Coolier - 新生・東方創想話

緋焔のアルタエゴ_第一章

2024/08/23 18:12:35
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――雨が降りそう。そう思った。

私は、曇り以外の空を知らない。
たくさんの機関機械(エンジンマシン)が
吐き出す汚れた煙。それが集まった黒い雲。

そもそも、ここには空なんて無いんだって。
分厚い雲の向こうには、冷たい岩の天井があるだけ。
でも、私はそれを見たことがない。

雲の向こうに行っても、何もない。
そんなことをしても、お金を稼げない。
お金が稼げなきゃ、生きることを許されない。

旧都。地獄の偉いヒトたちが、住んでた街。
10年前までの話。今は違う。
大通りを行き交う妖怪も、十人十色。

地獄の端っこで、細々と生きてた妖怪
みんなに嫌われて、地底に逃げてきた妖怪。
色んな妖怪が居場所を求めて来て、旧都は満杯だ。

旧都の中で一番大きな街。
『無限雑踏街』。

機関街灯に照らされて、
歪な『積み立て長屋』が大きな影を伸ばす。
無理な増築のせいで、建物全部がガタガタだ。

【空】(雨が降る前には、帰りたいな)

積み立て長屋の一角に背中を預けて、
私は煙草に火を付ける。もう4本目。
昔はマズくて、苦くて、大っ嫌いだったのに。

……うぅん。きっと、今でも好きじゃない。
咳は出るし、髪は臭くなる。
でも、街の臭いよりはずっとマシなんだ。

私たちが住む無限雑踏街は、色んな臭いで溢れてる。
機関油、黒い蒸気、マズい食べ物、お酒、香水、精液。
全部、暴力的。全部、私を侵してくる。

【空】……けほ。

小さく咳をして、根元まで吸った煙草を捨てる。
捨てた煙草は、ブーツで踏みつぶす。
コートのポケットに、行儀悪く手を突っ込んで。

コートの生地越しに、そっとベルトの辺りを弄る。
そこにきちんと、望む手触りと重量感を探り当てて、
私は何度目かも判らない安堵のため息を吐く。

――大丈夫。ちゃんとここにある。

そう言い聞かせないと、
私は満足に立ってもいられない。

大通りには、たくさんの妖怪が居て、
誰が襲ってくるのかも判らないんだから。

【空】(でも――)

……でも、大丈夫。

今の私は、襲われる方じゃなくて襲う方。
食べられる方じゃなくて、食べる方。
弱くて震える方じゃなくて、強くて嘲笑う方。

おまじないのように、何度も繰り返す。
そうすると、だんだんそれが本当みたく思えてくる。
そしてそれは、間違ってないことなんだ。

【空】――来た。

ずっと見つめていた雑踏の中に、
これまで待ち続けていた相手の姿があった。

【蟲妖】…………。

【空】(……蟲の妖怪)

いくら私でも、流石に今日の相手は
見間違いようがない。

無限雑踏街に、蟲妖なんてほとんど来ない。
蟲妖の縄張りは『壁』を3つも超えた
『蟲群街』だから、ここに居る時点で、変だ。

赤いブツブツの眼。1本千切れた触覚。
歩き方は、すごく危なっかしい。
ヨロヨロして、すぐにも倒れそう。

全部、あらかじめ聞いてた特徴通り。

私は、あんまり頭が良くないけど、
それでも、仕事に関する情報は必死に覚える。
冗談じゃなく、本当に命に係わるんだから。

行き交う妖怪からジロジロ睨まれながらも、
蟲妖がヒト混みの中をフラフラ進む。
やがて、私の前を通り過ぎて。

【空】…………。

見失わないくらいの距離が開くのを待って、
私はそっと、ゴチャゴチャしたヒトの流れに
合わせて、歩き出す。

雑踏の中。ジッと、蟲妖の背中を見つめて。
手を突っ込んだポケット越しに、もう一度、
武骨な金属の感触を確かめて。

胸がドキドキする。指先も、震えてる。
深呼吸をする代わりに、煙草を咥えて火を付ける。
煙草の煙は、私をこの街の空気から遠ざけてくれる。

前を歩いていた蟲妖が、不意にキョロキョロする。
そして、スッと路地裏に入っていった。

地下世界の住民たちが好き勝手に
家とかゴミ捨て場とかを作るせいで、
迷宮のように入り組んだ路地裏。

性質の悪いストリートチルドレンが
たむろしてることもある。
物乞いに絡まれることだってある。

無限雑踏街の住民でさえ、
よっぽどのことがないと通らない。
危ないし、そもそも通行に不向き。

私は蟲妖が入った路地裏の入り口で立ち止まり、
煙草を吸い終わるまで、ゆったりと待つ。

路地には人気がない。尾行がバレやすい。
だから、今より距離を開けなくちゃいけない。
吸い終えた煙草をブーツで踏み消して、路地裏へ。

薄暗くて饐えた臭いのする路地に入ってすぐ、
私はコートの内側から、仕事道具を取り出した。

私の仕事道具。
ブレイクオープンタイプの回転式拳銃。
38口径のダブルアクション。

一般的に出回ってる武器じゃない。
今の旧都では、完全なオーパーツって奴。
だから、銃弾も特注で作ってもらってる。

引き金を引くと、銃弾が出る。
弾が当たれば、相手は大怪我をするか、死ぬ。
そういう道具。それが判ってれば充分。

装填された銃弾は6発。
予備の弾薬は、コートの内ポケットに36発。
きちんといつも通り、準備されてるのを再確認。

【空】(――うん、大丈夫)

