。
喧騒と雨の音が遠くなる。
生ゴミの饐えた臭いがして。
【空】…………。
誰かしらの影は見当たらない。
性質の悪いゴロツキも、
遠慮を知らない物乞いも居なかった。
だからと言って、安心はできない。
さっさと通り抜けてしまうに限る。
足早に、暗く細い道を進んでいく――
【空】……っ。
――視線。
誰かが私を視ているのを、肌で感じた。
気のせい? いや、違う。
首の辺りがざわざわする。
私の本能が大音量で警告を発してる。
袋を左手に持ち替えて、銃を取り出す。
背後や物影に目を走らせて、
逐一、それらに銃口を向ける。
誰の姿も見当たらない。
大通りの喧騒が、心細いほど遠くに感じて。
【空】だれ!?
引き金に指を掛けたまま叫ぶ。
壁に背中を押し付けて。
死角を作らないよう、視線を動かし続ける。
誰かが私を視ている。私を狙っている。
そのことが恐ろしくて、息が詰まった。
怖い。はやく、敵を殺したい。
殺して、安心したい。
なのにどこにも、相手の姿がない――
【???】――動くな。
私のすぐ目の前から。
唐突に、それは聞こえた。
誰も。誰も居ないのに。
私の目の前には、
ただ長屋の壁があるだけなのに。
一瞬、思考が固まる。
でもすぐに切り替えて、
声のした方へ向けて引き金を――
【空】(――ッ!?)
――引き金は、引けなかった。
それどころじゃない。
身体が、動かない。
手も足も、指はおろか、視線さえ。
私の身体の一切が、動かせない。
まるで私の時間だけが止まったみたいに。
【空】(どうして……!?
私、何をされて――)
【???】――チク・タク、チク・タク……。
静かな朝の笑い声のように。
穏やかな深夜の歌のように。
声がする。声が聞こえる。
それは歯車の噛み合う音を模して。
この世界の理、すべてを嘲弄して。
――チク・タク、刻み込むように。
――チク・タク、教え諭すように。
――チク・タク、私を嘲るように。
縫い留められた視界に、それは現れた。
――仮面。
仮面を被った誰かが、
空気の中からゆっくりと出現する。
少なくとも、私にはそうにしか見えなかった。
透明から不透明へ。
非実在から実在へ。
黒と白の不吉な仮面が、私を視ている。
【仮面の者】――あぁ。よく芽吹いているな。
結構だ。実に結構だ。
多少の遅延は構わないさ。
【仮面の者】略式裁判は結審した。
――被告、拳銃使いの空。
――判決、有罪。
【仮面の者】これは『赤の女王』の悲願と知れ。
『時計仕掛けの閻魔』の名において、
貴様はここに報いを受ける。
【仮面の者】チク・タク、地獄の再臨を唄え。
イア・イア、嗤う閻魔の採決だ。
己が強欲の限りに、不殺生戒を破った咎人よ。
【仮面の者】――被告を、『強欲なる神の焔』の刑に処す。
なに。このヒト、いったい何を言ってるの。
判らない。けれど、とびきりの悪意だけは、
言葉の端々から臭い立っているのが判る。
身体、動かない。
どんなにもがこうとしても、指先さえ。
逃げなくちゃ。殺さなきゃ。そう、思うのに。
――罪深き者の元へ、天使は来る。
――断罪のために。
パルスィの言葉が過る。
このヒトが、そうだと言うの?
私を裁きに来たと、そう言うの?
【空】(だとしても……)
【空】(どうして、彼女は――)
仮面の者が、コートの内側から何か取り出す。
チク・タク、唄うように。
チク・タク、嗤いながら。
……仮面。
それは、仮面だった。
禍々しい笑みを浮かべた、白い面。
仮面の者が面から手を離す。
面はひとりでにフワリと浮かび上がり、
まるで私を見物するかのように滞空する。
【空】(――動け……動け動け! 私の身体!)
【空】(何だか判らない、けど……アレは嫌だ……っ!
すごく嫌な感じがする……!)
【空】(怖い、怖いよ……っ!
誰か、助けて……誰か……っ!)
――あぁ、私は判っているはずなのに。
私が助けを呼んでも、
誰も助けてなんてくれないと、判っているのに。
それでも、私は声にならない声で、
言葉にならない言葉で助けを求めていた。
強く、強く、お願いだから、誰か、と。
【仮面の者】さぁ、刑を執行しよう。
いま。この場で。
せいぜい、厄災を振り撒いてくれ。
【仮面の者】箱庭の相似よ。人間の信仰の切れ端よ。
今この瞬間より、在るべき姿に回帰せよ。
【仮面の者】黒く、白く、焼き尽くせ。
秩序など、何の意味もない。
その恐れにも、何の意味もない。
【仮面の者】例えば、燃えてしまえば、何の意味もない。
【仮面の者】なぜなら――
喉を鳴らすような笑い声を出した仮面の者が、
舞台に上った役者のように手を広げる。
それに呼応するみたく、滞空していた仮面が、
グルン、と裏面を向けてきた。
【仮面の者】――ここは、辺獄なのだから。
静かな口調で仮面の者が言葉を紡いだ途端、
滞空していた仮面がものすごい勢いで
私の顔目がけて迫ってきて――