『第二話』
障子を通して届く、柔らかな日差し。
その光に意識を引き戻されるように、ゆっくりと目が覚める。
身を起こせば、目に入るのは時代劇に出てきそうな立派な和室。
その片隅に敷かれた布団の中に、私はいた。
「ここって……」
寝惚け半分の頭に、徐々に昨日の記憶が甦ってくる。
山の中で「彼女」に出会って、それから──
……なんだか今更、気恥ずかしさのような物が顔を出してきた。
だって、出会ったばかりの人とあんな、あんな……。
頭がはっきりするほどに顔が熱くなっていく。
身を縮めるように、私は布団の中へと引っ込んでしまった。
でも──
「……優しかったな」
布団に埋もれたまま、私はひとりごちる。
こうしていると、まだ、彼女の香りが残っているような──
「おはよう」
「わっ!?」
反射的に飛び起きる。
いつの間に入ってきたのだろう。
障子の傍には、割烹着姿の彼女が立っていた。
──阿梨夜。
この山の女神様……の、はず。
「……その格好」
「料理をしてたから」
「あ、うん」
白い着物の上に、こちらも白い割烹着。
妙に似合っているような、似合っていないような。
「朝食、出来てるわよ」
「朝食……」
女神様、だよね?
そんな人が妙に生活感のあることを言うものだから、返事が少し遅れる。
「必要でしょう」
……そういえば、昨日は疲れてそのまま寝てしまったんだったな。
そんなことを思っていると、応えるように、ぐう、とお腹が鳴った。
「……必要みたい」
寝巻き姿のまま連れてこられた居間には、すでに美味しそうな匂いが漂っていた。
炊きたてのごはんに、野菜の入ったスープ。厚切りのベーコンと、綺麗な形のオムレツ。
年季の入ったちゃぶ台の上には、思いのほか彩り豊かな料理が並んでいる。
「……随分、普通なんだね」
予想外のメニューに、思わず見たままの感想を述べてしまう。
「今の子は、こういう方が好みかと思ったのだけど」
そう言って、彼女は少し考え込む。
「……パンの方が良かったかしら?」
「違う違う違う!」
私は慌てて、首を横に振る。
「そうじゃなくて!」
「普通に美味しそうだから驚いただけ!」
何気なく零した言葉を、思いがけない受け取り方をされてしまった。
「……山菜とか、きのことかばっかり食べるのかなって」
思い浮かぶのは、おばあちゃんがよく作っていたような料理だ。
もちろん、あれだって美味しい。
けど……この先ずっとそれしか食べられないと言われたら、厳しいものはあるかもしれない。
「貴方に不自由させるつもりはないもの」
そんなことをさらっと言うものだから、心臓が跳ねる。
……この人、本当に私と暮らしていくつもりなんだな。
ちゃぶ台を挟んで、彼女と私は向かい合って席に着く。
「いただきます」
「……いただきます」
阿梨夜に続くように、私は食卓に手を合わせた。
まずはオムレツから──そっと箸を入れ、ゆっくりと口に運ぶ。
バターの香りが、口の中に広がる。
……うん、普通に美味しい朝ごはんだ。
「……美味しい」
「そう」
阿梨夜は淡々と食事を進めながら答える。
その様子がどうにも気になって、ついこんなことを聞いてしまう。
「神様も、ごはん食べるんだ」
「一緒に食べたい、と言う子が多かったから」
「……ふぅん」
言うまでもなく、この山に消えたという女性たちのことだろう。
──私の前の、「みんな」。
そのことから意識を逸らすように、手元の皿へ目を向ける。
オムレツの脇には、皿からはみ出るかというくらいの立派なベーコンが添えられていた。
お母さんがいつも買ってくるペラペラの物とは大違いだ。
「ベーコンなんて、この山にあるんだね」
どこかで豚でも育てているのだろうか。
「……麓で手に入る物なら、大概は調達できるわ」
スープをひと口飲むと、阿梨夜は事も無げに言う。