シリンダーを戻して、キャッチバレルに嵌め込む。
セーフティも外して、引き金に人差し指を掛ける。
ようやく、胸のドキドキが少し収まった。

ゴミ箱、空調設備の室外機、蒸気管。
割れたお酒の瓶や、古い血の跡、
壁に描かれたイヤらしい言葉。

そんなモノたちをやり過ごしながら、蟲妖を追う。
物音を立てないよう、慎重に。
けれど相手は、振り向きもしない。

蟲妖が左の路地に折れる。
小走りで長屋の角についた私は、
こっそりと先の様子をうかがった。

路地の真ん中あたりに、
高価そうな服を着た蜥蜴頭が立ってる。
蟲妖は、ヨロヨロとその妖怪に走り寄って、

【蟲妖】ア、ア、アンタ……! 
い、居たな……!!
やや、約束、通り! 金、か、金なら……!

【蟲妖】も、持ってきた! お、お、お、俺!
持ってき、たんだ! 金、金を!
わわ、わざわざ、こ、こ、ここまでッ!

【蜥蜴】ほぉ。そいつはご苦労なこった。
俺もな、約束通りここで待っててやったぜ?

【蜥蜴】男同士の約束だもんな? そりゃ、守るさ。
え? お前もそうだよな?
ちゃんと、持ってきてるんだよな?

【蟲妖】あ、あ、あるとも、あるとも!
ちち、ちゃんと、用意した、用意したんだ!

【蟲妖】た、頼む! 早くくれよ!
ほ、ほ、ほら! ここにある!
俺、大事に持ってたんだ! 大事に、金を!

蟲妖がボロの中からお金を取り出すのが見えた。
お札も金貨も、黒く汚れていた。
その汚いお金を見て、胸がムカムカしてくる。

アレは、たぶん血だ。誰かが流した血。
そして私は、その血が誰のものなのかも聞いてる。
気分が悪くならない方が、おかしい。

【蜥蜴】あぁ、確かに金だな。うん。
文字通り、汚い金って奴か?
まぁ、使えりゃ関係ねぇけど。

【蜥蜴】よかったよかった。ホッとしたぜ。
お前も約束を守ってくれたんだな?
ちゃんと、金を持ってきたんだな?

【蜥蜴】だが……おい、どういうことだ? あ?
テメェ、舐めてんじゃねえぞ?
え? おいコラ乞食野郎。

【蜥蜴】はした金じゃねーかよ、あ?
これっぽっちでブツを買おうってのかよ?
おい、冗談にしても笑えねぇぞ。

【蟲妖】な、な、そんな! じじじ、冗談じゃない!
前にやった金のさ、3倍だぞ!

【蟲妖】ぼったくりだ! ぼぼ、ぼったくり!

【蜥蜴】おいおいおいおい、そりゃねーだろ。
こっちが約束を守ってんのによ。
よりによって、ぼったくりだぁ?

【蜥蜴】フザけてんのか? おい。
ヒトを待たせておいてよぉ。え?
なんだお前? ブツが要らねぇって?

【蟲妖】な、な、なんでだよぉ!?
そそ、そんなこと、お、おおお、俺は……!

【蜥蜴】あーあ。とんだ無駄足だった。
こっちの善意も知らねぇでよぉ。
クソみてぇな金チラつかせやがって。

【蜥蜴】ま、お前が買えないなら、しょうがねぇ。
コイツは、他の誰かさんに売るとするか。

蜥蜴がコートの内ポケットから、
小ぶりな包みを取り出す。
蟲妖の虚ろな複眼が、可哀相なくらいに釘づけだ。

【空】(やっぱり、売人だった……。
うん。ちゃんと確認できた)

私は小さく息を吐く。あの2人は私に気付いてない。
こんな路地裏に、他の誰かが居るかもなんて、
想像もしていないみたい。

そんなこと、ぜんぜん無いのにね。

――――――――ッ!!

【蜥蜴】あ、ぐぅああああああああッ!!!?

【蟲妖】ひ、ひぃいいいいいッ!?

私は2人が居る路地に身体を出してすぐ、
クスリを見せびらかす蜥蜴妖怪の腕めがけて
引き金を引いた。結果は、ご覧の通り。

穴の開いた右腕を、蜥蜴が抑えながらうずくまる。
蟲妖は腰を抜かしながらも、弾き飛ばされた包みを
ちゃっかり拾い上げてた。抜け目のないやつ。

【空】やったね。

空いた左手でガッツポーズしながら、
私は銃口を蜥蜴に向けたまま歩み寄る。
蜥蜴は、血を流しながらも私を睨み上げて、

【蜥蜴】『スカベンジャー』……ッ!
テメェ、つけられてやがったな……!

【空】うわぁ、痛そう。痛い?

【蜥蜴】痛ぇよ! 当たり前だろ!?
馬鹿かテメェ!!

【空】うん。よく言われる。

――――――――ッ!!

【蜥蜴】ぐあああああああああッ!!?
な、な、テメェ……うぐぅぅ……ッ!

【空】まだ動ける?

【蜥蜴】も、もう動けねぇよ……ぉ!
見りゃ判る――

――――――――ッ!!

【蜥蜴】~~~~~~~ッ!!!???

【蟲妖】ひぃぃいいッ!!
う、うぅ~、うぅうう~~~ッ!!

