『Introduction』
・鬼人正邪
・少名針妙丸
これは、幻想郷で『逆様異変』が起こる前の話。
時刻は深夜――。
幻想郷の末端にある小さな山の麓に残された家主の存在しない小屋。
太古のマジックアイテムである打ち出の小槌の力を使いこなす小人、少名針妙丸と、その相棒である天邪鬼、鬼人正邪は小屋の中で二人、布団の上に並んで寝転がっていた。
やけに長く感じる夜の一時、針妙丸が徐に正邪に問いかけてきたのだ。
「幻想郷に来る前、正邪は何をしていたの?」
彼女の相棒であり、半ば従者でもある天邪鬼、鬼人正邪はその問いに対し、見てわかるほどの難色を示した。
今までそんな事を聞かれた事など無かったし、正邪自身、あまり自分の事を誰かに話したいとも思っていなかった。しかし……それは別に天邪鬼特有の意地の悪さからくるものではなく、彼女の性格の悪さでもなく、単純に語りたくない理由があったのだ。
お互い、いつもならとっくに眠っている時間ではあった。
しかしどういう訳か、今宵だけは二人揃って眼が冴えてしまっていた。
正邪は妙に意味深なため息をつく。
そもそも、針妙丸は正邪と出会った時の事をあまり覚えていないのだ。
気付いたら一緒にいた……という、何とも曖昧な関係であった。
正邪はあまり自分の話をしない。
というのも、正邪はあくまでも針妙丸の持つ打ち出の小槌の力が欲しいが為に、彼女の従者のふりをして一緒にいるだけだ。故に、あまり余計な干渉をするのは得策ではないと考えていたのである。
そんな事などつゆ知らず、針妙丸は無邪気に「ねーねー」と正邪の裾を引っ張り続ける。
どうしようか、正邪はしばらく悩んだが……。
まぁ、この駄々っ子を寝かしつけるには丁度良い話かもしれない。
正邪と針妙丸は共に身を起こし、布団の上に胡坐をかきながらお互いの方へ向き直った。
「言っておくが……私もうろ覚えだから、あんまり本気にするなよ?」
何処から話すべきか……正邪は天井を見つめながら考え込む。
……今から正邪が話す内容は……端的に言えば『デタラメ』である。
しかし、全部が全部デタラメかと言うと、それは少し違った。
正邪が針妙丸に自分の話をしないのは、何も「彼女に対し余計な感情を持たないように」――などという一種の自戒めいた考えによるものだけではない。
正邪自身……己の記憶が、果たして本当の出来事だったのか、いまいち確信を持てずにいたのだ。
・・・
一人……本当に綺麗な女性がいたんだよ。
瓜から生まれた『瓜子姫』――。
それが、その女の名前だ。
「瓜から生まれた……だって?」
そんな荒唐無稽な逸話がついちまうくらい美人だったってだけの話さ。
川の上流から大きな瓜が流れてきて、その瓜は老夫婦に拾われるんだ。
その瓜を割った時に、中から一人の赤ん坊が出てきたんだよ。
子供のいなかった老夫婦は、その子供を「神様からの贈り物」だとでも思ったんだろうな。
二人は、その子に『瓜子姫』という名前を付けて、大層可愛がって育てたんだ。
次第に成長していくにつれ、瓜子姫は里一番の美人と呼ばれ、持て囃されるようになった。
瓜子姫の美しさは何も容姿だけじゃない。
彼女は誰とでも分け隔てなく接する、何処までも清らかな、心の優しい女性だったんだ。
「……その間、正邪は何をしていたの?」
……まぁ、何となくわかるだろう?
