『今夜だけ間違いじゃないことにしてあげる』
・蓬莱山輝夜 藤原妹紅
迷いの竹林に存在する診療所、永遠亭。
そこに匿われている月の都の姫、蓬莱山輝夜はすっかりこの時世に飽いてしまっていた。
「へぇ、姫様って結構お酒飲むんだね?」
人里のとある居酒屋にて、輝夜は随分と景気よく酒を飲んでいた。
深夜、輝夜は身分を隠してよく人里に飲みにくる。
隠していると言っても、その出で立ちはどう見てもやんごとなき身分のソレである。
故に、輝夜は場末の飲み屋でも周りから「姫様」扱いを受けていた。
日頃の退屈を紛らわせる為なのか、それとも純粋に人が恋しいのか、輝夜はよく人里の飲み屋に入り浸る癖があった。
それも、傾向的には場末の庶民的な居酒屋を好んでいる節があった。
元からきっぷの良い性格である彼女は随分と人々から好かれていた。
「姫様、そんなつまらん奴らの相手じゃなくてこっちの席においでよ」
おまけに、輝夜はとにかく顔が良い。
彼女を独りで飲ませるような馬鹿な男などいない。
彼女が店を訪れると、自然と客同士の間で無言の「勝負」が始まるのだ。
今夜、一体誰があの姫様を口説き落とす事が出来るか?
輝夜は生まれつき男たらしの気質がある。
彼女もその酔の水面下に漂うヒリヒリとした駆け引きを心の底で『愉』しんでいる様子であった。
「えー? じゃあ今夜はお兄さんのとこにお邪魔しちゃおうかなー?」
顔を紅潮させながら輝夜はからかうように笑って見せる。
酒量に合わせて夜が深くなる。
そんな時、珍しい客人が店の戸を開いた。
「……げっ」
その客は白い髪を揺らしながら、苦そうな表情を浮かべた。
彼女は藤原妹紅、竹林の小屋に暮らす謎の多い少女である。
妹紅は店の奥で複数人の男共を侍らせて高笑いしている輝夜を見て、思わず引き返してしまいそうになった。
「……あら、どうしよう。つまんないのが来た」
妹紅の視線に気付いたのか、輝夜は随分と冷めきった顔をしていた。
「姫様の知り合いかい?」
輝夜ほどではないが、妹紅も人里の間ではそれなりに評判の高い少女ではあった。
人里で急患が出た際に竹林の診療所への案内を買って出てくれる恩人だからである。
しかし、如何せん彼女は謎の多い少女である。
彼女の素性を知る者が少なすぎるのだ。
故に、感謝しながらも、人里の人々は内心で妹紅の事を遠ざけていた。
一度足を踏み入れた手前、咄嗟に出て行くのも何だか違う。
妹紅はぎこちない様子で、輝夜の席から出来るだけ離れた場所に座った。
本当は、寺子屋の教師であり、旧知の仲である上白沢慧音を誘って二人で飲みに来るつもりであったが、あいにく、慧音には片付けなければならない仕事があった。故に、仕方なく妹紅は一人でこの店に立ち寄る羽目になったのだ。
彼女にとって今夜は何だか、全てが上手くいかないような、そんな空回りな夜であった。
(一杯だけ飲んで、とっとと帰ろう)
熱燗頼んで、喧騒の中に自分の存在を紛れさせるかのように妹紅は黙る。
「おーい妹紅、こっち来なさいよー」
輝夜は感情のない不気味な声で妹紅の名を呼びながら手招きする。
周りにいる男共も妙に居心地の悪そうな様子であった。
(……おいおい、頼むから放っとけよ)
身体を切り刻まれるような想いで妹紅は輝夜の声を無視した。
「ほら、やっぱりつまんない」
あんなジメっとした子なんて放っておいて、飲み直しましょう。
輝夜はそういって追加の酒を注文する。
今夜だけは、忌まわしい筈の孤独が何となく「救い」に思えた。
しかし、事あるごとに輝夜は静かに一人、晩酌を続ける妹紅の背中を見つめた。
周りにいる男達の下世話な自慢話に耳を傾ける事もせずに。
妹紅も、彼女の視線に気付いている。
(……何見てんだよ)
苛立ちが遠巻きにも分かる。
それが愉快で仕方ないのか、輝夜は顔を赤らめながらクスクスと笑う。
「ねぇ、妹紅ー、お酒無くなっちゃったー」
お酌してー、と杯を掲げて見せる。
妹紅はそれを頑なに無視する。
こんな歪なやり取りが何度も続いている。
……まぁ正直、店内には「白ける」ような空気が溢れ返ってしまっていた。
……あれ? これって私のせい?
