【燐】――はーぁ、やれやれだねぇ、ホント。
石鹸でこいしの頭を洗いつつ、ため息。
何だってあたいは、こんなことしてんだか。
1人で風呂にも入れないガキンチョ。
面倒見てやったところで、一銭にもならない。
保護者が金持ちであることを祈るばかりだ。
もちろん、打算とはいえ、アテはある。
お空のお馬鹿は気付いちゃいないようだが、
この嬢ちゃん、けっこういい服着てたんだ。
だから、孤児ってことはないだろう。
きっと迷子かなんかさ。
どっかでコイツの親御さんが探してる。
なんで、お空と交わした契約が満了するのも、
そんなに遠い話じゃあない。
それが見込めてなきゃ、誰が契約なんぞ。
……にしても。
【燐】(……なんだか、薄っ気味悪い子だねぇ)
喋ろうともしないばかりか、表情さえ変わらない。
人形だと言われたら納得しちまうくらいだ。
いったい何があれば、こうなっちまうのやら。
【燐】(もしかして、
どっかの高級娼館の商品とか?)
【燐】(そうだったら、面倒さねぇ。
傷でも付けりゃ、いくら吹っ掛けられるか……)
【燐】(……何にせよ、コイツの身請け元から、
いくら搾り取れるか、考えとかないとね)
なんて頭の中で算盤をはじきつつ、
泡だらけになっていたこいしを、
シャワーで洗い流してやる。
身体に傷跡はない。
それだけで、コイツがどれほど
丁重に扱われていたかが判った。
金貨の100、200は取れるかもしれない。
そう考えると、お空の暴走も悪くなかった。
まぁ、アイツの反抗は、計算外だったけど。
お空、何かあったのかね。
アイツのあんな顔、
真正面から見たなんて初めてだ。
ま、少しナーバスになってるだけかね。
昔のことを思い出しちまったなら、
それも仕方がないことかもしれないね。
【燐】さ、終わったよ。
ちょっと待ってな。
いま、タオルを持ってきてやるから。
【こいし】…………。
優しい声音で話しかけてやっても、
返事はおろか、こっちを見ようともしない。
明後日の方向を、ジッと眺めるばかり。
あぁ、本当に気味が悪い。
何を見てるのか、何を考えてるか、
ちっとも判りゃしない。
これじゃ、路上で寝てるガキどもの方が、
まだ子どもらしいとさえ思う。
育ちは悪くなさそうなのに、妙なもんだ。
風呂場にこいしを残して、
部屋へタオルを取りに戻る。
短い間とはいえ、先が思いやられた。
【燐】えーっと……洗濯しといたタオルは……。
あぁ、服と下着もか。しまったな。
ついでにお空に買いに行かせりゃ良かった。
こいしが着ていた服は、雨で汚れていたから、
もう洗濯機関に突っ込んじまってた。
まさかアレを着させるわけにもいかない。
まぁ、お空の服でも着せときゃいいか。
アイツも文句は言うまい。
そう思ってタンスの方へと身体を向ける。
――と。
ドン、ドン、ドン!!
【燐】あー?
勢いよく玄関ドアが叩かれる音。
尋常じゃないその響きで、
あたいは即座に警戒態勢に入った。
お空じゃない。アイツはノックなんてしない。
客、というわけでもないだろう。
あまりにも扉の叩き方が乱暴すぎる。
誰だ? 恨みを買う心当たりは多すぎて、
ちょっとすぐには判らない。
あたいは慎重に、扉へと近づいていく。
そして。
覗き穴から来訪者の姿を確認しようと、
叩かれ続ける扉に近付いた途端、
――ドガンッ!
【燐】うにゃあッ!!?
爆発音とともに扉が吹っ飛んできた。
あたいは顔面でモロにそれを受け、
吹き飛ばされた扉とともに倒れ込む。
痛い! 鼻が痛い!
これ、折れたね! 完全に折れた!
あたいの高い鼻が無残に整地された!
【???】こいしッ!!?
ここに居るんだろう!!?
【燐】ふぎゃあッ!?