【空】おじさん。私、聞きたいことがあるの。
教えてくれる?

私は頭を抱えてうずくまる蟲妖を横目に、
両足を撃ちぬいた蜥蜴の頭に銃口を付けて聞く。
笑顔で。質問するときは、笑顔が基本だから。

私が笑顔で聞いたからか、蜥蜴妖怪が頷いた。
熱くなった銃口が、蜥蜴の鱗から煙を立たせる。
すごく嫌な臭いがした。

【空】嘘、吐かないでね?
嘘だったら、おじさんのこと撃っちゃうから。
だから、本当のことを言ってね?

【蜥蜴】うぐ、わ、かった……!
だから、もう、撃つな……!?
頼む……!

【空】うん。おじさんが正直に言えばね。
えっと……何だっけ?
……あぁ、うん、思い出した。

【空】おじさんが売ってるクスリって、
『DeS』っていう奴?
ほら、最近、流行ってるやつ。

【蜥蜴】あ、あぁ……そうだ……。

【空】おじさんが作ってるの?

【蜥蜴】ち、違う……! 俺じゃない……!
い、いつの間にか、俺の部屋にあったんだ……。
気付かない内に、机の、上に……。

【蜥蜴】これを売れって、これはドラッグだって……。
売ればお前には、金が入るって……。
そんな手紙と、一緒に……。

【空】ふーん。
じゃ、おじさんも知らないんだね?
誰がDeSを作ってるのか。

【蜥蜴】う、嘘は言ってねぇ……!
本当だ! 信じてくれ! 俺は何も知らねぇんだ!

【空】うん。信じる。
おじさんは正直に話してくれたよね。
ありがとう。

【蜥蜴】じ、じゃあ……!

――――――――ッ!

躊躇いなく、引き金を絞った。
蜥蜴妖怪の脳天から血がいっぱい出て、
グラリと揺れてから、仰向けに倒れた。

【蟲妖】ひ、ひぃ! ひぃいッ!!

ヤク中の蟲妖が金切り声を上げた。
女の子みたい、なんて思いながら、
倒れた蜥蜴をブーツで踏みつけた。

【空】死んだ? 本当に死んでる?
ねぇ、ちゃんと死んでるんだよね?
ねぇ、ねぇ、ねぇ?

何回か、蜥蜴の身体を適当に蹴ってみる。
ブーツの底で、ポキポキと変な音。
何本か判らないけど、骨が折れたみたい。

それでも、蜥蜴妖怪はピクリともしない。
良かった。ちゃんと、死んでくれたみたい。
私はホッとして、蜥蜴から足を降ろした。

【空】臭いなぁ。ひどい臭いの血。
男のヒトの血って、いつもそう。
あぁ、もう、吐きそうだよ。

【蟲妖】あ、アンタ! なな、なんで……!
ししし、正直に、言った、らって……!

【空】は?

【空】あぁ……。
別に良いじゃん。だって悪いヒトだもん。
生きてる価値ないよ。

ブルブル震える蟲妖を見下ろして、
私は煙草に火を付ける。
ゲロ吐きそうな気分が、少しだけ収まった。

【空】――ガルド夫妻。

【蟲妖】……へ?

【空】レパイン・ガルド。マーサ・ガルド。
知ってる?

パチン、とオイルライタの蓋を閉じて、
煙草の煙を吐き出しながら聞く。
もちろん、笑顔は欠かさない。

赤いブツブツの複眼が私を見上げる。
よく見ると、そのひとつひとつが濁ってた。
薬物中毒者に特有の、ドブみたいな濁り方。

自己責任。この世界のルール。
地下世界には自由がある。
自由だけが、この世界で平等に与えられる。

クスリを買ってボロボロになるのも、
弱い誰かからお金を奪うのも、自分の勝手。
咎める偉いヒトたちは、地底から居なくなった。

だけど、自由には対価が付き物なんだ。
命やお金を奪うなら、同じように
誰かに奪われても仕方がないってこと。

……まぁ、何も悪いことをしてないのに、
何かを奪われることなんて、よくあることだけど。

【空】すごく仲のいい夫婦だったって。
お子さんが自立して、
老後をどうしようか、相談してたって。

【空】近所のヒトとも仲が良くって、
暴力も振るわない、お金を盗んだりもしない。
そんな、すっごく良いヒトたちだったって。

【空】知らない? ガルド夫妻。
蟲群街に住んでた、蟲妖の夫婦。

【空】可哀相に、殺されちゃったんだって。
ヤク中の蟲妖に、孫のために取ってたお金、
ぜーんぶ盗まれちゃったんだって。

【蟲妖】しし、し、知らない……。
し、知らない、知らない……ッ!

【空】おじさんは、嘘を吐くヒトなの?
痛い思いをしなきゃ、
本当のこと、言えない?

蟲妖に銃口を向ける。
蜥蜴の死体から離れて、
地面にへたり込んだままの蟲妖に歩み寄る。

私が近づくと、蟲妖はお尻で後ずさりをする。
足を撃ちぬこうとして銃口を逸らした途端、
蟲妖は私に向かって土下座のポーズをして、

【蟲妖】わ、悪いことをした……か、金が! 金が必要だった!

【蟲妖】い、いや違う! 悪いのはソイツだ! 俺じゃない!
こ、コイツが、あ、あ、あ、足元を見るからだ!