「調達……」
自家製じゃなかった。
頭の中の彼女が、燻製小屋から村のスーパーに移動する。
真っ白の着物姿のまま商店に立つ彼女の姿は、どうにも現実味が薄くて、すぐに首を振って打ち消した。
「……あの弾も、必要なら用意できるけど」
阿梨夜の視線は、部屋の隅に寄せられた私の荷物のひとつ──猟銃に向いていた。
「……ふぇっ、ほんほに?」
ベーコンにかぶりついていた私は、気の抜けた返事をしてしまう。
……うわっ、美味しいなこれ。
「貴方が望む物は、極力調達したいと思ってる」
彼女の視線が、私に移る。
「好きなものとか、あれば教えて」
(……好きなもの)
ベーコンの塩気を味わいながら、阿梨夜の言葉を反芻する。
食べ物、の話だよね? この流れなら……。
「うーん……美味しいものは何でも好きだけど……」
考えているうちに、ひとつ思い当たるものがあった。
「……錦堂のケーキ」
ぽつりと、その名前を口にする。
「あれ、大好きだったな」
お父さんが、仕事帰りによく買ってきてくれたっけ。
誕生日も、クリスマスも、うちではいつもあのお店のケーキだった。
「……分かった」
「調達するわ」
阿梨夜の瞳が、一瞬揺れたような気がした。
「……どうかしたの?」
「……いえ」
「以前の……貴方の先の『彼女』とも、よく食べていたから」
私の先……。
例の、ひい爺ちゃんのお姉さん……だろうか。
「……あれっ?」
そこまで思い至ったところで、別の疑問が浮かぶ。
「あのお店ってそんな昔からあったっけ」
人の良さそうな老夫婦が営む、小さなケーキ屋さん。
村で初めての洋菓子屋であるその店は、祖父が若い頃に出来たと聞いた気がする。
ひい爺ちゃんが子どもの頃、村から消えたお姉さん。
「彼女」にとっては、知らないお店のはずだけど──
「あの店が出来た時、私のところにも評判が届いたの」
「それで……『彼女』が喜ぶかな、って」
「……」
なんか、変な気持ちだな。
元カノの話を聞かされてるような、自分のことのような……ふわふわした感覚。
でも、大事にされてたんだな。お姉さん。
……ひい爺ちゃんが聞いたら、少しはほっとするかな。
「……ケーキ」
「食べる時は……阿梨夜も、一緒に食べてくれる?」
少し、躊躇いがちな声になってしまった。
「勿論」
迷いなく返される答え。
真っすぐに向けられた眼差しに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
──お姉さんも、こんな気持ちだったのかな。
「ひと息ついたら出かけてみない?」
「えっ?」
朝ごはんを食べ終わる頃、阿梨夜はそんなことを提案してきた。
「山を案内しようかと」
「……行く」
「わぁ!」
阿梨夜はまず、山の頂の見晴らしの良い場所へ連れて来てくれた。
村の家々が小さく見える。
9年間通った、村の学校。
友達とアイスを食べた小さなお店。
それに少し外れの方にある猟友会の会館まで、一度に見渡せる。
子どもの頃から、ずっと見てみたかった景色だ。
「すごい……」
思わずそんな言葉が零れる。
阿梨夜を振り返ると、彼女は静かに微笑んで私を見つめていた。
「……なに?」
「いえ」
「喜んでくれて良かった」
その笑みを見ていると、どうにも心がくすぐったい。
阿梨夜が腰かけていた岩に、私も隣り合うように腰を下ろし、改めて村を眺める。
小さくなった景色の中から、私の──浅間の家を見つける。
(みんな、どうしてるかな)
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん──ひい爺ちゃん。
(……心配、させちゃってるよね。きっと)
胸に湧く切ない気持ちを抱えたまま、阿梨夜の肩に身を預ける。
そっと、私の手に彼女の手が重ねられる。
