『特別な日』
厳しい山の冬が終わりを迎え、日陰に残るわずかな雪も、じきに溶けきろうというある日。
山奥の館で暮らすふたりはその夜、少し特別な食事を共にしていた。
「そういえばさ」
「?」
ユイが何かを言いかけると、阿梨夜はケーキへ包丁を入れかけた手を止める。
焦げ目の残る「2」と「0」の形のロウソクを指先でもてあそびながら、ユイは続けた。
「阿梨夜の誕生日って知らないな」
阿梨夜は一瞬きょとんとすると、口を開く。
「私も、よく分からないわ」
「えっ──」
「えっ?」
思わず繰り返す。
「分からないの!?」
ユイにとって、それは思いもよらない答えだった。
「ええ」
何てこともないように、阿梨夜は頷く。
「あの頃は……日付なんてもの自体なかったから」
「あっ……」
その言葉に改めて、目の前の彼女が途方もない時間を生きてきた存在なのだと実感する。
「そっか……」
「それじゃあ、当たり前だよね」
そう言ってから、ユイはしばし天井を仰ぎ──
何かを思いついたように、勢いよく姿勢を戻した。
「じゃあさ、作ろうよ!」
「?」
阿梨夜は小さく首を傾げる。
「誕生日!」
「……作るものなの?」
彼女には珍しく、戸惑いが浮かんでいる。
「分かんないなら、一緒に決めればいいじゃん!」
ユイの声には、素直な高揚が滲んでいた。
阿梨夜は少し、考えるように間を置くが──
「ユイが決めるなら、それでいいわ」
出てきたのは、そんな答えだった。
「もー、阿梨夜の誕生日だよ?」
呆れたような声音で、それでもユイは楽しげに笑っていた。
「私と出会った日、とか……」
そういうのは、物語ではよくある話だ。
特別な出会いの日を、その人にとっての新しい始まりの日にする。
「ええ」
阿梨夜は当然のように頷く。
「……いや」
ユイは首筋に手をやり、視線を逸らす。
「それはさ」
「やっぱり違うな」
ひとつずつ、言葉を探すようにユイは続けていく。
「なんか」
「私だけ、ずるい気がする」
阿梨夜は首を傾げる。
「ずるい?」
「だってさ」
「昔にも、阿梨夜と一緒にいた人はいたんでしょ?」
「……ええ」
「その人たちにも、大事な思い出の日があったはずなのに」
少しだけ視線を落とす。
「私との日だけを『阿梨夜の日』にしちゃうのは……なんか違う気がする」
「今、私の隣に居るのはユイよ」
阿梨夜の言葉に淀みはない。
「それでも、昔のみんなも大切だったんでしょ?」
「だったら……」
少しだけ言葉を詰まらせ、それでもユイは続ける。
「やっぱり私は……それを、上書きするようなことはしたくないな」
「……ユイは」
「優しいわね」
「優しい……っていうのかなぁ」
あれは、どうにも座り心地の悪いような──そんな思いから零れた言葉だ。
少なくとも、ユイ自身はそう思っていた。
「ええ」
「好きよ、貴方のそういう所」
不意に、そんなことを阿梨夜が言うものだから。
ユイは思わず視線を逸らし、誤魔化すように手元のグラスを口に運んだ。
灯りにかざしたグラスに、こがね色が揺れる。
「なんかさ」
「?」
今日のために阿梨夜が選んでくれた、甘い林檎のお酒。
優しい口当たりのそれを飲みかわしながら、話は続く。
「無理に『誕生日』を決めることもないのかもね」
阿梨夜は静かに頷く。
「そうね」
少し考えてから、ユイは笑う。
「だから私と居る間はさ」
「うん」
「『私と出会った日』を、一緒にお祝いしようよ」
阿梨夜は少しだけ目を見開いた。
「……『私と居る間』、だけ?」
「うん」
「その先は、その時の阿梨夜が決めればいいよ」
「……」
「もし、また誰かと出会えたなら」
はにかみながら、ユイは続ける。
「その人との出会った日を、大事にしてあげて」
しばらく沈黙が流れる。
阿梨夜は静かにユイを見つめ、それから穏やかに頷いた。
「分かったわ」
「今年は、ユイとの出会いの日を祝う」
その返事に、ユイも嬉しそうに笑った。
「うん、それがいいよ」
ユイは両手で包んでいたグラスを、そっと持ち上げる。
「えへへ……」
「楽しみだね」
ユイの頬がうっすらと染まっていたのは、慣れない酒精のせいだろうか。
その顔を見つめる阿梨夜は、口元を緩めて自分のグラスを掲げる。
かちゃん──と、グラスのぶつかる音が館の食卓に響いた。