『時計台の鐘』
・上白沢慧音
針は0時52分を指したまま、凍り付いていた。
元々、その少女は人間であったが、ある日を境に人々から遠ざけられる事となる。経緯は不明だが、少女の身体が突如妖怪化するという、何とも奇怪な異変が起こったのだ。この時代、異形である事は人間としての死を意味している。忌むべき怪異の一種として淘汰の対象とされてしまうのだ。
幼かった彼女はそれまで暮らしていた集落を追い出され、行く当てもなく各地を彷徨い続けた。
そうして辿り着いたのが、極寒の雪山にひっそりと佇む時計台であった。
だが奇妙な事に、そこには先客がいた。
寒さを凌ぐ為に時計台の元に入ると、そこに一人の少女が倒れているのを見つけたのだ。
慧音は急いで彼女の元へと駆け寄る。息はあるが、その瞳には一切の生気が感じられなかった。
まるで、生きる事を拒絶するかのような瞳であった。
「あの時計台には怪物が住み着いている。歳を取らない、殺されても死なない、炎の怪物だ」
ここに辿り着く道中の村で耳にした噂話を思い出す。
怪物、その言葉を頭に浮かべながら倒れた少女を見つめる。
……どう考えても、彼女には当てはまらない言葉であった。
暖を取る為、慧音は急いで時計台の中で小さな焚火を起こし、倒れた少女の身体を温めた。
……どうやら、少女は口が利けない様子だ。言語を知らないのではなく、それを操る為の理性が欠落しているように思える。長らく、誰とも口を利かなかった人間の末路のように。元々甲斐甲斐しい性格であったせいか、何となく、慧音は彼女の事を憐れみの表情で見てしまった。
何があったのかは知らないが、彼女は何を考えているのか分からないような呆けた表情でこじんまりとした焚火を見つめるばかりであった。何も喋らず、意思表示の一切を知らない幼児のように。
明らかに、正常ではない。
それに……ここは常冬の地であった。
だというのに、少女は薄着のまま、人知れずここで眠り続けていたのだ。
常人ならすぐに凍え死んでしまうほどの気温である。
彼女はこの凍てつく氷の中にありながら、今の今まで眠り続けていたのである。
怪物、という言葉は似合わないが、どうやら「殺されても死なない」というのは本当らしい。
しかし、慧音はそれを少なからず不気味とは思ったが、拒絶しようとは思わなかった。
慧音は、後天的な獣人だ。当然、その正体を知った人々はこぞって慧音を迫害した。今まで、幾度も理不尽な孤独を強いられてきたのだ。そんな彼女にとって、誰かが傍にいるというのは、どうしようもなく「救い」のように思えたのだ。
「あなた、名前は?」
当然、返事はない。彼女は問いかけられた事にすら気付かず、朧げな眼差しで虚空を見つめ続けた。
ここなら、少なくとも外敵はいない。幸い、この時計台は人々の集落から遠く離れている。
「大丈夫だよ、あなたの名前は知らないけれど、私だけは、あなたを独りにはしないよ」
返事はない。それでも、幼い慧音はにっこりと笑って見せた。
半獣人である事から、慧音は通常の人間とは違って長い時間飲まず食わずでも死ぬ事はない。それに、ここは人のいない雪山である。本当に必要となれば山の中を散策し、必要な分だけの食料は確保する事が出来た。
その間、慧音は幾度も少女に語りかけ続けた。
返事はなくとも、慧音は献身的に少女に寄り添い続けた。
彼女は凍えて死ぬ事もなければ飢えて死ぬ事もない。
しかし、このまま放っておいたら死ぬ事はなくても「壊れて」しまう事はある。
いや……この時点でもう既に彼女は――。
だとしても、慧音は少女を見捨てる事はしなかった。
名前も知らぬ、何も語らぬ少女の為に、慧音はいつまでも時計台に居座った。
少女は今、何を考えているのか。
慧音に対し、何かしらの恩義を抱いているか、それとも、反対に疎ましく感じているのか?