妙に幼い響きを感じる叫び声。
あたいを押し潰す扉が、誰かに踏みつけられる。
必然、下敷きにされてるあたいも踏み潰される。
状況がまったく呑み込めない。
ただただ鼻が痛い。そんなあたいを他所に、
あたいごと扉を踏んでいた誰かが、
【???】そこのアナタ!
僕の妹をどこに隠したんですか!?
【???】正直に言いなさい!
いや、言わなくても結構!
僕に隠し事はできませんよ!?
【燐】うぐぐぐぅ……は、鼻……ッ!
なに!? なんだって……!?
い、妹……?
【???】――お風呂場!
ドアごとあたいを踏んでいた闖入者が、
不意に叫んだかと思うと、
踏み台の要領でドアをストンプする。
【燐】ぎにゃあッ!!
もちろん、痛い。
【???】こいし!! こいしッ!!
【燐】痛たたたた…………。
チクショウ、何なんだよぉ……。
涙を滲ませながら、ドアの下から這い出た。
鼻を抑える。案の定、鼻血が出てた。
適当な布切れで鼻血を拭いて、
あたいは風呂場の方を見やった。
小柄な誰かが、そこに立っている。
――上等そうな茶色のスーツを着た子ども。
およそ体格には不釣り合いだが、
きっちりと仕立てられているのが判る。
……どうやらあたいにも、
状況が呑み込めてきた。
あのガキが、こいしの保護者だ。
妹だと言っていたから、兄貴なんだろう。
つまりアイツは妹を誘拐されたと思って、
ここに突っ込んできたってわけだ。
……謝礼に慰謝料も上乗せしてもらわにゃ。
【???】…………。
……あぁ、そういう。
風呂場の前で、
こいしの兄貴が納得したように呟く。
その反応は、あたいにとって予想外だった。
てっきり全裸の妹を見て、
ブチ切れると思ってたんだが。
【???】申し訳ない。早合点したようです。
妹を保護してくださって、
ありがとうございます。
こいしの兄貴が、クルリ、と
こちらを向いたかと思うと、
さして悪いと思ってなさそうな笑みで言う。
【燐】あ、いや、お前――
【???】申し遅れました。
僕は古明地さとりと言います。
お察しの通り、こいしの兄です。
【燐】や、そうじゃなくて――
【さとり】怪我の医療費と慰謝料、
ドアの修繕費と、謝礼ですよね?
もちろん、お支払いしますよ。
【燐】そ、それは当然だけど――
【さとり】誠意がない。ですか?
アナタにとって、お金より重い誠意があると?
【燐】いや、その、って言うか――
【さとり】会話のテンポが合わない?
良いじゃないですか。話が早く済んで。
どうせ同じ結果になるんですから。
【燐】ちょちょちょ、待った待った!!
な、な――
【さとり】何なんだお前は? って?
僕らはサトリという妖怪です。
他者の心を読むことのできる種族です。
言って、さとりは胸の眼に手を添える。
こいしと同じような、第三の瞳。
ありゃ、変な飾りとかじゃなかったのか?
【さとり】そうです。
【燐】おい、おいッ!
やめろ! お前、ソレ!!
頭がどうにかなっちまいそうだ!
【燐】いいからお前!
ちょっと黙ってておくれよ!
頼むからさ!
やれやれ、という具合で、
さとりがオーバーに肩を竦める。
……何だコイツ、腹立つなぁ。
混乱した頭を整理するために、と
キッチンへ向かって珈琲を注いだ。
ぬるめのそれを啜りつつ、ソファに座る。
いま考えなきゃいけないこと――
というのは、実はもう無い。
付けなきゃいけない話は終わってる。
ドアを直せ。金を払え。こいしを連れてけ。
あたいの要求すべてを叶えると、
さとりは既に言っているのだから。
【燐】(なんだ、そうと決まりゃそれでいいや。
さっさと金だけもらっておさらば――)
【燐】(……いや、お空が納得しないか。
アイツが帰ってくるまで待たせようかね)
【さとり】決まりですね?
