『水車』
山へ来てから一週間。
ここでの暮らしにも慣れ始めたユイは、館の裏手に広がる森へ足を運んでいた。
すっかり葉も落ちた木々の間からは、鈍色の空が覗いている。
足元の藪は深いが、相変わらず歩きづらさは感じない。
そうして歩くうちに、深い谷川のほとりに小さな小屋が建っているのが目に入った。
「あれ」
小屋の脇では、大きな木製の車輪が勢いよく回っている。
あれは、そう──
「水車だ!」
そこには、昔話に出てくるような趣のある水車小屋があった。
もっと近くで見たくて、藪に覆われた斜面を降りていく。
慣れた足取りで川まで下りると、ユイは水車へ駆け寄った。
「わぁ……」
川の流れを受け、ゴトゴトと音を立てながら回る水車。
間近で見るその姿は、思っていた以上に迫力があった。
「いいねー、涼しげだねー」
川の風と、水の音。水車が跳ね上げる水飛沫。
夏に来たら気持ちいいだろうな。
そんなことを思いながら、ユイは小屋の表へ回った。
「……あれ?」
壁に設けられた小窓から中を覗く。
そこには、大きな機械が見えた。
いくつかの小さな車輪が、ベルトで繋がれ、くるくると回っている。
水車の回転が、そのまま車輪たちへと伝わっているようだった。
「これって……」
てっきり粉でも挽く、昔ながらの水車かと思っていたのだけど。
「えっ、これ……水力発電なの?」
──「この山」に在るってことは、これも阿梨夜の持ち物なのかな。
そんなことを、つい考える。
幾日かここで暮らして、なんとなく分かってきたことがある。
どうにもこの山は、麓の人間が知る山と、私たちが暮らす山とで、微妙に姿が違うらしい。
きっと今も──大勢の人が、山の中を探しているはずなのに。
私がいくら歩いていても、誰と出くわす気配もなかった。
「……帰ったら聞いてみよ」
小屋から延びる黒い線は、館の方へと続いている。
それを眺めながら、私は呟いた。
館に戻ったユイは、台所で昼食の支度をする阿梨夜の元へ向かった。
そして、先ほど見つけたものについて早速尋ねてみた。
「ええ、私の水車小屋よそれは」
「やっぱり!」
思わず声が弾んだ。
「丁度いいわ、貴方にも案内しましょう」
そう言って阿梨夜は、刻み終えた野菜をざるにまとめ、勝手口へと歩み出す。
「……?」
水車小屋は今見てきたところなのに、案内とはどういうことだろう。
不思議に思いながらも、阿梨夜の後をついて行く。
勝手口を抜けると、すぐそこに小さな小屋が建っていた。
軒下には、森の奥から伸びてきた黒い線が繋がっている。
何気なくその線を目で追うと、館の壁に──確か、お風呂場のあった辺りへと続いていた。
阿梨夜が扉を開けると、ユイは隣からそっと中を覗き込んだ。
小屋の中央の床からは、パイプに繋がれた筒型の機械が突き出している。
その脇には、大きなロッカーのようなものが並び、奥の壁沿いには、大小の箱が置かれていた。
「……え?」
見覚えのある白い箱。
それは、あまりにもこの場所には似つかわしくない物だった。
「……え、あれって……冷蔵庫?」
家庭用のありふれた、背の高い冷蔵庫。
その隣には、浅間の家にもあったような上蓋式の大きな冷凍庫が置かれている。
「ええ」
阿梨夜は頷く。
「貴方が獲った鹿肉の残りも、ここに保管してるわ」
「ええっ!?」
数日前、この山で初めて獲った牝鹿の肉。
阿梨夜がそれを、なるべく無駄にしないようにしてくれているのは伝わっていた。
ここのところの食事には、いつも何かしらの形でその鹿肉が使われていたのだ。
それでも、まさか冷凍庫まであるとは思わなかった。
「大きい方は、貴方の獲物用にして欲しいの」
呆気に取られているユイに、いつもの調子で阿梨夜は続ける。
「狩りに行く前には、中の空きを確かめてね」
「阿梨夜……」
──私が狩りをすることを、そこまで考えてくれていたんだ。
「……ありがとう」
改めて冷凍庫を見ると、思わず頬が緩む。
「これからも、美味しいお肉を食べてもらえるように頑張るね!」
阿梨夜に向き直ると、ユイはとびきりの笑顔で応えた。
「こっちは……もしかして、井戸?」
話が落ち着くと、ユイの視線は中央の筒型の機械へと自然に向いた。
冷蔵庫に驚いて後回しになっていたが、これも気にはなっていたのだ。
「元々、ここには古い井戸があってね」
ユイの視線を追うように、阿梨夜は続ける。
「今はこの機械で水を汲み上げているの」
「じゃあ、この小屋って……」
ユイは小屋の中を見渡す。
「電気を使うものをまとめている場所ね」
「あの水車は、元々お風呂を沸かすのに取り入れたのだけど、他にも色々と使い道があったから」
「あー」
ユイはあのユニットバスを思い浮かべる。
お湯も明かりも普通に使えたのはこれのおかげか。
「それでも、館の方はまだロウソクとかなんだね」
思い浮かべるのは、館の夜を照らす素朴な灯りだ。
「館全体に『配線』という物を巡らせるのは、大変そうだったから」
そこで阿梨夜は言葉を切ると、何かを考えるように視線を流す。
「ユイが電気の方がいいって言うなら──」
「待って待って」
「大丈夫!」
「今の雰囲気好きだから!!」
「そう?」
阿梨夜は首を傾げる。
「今の子は、夜も長く動けた方がいいのかと思ったのだけど」
「それは……そういうこともあるけど!」
この時期は日の入りも早い。実際、この館へ来てからは就寝時間が随分と早まったものだ。
「でも、この館は今のままが好きなの」
「夜になったらロウソクを灯して、静かになって……」
「そういう時間も含めて、この家って感じがするから」
「……そう」
阿梨夜は小さく頷いた。
「なら、このままにしましょう」
その言葉を聞いて、ユイはほっとしたように笑う。
「よかった」
「ねえ」
後ろ手を組んで、ユイは言う。
「夏になったらさ、一緒に水車小屋まで行こうよ」
阿梨夜は不思議そうな顔をする。
彼女にとって、あそこは時折機械の様子を見に行くだけの場所だ。
「あそこ、すっごく涼しいの」
今の季節は、むしろ寒いくらいだったのだが。
「川の音も気持ちよかったし」
「きっと夏は最高だよ」
そう言って、ユイは飾り気のない笑顔を浮かべた。
「……そうね」
そんなユイを見て、阿梨夜も微笑む。
「じゃあ、その頃になったらお弁当でも持って行きましょうか」
「ほんと!?」
「ええ」
「ちょうど木陰も多いから」
「えへへ」
「すっごく楽しみ!」
巡り始めたばかりの、山での暮らし。
ふたりで過ごす夏を、ユイは今から思い描いていた。