胸の奥の隙間が──温かなもので、満たされていく。
「ねえ、阿梨夜」
彼女に頭を預けたまま、私は目を伏せる。
「私、貴方に会えて良かった」
「……って、思う」
「……」
重ねられた手が、ほんの僅かに強くなる。
「私もよ」
「……!」
その返事を聞いた途端、身体がふわりと軽くなったような気がした。
きっと、麓に戻ってしまえば──
こんな気持ちになれる人とは、もう二度と出会えない。
そんな気がした。
小さく見える村の景色へ、もう一度だけ目を向ける。
(……ごめんね、ひい爺ちゃん)
胸の奥でそう呟いて、私はそっと目を閉じた。
夕方のごはんも、とても美味しかった。
太陽が山の反対側へとゆっくりと沈んで行き、館が薄暮れに包まれていく。
「……」
この時間になると、どうにも昨日のことを意識してしまう。
あの時も、こんな風に薄暗くなった部屋で──
「ユイ」
「ひゃあ!?」
ほとんど悲鳴のような声が出てしまう。
振り返ると、阿梨夜は少しだけ目を見開いて固まっていた。
「……お風呂、沸いてるわよ」
「あっ、うん……」
妙に気まずい空気に耐え切れず、私はそそくさと脱衣所に向かった。
「……」
お風呂場は、古い日本家屋に似つかわしくないユニットバスだった。
(そういえば、トイレも洋式だったな……)
電気とかどうしてるんだろう。
浴室を柔らかく照らす明かりを見ているとそんなことを考えてしまう。
山奥の、それも周囲に家なんて一軒もない場所。
それなのに、当たり前のように水が出て、明かりが灯る。
──今の子は、こういう方が好みかと思ったのだけど。
朝食の時の、阿梨夜の言葉を思い出す。
これも彼女の言う「調達」の結果なのだろうか。
──まめ過ぎない? あの人。
ちょっと、怖くなってきたな。……ちょっとだけ。
気を取り直して髪をまとめると、私はシャワーの栓をひねる。
流れ出るお湯は、ちゃんと温かい。
ひと通り汗を流し落とすと、私は湯船に身を沈めた。
ゆったりとした浴槽は、足を伸ばせるほど広い。
身体がじんわりと温まっていく。
すると気持ちまで緩んだように、思考はいつの間にか、あらぬ方へと流れ始めていた。
──昨日は流れで「そんな感じ」になったけど、今日はどうするのかな。
「……」
いやいやいや。
流石に……二日続けて、ってことはないでしょ。
そう自分に言い聞かせて、頭に浮かんでしまった考えを振り払おうとする。
でも──
(また、触れて欲しいな)
そう思ってしまった瞬間、誰に聞かれた訳でもないのに妙に気まずくて。
私は何かから隠れるように、湯船に顔を沈めた。
──元々、私はこういう感情には疎い方だと思っていた。
同世代の恋バナも、どこか遠い話として聞いていたように思う。
そんな様子を「お高く留まっている」なんて揶揄されたことも少なくない。
それでも、間に合わせで誰かと関係を持とうという風にも思えなかった。
もしかしたら、それは──
待っている人が、いたからなのかもしれない。
(……確かめたいな)
今なら、この熱も──
湯の温もりのせいに出来てしまう気がした。
お風呂から上がる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
私が居間へ戻ると、阿梨夜は火鉢の火を整えているところだった。
赤い光に照らされたその横顔は、伝承で言うような「醜い女神」とはほど遠く見えた。
火傷の痕だって──
醜い、なんて言われなければならないものとは、私には思えなかった。
「……」
無言で、彼女の側へ歩み寄る。
私が隣に座ると、阿梨夜は火箸を置いて手を拭う。
「寛げた?」
阿梨夜は、私に微笑みを向ける。
その優しい声音に、眼差しに。
心の奥の何かが、なおさら私を急かすようだった。
質問には答えず──私は、彼女の胸元に額を預ける。
