『縁』
その縁談は、ある日突然に降って湧いて出た。
隣村の地主の息子が、この村を訪れた際に私を見初めたらしい。
いい話だと……みんな喜んでいる。
家族も、親戚も、村の人たちも。
私も……喜ぶべきなのだろう、本当は。
けれどもどうしてか、胸には理由の分からない焦りばかりが浮かんでいた。
隣村に嫁いだら……きっと滅多にここへは帰ってこられないのだろうな。
夫に嫁いで妻になり、子を産んで母になり──
新しい生活に、飲み込まれて行くのだろう。
──みんな、そうやって大人になっていくのだ。
それなのに、私は何を厭うているのだろう。
気付けば私は、また山の方を見ていた。
この村を見下ろすように聳えるあの山。
おなごは立ち入ってはいかぬ、と教えられて育ったその場所。
それでもそれは、村での暮らしに確かな存在感で寄り添ってくれていた。
嫁いだ先から見上げる空には、もうあの稜線は無いのだろう。
「あの山の──」
あの山の頂から、この村を見渡せられたなら、この郷愁にもひとつの区切りを付けられるかもしれない。
気づけば私は、人目を避けるように仕度をしていた。
「どこ行くんだよ」
正に家を出ようというその時、背後から声を掛けられる。
まだ幼い弟だ。
私は振り返ると、弟に目線を合わせるように身を屈め、声を潜めてこう言った。
「お父さんとお母さんには内緒だよ」
「ちょっと、あの山に行ってくるの」
「あの山って……あの山かよ」
「おなごは入っちゃいかんって、みんな言ってるぞ」
「だから、こっそり入るのよ」
悪戯っぽく、弟に笑いかける。
「きっと……お嫁に行ったら、もう二度とそんな機会も無いのだもの」
自分でも、驚くほど寂しげな声が出た。
「ふぅん……」
そんな声を聞かせてしまったからなのか、この子なりに思うところがあったのか、弟は神妙な顔をして聞いていた。
「心配しなくとも、山の頂の景色を見たら、それですぐに帰ってくるわ」
「頂?」
「そう。きっとそこからの景色を見れば──」
「思い残すことなく、村を出られるから」
──そう、であって欲しい。
「……気を付けておくれよ」
「姉ちゃん、山歩きなんて、慣れてないだろ」
「ふふっ、ありがとう」
「でもね、なんとなく、なんとかなる気がしてるんだ」
こうして私は、弟に手を振り家を出る。
見知らぬ景色への期待からか、禁忌を破る背徳感からか、気持ちは何時になく高揚している。
山へ登るだけだというのに、どうしてか胸が弾んで仕方がなかった。
──山の道は険しいが、不思議と疲れは感じない。
木々の葉の揺れる音、側を流れる川の音、うるさいくらいの鳥の声。
全てが、私を迎え入れてくれている。そんな気さえした。
そうして進む内に、苔むした岩の前まで差し掛かり、そして──