Coolier - 新生・東方創想話

好きなのに

2009/09/01 03:12:53
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 「結婚かぁ~」

 廊下を歩きながら、ぼんやりと呟く咲夜。
 仕事に一区切り付いたので、美鈴の部屋へ向かっているところだ。

 咲夜は頭の中に「けっこん」という文字をふわふわと漂わせる。
 パーフェクトだとか、瀟洒だとか、悪魔の狗といわれていても、咲夜だってお年頃の女の子。
 「結婚」という言葉に興味がないわけがない。

 ふわふわと漂う単語につられて、咲夜は昔読んだ絵本のことを思い出した。
 雨の日でも風の日でも雪の日でも、美鈴はずっと門の前に立っている。
 門番なのだから当然だけど、晴れの日以外は傍にいることは許してくれなくて。

 (晴れの日だって、夏場だとうるさかったけど)

 咲夜はちょっと頬を膨らます。
 やっぱり美鈴は心配性過ぎるヤツだと思う。
 でも、晴れじゃない日も嫌いじゃなかった。
 仕事が終わった後は、「すみませんねぇ~」と苦笑しながら絶対に頭を撫でてくれたし。
 それでも機嫌を直さないと、抱っこして「なんでもしますから許して下さい」と困ったように笑って。
 だからもっと困らせてやろうと色々と無茶なこと言っていた気がする。

 (……我ながら子供だったわ)

 実際に子供だったんだから仕方ない。
 仕方ないが、やっぱり恥ずかしいというか居た堪れないというか……なんだかしょっぱい。

 咲夜は、仄かに朱に染まる顔を片手で覆った。
 溜息を吐き出して、しょっぱい自分をやり過ごす。


 雨音を聞きながら、パチュリーの無駄話やら役に立つ話、興味深い話に耳を傾けて、そうしながら一般教養というやつを教わって。
 それにも飽きて、でも美鈴はまだ帰ってこない時、小悪魔と一緒に読んだ本だったか。
 内容はもう忘れてしまったけど、あったかな筆遣いで描かれた絵本の何処かのページに、素敵なウェディングドレスの挿絵が付いていた気がする。

 咲夜はそれを思い出して、頭の中でふわふわする「結婚」という単語を、今度は「ウェディングドレス」という絵に変えた。
 自分が着ているところなんて想像が付かないけど、柄じゃないけど、でも憧れるくらいは許されるだろう。
 「素敵だなぁ」なんて呟きと共に、口許が緩む。
 やっぱり自分のウェディングドレス姿はちょっと想像できないけど。でも、やっぱりいいなぁって思う。

 そうしたら、思考は自然と隣にいる人の想像に及んだ。
 純白のタキシードを纏い、紅い髪を後ろで一つに結っていて、左手をそっと伸ばしてくる。
 その左手の薬指には銀色のリングが嵌められていて。
 優しげな笑みと共に、囁くように呼ばれる自分の名前。


 (って、何考えて――――!!)


 ハッと我に返る咲夜。
 妄想も大概にしろ! と自分に怒鳴りながら、真っ赤に染まる頬を両手で隠すように包んで俯く。

 (美鈴だって女なのに……なんでタキシードなんて……)

 確かに、よく鍛えられた肉体や高い身長を持つ美鈴は、スッとしたタキシードもよく似合うだろう。
 うん。それに実は割りと器用だから、きちんと着こなしてくれる筈だ。
 とか、そう思ってまたタキシード姿の美鈴を想像してしまう。
 顔がまたカーッと熱くなった。

 「ぅ~。もっ、想像の中でまで……私を振り回さないでよ……」

 本人を目の前にしたって、美鈴が突飛な行動(まぁ、実は別段変わったことはしていないが)をすれば、咲夜は自制を保てなくなってしまうのに。
 なのに、想像の中でだって美鈴は咲夜の心を甘く描き回す。
 咲夜は愚痴るように小さく呟いて、困ったような顔をした。

 どうしよう。
 このままじゃ、見舞いに行ったところで何もできやしない。
 だからといって折角作った時間を無駄にするのは惜しい。
 でも、この時間は美鈴の所へ行く為に作った時間だから、他の事に使うのも癪だし。

 咲夜は小さく唸りながら、どうしようか数瞬悩む。






 ――――ガタンッ!