【蟲妖】お、俺は悪くない! 俺のせいじゃない!
くく、薬が欲しかっただけなんだ!

【蟲妖】頼む! み、み、み、見逃してくれ!
アンタのためなら、何でもするから!
か、金もやる! 盗った金、別のとこに隠してるんだ!

【蟲妖】だ、だから――!

【空】……うるさいな。

私は引き金を引く。
みっともなく這いつくばってた蟲妖は、
頭からお尻まで銃弾に抉られて、黙った。

蜥蜴の血と、蟲妖の血が地面の上で混ざる。
血の池地獄みたいだな、と思う。
吸い終えた煙草を放ると、音を立てて火が消えた。

【空】おじさんも、ちゃんと死んでる?

ピチャピチャと血を踏んづけて、
穴の開いた後頭部を蹴飛ばす。
蟲妖の身体が、血の上を横向きに滑った。

まだ判らない。蟲妖は生命力が高いから。
横たわる蟲妖の頭を、ブーツの踵で踏み潰す。
パキ、と頭蓋が割れる音がした。

それでも、蟲妖は動こうとしない。
安心した。死んだふりじゃないみたい。
ホッと一息吐いて、コートから弾丸を取り出す。

【???】――あーあ、やだやだ。
みっともないったらありゃしないよ。
弱っちい男なんて、見るに堪えないね。

シリンダーに5発分の弾丸を詰めて、
手首のスナップでガチン、と嵌めなおす。
声のした方を向くと、そこに彼女は居た。

【空】あ、お燐だ。
見てたの?

【燐】そりゃそうさ。言ったろ?
今回の仕事は、『商会』のパシリじゃないんだ。
クライアントに報告する必要があるからね。

【空】そうだっけ?

【燐】そうなの。お空は鳥頭だなぁ。
いつかやらかさないか、
あたいは冷や冷やしちまうよ。

【空】お仕事のことは忘れないよ。
私だって、死にたくないもん。

銃をホルスターに戻して、お燐に微笑む。
私にとって、お燐は大好きな友達だし、
恩人……恩猫かな? それでもある。

私に、お仕事をくれた。
私に、住む家や着る服、食べ物をくれた。

初めてヒトを殺したとき、
どうすればいいか判らなくて泣いてた私に、
大丈夫だよ、って言ってくれた。

【燐】本当にそうなら良いんだけどね。
さーて、ブツを確認しようかねぇ。

ニシシ、と悪戯っぽく笑って、
お燐が血だまりに倒れてる蟲妖に歩み寄る。

ボロの中をゴソゴソと探って、
クスリの入った包みと、お金を抜き取って、

【燐】ひの、ふの……うん、全部みたいだね。
こっちの蜥蜴は……っと。
なーんだ。クスリはもう無いのかい。

【空】お燐、クスリなんてやらないよね?

【燐】やらないよ。こんなもん。
回収しろって言われてるのさ。

【燐】んじゃ、ノルマ達成だね。
よくやったよ。お空。
これでスカベンジャーも、のし上がれる。

そう言って、お燐がクスリとお金を
ベルトのポーチに突っ込んだ。
お燐が褒めてくれて、私はパァッと嬉しくなる。

【空】ほんと? 私のおかげ?

【燐】あぁ、そうだとも。お空のおかげさぁ。
ほーんと、あたいたちは良いコンビだよ。
死肉漁りの妖獣コンビ。良い響きだよねぇ。

言いながら、お燐がポーチから
機関式通信機(エンジンフォン)を取り出す。
依頼完了の連絡。いつもの光景。

――けれど

けれど途端、暗がりの横道から音もなく、
黒子みたいな恰好の誰かが姿を現した。

お燐の背後から。彼女は気づいてない。
ざわりと背筋に冷たいモノが走って、
私はとっさに銃を構えていた。

【空】止まって。

正体不明の誰かは、素直に歩みを止める。
そして、害意はないとばかりに両手を上げる。

自分に銃が向けられたと思ったのか、
お燐がギョッとしたような顔をしていた。
固まるお燐の向こうで、誰かさんが息を吐く。

【???】……噂通りの方ですね。
私があともう一歩踏み出していたら、
死体が3つに増えていたでしょう。

【???】拳銃使いの空。
殺しに躊躇がなく、情緒は不安定。
その殺し方は執拗かつ確実。

【???】その銃を降ろしてください。
私はアナタの敵ではありません。
今回の仕事を依頼した者です。

女のヒトの声。
銃を向けられているのに、
少しも気圧された様子はなくて。

お燐がハッとした風に振り返る。
取り出したばかりの機関式通信機を
ポシェットに突っ込みながら、

【燐】あ、えっと、わざわざご足労頂いたんで?
これはこれは、お手数おかけしましたぁ。
お空、それ仕舞いな! お相手さんに失礼だよ!

お燐の鋭い小声が、銃を構えたままの私に届く。
大人しく、私は構えていた銃をホルスターに仕舞う。
顔を隠したままの誰かさんに、お燐は手をスリスリと、

【燐】いやぁ、こんな遠いところまで来ていただいて。
すみませんねぇ、ハイ。
えっと、アナタは……。

【???】ラルバ、とお呼びください。
顔を隠したままで失礼。
ですが、私は影なので。

【ラルバ】モザミの遺体と、クスリ。
そしてガルド夫妻のお金を回収しに参りました。
商会に話は?

