Coolier - 新生・東方創想話

緋焔のアルタエゴ_第一章

2024/08/23 18:12:35
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【パルスィ】――殺し屋さん?
さすがに起きて。そろそろ、店じまいよ。

ゆさゆさと肩を揺すられて、
私はボンヤリと、
自分が目を覚ましたことを認識する。

【空】ッ!?

ガバ、と身体を起こす。
とっさに右手がホルスターに伸びたけど、
あるはずの銃がそこには無かった。

サッと顔から血の気が引く。
コトン、と硬質な音がした。
カウンターに、私の銃が置かれた音。

【空】な――!?

【パルスィ】そう来ると思ったから、
預かってただけよ。
何もしてないわ。

パルスィが何かを見透かしたみたいに
スゥと目を細めて、微笑んでくる。
私は、自分の前に置かれた銃に目を落とす。

彼女を見つめたまま、銃を手に取った。
フレームの動作、シリンダの回転、
弾丸を抜いてから、引き金の動作の確認。

全部、いつも通り。何もおかしくない。
私は額に滲んだ冷や汗をコートの袖で拭い、
銃をホルスターに仕舞いながら、

【空】………………。

【空】……二度と、銃に触らないで。
次は、無いから……。

【パルスィ】あらあら、怖いわね。
それ、銃って言うの?
まぁ、名前はどうでもいいけど……。

【パルスィ】でも、他に安全な起こし方が?
アナタが私に危害を加えないって、
きっとアナタは保証してくれないでしょ。

【空】…………。

プイ、とそっぽを向いた彼女の横顔を見て、
私は頬を掻きながらため息を吐く。
返す言葉がなかった。

いつの間に寝ちゃったのかも思い出せない。
蓄音機の演奏はとっくに終わってた。

張り詰めたような沈黙が耐え難くて、
私はポケットから煙草を取り出す。
咥えたそれに火を付けてから、

【空】……ゴメンなさい。

【パルスィ】謝っちゃうんだ。びっくり。
それって、本当に私を殺してたかもってこと?

【空】………………。

【パルスィ】またお店に来るのは良いけど、
次は絶対に寝ないで頂戴ね。

ハァ、とパルスィが呆れた顔でため息を吐く。
言い返せない私は、置いてあった灰皿で
煙草を消して、

【空】ありがと、優しいね。
それじゃ――

【パルスィ】待って。

席から立って帰ろうとすると、
有無を言わせない口調で止められる。

私が固まっていると、パルスィがまた、
カウンターの奥に引っ込んだ。

かと思うと、すぐに戻ってきて、

【パルスィ】ミートパイを作ったわ。
何も飲み食いしないで帰るつもり?
そうはさせないわよ?

【パルスィ】ねぇ、良いでしょ?
少しくらい、落として行ってよ。
悪くないでしょ? 羽振り。

コトン、とミートパイのお皿が
カウンターに置かれる。
私は彼女の目をジッと観察しながら、

【空】もう、店じまいじゃないの?

【パルスィ】そうよ?
だから起こしたんじゃない。

【パルスィ】それとも、食べずに帰る?
せっかく作ったのに?
勘弁してちょうだい。

【空】あ、うん……。
そうだね、うん。

【パルスィ】お酒は? 飲むでしょ?
良いのを流してもらってるんだけど、
興味ない?

【空】お酒……うん、飲みたいな。
えっと、これで足り、る……?
今日の報酬の全部なんだけど……。

お燐からもらった銀貨3枚を、
カウンターの上に置く。
微笑んでいた彼女の顔が、強張った。

――あぁ、やっぱり。

【空】……足りない、よね……。

怒られるのかな。そう思った。

判ってる。本当は私にだって判ってる。
銀貨3枚なんて、大金じゃない。
子どものお小遣い程度のはした金。

ただ、いつもよりは多いというだけ。
それで、分不相応な夢を見ちゃったんだ。

満足にお酒を飲んで、
天然モノのお肉も食べたいなら、
銀貨10枚か、金貨1枚はないと話にならない。

それが現実。
地底世界の現実で、私の置かれた現実。
きっと彼女は、怒り始める――

【パルスィ】……しい。

【空】――へ?