妹紅は居心地の悪さと妙な疑問を抱きながら酒を飲み続けた。
当たり前だが、酔える訳もない。
「ねぇー、ねぇ、妹紅ってばー」
そんな空気に気付ける筈もなく、輝夜はカラカラと顔を真っ赤にして笑い続けた。
いや、本当は気付いているのだろうが、あえてこの居心地の悪さを愉しんでいるのだろう。
随分とまあ、悪辣である。性質が悪い。
(全然放っておいてくれないじゃんね)
何だか、一人でギスギスしているのが馬鹿らしくなった。
壊れたように絡んでくる輝夜を見て、妹紅はくっだらねぇと思いながら酒を追加する。
何であんなどうしようもない女に気を遣わなきゃいけないんだ。
「姫様は随分と、あの妹紅って子を気にするんだね」
すると、男の一人がどうにか歪み切ったこの空気を打開するために輝夜に話題を振る。
「んー? そんな事ないよー」
輝夜は素っ気ない表情を浮かべ、すぐさま周りに笑顔を振舞う。
「あの子はねー、いつも一人ぼっちで辛気臭いのよ。私、ああいう子って見ててイライラするのよねぇ」
あんな生き方してたら、人生楽しくないでしょうねー。
輝夜は妹紅にもはっきり聞こえるように、わざとらしい声で宣う。
妹紅は鼻を鳴らして輝夜の話を流し続けた。もう、聞こえないふりは通じないだろうけどさ。
「それより、お兄さん達と一緒に飲んでる方が『愉』しいよー」
そう言って輝夜は酒を飲み続ける。
……何となく、鬱憤を晴らすかのように、無理をしているようにも見える。
「でも姫様……そろそろやめにした方が良いと思うよ。酔いも大分回っていると思うし」
「えー何でー? 私、全然まだまだいけるよー、全然酔ってないれすよー?」
それは酔い潰れ寸前の常套句である。
にへらーと笑いながら、周りの静止も聞かずに輝夜はアルコールを身体にぶち込み続けた。
その結果……。
「うぅ、ふにゅう……」
極楽じゃー。
そう言って輝夜はテーブルに突っ伏してしまう。
「ほら、だから言わんこっちゃない」
周りの男達が率先して輝夜を介抱しようとする。
「こんなになるまで飲んで、帰りはどうするつもりなの?」
問われた途端、輝夜はぼわんとした表情のまま、透き通るような声で言い放った。
「だったら、お兄さん達が私を連れ帰ってよー」
何処までも、甘美な響きであった。
男達の目が一斉に色めき立つのが分かる。
この場にいる人々は知る由もないが、ここで無様に酔い潰れているのは、歴史に名を遺した稀代の美女なのだ。そんな彼女と、一晩を共にするまたとない好機が目の前にあるのだ。
しかし――。
「帰るぞ、輝夜」
周りが口を開くよりも早く、彼女に手を差し伸べる者がいた。
それは、先ほどまで隅っこでちびちびと酒を飲み続けていた妹紅であった。
皆が揃って恨めしそうな目を妹紅に向ける。
しかし、妹紅はそれを無視し、輝夜だけを見つめていた。
「……にひひ」
顔を真っ赤にしながら、輝夜は何処までも『楽』しそうに妹紅の腕を掴んだ。
「何処へ連れてってくれるの?」
「お前の家だよ、バカ」
周りの空気など総無視し、会計を済ませて二人は店を出て行く。
残された男達は唖然としながらも、何処か、嵐が過ぎ去ったような、ある種の安堵を抱いた。
とてもじゃないが、蓬莱山輝夜は自分の手に負える相手じゃない。
皆、何となく、それを分かっていたのだ。
そんな彼女に一切気負いなく、躊躇なく手を差し伸べられる者など、この幻想郷には一人しかいないのだ。
・・・
「にへへー、妹紅ってば優しいんだからー」
妹紅におぶられながら、輝夜は上機嫌に彼女の首に手を回した。
「暴れんなって。……ああもう、お前さ、ちゃんと自分で歩けよ」
千鳥足のまま、妹紅はすっかり出来上がってしまった輝夜を背負って迷いの竹林を歩き続ける。
「……ねぇ妹紅、良い夜だね」
「最悪だよ。二度と御免だ」