【燐】えぇ、もちろん通しておりませんとも!
いやぁ、蟲群街の顔役――

【燐】……あの、リグルさんからのお願いですからねぇ。
そりゃ、もう私どもなんぞが反故にできるわけもなく……。

揉み手をしながらへこへこするお燐を横目に、
私は蟲妖の死体を眺めていた。

死体。頭からお尻まで弾丸で貫かれた亡骸。
確かに死んでるのは間違いない。
頭蓋を踏み砕いてまで確認したんだから。

チラ、とラルバと名乗ったヒトに目をやる。
あのヒトは、アレのことを遺体、と言った。
アレの名前も呼んでた。モザ……なんちゃら。

蟲妖は同胞意識が非常に強いとは聞いてた。
同じ蟲妖同士の仲間意識。絆やら何やら。
蟲妖同士、この旧都の一角に集まって集まって――

そうして出来上がったのが、今の『蟲群街』。
旧都の6分の1を占める縄張り。

そしてその街を統治する顔役が、リグルさん。
――リグル・ナイトバグさん。
旧都を統べる6人の支配者のひとり。

【ラルバ】……はい、確かに受け取りました。
クスリも、お金も。
あとはモザミの遺体ですが――

【ラルバ】空さん、クスリの出所について、
そこのトカゲは何か言ってましたか?

【空】え……? えっと……。

【空】何も言ってなかった……です。
何も知らないって。
ただ、家に置いてあったって……。

【ラルバ】……やはり、そうですか。

小さくため息を吐いて、ラルバが独り言みたく言う。
DeSの出所は、誰も知らない。売人も、ヤク中も。
誰も、DeSを誰が作って流しているのか知らない。

すごく気味が悪い話だと思う。
クスリは出回ってる。誰かが作ってるのは間違いない。
なのに、お金の流れは絶対に製造元まで辿りつかない。

作ってる誰かは、ただそれを流すだけ。
誰にも見られず、誰にも知られず、
あの哀れなトカゲみたいな小銭稼ぎの輩に渡すだけ。

そうしてDeSは旧都全体に、特に無限雑踏街に、
広く出回るようになってしまっている。
商会ですら、いまだにDeSの流通を止められてない。

【ラルバ】同胞がクスリ欲しさに同胞を襲った。
そのことを、主はひどく嘆いています。

【ラルバ】DeSについて何か判ったら、報告を。
有力な情報であれば、主は高価く買うでしょう。

【燐】えぇ! もちろんですとも!
そのときには、真っ先にお知らせしますよ。
ですから、今後ともご贔屓に……。

【ラルバ】えぇ、よろしくお願いします。
では、私はモザミの遺体を回収して失礼しますので、
先に謝礼を――

【燐】おっと! 少々お待ちを……。
お空、今日もお疲れさん。
先に上がってていいよ。

【燐】はいよ、これで夕飯、食べといで。

そう言って、お燐が銀貨を放ってくる。
なんと、3枚も。
驚きつつも、それらを右手でキャッチして、

【空】こんなに? いいの?

【燐】良いってことよ。今日のお空は頑張ったからね。
なんでも好きなもの食べておいで。

【燐】あたいは、お客さんと話してからヤサに戻るからさ。

【空】お燐、大変だね。
お仕事、頑張ってね。

【燐】あぁ。お空も、お疲れさん。
厄介ごとだけは、背負って来ないでおくれよ?
お空は血の気が多いからねぇ。

【空】ちのけ?

【燐】怒りっぽいってこと。

【空】えー?
そんなことないと思うけど……。

煙草に火をつけて、腕組みをする。
最近、怒った記憶なんて全然なかった。
忘れちゃっただけかもしれないけど。

【燐】よく言うよ。
プライベートでも殺しまくってるくせにさ。
いつか商会の連中に怒られるよ。

【燐】……っと、失礼。お話を中断してしまいまして。
じゃね、お空。気ぃ付けるんだよ。

【空】うん。またね。

言って、私はお燐からもらった銀貨を、
左手に移して大事に握り締める。

【ラルバ】………………。

黙ったままのラルバさんに頭を下げて、
私は血液臭い路地裏に背を向ける。

こんな大金を持ったのは、久しぶりだ。
盗られたら、悔やんでも悔やみきれない。
ふふ、なんて笑いながら。

【空】(何に使おうかな。
お肉も食べたいし、お酒も飲んでみたい)

【空】(合成モノは薬臭いからなぁ。
久々に天然モノを出すお店に行けるかも)

今まではお金が無かったから行けなかった。
だけど、今日は行けるかもしれない。
そんな風に思うだけで、ワクワクした。

――なんて、私が浮かれた気分でいた天罰か、

――ドン!

【空】――あ痛!

【???】ひゃッ!!?

脇の小道から飛び出してきた誰かが、
勢いよく私にぶつかってきた。
衝撃と驚きで、体勢がグラリと揺らぐ。

【空】――ッ!

気を抜いてしまっていた私自身に、
心の中で悪態を吐きながら、
即座に右手で銃を引き抜く。

ほとんど反射的に、ぶつかってきた奴へ
銃口を向けて、引き金を絞った。

――――――ッ!

【???】ひゅいぃ!?
わ、わ、わ、うわわわわッ!!?

【空】外した……ッ!

【???】まま、待って! 待って!!
あわわわ、ごめんなさいごめんなさいッ!!
撃たないで! 撃たないでぇえええッ!