【パルスィ】何でもない。
銀貨3枚ね。良いわよ。
何でも好きなのを飲ませてあげる。

【空】え、でも……。

【パルスィ】なによ。
小銭だって判ってるんじゃない。
なら、最初からそう言えばいいのに。

【パルスィ】安くするって言ったの、私だもの。
座って。遠慮しないで。

不機嫌な顔になったパルスィが、
ため息と一緒に押し出すみたく言う。
私はおずおずと椅子に座りなおした。

【パルスィ】素直でよろしい。
急かさないから、ゆっくり食べて。

【空】どうして親切にしてくれるの?
私、本当にもうこれ以上持ってないよ?

【パルスィ】さて、どうしてでしょう?

彼女がオーバーな仕草で肩をすくめる。
お酒の並んだ棚に背中を預けて、
引き出しからフォークを取り出して、

【パルスィ】ま、助けてもらったからね。
それにアナタって……うん。

【空】なに?

【パルスィ】ずいぶん違うのね。
噂と。

パルスィがコトン、とフォークを置いた。
私はそれを手に取って、彼女の顔を窺う。

視線、交わらない。
彼女はどこか遠くを眺めてるようで。
大理石の彫像みたく、黙りこくって。

【空】えと、いただきます……。

返事はなかった。
そんな気はしていたので、
私も黙ったままミートパイを口に運ぶ。

【空】(美味しい……)

これ、合成モノが使われてない。
どんなに調理しても消せない薬臭さを
まったく感じないから、すぐに判った。

モグモグと噛むたびに、お腹が空いていく。
久しぶりに、本当に美味しい食事。
私は夢中でそれを頬張って。

【パルスィ】――お酒。

【空】ふぇ?

【パルスィ】何が飲みたい?
どういうのが好み?
キツいのとか、甘いのとか。

【空】あ、うん……。
甘いのがいいかな。

【パルスィ】そ。

頑なに視線を交わさないまま、
頷いた彼女がテキパキと用意を始める。

銀色のシェーカーを取り出して。
酒棚からお酒をチョイスして。
シェーカーに氷を入れて。

洗練された滑らかな動き。
思わず見入ってしまう。
軽やかなシェイクの音が鼓膜をくすぐる。

トロリとした液体をグラスに注いだ彼女が、
そこに至って初めて私の顔を見る。
ジッと。視線で私を射殺すみたく。

【パルスィ】カルーアミルクです。

【空】あ、りがと……。

お礼の言葉も聞くか聞かないかのうちに、
彼女はプイと顔を逸らす。

取り付く島もないって感じ。
わざわざ私に背を向けて、
シェーカーを洗う彼女を眺める。

【空】(怒ってる?
うん、怒ってる……。
あれ、でも……?)

私の持ち合わせが足りなくて怒ってるなら、
そもそも料理やお酒なんて出さないはず。

助けたとか助けないとか、関係ない。
自分の利益にならないのなら、
さっさと切り捨てちゃうのが賢い生き方。

それをしない彼女は、
つまりお金が目的じゃないってこと。

パルスィは怒ってる。
でも、何に対しての怒りなのだろう。
それが判らなくて、混乱する。

カラン、とグラスの中の氷が鳴る。
軽やかに。
早く飲んで、と急かされてるみたい。

フォークを置いて、グラスを手に取る。
ヒンヤリとした感触が伝わって。

クイ、と軽く煽る。
トロッとした甘さ。
少しビターな香り。

【空】(――美味しい。
これも、すごく美味しい)

一瞬、何もかも忘れてしまうような。
そんな、恍惚とした味わい。
目をつぶって、お酒の味を堪能する。

そのまま、一気に飲み干してしまった。
最後の一滴まで、舌の上に流しこんで。

フゥ、と大きく息を吐いて目を開く。
パルスィが物珍しそうに、私を視ていた。

【空】……なに?

【パルスィ】別に。

【空】気になるんだけど。

【パルスィ】気にすることじゃないわ。

【空】………………。

【空】……美味しいよ。すごく。
お酒も、パイも。どっちも。

【パルスィ】ふぅん。それは良かった。

当てが外れてしまったみたい。
パルスィは特に表情も変えず、
サラッと無感情に告げてくる。

【空】(…………)

【空】(……………………)

【空】(……居心地、悪い)

少なくとも私は嘘を吐いてない。
お酒も、パイも、
ビックリするくらい美味しい。

こんなに美味しいモノ。
本当は銀貨3枚なんかじゃ食べれない。
そのことにも、すごく感謝してる。

だけど。それはそれとして。
パルスィのこの態度。
流石に私だって、気に障る。

【空】あのさ。
何に怒ってるの?

