舞台の中心、箱の中には金髪の人形がいた。名前はリサ。今から人形劇を演じようとしている。なお、人形を操るのは彼女自身だ。でも、これはただの劇とは違う。自我を持った人形の、とっておきの人形劇だ。
「リサは好きなように舞台を演じて。私たちは頑張ってそれを読み取るから」
リサが人形劇の演じ手で、私たちがその観客だ。聞き手のいない舞台は舞台足りえない。リサの人形遣いとしての大仕事が、今始まろうとしている。
「言葉がないのにお互いがお互いを伝えようとするのって、素敵ですね」
私は笑ってアリスさんに語りかける。アリスさんはリサと手を触れあって、それから少し距離を置いて待機した。
「そうね、とても素敵なことよ。ほら、始まるわ」
リサは自分で舞台装置の幕を下げ……そしてもう一度舞台装置の幕を上げた。私たちは拍手でそれを迎えた。
幕が開かれた。背景にはしっかりとした木々の壁、ふわふわなソファ、こじんまりとしつつも座り心地の良い椅子と机。そして暖かそうな炎の描かれた暖炉。舞台のモチーフは居間だろう。リサは人形たちをなんとか小さな手で動かして、集団の中の一員であることをアピールしようとしている。そして、肝心のリサの背中には糸がついている。リサはまだ人形、ということだろうか。
「まだ人形の頃のリサね」
リサは紙芝居のように動く背景をめくった。現れたのは夜の背景。夜空に月が描かれ、静かな雰囲気を醸し出している。他の人形たちが眠る中、リサは一人目を覚ました。
「これは……リサが命を得る瞬間でしょうか」
リサはくるくるとまるで自分が振り回されるかのように動いたと思うと、自ら背中の糸を切った。
「命を得て……私の手を離れてしまったと、そう言いたいのかしら」
リサは一瞬うんうんと首を振ったと思うと、すぐ演技に戻っていく。その切り替えはさながらプロだ。
糸が切れたリサは、仲間の人形の前に歩み寄り、そっと触れようとして……やめた。それから、自分と周りの人形たちの背中を見比べるようにして、肩をがくっと落とした。
「アリスさん、リサは……」
「自分が他と違う存在になってしまったことに悲しんでいるのね」
またもリサは首を振り、それから舞台装置から出てきてしまった。
「あれ、出てきちゃいましたよ」
「待って」
アリスさんが私を制する。確かに、リサはまだ演技を続けているように見えた。リサは自分の袖を引っ張った後、アリスさんの服を握って、それからとぼとぼと舞台装置へ戻っていった。
「妖夢。きっとリサは、私の元に居られないと思ったんじゃないかしら」
リサははっとしたように首を縦に振る。またも正解のようだった。
「私は当時、命を持った人形は自分のものではないと思っていた。そのことに、リサも気付いてしまっていたのかもしれないわ」
今、劇の中にいるのは、人形じゃなくなったリサ。今の動作が表すのは、アリスさんとの別れ──。このリサは、当時のアリスさんにとって自身の人形ではなかった。それを知って、リサはアリスさんの元を離れた。だから、リサはずっと隠れていたんだ。
アリスさんはリサから目をそらさない。彼女がぐっと拳を握りしめたのを私は確かに見た。
「アリスさん。リサはずっと、こうやって伝えようとしたかったんですね」
「ええ、そうね」
糸の切れたリサは、またも背景をめくる。木で出来た床や壁の様子は一見今と変わらないが、ここは明らかに薄暗い。どうやらここは屋根裏部屋だろうか。皆から隠れるように、針と糸を持っている。
「これは、命を得たあと人形を作るリサね」
「そうみたいですね」
それからリサは針と糸で人形を作るような仕草をする。何度も明るい背景と暗い背景をめくって切り替えては、せっせと人形を作っている。きっと寂しかっただろう。主に拒絶され、仲間と関わることも許されず。リサはこの人形に、文字通りすべてをぶつけていたのだろう。
「来る日も来る日も作り続けてきたのね」
そして、リサははっとしたように顔を輝かせて、自分の作ったものを掲げた。
「完成したんですね……!」
「そうみたいね」
私たちはすっかり彼女の劇に夢中になっていた。