 すると、美鈴の部屋から何かがぶつかったような鈍い音が響き、咲夜ははっと顔を上げる。
 反射的に床を蹴り、廊下を駆ける。
 美鈴の部屋へはあっという間に到着した。
 ノックすることも忘れ、ノブに手をかけ扉を開け放つ。


 「どういうつもりですかっ!?」


 瞬間、咲夜の耳を劈(つんざ)いたのは怒鳴り声だった。
 その剣幕と、鋭くも煮え滾ったマグマのような黒い温度を持つ声に、咲夜は驚きと共に身体を萎縮させてしまう。

 だって、信じられなかった。
 こんな声を、まさかあの美鈴が発せるなんて、知らない。
 咲夜の蒼い瞳が映していたのは、寝巻き代わりとしているTシャツとジャージを纏った怒鳴る美鈴と、その美鈴に胸倉を掴まれ壁に追いやられている副長の姿だった。

 美鈴の瞳は、紅く染まっていた。
 今まで見たことの無い瞳の色だった。
 美鈴は妖力を扱う場合、それから戦闘時の強い高揚や興奮を感じると群青色の瞳がキラキラと眩い光を放つ。
 それは今まで何度も見てきた。
 でも、瞳の色が変わったところなんて、ましてや紅く染まったところなんて、一度だって見たことがない。

 紅蓮に染まる瞳が、副長を射抜く。
 その瞳にあるのは、強い怒り。
 あと少しでもすれば憎しみに変わりそうな、狂気を孕んだ黒に近い怒りだった。

 「っぅ……随分と怒りっぽくなったっすね。やっぱり、あの可愛い悪魔さんの狂気を取り込ん」

 美鈴とは対照的に、副長は酷薄に笑っていた。
 嘲るように紡がれた言葉を、美鈴は手に力を込めて遮る。
 ぐっと壁伝いに持ち上げられ、副長の首が絞まる。
 副長は苦しげに呻くが、それでも酷薄に笑ったままだった。

 「めいり……」

 「やめて」と叫びたかったのか。
 それにしては、あまりにも弱々しくて頼りなく発せられた自分の声。
 咲夜は喉に何かが詰まったように苦しくて、そんな声しか発せられなかった。

 美鈴は驚いたように咲夜の方へ顔を向ける。
 ぎょっとしたように見開かれた瞳が、次には罰が悪そうに歪められ、そうしてすっと美鈴の腕から力が抜けた。
 解放された副長はその場に蹲って少し咳き込んだ。

 「げほっ、げほっ……」

 副長は批難するような瞳を美鈴に向け、首元を摩りながら咲夜の脇を通って行く。
 横を素通りして行く副長に声をかけようとしたが、冷たい一瞥を喰らった。
 背筋がぞっとするような、妖怪の目。
 陽気で頼りになる姉御肌の、そんな妖怪がする眼差しじゃなかった。
 冷た過ぎる瞳に睨まれ咲夜は押し黙るしか出来ず、そのまま退室していく背中を見送った。


 扉が、閉まる。
 なんともいえない気まずい空気が部屋の中に残った。




 咲夜は、美鈴に声をかけられなかった。
 あんな瞳をした、あんな美鈴を見たことなんてなかった。

 恐ろしかった。
 いつも笑っている美鈴しか見たことがなかったから。
 だから、だから……恐かった。
 誰だって怒ることくらいはする。そんなの当たり前だ。
 でも、でも……今まで一度だってあんな怖い顔をした美鈴は見たことがなかった。
 親に怒られた子供のような心境で、飼い主に怒らせてしまったペットのように縮こまった心に、怖いのと悲しいのがごちゃ混ぜになる。