グラスでカウンターを叩く。
割れない程度に。
私が怒ってることを示す程度に。

私は良い子じゃない。
多少のことを笑って流せるほど、
大人でもない。

パルスィは動かなかった。
ただ、ほんの少し目を広く開けただけ。
私は彼女の瞳を睨む。緑色のそれを。

【空】ご飯も美味しい。お酒もすごく。
なのに、そんな風にされたら、
ぜんぶ美味しくないよ。

【空】何なの? やっぱりお金?
私が思ってたより持ってなかったから?

【パルスィ】あら、判ってるじゃない。

彼女がフン、と小馬鹿にするみたく
鼻で嗤ってから言い放つ。
口紅の塗られた唇も、怪しく歪めて。

なのに、眼だけはちっとも笑ってない。
もしかしたら私以上に、怒りの感情を湛えて。
私は一瞬、その眼光に言葉を詰まらせる。

【パルスィ】アナタだって、
本当は判ってるでしょう?
言っとくけど私、騙されないから。

【空】は?
なに言ってんの?

【パルスィ】アナタの扱いの不当さよ。
殺し屋さん。

鋭いナイフみたく、
彼女の言葉が私に切り込んでくる。

あぁ、食らったな。そう感じた。

二の句も継げない。何も言い返せない。
そんな、どうしようもなく正確な一撃。

彼女がカウンターから出てくる。
瞬きひとつせずに私を見つめたまま。
私の向こう側に居る誰かを睨みつけて。

誰か? 違う。私は知ってる。
誰なのかなんて判ってる。
今パルスィが本当に怒ってる対象について。

……でも。

【パルスィ】……ねぇ、どうして?

【パルスィ】どうして、アナタは、そうなの?

氷のように冷たい声で、パルスィが言う。
薄明かりが彼女の表情を隠して。

どんな顔をしているの。
彼女の心を、表情から察することはできない。
彼女の緑色の瞳だけが、妖しく光って。

【パルスィ】悔しくないの?
ヒトを殺して、自分の命を危険に晒して。

【パルスィ】それで貰えるのが、
子どものお小遣いみたいなはした金?
ハン……笑えるわ。

【パルスィ】馬鹿じゃないの?
判るでしょう? 判ってるんでしょう?
自分が搾取されてるんだって。

【パルスィ】どうして?
見返しなさいよ。踏みつぶせば?
その銃で、反旗を翻しなさいよ。

【パルスィ】――アナタには、欲望ってモノがないの?

黙ったまま、彼女の怒りを受け止める。
いや、違う。その矛先は私じゃない。
そのことが判るからこそ、私は戸惑う。

誰も、何も言わなかった。
お燐はもちろん、商会のヒトも。
私が今の生活に甘んじていることに対して。

どうでもいいからだ。
むしろ、都合がいいからだ。
私が搾取され、利用されている方が。

世の中っていうのはそういうモノ。
誰も彼も、自分のお金のこと以外、
気にも留めない。それが自然な姿。

だから、彼女が怒る理由が判らなかった。
パルスィが怒ってみても、
彼女に得があるわけじゃないのに。

【空】……よく、判んないな。
不思議なことを言うね。アナタは。

【空】アナタにとっては、
どうでもいいじゃない。
私の待遇が良くても悪くても。

【空】私、馬鹿だから……。
利口に、ずる賢くなんて、
生きれないから……。

【パルスィ】別に、同情なんかじゃないわ。
勘違いしてたら申し訳ないけど。

張り詰めていた空気が、ほんの少し弛緩して。
それまで止まってた時間が、
動き出したような気配を感じた。

私はそれで、彼女が笑ったのだと悟る。
いや、違う。笑った、というよりは嗤ったのだ。
私の返答を聞いた彼女は。

【パルスィ】えぇ、アナタの言う通り。
どうでもいいわ。アナタの幸も不幸も。
そこまで、アナタに入れ込んでないし。

【パルスィ】ただ、気に入らないだけ。
妬ましいと思うだけよ。
アナタを使ってる奴が。

【パルスィ】高みの見物を決め込んで、
アナタの仕事の上前を撥ねている。
自分は何の苦労もしないでね。

【空】お、お燐はそんなんじゃないよ!

反射的に椅子から立ち上がる。
私よりも背の低い彼女を、見下ろして。

【空】お燐は、私の友達で、恩人で……!
私が生きていく方法、教えてくれて……っ!