酒気帯びっぱなしのまま、輝夜はたどたどしい口調で語りかけ続ける。
「良い夜だよ。ホントに」
歪に欠けた月の灯りに照らされながら、二人は永遠亭を目指す。
「ああ、これで背中にお前がいなけりゃ、良い夜なのかもな」
「あー妹紅、何言ってんのよもー、全然可愛くないーっ!」
へべれけの問答にも疲れた。妹紅は道順を確認しながら竹林を歩き続ける。
すると――輝夜はふっと柔らかな笑みを見せて、それでも、相変わらずからかうような顔で口を開いた。
「……今日の私、幻滅した?」
「……何が?」
「私だってさ、はしたないって思うよ。公の場であんな風にお酒飲んで、馬鹿みたいに愛想振りまいて、ちやほやされてさ。あんな私を見て、妹紅はどう思った?」
どう、と言われても困る。
「別に、何も思わないよ」
「嘘、絶対ガッカリしたでしょ?」
本音を言うと、それは図星であった。
人里の庶民的な居酒屋でケラケラと安っぽく笑う輝夜など、正直見ていて心にくるものがあった。
妹紅の知っている蓬莱山輝夜はもっと気位が高く、常人とは決して交わる事のない天下の人間なのだ。
そんな彼女の、安酒に乱れた姿を見て、何も思わないと言えば、嘘になる。
「何でそんな事聞くんだよ」
「……言わないと分かんない?」
ごめん、苦しい。
妹紅の首に手を回しながら、輝夜は自身の手が強張っている事に気付いた。
酷く、汗ばんでいる。
今年の夏はとても、嫌な温度だ。
「懐かしい光景だな、とは思った」
無理難題、その言葉が頭をよぎる。
「何かさ、たまにこういう夜が来るのよ。突然、何かを間違えたくなる夜がさ。自分の本来あるべき姿が、何もかも嫌になって、故意に正反対の事をしてみたくなるの」
「……お前さ、何に言い訳してんの?」
いいから聞いてよ。
輝夜はとろんとした目つきで言葉を続ける。
「アンタなら、分かるでしょ?」
私にだってあるよ、こういう夜も。
その一言で、全てに納得がいく自分が腹立たしい。
輝夜が抱えている苦悩は、痛いほど理解出来てしまう。
「時間は残酷に巡り続ける。今宵、私を口説こうとした男の人達も、いずれ必ず過去になる。私の手には、確かな物なんて何一つ残らない。永遠に死なないなんて、そんなの、永遠に死んでいるのと同じで」
蓬莱の薬、不老不死の妙薬。
永遠に許されぬ咎人の声であった。
「黙れよもう、酔い過ぎだ」
「……ごめん」
一体、それは何度目の後悔だ?
基本的に輝夜は心情を表には出さない。
それが無意味だという事を知っているからだ。
だからと言って、傷一つ付かないほど頑丈には出来ていない。
彼女にだって苦悩や葛藤がある。
人に言わないだけで。
「ごめん妹紅、聞きたくなかったよね、こんな話。私がこんな事言うのは、流石に酷いよね。ごめん」
「……だから、もう黙れって」
こっちが恨まれたり、憎まれたりするのは構わない。
ただ、輝夜が己を哀れに思うのは、絶対に違う。
それは、それだけは堪えられない。
「頼むから、謝るなよ」
それでも、輝夜は申し訳なさそうに、妹紅に謝罪し続けた。
「ごめん、妹紅、ごめんね……吐くから下ろして。お願いだから今すぐ茂みの方に行かせて」
「……輝夜、今夜の事はなかった事にしよう。私も忘れる。こんな夜は、二度と御免だ。ふざけんな」
「ねぇ、ねぇ妹紅。お願い、話をちゃんと聞いて、ごめん、ごめん、お願いだから下ろして、うう――ッ」
こんな事は、今夜が初めてという訳ではない。
これまでも幾度かこういう夜があった。
いつも常に気丈に振舞う輝夜が、酷く弱ってしまう夜が。
輝夜は妹紅と同じだ。
いや……ある意味、妹紅以上に彼女は孤独な運命を生き続けてきた。
肉体は死なずとも、涙は枯れない。
償いきれない後悔のなれの果てに孤独と酩酊と。
果たして人はこれを愛と呼ぶか?
傷を癒す事を愛と呼ぶか?