 美鈴が咲夜の方へ体を向ける。
 床を踏みしめる小さな音にさえ、咲夜は肩を微かに跳ねさせた。

 「あはは、すみません。大きな声出しちゃって」

 でも、そこにはもういつもの美鈴がいて。
 いつも通りの間抜けな顔をして苦笑していた。

 「驚かしちゃいましたよね? いや、ほんとにすみません」
 「え、あ……ううん」

 頭を掻きながら、申し訳なさそうに美鈴が言う。
 咲夜は戸惑いながらも首を微かに横に振った。

 美鈴の瞳を見る。
 瞳の色は若干赤みがかっていたが、それでもいつもの穏やかな群青色に戻りつつあった。
 湖の深いところみたいな、一番穏やかなところの色。
 背筋から緊張が抜けていくのを感じて、咲夜は密かに胸を撫で下ろした。

 「それにしても……どうしたの?」

 恐る恐る聞いてみる。
 美鈴は「それが酷いんですよー」と頬を膨らませた。

 「副長ってば、私が後で食べようと思ってた豆大福を食べちゃったっていうんです。お豆腐屋さんがくれた最後の一個だったのに……」

 そうして、しゅんと項垂れる。
 咲夜は「えと……」とパチパチと瞬きをした。

 「……それだけ?」
 「酷いですー! 食べ物の恨みは恐ろしいんですよ!?」

 きっと本当に楽しみに取って置いたんだろう。
 美鈴の顔が泣きそうに歪んだ。

 (でも……そんなことであんなに怒ってたの?)

 腑に落ちないが、美鈴のことだから……と考えると納得してしまいそうにもなる。
 垣間見た、金色がかった紅く染まる瞳。
 おぞけが走る程の、猛り狂いそうな怒気を滲ませた紅蓮の瞳。
 思い出そうとするだけでも、思考が途中でフリーズする。
 “思い出したくない”と拒否する。
 咲夜は内心でかぶりを振った。

 「全く。そんなことで副長と喧嘩したの?」
 「そ、そんなことって……食べ物の恨みは」
 「分かったから。二回言わなくても分かったから」
 「だってだって……」

 あぁ、本当に泣きそうだ。
 目に涙の膜が張ってきている。
 情けない顔をする美鈴に、咲夜はふと口許を緩めてしまった。

 「和菓子はそんなに得意じゃないから、その……洋菓子でいいのなら、今度貴女の好きな物を作ってあげるわ。それでいいでしょう?」

 つい口が滑ったというか、なんというか。
 気付いた時にはそんな事を口走っていた。
 美鈴は泣きそうだったのが嘘のようにパァーっと顔を輝かせて、それからガバっと抱き付いてくる。

 「咲夜さぁ~ん!」
 「っっ!? ちょ、ちょっとめいり」
 「えと、プリン食べたいです! あと、シュークリームとチーズケーキに、かぼちゃパイと洋梨のタルトと、それからそれから苺パフェと!!」
 「わか、分かったから! 分かったから離れ……!」

 美鈴はすりすりとまるで猫のように……いや、気分的には大型犬に懐かれている気分だが、例え猫だろうが犬だろうが美鈴には代わりないわけで。
 湿布の匂いとか、消毒液の匂いとか、鉄の匂いとか。それに混じって日向みたいな匂いも微かにして。
 体を包み込むあったかな腕とか、筋肉の感触とか、骨の形とか。張りのある胸とか。

 全部が全部、目の前にある。
 目の前というか、密着している。

 (ちかっ、ち、ちか……!!)

 あったかいだとか、なんだとか暢気にいってる場合じゃない。
 このままじゃほっぺから火が出る!

 咲夜は「ってか、一つにしなさいよ! そんないっぺんに作れるわけないでしょう!!」と、美鈴の肩を押し、背中を叩く。
 が、背中に触れた拍子、手の平に「ヌルン」とした気色悪い感触を感じ取って、一瞬動きを止めた。

 (え?)