気付けば、右手が彼女の着物の袖を握っていた。
彼女が、くすりと笑った気がした。
「『貴方』は……分かりやすい子ね」
そっと、肩を抱き寄せられる。
「……部屋に、戻る?」
「……うん」
彼女は、袖を握ったままの私の手をそっと取る。
そのまま優しく促すように、ふたり一緒に立ち上がる。
私は──その手をひかれるまま、視線を伏せて隣を歩く。
部屋までの距離が、長く感じる。
心臓の音が、やけにうるさい。
──やっぱり。
私、この人のこと好きなんだな。
この館は、怖いくらいに居心地がいい。
「私、このままじゃ駄目な気がする!」
阿梨夜の館で暮らし始めてから三日。
ここでの日々は快適そのものだった。
食事も、暮らしも、何ひとつ不自由ないようにと彼女は整えてくれる。
だが、それが却って──私の心に焦りを芽生えさせていた。
「なんか……掃除とかくらいさせてよ」
私がそう言うと阿梨夜は困ったように笑う。
「『貴方』も、やっぱりそう言うのね」
「掃除と言っても……この館は広いわよ」
「うっ……」
何も言い返せず、言葉に詰まる。
この広い館には、使われてない部屋も多いが、どこも掃除は行き届いているように見えた。
むしろ阿梨夜は、いつの間にこれほどの家事をこなしているのだろう。
「貴方は……貴方のしたいことをしてくれたらいいの」
「むー」
そうは言っても、したいこと、と言われても中々思い付かない。
彼女の役に立てるような、何か、したいこと──
「……ほら、例えば、あれ」
「あれ?」
阿梨夜の視線を追うと……そこには私の猟銃があった。
「狩り、好きなんでしょう?」
「……うん」
「だったら……その獲物を、私にも食べさせて」
「……そんなことでいいの?」
ベーコンでも何でも調達出来てしまう人相手に、そんなことで釣り合うのだろうか……。
「もう、随分と……誰かの狩った獲物なんて食していないから」
そう言って口元を緩めた阿梨夜の笑みは、どこか寂しげにも見えた。
「……随分前ならあるんだ?」
そこから覗く影が気になって、つい、そんなことを聞いてしまう。
少し困ったように笑いながらも、阿梨夜は聞かせてくれる。
「ええ」
「ずっと昔の……最初の『彼女』も、鹿狩りが好きだったわ」
「……」
「もっとも、彼女が使っていたのは鉄砲じゃなくて弓矢だったけど」
「阿梨夜は……」
「その人と食べたごはんを、また食べたいの?」
自分でも、どういう気持ちでそんなことを聞いたのかはよく分からない。
「それもあるのかもね」
阿梨夜は少しだけ、目を伏せる。
「……けど」
そしてまた、赤い瞳が私を映す。
「それ以上に……貴方が、その手で得た獲物を分かち合ってくれたら、きっと嬉しいわ」
「……」
なんだか……私に都合の良すぎる話のようにも感じてしまうけども。
そう言ってもらえるのは……素直に嬉しいな。
「……分かった」
「いい獲物、とれるように頑張る」
「楽しみにしてる」
そう言って微笑む阿梨夜の眼差しは、それまでよりいっそう柔らかいものに感じた。
ヘリのプロペラ音が、山に響いている。
見付かったら不味いかな。
そう思う一方で、きっと見付かりはしないだろうという確信もあった。
空を見る。
これでもかというくらい、羽音は大きく響いているのに、ヘリはどこにも見当たらない。
きっと、向こうからも同じなのだろう。
そんなことを考えている内に、お目当ての獲物に遭遇する。
茂みの向こうに姿を見せた、若い牝鹿。
私は担いでいた猟銃を構えて、静かに照準を合わせる。
──喜んでくれるといいな。
阿梨夜の顔が、思い浮かぶ。
私の獲物を、一緒に食べたいと言ってくれた彼女。
銃口の先のしなやかな牝鹿を見つめる。
あれならきっと、阿梨夜も気に入るような美味しいお肉となってくれるはずだ。
──銃声が、プロペラの音を切り裂くように山に響いた。