珈琲の黒い液面を見ていたあたいの耳に、
念押しするようなさとりの声が届く。
あたいはため息を吐いて、
【燐】それ、やめとくれってのに。
判らないガキだね。
【さとり】駆け引きも何もないのだから、
問題ないでしょうに。
【燐】あぁ、厄介極まるよ。まったく。
そんでお前さん、金はいくら――
なんて切り出しつつ、さとりの立つ
風呂場の方へと目をやる。
そこで不意に、あたいの言葉は止まる。
こいしが。
風呂場で待たせていたこいしが、
ずぶ濡れで裸のまま、出てきていた。
さとりの背後に立つ彼女は、まるで影法師。
まったくもって、生気も気配も感じない。
彼女はそのまま、倒れたドアを踏んで外へ――
【燐】ちょちょちょちょちょちょ!!!!
何やってんだい!? コラァ!
【さとり】え?
……こ、こいしッ!?
あたいの顔を見てハッとしたさとりが、
外に向かって歩くこいしの腕を掴む。
あたいは慌てて、タオルを手に取った。
【燐】何なんだい!?
何考えてんだお前さんは!?
危ないだろうが馬鹿たれぇ!!
【燐】ここは無限雑踏街だよ!?
いや、無限雑踏街じゃなくても駄目だよ!
ズタボロに襲われたいのかお前さんは!!
キョトンとした風のこいしを、
乱暴にタオルで拭く。
あぁ、もう。床もびしょびしょだ。
こいしは表情を変えないまま、外を見る。
あたいの言葉が聞こえてないかのよう。
兄貴は兄貴で、妹の腕を掴んで呆然としてる。
【燐】ったく、アンタら何なんだホント。
兄貴も妹も癖がスゴいんだよ、もう。
ヒトの話を聞きゃしないしさぁ……。
【さとり】――こいし。
……なにを、見てるんだ?
お前の「瞳」に、映ってるのは……?
【燐】あぁん?
さとりが震えた声で言う。
見れば、妹の顔を見る彼の身体は、
小刻みに震えていた。
恐ろしいものを目の当たりにしたように。
触れてはいけないモノに、触れたように。
何の表情も浮かべないまま、
外をぼうっと眺めていたこいしが、
ゆっくりとこちらに振り向く。
どこを見ているのかも判らない視線で、
さとりを眺めたかと思うと――
彼女は、嘲るみたく、口を横に広げて――
【こいし】……『天使』。
【さとり】…………ッ!?
【燐】はぁ?
なんだ? 何を言っている?
さとりは息を呑んだが、
あたいには何のことやらさっぱりだ。
顔面蒼白になる兄に構わず、
こいしは兄の手を乱暴に振り払って、
【こいし】えり・えり・れま・さばくたに。
にゃるらとてっぷ・つがーしゃめっしゅ・
しゃめっしゅにゃるらとてっぷ・つがー。
【こいし】此れなるは異形。
強欲なる炎の怪異。
断罪を刻印された罪人の果て。
【こいし】讃えよ、唄え、断罪の刻だ。
地下世界の理は、御身に顕現せり。
【こいし】チクタク、チクタク。
イア・イア! あは、は、はは!
【こいし】あははははははははははは!!!!
【燐】うわ、うーわ……。
ヤバい。
これは、完全にヤバいね。
もう取り返しがつかないよ。
どっかおかしいと思ってたけど、
まさかここまでイっちゃってるとは。
さっきまで大人しかったのが嘘みたいだ。
ドン引きしてるあたいを他所に、
こいしは笑い、さとりは震えている。
まぁ、妹が壊れりゃ、兄貴も怖いか――
【さとり】――ありえない、ありえない……。
なんだ、これは……?
閻魔の、権能が……?
【さとり】いったい、何が起きてる……?
いったい、なぜ……?
【さとり】今この地底にいる閻魔は、
僕だけ、のはずなのに……。
【燐】おいおいおい……。
妹の頭おかしいのが、
兄貴に伝染りやがった。
勘弁しとくれよ。
あたいんちは芝居小屋じゃないんだ。
顔を覆いたくなる気分だ。
あたいは関係ないってのに、
どうしてこんな訳の判らんことに、
巻き込まれなくっちゃいけないんだろう。
【こいし】――関係、無くないよ?
