『am2:00』
・水橋パルスィ
時刻は0時52分。
その日は黒い墨のような雨が降っていた。
人里から離れた林の道にて、一人の若者が木陰で雨宿りをしている。
その時、耳障りな雨音の中に一つ、重苦しい足音が混ざった。
誰かがこちらへと歩いてくる。若者は不安げな表情でその音の方へ眼を向けた。
そこにいたのは一人の少女であった。雨の中だというのに傘も差さず、妖怪が跋扈するこの闇夜の時間にたった一人、このような場所をうろついているのは少々おかしい。若者はごくりと息を呑む。
「とても、良い夜ですね」
その少女の瞳はとても不思議な色をしていた。
人気のない真夜中の雑木林である。無論、不気味さもあったが……それ以上に、彼女からは何処か得体の知れない「儚さ」のような雰囲気が感じられた。ふとした事で脆く崩れ落ちてしまうような……。
それも……本当に、とても些細な事で。
少女は若者の横まで歩み寄り、そっと木陰に背を預ける。
……不信感が拭えず、若者は何も言わないまま身を強張らせ続けた。
互いに素性を明かさぬまま、名乗る事すらも無く、ひたすらに暗黒の雨音と共に時間が流れていく。
重く冷たい沈黙は、何やら妙に居心地が悪い。
少女は、その華奢な腕に袋を抱えていた。
それは一回り未熟な西瓜一つ分ほど膨らんでいる。
……見知らぬ赤の他人の荷物について興味を持つのは不躾極まりない。
だが……夜の空気がそうさせるのか、若者は少女の正体と同様に、少女の持つその袋の中身が気になった。
「実は……知り合いと話をしていたら遅くなってしまいまして」
少女はとても冷めた表情で歪に会話を続けようとする。
しかし、若者は頑なに口を閉ざし続けた。
若者は想像する。
こんな時間に、人里離れたこの場所にいる人間が「まとも」な訳がない。
きっと、この少女は人に化けた妖怪だ。
だが、不思議と恐怖は抱かなかった。
何故かと問われると答えに窮するが、それでも。
「この雨が止むまで、少し……付き合っていただけますか?」
少女は虚ろな表情で、しかし何処までも冷静な目つきで言葉を続ける。
「その知り合いというのが、とても美しいお方なのですよ」
それでいて、かなりの人たらし。
少女はそこで口角を歪にねじ上げたような笑みを浮かべた。
「その美しさで人里の男を誑かし、その欲望を手玉に取って破滅へと導く化け物みたいな女ですわ」
彼女の名はenvy、この幻想郷で最も美しく、最も醜い女の話である。
正直に言うと、若者は少女の話をまともに聞いてはいなかった。
彼の頭の中には仄暗い解釈と、その場で感じた陰湿な考察が入り混じった空想に塗れていた。
きっとこの妖怪は、ここに来るまでに何かをしでかしたのだ。
「envyは私の、古くからの友人でしてね……私は大昔から彼女の事を誰よりも間近で見てきたのです」
そこで、若者はようやく少女の言葉に耳を傾けた。
遠くの夜空に、雨雲が途切れかけているのが見えた。
憎たらしかった。
彼女の全てが恨めしかった。
envyの傍にいたせいで、私は今までずっと彼女と比べられて生きてきた。
劣等感に苛まれながら、彼女の影に隠れて生きてきました。
彼女の傍にいるだけで、まるでこの世の何物よりも劣った存在のように扱われてきました。
彼女が傍にいるだけで、本来私が受け取る筈だった、眩く、温かい物が、全て取り上げられてしまうのです。
しかし、それでも私が彼女の元を離れなかったのは、今思えば憎悪の裏返しだったのかもしれません。
彼女に対する羨望だけが、私の全てだったのだと思います。
彼女に対し、恨めしく思っている時間だけが、私の生きる意味となっていたのです。
憎たらしく、恨めしく。
それでも、彼女の傍で報われぬ日々を送っている時だけが私の筈だったのに。
魔が差してしまった。
どうかしていた。
間違えた。
とんでもない間違いを犯してしまった。
ああ。
ああ。
ああ……。
こんな夜は間違っている。
やり直せるならば、時間を巻き戻して、あの時のバカな自分を消してしまいたい。
この夜を、無かった事にしてしまいたい。
あんなに憎く思っていた筈なのに、私は、私は全てを『完成』させてしまった。
全てを終わらせてしまった。
私は、あの子の影だった筈なのに。
envy、あの子を憎むだけの存在、それだけが私の意味だった筈なのに。
なのに、どうして私は……?
