『お昼』
ある日の山のお昼ごはん。
大皿に盛られた鹿のしぐれ煮。
私が獲ってきた鹿肉を、阿梨夜が丁寧に煮つけてくれたものだ。
小鉢には、さっぱりとしたきゅうりの浅漬け。
ごはんは当然のように炊き立て。
右手には、そっと添えられた温かいお茶。
「……まずい」
その言葉は、ぽつりと私の口から零れた。
「……?」
阿梨夜は小さく首を傾げる。
「口に合わなかったかしら」
「そうじゃなくて!」
ユイは茶碗を抱えたまま首を振る。
「おかわりが止まらなくて……このままじゃまずいよぉ!」
そうなのだ。
甘辛いしぐれ煮はごはんに合いすぎる。
もう止めなければと思うのに……。
午前中ずっと山を歩き回った身体が、どうしても言うことを聞いてくれない。
「?」
阿梨夜はきょとんとする。
「美味しいのだから、いいことではないの?」
「よくないの!」
私は思わず身を乗り出す。
「今、これで三杯目だよ!?」
「まだあるわよ」
何てことのないように言って、阿梨夜は土鍋の蓋を開ける。
立ちのぼる湯気。
つやつやと光る炊き立ての白飯。
「誘惑しないでぇ……」
駄目だ。
もう、ここからでもいい匂いが香ってくる。
「?」
そんな私を、阿梨夜は「何を言っているのだろう」とでも言いたげな顔で見てくる。
その視線に耐えきれず、ついに私は訴えに出た。
「そりゃあね、鹿肉はヘルシーだよ!?」
「ええ」
「でも、ごはんが止まらないの!」
阿梨夜は少し考え込んでから、小さく頷いた。
「なら……」
「ごはんも、もっと炊きましょうか」
「違うーー!!」
「……つまり、ユイは食べすぎで太るのが心配だと」
「うん……」
食後のお茶を飲みながら、阿梨夜と私は向かい合っていた。
実際、山へ来てから三キロほど体重は増えた。
鏡に映る自分の顔も……少し、丸くなったような気がしてならない。
「心配しなくても、ユイは太ってなんていないわ」
そんな私の心を知ってか知らずか、阿梨夜は穏やかに笑って言う。
「とても健康的な、しなやかな身体。山を生きる人の身体よ」
「でも……」
今は「健康的」であっても、それが崩れる時はあっという間なのではないか。
日に日に増すばかりの食欲に、そんな不安がどうしても拭えなかった。
「私はね」
湯呑みを置いて、阿梨夜は言う。
「ユイが、美味しい美味しいってごはんを食べてくれるのが……何より嬉しいの」
「阿梨夜……」
「それに……」
「ちょっとくらい丸くなっても、きっとユイは可愛いわ」
曇りなき瞳で、阿梨夜は微笑む。
その眼差しだけで、それが彼女の偽らざる本心なのだと伝わるほどに。
「……」
「うぅ……」
だけど私は、それを素直には受け取れない。
『ちょっとくらい丸くても可愛い』
その言葉で私の頭に浮かんだのは──
叔母さんの家で飼われていた、俵みたいな猫だった。
私たちが行くといつも日当たりのいい場所に居て、おなかを見せてごろんと寝転がる明るい色のトラ。
動いているところは、あまり見かけなかった。
『流石に太らせすぎじゃないか?』
お父さんはよく、そう言っていたけども。
『これくらいが可愛いんじゃないの~』
なんて、叔母さんは笑っているばかりだったっけ。
……阿梨夜の言う「可愛い」って、まさか。
「……阿梨夜」
「?」
「あのさ」
「ええ」
「阿梨夜の言う『可愛い』って……」
「うん」
「もしかして、ペットに向ける『可愛い』なんじゃない?」
「……?」
阿梨夜は本当に意味が分からない、という顔で首を傾げる。
「どうして?」
「だって!」
「丸くても可愛いとか! いっぱい食べてるところ可愛いとか!」
「猫とかを甘やかす人の言うことだよそれ!!」
つい、声に力が入ってしまった。
阿梨夜はしばらく黙り込んで、それから静かに口を開く。
「……ユイ」
赤い瞳が、真っすぐに私を見る。
その面持ちはとても真剣で、私は──
「貴方は猫ではないわ」
「そこじゃなーーい!」