 美鈴は相変わらず咲夜を抱き締めたまま、あれがいいだとかこれ食べたいだとかリクエストをしているが、咲夜は顔から徐々に血の気を引きつつ美鈴の背中に触れた方の手を見た。

 「ぅぁ……!」

 手の平はやっぱりというか、案の定というか、なんというか。
 見事なまでに真っ赤に染まっており、咲夜は音にならない叫び声を上げた。

 「め、美鈴気を付けっ!」
 「は、はひっ!?」

 いきなり強い口調で命令され、美鈴はおかしな声を上げる。
 でも、そこはやっぱり何処か忠犬な美鈴。
 美鈴は咲夜の声にピシッと気を付けをした。

 「回れ右!」

 次の言葉にも素直に反応。
 美鈴はくるりと綺麗に回れ右をした。
 咲夜の目の前に、美鈴の背中が晒される。

 傷が開いてしまったのか、美鈴の背中から血がボタボタと垂れていた。
 Tシャツもベットリと血で染まり、下に履いているジャージの方にも血が零れている。

 「血ぃいいぃぃー!」
 「は、はい?」

 慌てる咲夜とは対照的に、美鈴はのんびりと返事をして自分の背中へと手を伸ばした。

 「あぁ。傷開いちゃったんですね」
 「のんきに言ってる場合かー!!」

 よく見れば、いや、見なくても、床に点々と赤い染みが落ちている。
 咲夜は時を止めて全速力で救急箱と大量の包帯を取りに行った。

 「あれ、咲夜さんいつの間に?」
 「いいからそこに座りなさい! それから服も脱いで!」

 (あぁ、じゃなくてじゃなくて! ぬ、脱がれても困っ……!! で、でも服脱がなきゃ、て、手当てが、ど、どど、どうし……!!)

 一人あわあわと慌てる咲夜を他所に、美鈴はそこら辺に転がっていた背凭れの無い椅子に腰掛ける。
 それから手当てをし易いようにと、咲夜の方に背を向けてシャツを脱いだ。

 「いい い、いきなり脱がないでよ!!」
 「えぇー。脱げって言ったの咲夜さんなのにー」
 「そ、そうだけど、その……こっ、こ、心の準備が……!!」
 「ココロのじゅんび?」

 美鈴は首を傾げながら、血で少し汚れてしまった長い髪を前へと流す。
 血が流れる背中を見て、咲夜の頭から熱と血が引いた。
 安心して身を預けられるあったかくて大きな背中が、血に塗れてグチャグチャになっていた。

 咲夜はホルスターからナイフを取り出し、血が染み渡った包帯を引き裂いた。
 隠された傷が露になる。
 砕けた骨や弾け飛んだ肉はほとんど再生されていたが、それでも傷が深い箇所は肉が少し抉れてグチャグチャとなっている。
 浅い傷からは血が滲んでいるくらいで放っておいても心配はなさそうだったが、問題は塞がりかけていた方の傷だった。
 折角肉と肉がくっ付いたというのに、動いた所為でぱっくりと割れてなかなかの量の血が流れている。

 (医療隊があんなに頑張ったのに……)

 咲夜は思わず顔を顰めてしまう。

 『医療隊』というのは、門番隊とメイドの中から選出された治癒能力に長けたものや、回復魔法等を得意とするもの、毒・薬に詳しい者達を集めて作られた部隊のこと。
 普段はそれぞれの隊で仲間たちと変わらずに自分の仕事をしているが、大怪我人が出た場合や、大きな戦などがある場合にのみに召集され編成される。
 だが、だからといって一人一人の技術やら魔法をそんなにも凄いのかといったらそうではなく、一般人よりも詳しいとか、ちょっと回復系統に強いといった程度だ。
 それは、この部隊は『メインの補佐』という目的の為にある特殊なチームだから。
 「メイン」というのは、魔法に長けたパチュリーや、気に操作に長けた美鈴のこと。
 美鈴は後衛での治療よりも基本的に最前線で戦うことが多い為、多くはあまり回復系統の魔法が得意ではないパチュリーの補佐に回るというのが医療隊の主な活動となっている。