【パルスィ】本当にそう思ってる?
心の底から感謝してるの?
だから、ピンハネされてもいいって?

【パルスィ】友達? 恩人?
そんなの、搾取の言い訳にはならない。

【パルスィ】判ってるでしょう?
アナタたち、対等な関係じゃないのよ。
アナタは一方的に食い物にされてるだけ。

【パルスィ】アナタが友達と思ってたとして、
お燐はアナタをどう思っているのかしらね?

ズイ、とパルスィが身を乗り出すようにして、
私の眼を覗き込んでくる。

彼女は笑ってる。少女のように。
彼女は嗤ってる。悪魔のように。

緑色。
翡翠のように輝く、彼女の瞳。

私は何故か、ひどくゾッとした。
緑色の眼。綺麗な輝きを放ってるのに。
どうしてか、仄淡いそれが禍々しく見えて。

眩暈にも似た気分。
ユラリと私の中の何かが蠢く。
パルスィの瞳に浮かされたみたく。

【パルスィ】――ま、今はどうでもいいんだけど。

不意にパルスィが視線を切った。
その瞬間、私の脳内から排除されてた
世界の音や光が、一気に流れ込んでくる。

情報の濁流に押し流されるみたいに、
私は椅子に座り込む。

さっきの胎動。
お腹に手を当てて、行方を探る。
私が知らない、私の感情の。

【空】……何をしたの? 私に。

息を落ち着かせて、パルスィに問いただす。
涼しい顔で、空になったグラスを洗う彼女に。

彼女は手を止めない。
私や、私の境遇になんて、
まるで興味を無くしたとばかりに。

【パルスィ】余計なこと。
余計だから、やめたの。
気にしないで。単なる私のエゴよ。

彼女がグラスを拭きながら、早口で言う。
もう聞かないで、と言われてるみたいだった。

お腹に当てていた手を退ける。
今は、身体にも心にも違和感はない。
いつも通りの私。変な後遺症もなく。

気分をリセットしようと、煙草に火を付ける。
体調を知るとき、煙草は判りやすい基準になる。
いつもと味が違えば、私の何かがズレている。

煙を大きく肺に導いて、吐き出す。
いつもと何も変わらない。
それを確認した私は、パルスィを睨んで、

【空】単なるエゴだって? 良い趣味だね。

【パルスィ】趣味じゃないわ。
存在意義。私、これでも橋姫だもの。
嫉妬の妖怪。まぁ、一応ね。

【空】なんで一応?

【パルスィ】何でもないわ。こっちの話。

【パルスィ】それより、殺し屋さん。
アナタ、どうしてそこまで
無欲で居られるの?

【パルスィ】搾取されてるのが判ってるくせに。
その気になれば、すぐに変えられるくせに。
どうかしてるわ。

【空】どうしてって……。
……だって、どうでもいいから。

【パルスィ】まるで死人の意見ね。

【パルスィ】生きてる限り、欲求は肥大化する。
むしろ膨らんでいく欲望を持つモノを、
生命と呼ぶの。妖怪の定義は置いとくとしても。

【パルスィ】もっとお金が欲しい。
もっと安心して生活がしたい。

【パルスィ】昨日よりも今日。
今日よりも明日。
もっともっと、他の誰かより……。

【パルスィ】そんな最低限の欲望すら
希薄なアナタは、どうして生きてるの?
アナタが、今日を生きる理由って何よ?

【空】笑っちゃうくらい単純だよ。

【空】昨日、死ななかったから。

ミートパイの最後の一片を口にして、
フォークを皿の上に置いた。

煙草を咥えながら席を立つ。
パルスィは何の表情も浮かべず、
ジッと私を見ていた。能面みたいに。

【空】ご馳走様。それじゃ、また。
今度は変なことしないでね。

【パルスィ】あ、待って。
ちょっと大事な話。

グラスを置いたパルスィが、
ちょっとビックリするくらいの速度で
私に歩み寄ってくる。

私は彼女の無表情を見つめたまま、
煙草の煙を吐き出して、

【空】大事な話?

【パルスィ】――『天使』。

ポツリ、と彼女が呟く。
何かの聞き間違いかと思った。

私が聞き返そうとすると、
パルスィが私の口から煙草を引っ手繰る。

そのまま、彼女がそれを咥えて吸い込む。
フゥ、と私に紫煙を吐きかけながら、

【パルスィ】天使の存在を、アナタは信じる?