障子を通して届く、柔らかな日差し。
その光に意識を引き戻されるように、ゆっくりと目が覚める。
身を起こせば、目に入るのは時代劇に出てきそうな立派な和室。
その片隅に敷かれた布団の中に、私はいた。
「ここって……」
寝惚け半分の頭に、徐々に昨日の記憶が甦ってくる。
山の中で「彼女」に出会って、それから──
……なんだか今更、気恥ずかしさのような物が顔を出してきた。
だって、出会ったばかりの人とあんな、あんな……。
頭がはっきりするほどに顔が熱くなっていく。
身を縮めるように、私は布団の中へと引っ込んでしまった。
でも──
「……優しかったな」
布団に埋もれたまま、私はひとりごちる。
こうしていると、まだ、彼女の香りが残っているような──
「おはよう」
「わっ!?」
反射的に飛び起きる。
いつの間に入ってきたのだろう。
障子の傍には、割烹着姿の彼女が立っていた。
──阿梨夜。
この山の女神様……の、はず。
「……その格好」
「料理をしてたから」
「あ、うん」
白い着物の上に、こちらも白い割烹着。
妙に似合っているような、似合っていないような。
「朝食、出来てるわよ」
「朝食……」
女神様、だよね?
そんな人が妙に生活感のあることを言うものだから、返事が少し遅れる。
「必要でしょう」
……そういえば、昨日は疲れてそのまま寝てしまったんだったな。
そんなことを思っていると、応えるように、ぐう、とお腹が鳴った。
「……必要みたい」
寝巻き姿のまま連れてこられた居間には、すでに美味しそうな匂いが漂っていた。
炊きたてのごはんに、野菜の入ったスープ。厚切りのベーコンと、綺麗な形のオムレツ。
年季の入ったちゃぶ台の上には、思いのほか彩り豊かな料理が並んでいる。
「……随分、普通なんだね」
予想外のメニューに、思わず見たままの感想を述べてしまう。
「今の子は、こういう方が好みかと思ったのだけど」
そう言って、彼女は少し考え込む。
「……パンの方が良かったかしら?」
「違う違う違う!」
私は慌てて、首を横に振る。
「そうじゃなくて!」
「普通に美味しそうだから驚いただけ!」
何気なく零した言葉を、思いがけない受け取り方をされてしまった。
「……山菜とか、きのことかばっかり食べるのかなって」
思い浮かぶのは、おばあちゃんがよく作っていたような料理だ。
もちろん、あれだって美味しい。
けど……この先ずっとそれしか食べられないと言われたら、厳しいものはあるかもしれない。
「貴方に不自由させるつもりはないもの」
そんなことをさらっと言うものだから、心臓が跳ねる。
……この人、本当に私と暮らしていくつもりなんだな。
ちゃぶ台を挟んで、彼女と私は向かい合って席に着く。
「いただきます」
「……いただきます」
阿梨夜に続くように、私は食卓に手を合わせた。
まずはオムレツから──そっと箸を入れ、ゆっくりと口に運ぶ。
バターの香りが、口の中に広がる。
……うん、普通に美味しい朝ごはんだ。
「……美味しい」
「そう」
阿梨夜は淡々と食事を進めながら答える。
その様子がどうにも気になって、ついこんなことを聞いてしまう。
「神様も、ごはん食べるんだ」
「一緒に食べたい、と言う子が多かったから」
「……ふぅん」
言うまでもなく、この山に消えたという女性たちのことだろう。
──私の前の、「みんな」。
そのことから意識を逸らすように、手元の皿へ目を向ける。
オムレツの脇には、皿からはみ出るかというくらいの立派なベーコンが添えられていた。
お母さんがいつも買ってくるペラペラの物とは大違いだ。
「ベーコンなんて、この山にあるんだね」
どこかで豚でも育てているのだろうか。
「……麓で手に入る物なら、大概は調達できるわ」
スープをひと口飲むと、阿梨夜は事も無げに言う。