私は天邪鬼、悪さばかりするもんだから、人間達から嫌われまくっていたさ。
今とそんなに変わらないよ。
とにかく、話を戻そう。
瓜子姫が年頃の女性に成長した時の事だ。驚いた事に、この国一番の有力者であるお侍様が、瓜子姫に婚約を申し込んだんだよ。瓜子姫が暮らしていたのは片田舎だからな。そりゃあもうひっくり返るくらいの大事件だったのさ。瓜子姫の育ての親であるおじいさんも婆さんも手を叩いて喜んでいたよ。
正直、私はそれを羨ましいと思ったが、それ以上に……憎らしいと思った。
だってそうだろう? 私は、生まれながらにして嫌われ者だったのに。みんなから蔑まれて育ったって言うのにさ。片や、瓜子姫はどうだ? 美貌もあって、人徳もあって、挙句の果てにはお偉い様との婚姻だぞ? こんな不平等があってたまるか。そんなの、ちっとも面白くないじゃないか。私は、心底瓜子姫が嫌いになっちまった。
それこそ、殺してやりたいと思うほどに。
そこでな、私は、ある事を思いついたんだ。
瓜子姫に成り代わって、私があのお侍と結婚してやろうってな。
……。
何だよその顔は。
こう見えても、当時の私は変装の名人だったんだぜ?
そいつの衣服を着て、ちょちょっと顔を弄れば、どんな奴にも化ける事が出来たもんさ。
どうしてそんな事を思いついたかって?
愉快だと思わないか? 国で一番偉いお侍が正室に選んだのが、よりによって私みたいな国一番の嫌われ者の私なんだぞ? そんな事が国中の皆にバレたら……そう考えただけで、もう可笑しくて堪らなかったよ。
この悪戯が成功したら、きっと百年、二百年……いや、千年先まで語り継がれるような御伽噺になるぞ。
この国一番のお偉い侍を誑かした大悪党、伝説の天邪鬼としてな。きっと童謡にもなって、郷土料理の名前の由来とかにもなって、伝統的なお祭りにもなって……そうやって、これから先の未来で生きるガキ達が、私の一世一代の「くだらねぇ嘘」を面白おかしく笑うんだ。……こんなに痛快な事はないだろう?
『……私にとってそれは、この残酷な世界に対する唯一の『叛逆』なんだよ』
……いや、待て……。
今思えば……私にとっては、それこそが……。
この世界に対する、唯一の『叛逆』だったって事か……?
「『叛逆』?」
……。
……何でもないよ。
そうと決まれば、私は瓜子姫が一人になる瞬間を見計らって、彼女がいる家を訪ねたんだ。
人を疑う事を知らない女だった。だから、騙すのは簡単だった。
私は出まかせで瓜子姫を欺き、そのまま彼女を連れ去って裏山にある柿の木に縛り付けたんだ。瓜子姫の着物を奪って、私はまんまと瓜子姫に成り代わってそのままお侍様の屋敷まで嫁いじまったって訳さ。
「そ、それで……その後はどうなったの?」
・・・
「その後は簡単さ。婚姻前に私の正体がバレちまって、私はそのままお侍の家来に追いかけ回され、惨めな小悪党生活に戻る羽目になっちまった。そんで、瓜子姫は無事にお侍のところに嫁に行って、老夫婦共にいつまでも末永く幸せに暮らしました――めでたし、めでたしってな」
正邪が話し終わると、針妙丸は何処か不満そうな顔を浮かべた。
「えー、何かつまんないの」
「思い出話に向ってつまんないとはなんだ。それに、言っただろ? この話は私もうろ覚えなんだ」
これは真実ではない。
あくまでも正邪の中に微かに残る記憶の断片をちぐはぐに紡いだ、ただの作り話、ただの空想である。
そう、これは……作り話。
何処にでもある、ただのおとぎ話ってわけさ。
正邪はケラケラと笑いながら、針妙丸の小さな身体に抱き着き、そのままころんと布団の上に転がった。
「ほら、もう寝ろ。良い子はもう眠る時間だ」
珍しく正邪がじゃれついてくるもんだから、思わず針妙丸は無邪気な声を上げて笑った。
そのまま、二人は布団の上で眠りにつく事にした。