【燐】あー?
ピタリ、と笑うのをやめたこいしが、
まっすぐにあたいの目を見て言う。
【こいし】『天使』は、空さんだもの。
あのヒト、天使になっちゃった。
【こいし】あのヒト、天使になっちゃった。
あのヒト、天使になっちゃった。
いま、なっちゃった。天使になった。
【燐】……ぅ……。
なに……言ってんだよぉ……。
気持ち悪い。気持ち悪い。
なんで急にお空の名が出てくるんだ。
意味が判らな過ぎて、本当に怖い。
さとりの顔を見る。
もうほとんど助けを求める気分だった。
何か納得のいく説明をくれ、と。
青ざめていたさとりが、あたいを見る。
あたいと目が合って、
さとりが目を見開いて。
【さとり】……………………。
…………アナタの、お友達……。
【燐】お、おい……おいおい……。
何だってんだよ、ホントに……。
お空が、どうしたって……?
さとりとこいしの2人が、あたいを見る。
合計6つの瞳に気圧されて、後ずさりした。
じりじりと退がるあたいに、視線が刺さる。
2人とも何も言わない。何も。
ただ、あたいを見つめるだけ。
胸中に、嫌な予感が広がった。
天使、お空、閻魔の権能。
判らない。何のことだか、さっぱり。
けれど、重苦しい空気が肺を詰まらせる。
なにか、どうしようもなく。
形容のしがたい、嫌な予感。
まるで、それを見透かしたように、
【こいし】すぐに判るよ。
彼女がそう、言った途端、
どこか遠くの方から、轟音がした。
地響き、爆発音、悲鳴……。
それこそ、地獄の窯の蓋が空いたような。
【燐】な、な……っ!?
混乱するあたいをよそに、
ハッとしたようなさとりが、
妹から手を離して外へと駆けだした。
――かと思えば、
すぐに茶色のトランクを持って
戻ってきて、
【さとり】こいし、服を着なさい。
僕と一緒に居るのが、一番安全だ。
【さとり】……行くよ。
【こいし】はぁい。
トランクから取り出した洋服を、
こいしに手渡して、さとりが言う。
不安、決意。
そういった感情を綯い交ぜにした、
そんな声音と表情。
【さとり】燐さん、アナタもです。
こいしの言う通り、
アナタにとっては他人事じゃない。
【燐】はぁ!?
だ、だから……!
いったい何が起きてるんだって――
【さとり】説明してる暇はないんですよ。
早くしないと、手遅れになります。
【さとり】――この街も。空さんも。
【燐】……ッ。
あたいは吹き飛ばされた玄関から、
覗くようにして外の様子をうかがう。
立ち上る黒煙。赤い炎の、揺らめく光。
悲鳴。悲鳴。逃げるヒトでごった返す通り。
あたいは思い出す。
地下世界が地獄だったときのこと。
あの頃の狂騒が、脳裏を過る。
出火元は、ここからじゃ見えない。
だが、すごく遠いわけじゃなさそうだ。
あれは、そうだ。
4番小路と、ウチとの間くらい……。
【燐】……お空。
ギリ、と歯ぎしりをする。
能天気な、けれどどこか影のある
アイツの笑顔を、どうしてか思い出す。
何も知らないお空。お馬鹿な、お空。
あたいの大切な稼ぎ頭。
【燐】あの馬鹿……。
お使いもまともにできないのかい……。
まったく、世話の焼ける……。
あたいは振り返って、さとりを見た。
こいしが、ワンピースの襟から頭をポンと出す。
もう準備は、済んでいるらしい。
【燐】行くなら、早くしようじゃないか。
【燐】あたいは腹、減ってんだ。
アイツから、飯を受け取りたいことだし。
さとりから顔を逸らして言う。
視界の端でウン、と頷いたさとりは、
何かを判った風の笑みを浮かべ、
【さとり】――僕に嘘が吐けないって、
忘れてますよね?