「調達……」
自家製じゃなかった。
頭の中の彼女が、燻製小屋から村のスーパーに移動する。
真っ白の着物姿のまま商店に立つ彼女の姿は、どうにも現実味が薄くて、すぐに首を振って打ち消した。
「……あの弾も、必要なら用意できるけど」
阿梨夜の視線は、部屋の隅に寄せられた私の荷物のひとつ──猟銃に向いていた。
「……ふぇっ、ほんほに?」
ベーコンにかぶりついていた私は、気の抜けた返事をしてしまう。
……うわっ、美味しいなこれ。
「貴方が望む物は、極力調達したいと思ってる」
彼女の視線が、私に移る。
「好きなものとか、あれば教えて」
(……好きなもの)
ベーコンの塩気を味わいながら、阿梨夜の言葉を反芻する。
食べ物、の話だよね? この流れなら……。
「うーん……美味しいものは何でも好きだけど……」
考えているうちに、ひとつ思い当たるものがあった。
「……錦堂のケーキ」
ぽつりと、その名前を口にする。
「あれ、大好きだったな」
お父さんが、仕事帰りによく買ってきてくれたっけ。
誕生日も、クリスマスも、うちではいつもあのお店のケーキだった。
「……分かった」
「調達するわ」
阿梨夜の瞳が、一瞬揺れたような気がした。
「……どうかしたの?」
「……いえ」
「以前の……貴方の先の『彼女』とも、よく食べていたから」
私の先……。
例の、ひい爺ちゃんのお姉さん……だろうか。
「……あれっ?」
そこまで思い至ったところで、別の疑問が浮かぶ。
「あのお店ってそんな昔からあったっけ」
人の良さそうな老夫婦が営む、小さなケーキ屋さん。
村で初めての洋菓子屋であるその店は、祖父が若い頃に出来たと聞いた気がする。
ひい爺ちゃんが子どもの頃、村から消えたお姉さん。
「彼女」にとっては、知らないお店のはずだけど──
「あの店が出来た時、私のところにも評判が届いたの」
「それで……『彼女』が喜ぶかな、って」
「……」
なんか、変な気持ちだな。
元カノの話を聞かされてるような、自分のことのような……ふわふわした感覚。
でも、大事にされてたんだな。お姉さん。
……ひい爺ちゃんが聞いたら、少しはほっとするかな。
「……ケーキ」
「食べる時は……阿梨夜も、一緒に食べてくれる?」
少し、躊躇いがちな声になってしまった。
「勿論」
迷いなく返される答え。
真っすぐに向けられた眼差しに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
──お姉さんも、こんな気持ちだったのかな。
「ひと息ついたら出かけてみない?」
「えっ?」
朝ごはんを食べ終わる頃、阿梨夜はそんなことを提案してきた。
「山を案内しようかと」
「……行く」
「わぁ!」
阿梨夜はまず、山の頂の見晴らしの良い場所へ連れて来てくれた。
村の家々が小さく見える。
9年間通った、村の学校。
友達とアイスを食べた小さなお店。
それに少し外れの方にある猟友会の会館まで、一度に見渡せる。
子どもの頃から、ずっと見てみたかった景色だ。
「すごい……」
思わずそんな言葉が零れる。
阿梨夜を振り返ると、彼女は静かに微笑んで私を見つめていた。
「……なに?」
「いえ」
「喜んでくれて良かった」
その笑みを見ていると、どうにも心がくすぐったい。
阿梨夜が腰かけていた岩に、私も隣り合うように腰を下ろし、改めて村を眺める。
小さくなった景色の中から、私の──浅間の家を見つける。
(みんな、どうしてるかな)
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん──ひい爺ちゃん。
(……心配、させちゃってるよね。きっと)
胸に湧く切ない気持ちを抱えたまま、阿梨夜の肩に身を預ける。
そっと、私の手に彼女の手が重ねられる。