慰めの愛撫にしてはあまりに独りよがりに求め過ぎだ。
永遠に枯れる機会を失った死人が二人、永遠に美しいまま、夜を跨ぐ。
酒の苦みを己が人生に照らし合わせながら、永久に二人ぼっち。
分かったよ、もう分かったから。
この話は、千年も前に終わったじゃないか。
嘆いても仕方がないんだよ。
「妹紅、ヤバい、マジで。お願い、一生のお願いッ、やだっ、やだっ、んんんん――ッ‼」
「仕方がないから、私はお前と一緒にいるんじゃないか」
……ところでさっきからこの姫様は何を呻いているんだ。
「うううううをををを……ッ!」
このままだと私、穢れちゃう。
「人の背中でええええッ‼ 何をやろうとしてんだお前はああああッ⁉」
吐瀉物が口から噴出される直前に、妹紅は輝夜の身体を投げ飛ばした。
いい感じに生い茂った場所へと着地し、輝夜はそこでマーライオンのように全ての業から解き放たれる。
……。
しかし、そこに、二人分の足音が近付いてくる。
こんな夜中に竹林を歩くバカなどいない筈だが。
タイミングが悪い事にその二人は、輝夜が盛大に嘔吐している目の前に現れた。
暗がりの中、歪な呻き声と共に口からヘドロをぶちまける様相を見て、彼女達は――。
「ぎゃあああああああっ、たいげてえええええええええ(助けて)ッ‼」
大反吐かます姫様を、何かの怪物と勘違いしたのか、二人はそのまま一目散に逃げ去ってしまった。
その様子を見て、妹紅は頭を抱えた。
こんなゲロ女と同じ時間を永遠に刻まなきゃいけないのかと思うと死にたいよ。
ところで、何の話してたんだっけ?
輝夜の背中でも擦ってあげようと思い、妹紅は恐る恐る彼女の方へと歩み寄ろうとするが……。
「いやああダメぇ! 見にこないで! こんな私を見ないでっ! やだあああおおろろろろろろ……ッ!」
叫びながら胃の中の全てを吐き出していく輝夜を見つめながら、妹紅はそこでようやく眠気を感じた。
すっかり身体の毒素を吐き出し切った後、輝夜は竹林の真ん中で座り込んだまま微動だにしなくなった。
「……輝夜、帰ろうぜ」
妹紅がイラついた様子で輝夜に語りかけるが、輝夜はぐったりしたまま首を振った。
「……やぁーだー」
どうやら、吐いた事によって完全に意識がブレてしまったらしい。
「こんなとこで座ってても埒明かないだろ。さっさと帰るぞ」
だが、輝夜は立とうとすらしない。
それどころか、輝夜はそのまま首を刻々と揺らしながら瞳を閉じてしまった。
……コイツ、ここで寝る気だ。
「いい加減にしろってこのバカ! ほら、とっとと起きろーッ!」
「やーだーっ! いいもん、私もうここで暮らすからいいのーッ!」
ここで暮らすだぁ?
じゃあトイレとかお風呂はどうすんだよ?
「その辺でするからいいもん、お風呂なんて入らないもん」
色々ツッコミを間違えた気がするが、妹紅は苦笑いを浮かべながら質問を重ねた。
「じゃあお台所は?」
「えーっとね、そこー」
輝夜は適当に竹藪の一部を指差す。
思わず妹紅は「ふはっ」と吹き出してしまう。
「じゃあ布団とかどうすんの?」
「今夜は暑いもん。だから布団なんて要らないし」
妹紅はケラケラと可笑しそうに笑った。
それが、何となく不満だったのか、輝夜はむっと頬を膨らませ、妹紅の腕をぎゅっと掴み、思い切り引っ張る。
「お、おい」
妹紅は力無く、輝夜に覆いかぶさる形で倒れてしまった。
「……」
「……」
互いに無言であった。妹紅は無表情のまま何も言わず、すぐに輝夜の横にころんと転がる。
二人して竹林の道に横たわりながら、互いの顔を見続ける。
「……」
「……」
夏の夜風が竹を揺らす。
その狭間を縫うように月の灯りが木漏れ日のように二人を照らす。
「……」
「……」
何も言わず。何も言えず。時間だけが過ぎ去っていく。ようやく、輝夜は口を開いた。
月が、雲に隠れてしまった。
「……」
「……っ」
一帯が闇に覆われる。
互いの顔が見えなくなったタイミングで、輝夜はそっと、妹紅に向って囁いた。
「妹紅、私を――」
囁こうと、した。
「言うな」
今夜は、全てが間違っている。
だから、何も言うな。
「違う、違うよ」
「何が」
これは、間違いなんかじゃなくて。
これはきっと、確かな事の筈で。
……それでも。
時刻は午前0時52分――。
その先は、言わなかった。
言えなかった。