【???】すみませんでした勘弁してください!
謝ります土下座します何でもしますぅうう!!
足でもナニでも舐めますからぁああッ!

【空】…………?

掴みかかるでもナイフを取り出すでもなく、
私に向かって土下座してきた誰かを見下ろす。

女の子だ。私よりも、背が小さい。
青い髪をツインテールにした女の子。
彼女はガタガタと震えながら、

【???】うぅぅぅ……!! 
死にたくない、死にたくないぃいい……!
許してくださいぃぃいいい……!!

【???】だ、だけど私、経験ないので……ッ!
せめて乱暴に突っ込むのだけは……ッ!

【空】……何の話をしてるの?

【???】へ? はれ……?
お、女のヒト?

両手で帽子を押さえる恰好の女の子が、
恐る恐る、といった感じで顔を上げる。
そして、

【???】ひぃいいいッ!

銃口が向けられていることに気付いて、
またすぐに顔を伏せてしまった。

【空】(……変な子。
すぐに襲い掛かってはこないかな?)

そう思った私は引き金から指を離して、
銃口を上に向けながら、

【空】ゴメンね。ほら、銃は上げたよ。
襲って来ないなら撃たないから、
立ってもいいよ。

【???】うぅ……本当に……?
……はい、立ちます。

女の子が帽子から手を離して、
そのまま軽く両手を上げながら立ち上がる。

パッと見た感じでは、得物は持ってなさそう。
取り出しやすいところをサッと眺めて思う。

腕っぷしも強くはなさそう。
妖気も怪しげな気配は感じられない。
でも、用心のために銃は仕舞わないまま、

【空】すぐに謝ってくるなんて、珍しいね。
でも、すっごく苦労しそう。
弱みに付け込んでくるヒト、多いもん。

【???】た、たはは……。
そりゃ、恐ろしい……気を付けるよ。
なにぶん、慣れないもんで……。

【空】? 慣れないって?
この辺の妖怪じゃないってこと?
別の地区から?

【???】あ、あー、いや……まぁ……。
あ、でも、怪しいもんじゃないんです!
私、河城にとりって名前で――。

【空】いや、そこまで聞いてないけど……。
まぁ、いいや。弾が外れて良かったね。
私、あんまり外さないんだけどな。

【空】ホント、気を付けた方が良いよ。
次は外さないと思うし、それより、
ぶつかる前に撃っちゃうと思う、から……。

【にとり】あ、はは……はい、すいません。
……あの、もう、行っても?

【空】うん。引き留めたつもりは無いからね。
バイバイ。売られないようにしてね。
……アナタ、高価く売れそうだから。

言ってて反吐が出そうになる。
嫌な思い出が脳裏を掠めて、
私は自分の口を左手で抑える。

だけど、この地底世界では良くあること。
道端のゴミくらいありふれていて、
呼吸のように身近なこと。

私の忠告を聞いたにとりは、
指先で頬を軽くかきながら、

【にとり】うぅ……怖いなぁ……。
ぶつかっちゃって、すみませんでした。
ありがとう。それじゃ……。

言って、私に頭を下げると、
小走りで路地裏の薄暗がりに消えていく。

【空】(――ありがとう、だって。
純粋だね)

にとりのことを、そんな風に思う。
私が失ってしまったモノだ。
いや、もしかしたら最初から無かったかも。

地下世界は、私たちが純粋で居ることを許さない。
私たちのこの社会は何も知らない奴に、
嘘と、暴力と、理不尽を突きつけてくる。

10年前、ここは地獄じゃなくなった。
だけど、この街は地獄であることを、
止めるつもりは無いみたいだ。

弱い奴は、強い奴の食い物にされる。
絶えず降りかかる悪意に対処できなければ、
あっさりと踏みにじられてしまう。

私はそれを、痛いくらい知ってる。
それは私という存在に、深く刻み込まれてる。
何があっても、絶対、消せないくらいに。

純粋だった頃には、もう戻れない。
私は汚れてしまったから。歪んでしまったから。
でも、戻りたいなんて、ちっとも思わない。

優しさ、純粋さ。美徳とされる清い心。
そんな無垢な魂の持ち主が生きるには、
あまりにも、この世界は残酷すぎるから。

私は彼女の背中が見えなくなるまで見送って、
それから銃を仕舞い、中央通りへと歩き始めた。

――煙草を吸いながら、雑踏の中を進む。
ときどき、拳銃のグリップの感触を確かめつつ。

すれ違うときに私の顔を見て、
怯えたように道を譲るヒトが何人かいた。
慌てて目を逸らすような反応も、いくつか。

そういう反応に、私は少しだけホッとする。
良かった。私も、怖がられる側になれた、って。
そう思われれば、この街で生きやすくなる。

昼も夜もない、眠らない街。
いつ見ても混雑してる大通り。

ガタガタな影を落とす積み立て長屋。
そこかしこから聞こえる、呼び込みや喧嘩の声。
常に定まることのない、色んな臭い。

無限雑踏街は、けっして生きやすい街じゃない。
ヒト、モノ、カネ。そうした流れが大きい街。

そのうねりに逆らうか流されるか、
どっちにしても波の中なのは変わらない。
溺れたくないなら、必死に浮き上がらなきゃ。

【空】(私は、浮き上がれてる?)