胸の奥の隙間が──温かなもので、満たされていく。
「ねえ、阿梨夜」
彼女に頭を預けたまま、私は目を伏せる。
「私、貴方に会えて良かった」
「……って、思う」
「……」
重ねられた手が、ほんの僅かに強くなる。
「私もよ」
「……!」
その返事を聞いた途端、身体がふわりと軽くなったような気がした。
きっと、麓に戻ってしまえば──
こんな気持ちになれる人とは、もう二度と出会えない。
そんな気がした。
小さく見える村の景色へ、もう一度だけ目を向ける。
(……ごめんね、ひい爺ちゃん)
胸の奥でそう呟いて、私はそっと目を閉じた。
夕方のごはんも、とても美味しかった。
太陽が山の反対側へとゆっくりと沈んで行き、館が薄暮れに包まれていく。
「……」
この時間になると、どうにも昨日のことを意識してしまう。
あの時も、こんな風に薄暗くなった部屋で──
「ユイ」
「ひゃあ!?」
ほとんど悲鳴のような声が出てしまう。
振り返ると、阿梨夜は少しだけ目を見開いて固まっていた。
「……お風呂、沸いてるわよ」
「あっ、うん……」
妙に気まずい空気に耐え切れず、私はそそくさと脱衣所に向かった。
「……」
お風呂場は、古い日本家屋に似つかわしくないユニットバスだった。
(そういえば、トイレも洋式だったな……)
電気とかどうしてるんだろう。
浴室を柔らかく照らす明かりを見ているとそんなことを考えてしまう。
山奥の、それも周囲に家なんて一軒もない場所。
それなのに、当たり前のように水が出て、明かりが灯る。
──今の子は、こういう方が好みかと思ったのだけど。
朝食の時の、阿梨夜の言葉を思い出す。
これも彼女の言う「調達」の結果なのだろうか。
──まめ過ぎない? あの人。
ちょっと、怖くなってきたな。……ちょっとだけ。
気を取り直して髪をまとめると、私はシャワーの栓をひねる。
流れ出るお湯は、ちゃんと温かい。
ひと通り汗を流し落とすと、私は湯船に身を沈めた。
ゆったりとした浴槽は、足を伸ばせるほど広い。
身体がじんわりと温まっていく。
すると気持ちまで緩んだように、思考はいつの間にか、あらぬ方へと流れ始めていた。
──昨日は流れで「そんな感じ」になったけど、今日はどうするのかな。
「……」
いやいやいや。
流石に……二日続けて、ってことはないでしょ。
そう自分に言い聞かせて、頭に浮かんでしまった考えを振り払おうとする。
でも──
(また、触れて欲しいな)
そう思ってしまった瞬間、誰に聞かれた訳でもないのに妙に気まずくて。
私は何かから隠れるように、湯船に顔を沈めた。
──元々、私はこういう感情には疎い方だと思っていた。
同世代の恋バナも、どこか遠い話として聞いていたように思う。
そんな様子を「お高く留まっている」なんて揶揄されたことも少なくない。
それでも、間に合わせで誰かと関係を持とうという風にも思えなかった。
もしかしたら、それは──
待っている人が、いたからなのかもしれない。
(……確かめたいな)
今なら、この熱も──
湯の温もりのせいに出来てしまう気がした。
お風呂から上がる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
私が居間へ戻ると、阿梨夜は火鉢の火を整えているところだった。
赤い光に照らされたその横顔は、伝承で言うような「醜い女神」とはほど遠く見えた。
火傷の痕だって──
醜い、なんて言われなければならないものとは、私には思えなかった。
「……」
無言で、彼女の側へ歩み寄る。
私が隣に座ると、阿梨夜は火箸を置いて手を拭う。
「寛げた?」
阿梨夜は、私に微笑みを向ける。
その優しい声音に、眼差しに。
心の奥の何かが、なおさら私を急かすようだった。
質問には答えず──私は、彼女の胸元に額を預ける。