残されたのは、身体の奥に風穴を開けられたかのような喪失感と、二度と戻らない日々への後悔。
・・・
雨は上がった。
時間だけが重く、苦しく過ぎていく。
少女はその手に抱きかかえていた袋をその場に置き、最後に、艶やかな表情で笑って見せた。
「本当に今夜は、とても良い夜です」
少女は夏の夜風に揺れる金色の髪をそっとかき分ける。
長い耳が目に映る。
少女はそのまま何も言わず、おぼつかない足取りでその場を離れていく。
嫌な想像が膨らんでしまう。若者は少女が残した袋を手に取る。
きっと、あの少女は例の美しい少女、envyを憎むあまり、その手で殺害してしまったのではないだろうか? そして、彼女の身体を切り刻み、この雨の夜に野山の何処かへと埋めてきたのだろう。彼女の華奢な身体では、人間一人分の身体を一度に運ぶのは難しい。そこで少女は死体を部位ごとに切り分け、別々の場所へと埋葬したのだ……。
そして、この袋の膨らみ。
嫌でも連想してしまう。
もしも彼の想像通りであれば、この中身は、彼女が殺害した女性の身体の一部が――しかし。
それにしては、やけに軽い。
若者は冷静に袋を開く。
そこには、妙に豪華で煌びやかな衣服が丸まった状態で押し込まれていた。
どう見ても、先ほどあの子には不釣り合いな服であった。
・・・
水橋パルスィは濡れた身体もそのままに、自宅の洗面台でジッと自分の顔を見つめていた。
「また、なの?」
パルスィは鏡に映る自分に向って語りかける。
「『また』、あの子は死んでしまったの?」
語りかけながら、パルスィは湿った衣服を脱いでいく。
やせ細った貧相な身体を見つめながら、鋭く舌打ちする。
胸元に薄っすらと付着した水滴を指先で擦りながら、これまでの行動を思い返す。
『ねぇ、パルスィ』
途端、鏡の四隅から、青白い肌の女が顔を覗かせてきた。
『いつになれば、あなたは私を』
とても美しい女性であった。その人はそっとパルスィの首に手を回す。
これは、あまりにも良くない。
『いつになったら、私を天使にしてくれるの?』
「アンタ、誰?」
パルスィは夜闇を切り裂くつもりで瞳を閉じる。
……水橋パルスィは嫉妬の妖怪だ。
誰かが誰かを妬む時に生まれる負のエネルギーを糧にする妖怪。
人間の中に渦巻く嫉妬心を操り、その者を狂気へと駆り立てる力を持った、忌み嫌われた妖怪である。
彼女の中には、常に一人の女がいる。パルスィが思い描く、誰からも羨まれ、妬まれ、その美貌一つで全てを思うがままに手に入れてしまう、完全無欠の女性である。
その女の名前は、envy――。
嫉妬の妖怪、水橋パルスィの根源であり、そして何より。
『パルスィ、あの時の言葉は嘘だったの?』
鏡の中の少女が切なげに語りかける。
しかし、パルスィは瞳を閉じ、彼女の声を拒絶した。
私があなたを完成させる。
私があなたを終わらせる。
あなたは終焉を持って完成形へと至る。
己の中に居座り続ける女性、envyを終わらせる。
そうすればきっと、うだつの上がらない私の日々がようやく始まるんだ。
アンタさえいなければ、私だって少しは誰かに愛されるかもね。
誰を羨む事なく、残酷に過ぎていく日々に対し、焦燥を感じる事も無く、ありのままの自分を愛せるかもね。
ああ、凄い、凄いわっ、なんて素敵なのかしらっ!
そんなの、素晴らし過ぎておかしくなっちゃうわっ!
そんな眩い、温かな日々が来るというのなら、私も、この世界を少しくらいは愛せるかもしれないっ!
だから、だからenvy――。
私がアンタを「完成させて」「終わらせて」あげる――ッ!
深夜2時。
パルスィは一糸まとわぬまま、濡れた身体をろくに拭う事もせぬまま、夢から醒めたような表情で居間の奥に設置してあるくたびれた古いソファーに腰かけた。
目の前に、一人の少女が立っていた。
パルスィはジッと少女の顔を見つめながら、冷静に問う。
「アンタ、名前は?」
『私はenvy』
envyと名乗る少女は何の断りもなくパルスィの自宅へ足を踏み入れている訳だが、しかし、その事についてパルスィは何も問いたださなかった。少女はとても貧相な身体をしていた。ボロボロの衣服を身に纏い、その細い素足の先には痛々しく剥がれた爪が見えている。
一体、何に虐げられた挙句の果てにここにいるのかは知らないが――。
この時、パルスィは……純粋にその少女の事を心から『美しい』と思った。
傷付き、汚れたその無垢であどけない表情には、確かな『魔性』の影が宿っていた。
きっと、彼女はこの世の誰よりも幸せな人生を手に入れる事が出来るだろう。
今はまだ幼いが、いずれ女として成長すれば、その美貌一つでこの世の全てをたらし込んでしまうような、悪魔のような人間が完成する。
その時の人々の嫉妬心は、さぞかし美味に違いない。
パルスィは、その少女を美しく育て上げる事に決めた。
彼女は、幸せになる資格を持っている。
そして、自分を取り巻く全ての人間を不幸にする権利を持っている。
パルスィは慈愛に満ちた表情でその少女、envyの頭を撫でた。
まずは、この子に着飾る事を覚えさせなければ。
彼女の美貌に相応しい服を着せてあげなければ。
「今夜、あなたは天使になるのよ」
そう言って、パルスィはenvyに向って笑いかけた。
……。
0時52分――。
雨音の中に、一人分足音が微かに入り混じる。
雨宿りをしていた若者は不審そうな表情で足音の方へと目を向ける。
そこには、一人の少女が立っていた。
「とても、良い夜ですね」
その少女は袋を抱えながら言う。
誰もいない虚空に向って言う。