それは、私には判らない。
そういうのを考えるのは、お燐の役目だ。
ここで成り上がる、と決めた彼女の。

私は、彼女から言われる仕事をこなすだけ。
殺せと言われたヒトを、殺すだけ。

楽な生き方だ。何も考えなくていいから。
それに、覚えることも最低限で済む。
頭が良くない私に、ピッタリだ。

小汚い立ち飲み屋の角を曲がって、
ちょっとした小路に出る。
ヒトの数が少なくなって、小さく息を吐いた。

【空】(そういえば、私……)

【空】(天然モノを出してくれるお店なんて、
どこにあるのか判んないや)

私が知ってるのは、とにかく安くて、
お腹にたまるモノを出す店くらい。
高級なお店なんて、入ったこともない。

当てもなく歩いてはみたけれど、
どこもかしこもピンと来ない。
狭くて汚くて、安いお店ばっかりだ。

銀貨が1枚あれば、
お腹一杯飲んで食べても充分お釣りがくる。
そんな、大衆向けの憩いの場所。

【空】(中心街の方に行かなきゃ、
駄目だったかもしれない……)

私は手頃な軒先に背中を預けて、
新しい煙草に火を付ける。
吐き出した煙の行く先を、目で追って。

ここは無限雑踏街の外れの方。
先へ進んでも、行き止まり。
旧都を分割する石壁がそびえるだけ。

壁の向こうは、無限雑踏街とは別の街。
鬼たちの縄張り、『鬼寄街』。
入るための門は、この先にはない。

【空】…………。

【空】……嫌だな。

区画分けのための高い石壁から目を逸らす。
今でも、鬼は嫌い。怖くて堪らない。
無限雑踏街じゃ見かけないのが幸いだ。

根元まで吸い終えた煙草を踏み消して、
ここから離れようと決心する。
鬼の街が近いのは、落ち着かない。

雑踏の中を戻るのは憂鬱だったけど、
ここでウダウダしてるより遥かにマシ。

大通りに1歩、足を踏み出した途端、
ヒト混みの中から視線を感じて。
見ると、不思議な瞳が私を捉えていて、

【???】――あら、お空さんじゃない。
こんなとこで逢うなんて、奇遇ね?

と、親しげな声。あれ、と思う間もなく、
ポケットに突っ込んでいた右腕に、違和感。

【空】――ッ!!???

気付けば女の人が私の腕に絡みついていた。
ギュ、と身体を密着させて、
知らない顔が私を見上げて微笑んでいる。

フワフワとした金髪の女性。
緑色の瞳は翡翠みたいだった。
妙な色のモノクルを、左眼に付けている。

知らないヒト。逢ったこともないヒト。
右腕、ガッチリとホールドされてて、
とっさに銃を引き抜くこともできない。

【空】だ、誰、誰なの……!?

【???】自然に振る舞って。
誰かに尾けられてるみたいなの。

私の耳元に顔を寄せたそのヒトが、
真面目な声音でそっと耳打ちしてくる。
フワ、と華やかな香りが鼻をくすぐった。

【空】え、あ、その……。

【???】最近、お店にも顔出してくれないじゃない。
忙しいのは知っているけれど、
たまには息抜きしないと身体に毒よ?

言って、そのヒトは私の腕を引っ張るように、
大通りとは逆の方へ歩き始める。
私の腕に、ピッタリと身体を絡めたまま。

半ば引かれるようにして、
私も彼女と歩調を合わせる。
まだ、頭の中は「?」でいっぱいだ。

尾けられてる? 誰が? 私?
いや、違うか。このヒトが?
どうして? それで、なんで私に?

理解が追い付かない。
どうすべきかも判らなくて、
私は無言のまま、状況に流されていた。

【???】……諦めてくれたみたいね。
あぁ、怖かった。
判る? 私、まだドキドキしてる。

ふぅ、とため息を吐いた彼女が、
立ち止まって私の方を見上げてきた。

鼓動。確かに、彼女の柔らかさの向こうから、
抱き着かれている私の腕に伝わってくる。
全力疾走の後みたいに、早くて。

慌てて、彼女が絡む腕を振りほどく。
見ず知らずの私に身体を預けてくるなんて、
このヒトはコールガールなのだろうか。

春をひさいで日銭を稼ぐヒトたち。
いちばん、苦手なヒト達だ。
でも、それにしては――。

【???】驚いたでしょう? 空さん。
巻き込んじゃって、ゴメンなさいね。

【???】けれど、他にちょうどいい対策が
思いつかなかったから。
やっぱり女ひとりだと、この街は危ないわね。

【空】いや、うん……。
それは別に、良いけれど……。
……どうして、私の名前を知ってるの?

【???】この街で、アナタを知らないヒトが居て?
商会傘下の掃除屋。スカベンジャー。
無限雑踏街で、一番怒らせちゃいけないヒト。

【???】私はパルスィ。水橋パルスィ。
種族は橋姫よ。一応、ね。

パルスィと名乗った彼女は
優美なしぐさでゆったりと腕を組むと、

【パルスィ】お礼、しないとね。
助けてもらったお礼。
お詫びと取ってもらってもいいけれど。

【パルスィ】私のお店、この先にあるの。
少し飲んでいってよ。
安くしておくから。

そう微笑んで、
私の返事も待たずに歩き出す。

【空】(……どうしよう)

【空】(ついて行かないとダメかな……?)