 昨日はパチュリーが「もう大丈夫なんじゃない?」とか眠そうに目を擦りながら言って、かなり中途半端なところで投げ出して自室に戻ってしまったので、医療隊のメンバーが寝ずに治療したのだ。
 勿論咲夜だって手伝ったし、朝になるまで看ていた。
 だから、こんなに簡単に傷を開かれるとちょっと困るというか。
 なのに美鈴は「じゃあ血を止めますので、テキトーに処置して下さい」なんて背中越しに言ってくる。

 「てきとうって……」

 医療隊が泣きそうな顔をして寝ずに美鈴のカラダを看ていたのに。
 私だって、心配で。眠れなくて。

 倒れた美鈴の背中は、酷いものだった。
 肉は弾け飛び、骨は欠け。
 砕けた骨がまた肉を抉って外へ飛び出し、筋を断ち切って。


 いつも守ってくれた大きな背中。
 寄りかかっても簡単に支えてくれる背中。
 安心して後ろを任せられる力強い背中。
 幼い頃よくおんぶしてくれた温かな背中。


 それが、グチャグチャになって。
 血で、染まって。


 今思い出してもゾッとする。
 フランドールの狂気に支配された顔も、その能力も。
 美鈴の傷付いた姿も。



 『丈夫なだけが取り柄ですから』



 その言葉を必死で思い出して、その笑顔を何度も思い浮かべて、泣きそうになるのを堪えてた。
 なのに、なのに。

 「テキトー」なんて、それはない。
 その言葉は、ちょっと酷い。

 あんまりにも己を蔑ろにする発言をするもんだから、咲夜はちょっとした憤りを感じて溜息を吐いた。
 “テキトー”なんてするわけがない。
 大切な人のカラダをそんな風に扱うわけがない。

 「もっと……自分を大事にしてよ……」
 「はい?」

 聞き取れなかったのか、美鈴が振り返って不思議そうな顔を向けてくる。
 咲夜は「なんでもない」とぶっきら棒に小さく言った。

 「痛くても、ちょっと我慢していて」

 先程の同じようにぶっきら棒になってしまった声音。
 でも美鈴は「はぁ~い」なんて気の抜けた声で子供みたいに返事をした。

 流れ出る血は、筋肉の収縮と気を使って一時的に流血を止められていた。
 付着している血を綺麗に拭うと、傷口がもっと鮮明に露になる。
 痛々しい傷を見て、痛いのは美鈴の筈なのに咲夜の顔が痛そうに歪んだ。
 丁寧に消毒をして、清潔な包帯を巻き直そうとしたところで、

 「……ぁ」

 淀みなく動いていた咲夜の手が、止まった。


 「?」

 美鈴がまた振り返る。
 咲夜は、顔を仄かに赤くして固まっていた。

 「咲夜さん?」
 「……ぁ、え?」
 「あの、大丈夫ですか?」

 何か問題でも?

 美鈴の群青色をした瞳がそう問いかけてくる。
 でも、答えられるわけがなくて、咲夜は「ぁ……」だとか、「えと」とか、「その……」とか、歯切れの悪い言葉というか……そういう音を口から零すだけだった。

 (だって、だって……その、アレじゃない? 包帯を巻くんだから、その……体の前を通して背中に回して、また前にっていうか……つ、つまりその……胸とかお腹とかに触らなきゃならないくて、えと……)

 当たり前だけども、当たり前のことなんだけども。
 咲夜はそんな今更なことに気付いて、動けなくなってしまっていた。

 (そ、それに……美鈴いま……は、は、ハダカだ、し……!!)

 どうしよう。
 ど、どど、どうしよう!

 咲夜は何かいい手は無いか考えるが、何も思い浮かばない。
 結局至った結論は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」「素数を数えろ!」「急がば回れ」くらいのものだった。
 一個違った気がしたが、気にしてはいけない。素数を数えるんだ。

 咲夜は生唾を飲み込み、覚悟を決める。
 無心になるなんて、未熟な己には無理と判断を下す。
 ならば素数を数えるしかあるまい。

 (……ってか、素数ってなに?)