少女は頑なに、何も喋らなかった。
まるで獣のように、人の心を介さぬように。
しかし……無邪気に物言わぬ少女に寄り添い続ける慧音であったが、彼女にも少なからず憂いがあった。
普段、慧音は他の人と何も違わぬ姿をしているが、「とある夜」だけは別だ。
満月の光を浴びた時、彼女はその姿を変貌させる。
人のソレではない異形の姿となってしまうのだ。
運よく、今はまだ満月の夜ではないが、怪物と化した自分の姿を見た時、この物を言わぬ少女は、果たしてどんな顔をするだろうか? 他の人間達と同じく、恐怖し、同様に自分を遠ざけるだろうか? 拒絶するのだろうか? それとも、相も変わらず無関心を決め込むのだろうか?
……それを考えると、憂鬱で仕方がなかった。
だが、この凍てつく時計台での生活は唐突に終わりを告げる。
ある日の夜、辺りに銃声が鳴り響いた。
この時期の日ノ本では、妖怪は嫌悪の対象とされていた。
妖怪の本質とは恐怖だ。人を襲い、恐れられなければ生きていけない。
故に、双方は歩み寄る事など出来ないのだ。
妖怪を恐れた人間は無慈悲な討伐を始めたのである。この国から、根絶やしにする為に。
当然、半獣である慧音もその対象であった。
誰かが、この時計台に暮らす二人の事を目撃したのだろう。
人々は討伐隊を編成し、二人を殺害するために時計台へとやって来たのだ。
銃声によって目が覚める。しかし、その時には既に時計台は討伐隊によって取り囲まれていた。逃げ場は何処にもない。子供であった慧音は何も出来ず、物を言わぬ少女に抱き着き、怯えるばかりであった。
討伐隊が時計台の内部へと侵入し、下卑た表情で二人に銃口を向ける。
殺される、そう思った時、突然――。
・・・
上白沢慧音は半人半獣でありながら、人里の寺子屋の教師を務めていた。
「慧音、久しぶりに飲みに行かないか?」
友人である妹紅が珍しく慧音を飲みに誘った。確かに、酔いに身を委ねるには丁度良い夜であった……が、慧音はその誘いをやんわりと断った。
「申し訳ございません、妹紅。今夜は片付けたい仕事がありますので……」
慧音はバツの悪そうな表情で、自室の机を見つめる。明日までに目を通さなければならない書類が溜まっていた。妹紅は「では、また別の日にでも誘うとしよう」と簡潔に応え、香ばしさが漂う人里の繁華街へと去っていった。せっかくの友人の誘いだというのに、惜しい事をしてしまったと慧音は後悔するが、本業を放って酒に酔うのはあまりよろしくない。それに……何となく、今夜はあまり賑やかな酒の席に身を置く気にもなれなかった。
溜まった仕事を一通り終えた後、慧音は自宅で一人、大昔の出来事を思い出していた。
幼かった頃、「炎の怪物」と出会った時の事だ。
「アレは、一体何だったのだろう」
あまりにも記憶が朧げであった。
それこそ、あの時過ごした時間そのものが、まるで酷く曖昧な白昼夢であったかのように――。
まるで「なかった」事にされてしまったかのように――。
「アレは、本当にあった出来事なのか?」
慧音は、確信を持てずにいた。
幼少期の記憶などほとんど残っていない。
気付けば、自分はこの幻想郷の人里で半獣である事を受け入れられながら過ごしていた。
ひょっとしたら、ただの空想、頭の中で作られた都合の良い記憶なのかもしれない。
あの後、私はどうなった?
人間の討伐隊に銃を向けられ、慧音は気絶してしまったのだ。
だが、意識が途切れる直前、感覚として覚えている事が僅かにある。
それだけは辛うじて覚えている。
凍てつくような寒さだったというに、撃たれる直前、まるで母の腕に抱きしめられているかのような温もりに包まれた事。何処までも心地良い、優しい炎に護られているような感触であった事――。
倒れる際に夜空を見上げた時、猛吹雪で途切れかけている空の向こうに、青白い満月が浮かんでいた事。
そして――凍ってしまった筈の鐘がけたたましく鳴り響いた事。
凍結した時間が動き出したかのように、時計台の鐘が鳴ったのだ。
「……考えても仕方ないか」
本当かどうかも分からない、そのようなあやふやな事で悩んでいてもしょうがないだろう。
慧音は仕方なさそうにため息をついた。
曖昧な記憶を思い出すうちに、すっかり時間が経ってしまっていた。
時刻は0時52分――。
思い出に浸るにはうってつけの夜、ではあるが。