気付けば、右手が彼女の着物の袖を握っていた。
彼女が、くすりと笑った気がした。
「『貴方』は……分かりやすい子ね」
そっと、肩を抱き寄せられる。
「……部屋に、戻る?」
「……うん」
彼女は、袖を握ったままの私の手をそっと取る。
そのまま優しく促すように、ふたり一緒に立ち上がる。
私は──その手をひかれるまま、視線を伏せて隣を歩く。
部屋までの距離が、長く感じる。
心臓の音が、やけにうるさい。
──やっぱり。
私、この人のこと好きなんだな。
この館は、怖いくらいに居心地がいい。
「私、このままじゃ駄目な気がする!」
阿梨夜の館で暮らし始めてから三日。
ここでの日々は快適そのものだった。
食事も、暮らしも、何ひとつ不自由ないようにと彼女は整えてくれる。
だが、それが却って──私の心に焦りを芽生えさせていた。
「なんか……掃除とかくらいさせてよ」
私がそう言うと阿梨夜は困ったように笑う。
「『貴方』も、やっぱりそう言うのね」
「掃除と言っても……この館は広いわよ」
「うっ……」
何も言い返せず、言葉に詰まる。
この広い館には、使われてない部屋も多いが、どこも掃除は行き届いているように見えた。
むしろ阿梨夜は、いつの間にこれほどの家事をこなしているのだろう。
「貴方は……貴方のしたいことをしてくれたらいいの」
「むー」
そうは言っても、したいこと、と言われても中々思い付かない。
彼女の役に立てるような、何か、したいこと──
「……ほら、例えば、あれ」
「あれ?」
阿梨夜の視線を追うと……そこには私の猟銃があった。
「狩り、好きなんでしょう?」
「……うん」
「だったら……その獲物を、私にも食べさせて」
「……そんなことでいいの?」
ベーコンでも何でも調達出来てしまう人相手に、そんなことで釣り合うのだろうか……。
「もう、随分と……誰かの狩った獲物なんて食していないから」
そう言って口元を緩めた阿梨夜の笑みは、どこか寂しげにも見えた。
「……随分前ならあるんだ?」
そこから覗く影が気になって、つい、そんなことを聞いてしまう。
少し困ったように笑いながらも、阿梨夜は聞かせてくれる。
「ええ」
「ずっと昔の……最初の『彼女』も、鹿狩りが好きだったわ」
「……」
「もっとも、彼女が使っていたのは鉄砲じゃなくて弓矢だったけど」
「阿梨夜は……」
「その人と食べたごはんを、また食べたいの?」
自分でも、どういう気持ちでそんなことを聞いたのかはよく分からない。
「それもあるのかもね」
阿梨夜は少しだけ、目を伏せる。
「……けど」
そしてまた、赤い瞳が私を映す。
「それ以上に……貴方が、その手で得た獲物を分かち合ってくれたら、きっと嬉しいわ」
「……」
なんだか……私に都合の良すぎる話のようにも感じてしまうけども。
そう言ってもらえるのは……素直に嬉しいな。
「……分かった」
「いい獲物、とれるように頑張る」
「楽しみにしてる」
そう言って微笑む阿梨夜の眼差しは、それまでよりいっそう柔らかいものに感じた。
ヘリのプロペラ音が、山に響いている。
見付かったら不味いかな。
そう思う一方で、きっと見付かりはしないだろうという確信もあった。
空を見る。
これでもかというくらい、羽音は大きく響いているのに、ヘリはどこにも見当たらない。
きっと、向こうからも同じなのだろう。
そんなことを考えている内に、お目当ての獲物に遭遇する。
茂みの向こうに姿を見せた、若い牝鹿。
私は担いでいた猟銃を構えて、静かに照準を合わせる。
──喜んでくれるといいな。
阿梨夜の顔が、思い浮かぶ。
私の獲物を、一緒に食べたいと言ってくれた彼女。
銃口の先のしなやかな牝鹿を見つめる。
あれならきっと、阿梨夜も気に入るような美味しいお肉となってくれるはずだ。
──銃声が、プロペラの音を切り裂くように山に響いた。