【空】は?
い、いったい何の話なの……?

【空】信じるも、なにも……。
天使って、なんなの……?

【パルスィ】御使い。神の意志を伝搬する者。
まぁ、知らなくても当然よね。
地獄だったこの世界には、縁遠いわ。

【パルスィ】――罪深き者の元へ、天使は来る。
断罪のために。

【パルスィ】秩序なき世界に、咎を与えるため。
神の理なき地に、裁きをもたらすため。
地獄を地獄たらしめるため。

【空】な、何を――

何を言ってるのか、判らない。
どんな意味があるのかも、
どうして、そんなことを言うのかも。

濃密な煙草の煙が、パルスィの顔を覆う。
文字通り、煙に巻こうとしてるみたく。

何も判らない。
なのに、パルスィの語り口に寒気を覚える。
鬼気迫るというか、普通じゃないというか。

私が何も言えないでいると、
彼女が煙草を灰皿の上でもみ消した。
クスクスと、少女染みた笑いを浮かべて、

【パルスィ】――っていう、噂話。
鬼寄街で、いま一番ホットな奴ね。
無限雑踏街じゃ、誰も知らないけど。

【パルスィ】アナタの仕事っぷり、
この街じゃ、かなりの噂になってるわ。
殺し屋。命を金に換えるヒト。罪深き者。

【パルスィ】だから、アナタの前にも
天使が現れるかもしれない――
なんてことを、言いたくってね。

【空】そんなこと、言われても……。
その天使? ってヒトは、どんなヒト?
断罪なんて、どうして……?

【パルスィ】そんなことが判ってたら、
噂話だなんて言わないわよ。

【パルスィ】鬼寄街の厄介者が死んだ。
およそ、普通じゃない死に方で。
少なくない妖怪が、巻き込まれて。

【パルスィ】そんなことが起きてから、
誰からともなく、その噂が囁かれたのよ。
天使を見た。神の裁きを見た……って。

【空】…………。

私は新しい煙草に火を付けて、
頭の中のモヤモヤを、
煙と一緒に吐き出そうとした。

煙は、口から出ていった。
だけど、モヤモヤは残ったまま。
彼女の言葉を、うまく消化できなくて。

【空】……どうして、そんな噂話を、私に?
警告? それとも、脅かしたいの?

【パルスィ】さぁ、どうしてかしらね?
アナタが気に入ったから、とか。

【空】……冗談?

【パルスィ】試してみる?

トロン、と誘うように目を細めて、
彼女がシャツのボタンを1つ外す。

瞬時に、どす黒い気分になる。

吸いかけの煙草を、灰皿へ押し付けて。
ポケットの銀貨をカウンターに投げて。
私は彼女に背を向けた。

【空】帰る。

【パルスィ】あら、怒った?

【空】怒った。

【パルスィ】そう。それは残念。

【パルスィ】また来てね。
今度はもうちょっと、
気に入るサービスを考えとくから。

振り返らないまま、店から出る。
叩きつけるみたいに扉を閉めて。
私は片手で口元を抑えていた。

【空】…………っ。

こみ上げる。吐き気。震え。
身体の芯から凍っていくみたい。

せり上がってくる。
抗う。必死に。溢れないように。
静まって。落ち着くの。息を、吸って。

嫌な汗をかいていた。
じっとりと、髪の生え際が濡れる。
なのに、身体はゾッとするほど冷たい。

ドク、ドクン。
動悸。耳元で。血管、収縮して。
脈動。おぞましい。嫌悪感。嫌悪感。

銃に手を伸ばす。
縋るように、グリップを握りしめる。
息を小さく吐き出す。ここには誰も居ない。

【空】――これが、銃だ……。
これが、鋼だ。これが、力だ……。

【空】……引き金を引く。お前は死ぬ……。
誰も、抗えない……誰も、逃げられない……。
カミサマからの贈り物……。

【空】これが銃だ……。俺だけの、力だ……。
特別な力だ、生死を自由に扱う力だ、
俺だけのオーパーツ、俺だけの武器……。

呟く。囁く。ブツブツ、ブツブツ。
言い聞かせるように。
刻み込むように。ねじ込むように。

怖くない。これさえあれば、何も怖くない。
誰も逆らえない。誰だって敵じゃない。
そうでしょう? そうだったでしょう?