……。
心地良い静寂の中、針妙丸はほんの少しだけ不安げに呟く。
「正邪……さっきの話は、何処まで本当なの?」
「……」
何処まで、と問われると、途端に自信を無くしてしまう。
正直に言うと、正邪には確かと思える過去が一切存在しない。
何処までも歪な記憶が、心臓の奥に残っているのみであった。
まるで傷痕のように、深く思い出そうとすると胸の奥がヒリヒリと痛む。
だから、あんまり昔の事は思い出したくなかった。
だから、あまり人に話したくないのだ。
「……姫様、それは……私にも分からないんだよ」
何故か、今夜はやけに素直に自分の言葉を吐き出す事が出来た。
先ほどまで心地よかった筈の静寂が、酷く重苦しい物に思えてしまった。
「その瓜子姫って人の事、何も覚えていないの?」
……。
何も覚えていない、という訳ではなかった。
朧げながらも、少なからず覚えている事はある。
それに意味があるのかは分からないが、正邪には、忘れたくても忘れられない事が一つだけあった。
それは、『温度』である。
「その瓜子姫って人の事、正邪は、本当に嫌いだったの?」
「……」
ねぇ、答えて。
正邪は、本当にその人の不幸を望んでいたの?
針妙丸は何処か落ち着いた声で再度問いかける。
正邪はもう、この事についてはあまり深く思い出したくなかった。
考えると、胸が押し潰されそうになる。
思い出そうとすると、身体中の血が熱くなり、心臓が苦しくなって、息をするのも辛くなるのだ。
……きっと、今の自分を司る重要な何かがそこに在るに違いない。
だが、それに触れてしまえば、今、確かにこの場に存在している筈の自分が呆気なく崩れてしまいそうな気がして、大事な何かが壊れてしまうような気がして、怖かったのだ。
「……言っただろう? これは、ただの……おとぎ話だって」
暗がりのせいで正邪の表情はよく見えなかったが、彼女の声は危ういほどに震えていた。
針妙丸は静かに、正邪の腕にそっと自身の腕を重ねた。
ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ、正邪の腕の力が強張るのを感じた。
夜の闇の中、針妙丸は何処までも優しく正邪を受け入れた。
「……あの人の『温度』だけは……」
瓜子姫の『温度』は、それだけは、ちゃんと覚えているんだ。
その昔、正邪が幻想郷に来る前の話、どういう経緯があって、どんなものを見て、どんな想いをして、最終的にどうやってここに辿り着いたのかは分からないし……恐らく、理解してあげる事も出来ない。
それでも針妙丸は、子供なりに何かを察してしまった。
昔々――この天邪鬼は、きっと、狂おしいほどの恋をしたのだろう。
でも、彼女はそれを上手く思い出す事が出来ない。
結局、瓜子姫はどうなってしまったのか。
正邪と、どういう出会いをしたのか。どういう時間を過ごしたのか。そして、どういう別れをしたのか。
――答えは全て闇の中である。……これはきっと、他者が気安く踏み込めるような話ではないのだろう。正邪の記憶の中にあるのは、彼女だけの物語であり、誰の干渉も許されない、何処までも歪なおとぎ話なのだから。
そう考えると、針妙丸はほんの少し嫉妬を覚える。
同時に、何処か羨ましくもあり、そして、純粋に相棒として嬉しくもあった。
天邪鬼、鬼人正邪がここまで恋しがっているのだ。
……きっとその瓜子姫とやらは、驚くほど素敵な女性だったに違いない。
「嘘ばっかりだね、正邪ってば」
針妙丸は切なげに、それでも懸命に笑って見せた。
それに合わせ、正邪も無理をして笑った。
「姫様……天邪鬼の言う事は、信用しちゃいけないよ」
時刻は0時52分――。
これは子供を寝かしつける為の、ただの寝物語。
「ただの、『天邪鬼』なおとぎ話さ」