 この作戦は始まる前から失敗だったらしい。
 咲夜は更にテンパりそうになるが、そこは瀟洒らしく深呼吸を数回。
 どうでもいい話だが、深呼吸なんかで簡単に落ち着けたら東方本編でピチュることなんて無いと思うんだ。

 「咲夜さぁ~ん?」
 「だ、大丈夫だから! べ、べっ、別に何も問題なんかないってば! い、いいから前向いてて!!」

 咲夜は焦りから乱暴になってしまった口調のまま言い放って、美鈴の顔を前へと向けさせる。
 右手に包帯を持ち、準備完了。
 そう。ぐるぐる巻けばいい話。全然問題なんてない。
 そう。巻けばいいのだ。包帯を巻くだけ。
 これは治療。これは医療行為。これは傷の手当て。
 そう、それだけだ。何も問題はない。

 咲夜は邪念を切り捨て、普段の(最近はそうでもないが)キリッとした顔付きへと戻る。
 包帯の端を左手で持ち、シュッと引いた。
 端を持った左手を背中に当てて、包帯を伸ばしながらグルッと体に巻き付ける。

 一巻き目成功。
 次、二巻き目。
 ……成功。

 機械的に「包帯を巻く」という作業を繰り返す咲夜。
 冷静さを取り戻した瀟洒は包帯を手際よく美鈴の体に巻いていく。
 少し余裕も出てきて、表情から硬さもなくなる。
 でも、それはやっぱりちょっとした油断だったか。
 咲夜の華奢な手は、美鈴の脇腹をくすぐるように掠めてしまった。

 「わはっ」

 音の端に笑いを引っ掛けたような声を美鈴が発する。
 「くすぐったいですよぉ」と困った顔で笑って振り返る。

 目尻を下げた笑い方。
 咲夜の好きな美鈴の笑い方の一つだ。
 だから、その不意打ちに咲夜の心臓はぴょんと跳ねてしまった。

 「あ、ご、ゴメンなさ」

 言いながらまた手元が狂う。
 包帯を持った左手は、既に美鈴の体の前に回っていて。
 リズムを崩した手は豊満な胸に「ぽんっ」と当ってしまった。

 「――!!!」

 瞬間、折角作った『瀟洒』は見事に崩壊。
 咲夜は再び顔を真っ赤にして固まった。

 美鈴の胸はなんというか、見た目よりもずっと弾力があった。
 いや、弾力が強いというか……やっぱり鍛えられた胸筋の所為だろうか。
 柔らかくて弾力があるというよりは、寧ろ固いような感触で張りがあるというか。

 (って、そうじゃないー!!)

 などと冷静に分析している場合じゃない。
 咲夜はぱっと手を離して美鈴から距離を置いてしまう。
 巻きかけの包帯がぽとりと床に落ちる。

 さっき抱きつかれたよりも、動機が激しい。
 抱き付かれることはたまにあるので免疫がついているからだからだろうが、でも……でも自分から触るとか、そんなのは……だって、だって、好きな相手だし、そんなの……!!


 「?」

 今度こそ美鈴が体ごと振り返って来る。

 「ぁ、ぅ……!!」

 だから、裸なんだってば!
 上半身何も着てないんだってば!
 包帯一枚なんだってば!!

 咲夜は慌てて視線を逸らして、天井やら床やら壁やらを見つめる。
 美鈴が「咲夜さぁ~ん?」とか呼んでいても返事も出来ないし、目を合わせることなんて出来ない。
 なのに美鈴は首を傾げながら立ち上がり近寄ってこようとする。

 「どうかしました? 血を見て気分でも悪く……」
 「ち、違っ、その……!」

 (そ、そんな格好でコッチこないでよぉ!!)

