『お夕飯』
ある日の山のお夕飯。
竈の前に立つ神様は、いつものように手際よく仕度をしていく。
網の上には、一尺もあろうかという立派な岩魚。
くるりと裏返せば、薄皮にはぱりぱりと香ばしい焼き目がついている。
(……あの頃は、肉付きがよくなるのは喜ばしいことだったのだけども)
仕度の最中に思い出すのは、昼間のユイの必死な様子だ。
あの子はいつも、本当に美味しそうにごはんを食べる。
だからついつい、こちらも少し多めに用意してしまうのだが──
(あんな風に気にしていたのね)
鍋の中では根菜を中心とした煮物がくつくつと煮えている。
その様子を確かめながら、もうひとつの鍋に味噌を溶いていく。
──思えば、あの子はこれまでの「彼女」たちと比べれば、この山に来た時からすでに体つきは良かった。
背丈だって、私と変わらないほどはある。
(……時代も変わった、ということかしら)
阿梨夜にとって、共に暮らす「彼女」を飢えさせないことは何より優先すべきことだった。
それは、今も昔も変わらない。
痩せぎみだった「彼女」が、山での暮らしの中で徐々に血色よく、肉付きも良くなっていく。
その様子を見守ることは、阿梨夜にとってずっと喜びだった。
(折角なら、美味しいものを食べてほしいと思っていたけども)
小皿に注いだ汁の味を確かめ、お玉を置く。
先の「彼女」がこの山へ来た──おおよそ九十年前のことになるだろうか。
ちょうどあの頃から、麓の世界の様子も目まぐるしく変わっていったように思う。
一時こそ厳しい時代もあったが、その後は食べ物だって、滋養のあるものが随分と手に入りやすくなった。
(きっと──)
(今の子には、今の子なりの悩みがあるのでしょうね)
無意識の内に、阿梨夜の口元は緩んでいた。
よく笑い、よく悩む、豊かな時代に生まれた娘。
その心の全ては理解出来なくとも──
ころころと変わるあの子の表情が、阿梨夜は好きだった。
──脇に置いていた土鍋の蓋を開ければ、白い湯気がふわっと立ちのぼる。
「……よし」
今日も仕度は整った。
(うぅ……)
(お夕飯も美味しそう……)
ちゃぶ台に並んだ品を、ユイは複雑な心持で眺めていた。
でん、と置かれた大きな岩魚が目に入る。
これ本当に一人分なのかなと思うくらい、阿梨夜が捕まえてくる魚はいつも大きい。
どこかに、とっておきの釣り場でもあるのだろうか。
「ごはん、よそうからお茶碗ちょうだい」
「あ、うん。お願いします」
──今日こそ、ごはんは一杯に留めなければ。
内心でそんな決意を固めながら、茶碗を手渡す。
ごはんさえ──
ごはんさえ我慢すれば、他のおかずはヘルシーなはずなのだ。
脳裏にちらつく俵猫を追い払いながら、ユイは自分にそう言い聞かせていた。
(あれっ)
ほどなくして戻ってきた茶碗を見て、ユイは異変に気付いた。
そこに収まっていたのは、いつものぴかぴかの白飯ではなく──
うっすら赤く染まったお米に、黒や茶色の粒が混じったもの。
(……あれ?)
(これって、健康食でよく聞くやつ……?)
そう、雑穀米だ。
「えっ、あれ……」
戸惑いが、口から漏れる。
「もしかして、私が食べすぎを気にしてたから……?」
そっと阿梨夜の顔を見れば、彼女は静かに頷いた。
「この方が、白米よりは気がねなく食べられるかと思って」
「えぇ……」
食べさせたいことには、変わりはないらしい。
「それに、腹持ちもいい……はず」
相変わらずの真面目な顔で、阿梨夜は言葉を付け足した。
「……ぷっ」
「はずって、ふふ……何それぇ」
その様子が妙に可笑しくて、ユイは茶碗を手にしたままくすくすと笑っていた。
「いただきます」
「いただきます」
ふたり揃って、食卓に手を合わせる。
ユイはまず、雑穀ごはんの茶碗を手に取った。
ひと口分、箸にとって口に含む。
噛めばぷちりとした食感と共に、香ばしい香りが口に広がる。
(あれっ)
これは意外と──
「……美味しいかも」
思っていたよりもずっと食べやすい。
雑穀米と聞けばどうにも「粗食」のイメージがあったが、ごはんの甘みもちゃんとある。
「まずは、いつものお米にいくらか混ぜて炊いてみたの」
「へぇー……」
ごはんの甘みが後を引くうちに、煮物を口に運ぶ。
うん、やっぱり美味しい。
味の染みたニンジンが、口の中でほろりと崩れる。
雑穀ごはんの香ばしさとも、よく合う……気がする。
ごはんをもうひと口食べてから、岩魚もひと口。これもよく合う。
控えめな塩気が、ふっくらとした身の旨みを引き立てる。……ごはんが進む。
「……ふふっ」
思わず頬を緩めるユイを、阿梨夜は目を細めながら見つめていた。
お味噌汁に口を付ける。今日の具材は、滑らかなお豆腐にふわふわの溶き卵。
優しい味わいと共に、口の中にしめりけが戻ってくる。
「はぁ……」
ひと息ついて、またごはんに手を伸ばす。
そうこうしているうちに、気付けばお茶碗はあっという間に空になってしまった。
「……」
そっと他の皿へ目を移す。
魚も煮物も、まだまだ十分に残っている。
ちらりと、土鍋に目が行く。
今はその蓋は閉められているが、阿梨夜のことだ。
あの中にはきっと、まだたっぷりとごはんが残っていることだろう。
「おかわりなら、まだあるわよ」
やっぱり。
(でもほら……)
(雑穀米も入ってるんだし……?)
先ほどの決意はどこへやら。
気付けばユイは、阿梨夜へ茶碗を差し出していた。
「……お願いします」
その声だけは、少し控えめだった。
ある日の山のお夕飯。
結局ユイは、食事を終える頃には雑穀ごはんを三杯平らげた。
そんな様子を見て阿梨夜は、「明日は三割ほど混ぜてみましょうか」なんて、嬉しそうに笑っていた。
戸惑いながらも徐々に関係が深まっていく二人の今後が気になりました