さっきのは、ただの冗談。
よくあること、ちょっと大人なジョーク。
それだけのこと。それだけのこと。

獲物じゃない。私は獲物じゃない。
パルスィだって、きっとそう思ってない。
平気。心配ない。あのヒトは女。男じゃない。

銃を仕舞う。煙草に火を付ける。
吸って、吐いて。何度も。無心に。
せり上がってたモノが、降りていく。

【空】…………はぁ。

雨が降っていることに気が付いた。
蒸気の雲が降らせる、灰交じりの黒い雨。

咥えた煙草を捨てて、雨の中に歩み出す。
コートのポケットに両手を突っ込んで。
顔を叩く粘性の雨が、ひどく鬱陶しい。

通りには、誰も居ないようだった。
歓楽街の騒ぎも雨に阻まれて、聞こえない。
静かだと思った。ようやく、落ち着いてきた。

嫌いだ。大っ嫌い。
ゴミ溜めのようなこの街の中でも、
情欲の気配ほど、おぞけが走るものはない。

下卑た視線を向けてくる男の両眼。
だらしなく緩んだ口元から垂れる、
オスの本能が混じった荒い呼吸。

それらを避けて生きるのは、簡単じゃない。
私は女だから。どうしようもなく、女だから。
まるで呪いみたく、私はそれから逃げられない。

だから、私は私自身のことも嫌い。
生まれてこなければよかった、って、
何度、泣きながら思っただろう。

【空】(だけど――)

【空】(……まだ、私は、生きてる)

コートの内側の銃に触れた。
これを使ってする仕事には、
男も女も関係ない。

女であることを求められない。
女であることを切り売りしなくていい。
私が手に入れた、この世界で生きる方法。

銃の引き金を引く。相手は死ぬ。
私の世界は、それだけで済んでいた。
淫靡な大人の空気とは無縁で居られた。

【空】(……………………)

さっきのパルスィの顔が脳裏を過る。
やっぱり、私の心はざわついた。
冗談だったに違いない、と判ってても。

ざわつく。心が暴れそうになる。
昔のことを思い出しそうになって。
まだ、力のなかった時の私を――

【???】――こっち来いって! オラ!
暴れんじゃねぇよ!!

【???】嫌だ! イヤッ!! 放してよぉ!
い、痛い、痛い! やめてくださいッ!!

【???】うるせぇ! 騒ぐんじゃねぇよ!
ぶん殴られてぇのか!? あぁ!?
売り物にならなくなんだろうがッ!!

俯かせていた顔を上げる。
前の方にあった路地から、
それは聞こえてきた。

1人は、野太い男の声。
もう1人は、小さな女の子の声。

【空】――っ。

何も考えず、反射的に路地へ駆け寄る。
路地の角の前に飛び出すと、
2つの人影が見えた。

粗末な服を着た大柄な男と、
その男に腕を掴まれて、
路地の奥へと連れられる女の子。

小さな女の子は、
弱々しい悲鳴を上げながら、
腕を引っ張る男に抵抗している。

瞬間、思考が止まる。
頭にノイズが走った。
耳鳴り。刺すくらいに、強く。

臭い。酒。白粉。唾液。鋼鉄。精液。

――やめて。

感触。這う舌。掴まれる。痛み。穿たれる。

――触らないで。

――気持ち悪い。

流れる。涙。愛液。鼻水。血液。

――痛い。

――痛い。

――痛い、痛いッ!!

――助けて、助けて、誰か、助けて――

一瞬の衝撃。電撃みたいな。
過去も現在も綯い交ぜになって。
思考が、真っ白になる。

時間が、ギュッと凝縮された感じ。
見ている光景が、ゆっくりになった。
男の怒声も女の子の悲鳴も遠くなる。

腕。掴まれて。引きずられて。
泣きながら、抵抗して。
なのに私の声、誰も聞いてくれなくて。

引きずられる女の子が後ろを向く。
路地の入口に居る私を、見た。
――私と、目が合った。

大きな瞳に、涙を滲ませた女の子。
掴まれた腕を懸命に引っ張って。
私を見て、耐え切れず涙を零して。

少女が、私に何かを叫んだ。
耳鳴りと狂った時間間隔のせいで、
彼女の声は聞こえない。

だけど。

――だけど。

少女が、何を言っているのか。
偶然居合わせた私に、何を言ったのか。
私は、私には、痛いくらいに伝わった。

――助けて。

【男】――ぎぃやあああああああああああッ!!?