知らないヒトについて行っちゃダメ、
なんて、誰かに言われるまでもない。
私だって、この街の住人だ。

とはいえ、少々の厄介ごとなら、
自分で何とかできる自信はある。
男のヒトに囲まれても、銃さえあれば。

お酒が飲めるお店を探していたのは確かだし、
でも、彼女について行っていいのか迷うし。

なんて、どうするべきか悶々としてると、
前を歩いていたパルスィが振り向いて、

【パルスィ】どうしたの?
私が何かするかもって、思ってる?

【空】……うん、まぁね。
ほら、逢ったばっかりだし……。

【パルスィ】あら、正直ね。

【パルスィ】でも、この無限雑踏街で、
アナタに手を出すようなヒト、居るかしら?

【パルスィ】少なくとも私は、
そんなに無謀じゃないし、
恩を仇で返すつもりもないのだけど。

【空】口では何とでも言えるよ。

【パルスィ】えぇ、そうね。その通り。

【パルスィ】だからいざとなったら、
私を殺せば良いじゃない。
それくらい、簡単でしょう?

彼女が気分を害した、とばかりに、
眉根を寄せながら言った。

その程度で揺らぐほど柔じゃないつもり。
だけど、彼女の言い分も間違ってない。

結局、私の背中を押したのは、
もう当てもなく大通りに戻るのが面倒、
という、思考停止を求める声だった。

【空】――うん、判った。行くよ。

【パルスィ】それは何より。
こっちよ。そんなに歩かないから。

彼女は特に表情を変えることもなく、
無感情な声で言って、踵を返す。
歩き出すその背中を、私も追って。

大通りの喧騒が遠のく。
誰ともすれ違わない道を、無言で進んで。
近付く鬼寄街に、嫌悪感がいや増して。

10分も歩かなかったと思う。
2本の煙草を吸い終えて踏み消したくらい。
彼女が年季の感じられる建物の前で止まった。

【パルスィ】ここ。
久しぶりだわ。お客さんなんて。

パルスィは軽く微笑んで、
塵で汚れた看板をハンカチで拭う。
ドアに提げられた、木製の看板だった。

――『Bar Freiceadan』

【空】えっと……。
バー……?

【パルスィ】バー・フレキャダン。
語感が素敵でしょ?
さ、入ってちょうだい。

軋む音を立てるドアを開けて、
パルスィが私に手招きをする。
薄暗い店内に、ヒトの気配はない。

【空】(誰も待ち伏せしてない、か……)

パルスィの肩越しに店内を確認してから、
うん、と頷いて店の中に入る。
彼女が扉を閉めて、機関灯をともす。

オレンジ色の明かりで、
板張りの店内が仄かに照らされた。

カウンターに、脚の高い椅子が4つ。
丸テーブルが2つ。全部で8席の小さなお店。
壁には、ドライフラワーの花束が飾られてる。

お店の角には棚があって、
棚の上には変な形のモノが置いてある。
花みたいな形の金色の金属と、四角い箱。

それは何? と聞くよりも先に、
パルスィがその箱の上に黒い円盤を置いて、
スイッチをオンにする。

ゆっくりと円盤が回り始めると、
落ち着いた感じの音楽が流れ始めて。

【パルスィ】適当に座って。
何にする?

カウンターの向こうに行った彼女が、
営業スマイルを浮かべながら言う。
私は音楽を奏でる機械を指さして、

【空】何? あれ。
誰も触ってないのに、音が出てる。

【パルスィ】ん?
……あぁ、蓄音機のこと?

【パルスィ】すごいでしょ。
知り合いが地上の妖怪から贈られたのを、
このお店にって譲ってくれたの。

【パルスィ】たぶん他には、どこにもないわよ。
勝手に演奏してくれる機関機械なんて。

【パルスィ】流れてるのは、ジャズ。
けっこう、いい雰囲気でしょ。
空間が華やかになる、みたいなね。

【空】……うん。素敵。

【空】すごく……素敵。

パルスィの顔も見ずに、生返事。
私の両目、蓄音機に留まったままで。
流れてくる柔らかな旋律に、心を奪われて。

あるんだ。この世界に。
こんなに、綺麗なもの。
私の心、溶けてしまう。

音は、ただ流れているだけ。
私に向けて奏でられてるわけじゃない。
ただそこにあるだけで、こんなにも優しい。

私の鼓動、すごく早まっていた。
呼吸の音さえ、うるさいくらい。

知らない。知らなかった。
泣きたいような、笑いたいような。
こんな思い。こんな感情。

【パルスィ】――心ここに在らず。
……って感じね、殺し屋さん?
子どもみたいに、目を輝かせて。

【パルスィ】ま、ゆっくりしていって。
止めないし、急かさない。
アナタだけの時間を、あげるから。

どこか温かなため息を1つ吐いて、
パルスィがカウンターの更に奥へと引っ込む。
その後ろ姿も、視界の端を掠めただけ。

1人きりになって聞くジャズの演奏。
とてもキラキラしてて、楽しくて、
私の心の中の重苦しいのが消えてくみたい。

こんなに楽しくていいのかな、って、
怖くなってくるくらい。
いつも怠らない警戒さえ、解いていて。

【空】(あぁ、私……)

【空】(……ここ、好きだ)

どれくらい振りだろう。
煙草も吸わないままで、落ち着けるなんて。
ここまで、気を抜くのなんて。

アップテンポから、スローテンポへ。
ゆったりと落ち着いた曲から、
心が躍り出すような明るい曲へ。

小さい子の表情みたく様々な曲調に
変化する演奏に聞きほれながら、
いつしか私はゆっくりと目を閉じていた。

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