 こういう場合は、どうすればいいんだろうか。
 いや、そんなの決まっている。
 いつも通りに振る舞えばいいのだ。
 分かってる。
 理解している。
 でも、理解しているからといって行動に移せるかといったらそうではなくて。


 逃げてしまおうか。
 時を止めて、逃げてしまおうか。

 いや、そんなのダメだ。
 だって、美鈴は怪我をしていて。
 その怪我は私の所為でした怪我で。
 だから、ちゃんと手当てをしてあげたい。

 妖怪だってなんだって、痛いものは痛い。
 そう教えてくれたのは美鈴だ。

 (で、でもでも……す、好きな人が裸で、それで……こ、こういう場合の対処の仕方は……)

 当然、そんなマニアックなシチュエーションを上手く切り抜ける方法など教えて貰っている筈がない。
 そんな風に内心で繰り返していると、美鈴がもう結構近い距離に来ていることに気が付いた。
 折角巻いた包帯なのに、きちんと止めていなかったから美鈴が動く度に解けて床に歩いた軌跡を残してきている。
 イコール、美鈴が包帯一枚から裸へとどんどん近付いているというわけで。

 「ば、バカ! せ、せっかく、ま、ま、巻いたのに」
 「えー。だって咲夜さんの様子が変だから……」

 「あれー、怒られたー」といった顔で、美鈴は頭をポリポリと掻く。
 咲夜がこんなに焦っているというのに、美鈴は至って暢気だ。

 と思っていたら、美鈴の視線がカーテンの閉まった窓へと向かった。
 どうしたのかと思って咲夜も一旦冷静になって窓へと視線をやる。
 窓は小刻みに揺れて、ガタガタと微かに音を立てていた。
 そうして美鈴の顔が綻んで、その口が静かに「さくや」と呼んだ。

 一瞬自分のことかと思って、ドキッとする。
 でも美鈴は自分を見て「さくや」とは言わなかった。

 美鈴が窓へと近寄って、カーテンに手を掛ける。
 というとことろで、美鈴がとんでもない格好をしていることを思い出し、咲夜は慌てて美鈴を背中から抱き締めような形で制止する。
 いや、その……前を隠してあげなきゃとか思ったからそういう体制になってしまっただけでなのだが……墓穴を掘った気がしてならない。
 腕がまた、美鈴の胸辺り当っているような感じになって、咲夜の頭が沸騰する。
 後ろからいきなり抱きつかれた美鈴は「わわっ」とちょっと驚いたような声を上げた。

 「け、ケガ人は大人しくしててよ!」

 咲夜は沸騰した頭ながらも、素早く体勢を入れ替えて美鈴を部屋の奥へと追いやる。
 「なんでさっきから怒られてばっかりなんだろ……」と、美鈴はしょぼくれた顔をしていたが、咲夜の心はそれどころじゃない。
 触った方の筈なのに、恥ずかしくて堪らないなんてコレいかに。

 咲夜はカーテンで赤い顔を隠しながら、少しだけ窓を開けてそこにいるものを迎え入れてやる。
 窓の隙間から冷たい空気と共に、白い猫がするりと部屋に入り込んできた。
 “さくや”と名の付けられたは白猫は、「にゃあ」と可愛らしく一声鳴く。
 白猫は部屋の中に充満する消毒液の匂いや、真新しい包帯の匂いを嗅いで不機嫌そうに鼻を鳴らした後、とたとたと美鈴の元へと向かった。

 「おかえりなさい、さくや。外は寒かったでしょう?」








 ――――おかえりなさい、咲夜さん。外は寒かったでしょう。あったかいココアでもどうですか?










 また、とくりと鳴る心臓。
 温かさは胸に広がるばかりで、でも自分じゃない“さくや”に向けられる言葉がどうしようもない寂しさを連れて来る。
 その寂しさが咲夜の頭と頬から熱を奪った。

 美鈴が白猫に手を差し出す。
 あたたかくて、大きな手。
 少し筋張った指。ちょっとだけ骨ばっている手の甲。

 それが目の前で、違う『さくや』に差し出される。












 『おかえりなさい、咲夜さん。外は寒かったでしょう。あったかいココアでもどうですか?』











 そう言って、自分に差し出してくれた温かな手が。



 白猫に対する「いいな」という想いと。
 自分に差し出されない手のぬくもりへの恋しさと。

 それらが、心の中でにわか雨を誘った。




 (私、猫に嫉妬しちゃうくらい、美鈴のコト……)