男が上げた悲鳴で、我に返った。

無意識、だった。
私は銃を手にしていて、
銃口から硝煙が揺らめいていた。

男の腕から、血が流れ出ている。
私の知らない少女を掴んでいた腕。
地面にへたり込んだ彼女が、私を見てる。

【男】だ、誰だよチクショオオォォッ!!?
痛ぇ、痛ぇよおおおおおッ!!

穴の開いた腕を掴んで、
男がこちらに振り返る。
赤い顔をした、大猿の妖怪だった。

私は引き金を引く。
大猿の足を右、左と順に撃ち抜いた。
男は二度、短い悲鳴を上げて崩れ落ちた。

【空】――ふふっ。

馬鹿みたいな動き。
笑いが、こみ上げてくる。

銃を構えたまま、路地に入っていく。
女の子の横を通り過ぎて、
倒れて呻いている大猿を見下ろした。

うつ伏せに転がる男を、
つま先で蹴って仰向けにする。
泥で汚れた男は、泣いていた。

【男】な、何だってんだよぉ……!
お、お前、何なん――

【空】うるさいな。

男の震える口元を踏み付ける。
そのまま、男の身体に銃口を向ける。
男にも、よく、見えるように。

シリンダーに残っていた3発分の弾丸を、
男の下腹部に連射する。
私のブーツの下で、くぐもった悲鳴が上がる。

【男】んん~~~~ッ!!
んぐぅうううううう~~~~ッッ!!!

【空】死ねないね。
まだ、死ねない。
即死できないとこだもんね。

ゴポ、と男の口元から血反吐が出る。
私は笑っていた。クスクスと笑っていた。
歌でも歌おうかな、ってくらい楽しかった。

シリンダーを開けて空の薬きょうを落とし、
新しい弾丸を装填する。
痙攣する男を踏みつけたまま、口笛を吹く。

元通りに銃を嵌め込む。
足元の男はまだ生きてるけど、
白目を剥いて気絶寸前な様子だった。

【空】ほら、しっかりしなよ。
男でしょ。男のヒトなんでしょ。

男の口元から足を降ろして、
側頭部を思い切り蹴飛ばす。
男は呻き声をあげて、また血を吐いた。

ゾクゾク、と気持ちいい震えが
私のお腹の中で渦巻いていた。
それが、嫌な記憶を洗い流してくれる。

私は強い。強くなった。
これが銃だ。これが鋼だ。これが力だ。
男の汚らしい欲望も蹂躙できる、強さ。

蹴飛ばした男が、左手でお腹を押さえながら
もぞもぞと芋虫みたいに逃げようとする。
悲鳴にもならない声を、口にしながら。

【空】わぁ、大変だ。逃げられちゃうよ。

ゾクゾクの収まらないお腹を抱えて、
私は笑いながら、おどけて言う。

銃を構えて、ワザと男の身体を外して撃つ。
銃声が響くたび、男がヒィヒィと泣いた。
惨めだ。なんて惨めなんだろう。笑える。

ゆっくり歩いて男に追いつく。
今度は後頭部を踏みつけてやった。
哀れな声を出して、男が血の泡を吹く。

【空】命乞いしてよ。
助けてって、叫んでみせて。
とりあえず、謝ってみよう?

【空】できるでしょ? 男だもんね。

【男】……か、かか…………。
ど……ど、して……こん、な……。

【空】あ!? 舐めてんのか!?
俺が、いつそんなこと聞いた!?
耳腐ってんのかよテメェ!!

【男】ひ、ひ、ぐぅ……うぅ~~ッ……。

【空】泣いてんじゃねぇッ!!
イラつくだろーがボケ!!
俺の機嫌を損ねてんじゃねーよ!!

【空】オラ! 命乞いしろってんだよ!!
さっさとやれっつってんだろ!?
ブッ殺すぞ!! カスが!!