しかし、リサの行動は途端に不穏になった。人形を抱えたリサは、段々元気をなくして、崩れ落ちるように人形を抱えたまま倒れ込んでしまった。
「だ、大丈夫でしょうか」
私は不安になる。きっとこれも演技なのだろう。でも、恐ろしかった。真剣に恐怖を覚えてしまうくらい、彼女の劇には現実味があった。
「これは……どういう意味なのかしら」
アリスさんはさっぱりわからないといった様子だった。何故彼女が崩れ落ちてしまったのか、私にもわからない。
「リサ、作った人形が気に入らなかったの?」
違う、と言いたげに倒れ込んだまま首を横に振る。
「上手く操れなかったのですか?」
それも違う、と言うように首を振る。リサはなんとか起き上がり、次の背景をめくった。そこには、人形遣いの──アリスさんの影が映っていた。
「これは、私?」
リサは自分で作った人形を抱えるようにしながら、アリスさんの影に手を伸ばす。それでも、その手は虚空を掴むばかりで、いつまでもアリスさんに届かなかった。リサは一人寂しく、人形を強く抱えるようにしていた。
「私に触れられない……?」
アリスさんは答えを出せずにいる。きっと今こそ私の意見が必要だと思った。
人形を完成させた時、最初は喜んだけど後で悲しんでいってしまった。アリスさんに届かず、いつまでも一人で。人形を強く抱きしめていた。
きっと、リサにとって、作った人形は大切な存在だったんだろう。人形遣いにとって、作った人形はとても大切なはずで、それはアリスさんにも言えるはずだ。リサにとっての作った人形。アリスにとってのリサ。どちらも同じように大切な存在だ。
もしかして、リサは自分の人形の大切さを知って、自分がアリスさんの手元を離れてしまったことの重大さに気付いたのではないだろうか。きっとそうだ。リサはもうアリスさんの人形に戻れないんだ。アリスさんがリサを失った悲しみを、リサ自身が知ってしまったんだ。
「アリスさん。リサはアリスさんの人形に戻れないことを知って、絶望したんだと思います」
リサは静かに首を縦に振った。沈黙は、沈黙によって破られた。
「人形を作って、自分の人形の大切さを知った。そして同時に、自分がアリスさんにとって大切な存在であること、もうアリスさんの元に戻れないことを知ったんです」
「そうなのね、リサ?」
リサはやはり静かに首を振る。
「私が優しく受け入れてあげられれば、こんな苦しい思いをさせることはなかったのに……」
「ごめんなさい、リサ」
アリスさんはリサの手を握った。深々と頭を下げるアリスさんの様子が、私の目に焼き付いて離れなかった。
それから、リサは手にした糸を、自分の背中の途切れた糸に結び付けた。それから、自分の首に糸を巻き付けて、舞台装置の天井にくくりつけた。
「それで、自らを終わらせることで元の人形に戻ろうとしたのね……」
アリスさんは寂しげに呟く。
「でも、リサは死ぬことの意味を知らなかった。人形であることと、生きて死ぬこと、それらが別であるってことを知らなかったんです」
私は励ますように伝える。
そうして、リサは静かに舞台の幕を下ろしていった。幕が下り切る前、リサはアリスに何かを託すようにして、こちらを一瞬見つめた。完全に幕が下りて、私は拍手をしようとした。でも胸の奥で何かが引っかかって指が動かなかった。私が手を動かすより前にアリスさんがぱちぱちぱちと手を鳴らしていた。溢れんばかりの盛大な拍手だと感じた。
「あのね、妖夢。人形遣いにとって、劇は幕が下りることで完成するものなの」
「……」
「だからね。リサは自分の生に幕を下ろすことで、何よりも綺麗な生を演じようとした。私はそう解釈したわ」
糸の無い人形は、もう誰にも操られることなくアリスに寄り添い、すっと腕にしがみついた。主はその髪をそっと撫で、それからぎゅっと抱きしめた。
「妖夢。私は思うの」
アリスはリサを膝に載せながら語り始めた。
「なんで私はもっと早く気付けなかったんだろう。命ある人形を自分のものと思えなかったんだろうって」
「私にとって、リサは私の人形だった。でもきっと、もうそれだけじゃなかったのよね」