 ――――好きなんだ。














 自覚して、しまう。
 また、自覚してしまう。
 どれくらい、この妖怪のことが好きなのかって。



 想ったら、余計に恋しくて。
 こんなに近いのに、恋しくて。



 美鈴がさくやを抱き上げ、撫でる。
 その腕が、どんなに温かな場所なのかなんて。
 そんなの、そんなの知ってる。


 猫のあなたが、羨ましい。



 「あ、そういえばお仕事は大丈夫ですか?」
 「え?」

 のほほんと白猫と戯れる美鈴が、のんびりとした口調でいう。
 懐中時計を取り出し見れば、確かにもう仕事に戻らなければならない時刻を示していた。

 結局ちゃんと手当てをしてあげていない。
 こんなんじゃダメだ。
 時を止めて、その間にやってしまおう。

 咲夜は懐中時計を手に時間を制御しようとしたが、

 「無駄に能力使っちゃダメですよー。いざって時に疲れちゃいます」

 と、間延びした声で言いながら、美鈴が懐中時計を持った咲夜の手を覆うように握った。

 「ぁ……」
 「咲夜さんは無駄に能力を使い過ぎです。もっと霊力と体力を大事にして下さい」

 ね?

 と、念を押されて、咲夜は困った顔をした。
 子供に言い聞かすような口調や言葉もそうだけど、それよりも美鈴の手のぬくもりに困ってしまった。



 ほら。

 いつもあたたかい。
 いつだって、あたたかい。



 「手当てくらい自分で出来ますって。お仕事に戻っちゃって大丈夫ですよ」
 「……うん」

 覆われた手があたたかい。
 その手に視線が向かう。

 長い指。大きな手。
 手を重ねて、そのぬくもりをもっと感じたりしたら怒るだろうか。


 「でも、おサボりしたかったら全然いいですよー?」

 手が離れ、頭をくしゃっと撫でられる。
 にへへと笑って、くしゃりと。

 「もっ、バカ。そんなことしないわよ」

 強がって、手を払うおうとするけど。
 でも、強く払うことなんて出来なくて。

 美鈴の手を、思わず掴んでしまっていた。



 (ぁ……)



 どうしよう。

 美鈴の手を掴んだまま、思考が一旦停止。
 それでも思うのは、やっぱり「あったかいな」ということで。
 この温かさを、この優しい手を、自分はどれくらい好きなんだろうかとか、そんな下らない事へ考えがいってしまう。

 「えへへ~」

 遊んでいると思ったのか、美鈴は「あくしゅあくしゅ~」と手をにぎにぎしてきた。
 大きな手に包まれて、優しい力で握られて。

 心地よくて、くすぐったかった。


 「バカっ。遊んでないで放してよ」
 「えー」




 離さないで。

 放さないで。





 思ってても、なんで言えないんだろう。


 するりと外れる指と指。
 放れる手と手。
 温もりを追おうとする指先を必死に制して、手を離す。

 美鈴の手は、また頭を撫でてくれた。


 「頑張るのはいいですけど無理しすぎないで下さいね」
 「言われなくても分かってるわよ。貴女こそちゃんと安静にしてなさいよ?」

 「はーい」と間延びしながらも良い返事をする美鈴。

 放れた手が淋しくて。
 でもまた後でおやつでも作って持ってきてあげようと考えたら、少しだけ気分が紛れた。

 「じゃあね」と声を掛けてドアノブに手を掛ける。
 美鈴はまた間延びした返事をして、白猫の手を持って左右に振る。
 無理矢理な動作をされた白猫は不機嫌そうな顔をして、その内美鈴の指先に爪を立てた。

 「いだだっ!! ちょっ、何するんですかさくや!?」

 美鈴の情けない声を背中で聞きながら、ドアを閉める。



 やっぱり、猫のさくやが羨ましいなと思った。


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