湧き上がった怒りをブチまけるように叫ぶ。
泣いてんのがムカつく。
言うことを聞かねぇのが腹立たしい。

虫けらが。
言われたこともできねぇのは虫けらだ。
ゴミ以下の害虫だ。生きてる価値もねぇ。

【男】うぅ、うぅ~~~……ッ。
も、やめ、て……ぐ……。
お、れが……なに、を……。

【空】…………………………。

【空】――もういいや。
死んで。

すぅ、と怒りが収まってきた。
というよりは、萎えちゃった。
興奮の渦が引いて、頭が冷めた。

踏みつけていた頭に引き金を引く。
シリンダーが空になって、
カチカチと弾切れの音がするまで。

男の頭に幾つかの穴が開いて、
動かなくなる。悲鳴も聞こえない。
何回か踏みつけたけど、ピクリともしない。

【空】汚れちゃった。

生臭い血の付いた手を擦る。
無意識に煙草に手が伸び掛けて、
雨が降っていることを思い出した。

空になったシリンダーに、弾を込めなおす。
弾を無駄遣いするなって、
お燐に怒られるんだろうな。

気分は落ち着いていた。
嫌な気分も、良い気分も。
死体に乗せてた足を退けて、息を吐く。

【少女】――あの……。

背後から躊躇うような声がして、
私は銃を握ったまま振り返る。

男に連れ去られそうになってた女の子が、
まだそこに座り込んでいた。
私のことを、不思議そうに見上げてる。

【空】……あぁ、居たんだ。

とっくに逃げてると思ってた。
いや、そうじゃない。
少女の存在を、私は忘れてた。

ずっと、私を見ていたんだろうか。
それはそれで、居心地が悪い。
私、興奮して何言ったか覚えてないし。

【空】えっと……。
助けて、良かったのかな。
ちょっと私、機嫌が悪かったから……。

【少女】泣いてる?

【空】え?

反射的に、目の辺りを触る。
雨のせいでよく判らないけど、
泣いてはない、と思った。

【空】泣いてないよ。

【少女】こいし。

【空】なに?

【こいし】名前。私の。
こいし。古明地こいし。

こいしと名乗った少女は、
まるで人形みたいな無表情だった。

変な子――いや、よくあることだ。
嫌なことを経験し過ぎると、
表情の作り方なんて忘れちゃう。

【空】そっか。
私は、空。

【こいし】うつほさん。
……さっきのも、空さん?

【空】……何のことかな。
私は、ずっと私だと思うけど……。

【こいし】――けて。

【空】は?

【こいし】気を付けて。
其は御印。
有り得べからざる可能性の具象。

【こいし】御印は持ち主の罪を加速させる。
罪が罪を食い合い、欲望が推進する。
蔓延る鋼の全てに、その意志が宿ってる。

【こいし】唄ってるのよ。チクタク、チクタク。
嗤っているわ。イア、イア。
穢れよ、咎持つモノよ、我が祝福を受けよ――

【空】…………。
……なに言ってるのか、ぜんぜん判んないよ。
もう、壊れちゃってるのかな……?

【空】こいしちゃん、だっけ?
お家はどこ?
お父さんや、お母さんは?

ここまで支離滅裂だと話が通じないかも、と
意味不明な言葉に困ってしまった私は
少女の目を見ながら優しく尋ねてみる。

すると少女は、虚ろな瞳に一瞬だけ、
感情らしき光をサッと走らせて、

【こいし】居ない。
お家も、ない。

【空】…………。
――そう。

あぁ、私と同じだな、と思う。
生きていく手段もなくて、
守ってくれるヒトも居なくて。

それがどんなに絶望的なことか。
私は知ってる。痛いくらい、知ってる。

生きてることが嫌になるんだ。
生まれてくるんじゃなかった、って思う。

何もかも憎くなって、
そのうち、何にも感じなくなる。
何をされても、ジッと耐えるだけ。

どんなに耐えたって終わらないし、
けっして報われることなんかないのに。

【空】私と来る?

さっきまで銃を握っていた手を、
座り込んだままのこいしに差し伸べる。

もちろん、私に深い考えなんかない。
ただ、このまま放っておけば、
彼女がどうなるのかは、判ってた。

この世界は地獄じゃなくなった。
だけどそれは、是非曲直庁の
偉いヒトたちが居なくなっただけのこと。

責め苦を受ける罪人も居なくなった。
でもそれは罪人の代わりが、
弱者になっただけで、何も変わらない。

規律がなくなった。罪も罰も消えた。
けれどそこに残されたのは、
希望でも自由でもなかった。

地の底の世界は、この世界は、
地獄であることを、やめられない。

【こいし】空さんは、静かだね。

そう言うと、こいしは弱々しく微笑んだ。
誉め言葉なのかどうかも判らないけど、
彼女は私の手をキュッと握った。

こいしの手は、仄かに温かかった。

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