「人形が自分の元を去ってしまうかもしれない未来を考えることが出来なかった。自立人形を作りたいなんて言っていて、本心では人形の親離れから、ずっと目をそらしていたのね」
アリスさんは過去を嘆くように話した。アリスさんは首を静かに横に振ってから続けた。
「でもね。一番大事なのは、親として一番大切なのは、子を愛することだと思うの」
「どんな姿になろうとも、娘を愛することが母親として一番大切なんだって、そう思う」
アリスさんは決意を固めたようだった。その顔はとても大人びて、気品のある女性のようだと思った。そうだ、私が尊敬したのは、こうして凛としていて、人にやさしくて、人形思いのこういうアリスさんだった。
「リサ。私、あなたのこと、愛してるわ」
リサは、膝の上からアリスの掌の上に立ち位置を変えて、それからアリスの頬にキスをした。
「気持ちは同じみたいですね」
「……ええ、そうね」
張り詰めた夜の空気が緩んでいくような気がした。緊張の糸は解けて切れた。二人の世界に、もう針と糸はいらなかった。
「でも、もうずっと一緒には居られないのよね」
アリスさんは寂しげに話す。そうだ。すっかり忘れていた。死んでしまった人と、生きている人とでは、もう……。
「死んだ人が顕界に来るのは、本当はしてはいけないことですからね」
私は事実を厳しく伝える。本当は言いたくなかったけれど、この世のルールとして存在するものを、私は破ることは出来なかった。
私は考える。リサが、アリスさんが幸せになる方法を。冥界の人間として、何かできることがないかと。居場所に困った左腕が、腰のあたりでふと何かに触れる。手を伸ばす。白楼剣だった。
私は悩んだ。目を閉じて、考えた。
パチュリーさんの顔が浮かんだ。メディスンさんの顔が浮かんだ。小町さん、映姫さまの顔が浮かんだ。すると、映姫さまの言葉が思い出された。「彼女を天界にも地獄にも落とさなかったのは、そうしないだけの十分な理由があったから」と。自殺をしたのに冥界行きだなんて、本来のリサは天界に行くべきくらい清く正しい幽霊だったんだ。それから、アリスさんの顔が浮かんで、隣で笑うリサの顔が浮かんだ。幸せそうだった。もう、思い残すことはないんだなと、私の目には映った。
「アリスさん。提案があるのですが」
「どうしたの?」
私は意を決して話し出す。
「リサを、成仏させてあげませんか?」
アリスさんは、口を開くことなくこちらに向き直る。
「私の持つ白楼剣なら、幽霊を安らかに天界へと成仏させることが出来ます」
「そんなこと、そんなことしていいの?」
アリスさんは言葉に詰まりながら返す。その顔には驚きと困惑と、少しの期待みたいなものが見てとれた。私は続ける。
「勝手に成仏させると閻魔様には怒られてしまうかもしれませんが、私はそれが間違ったことだと思いません。むしろ、アリスさんが罪を赦すことで、主想いのリサは罪なき魂として天界へと旅立つ。そうあるべきだと私は思います」
アリスさんはリサを見つめる。リサは、私の方へと向かってくる。そして、彼女はアリスさんの方へと向き直って、ぺこりと頭を下げた。
「あなたも、お別れの準備はできているのね」
アリスさんは自身の手を祈るように握りしめ、決断した。
「そうね。お別れの時間にしましょうか」
そこから先は、私とアリスさんの間に言葉はもう要らなかった。私は人の迷いを絶つ刀──幽霊を成仏させる短刀をアリスさんに手渡した。受け取る手は重々しく、それでいて詰まる様子はなかった。アリスさんは慣れない手つきで白楼剣を両手で握りしめ、リサに向き合った。
「ありがとうリサ。あなたと過ごした時間、とっても楽しかったわ」
「リサ。とても大切な時間をありがとうございました」
「……またね」
そう言って、アリスさんはリサの心臓に白楼剣を突き刺した。やさしく、針に糸を通すように慎重な手つきだった。リサは微笑んで、ゆっくりと目を閉じた。
リサの体が白く溶けて、天に昇っていく。天井裏を通って、夜空に、満月に向かって吸われていくように、光を帯びて消える。刀を握ったままのアリスさんは、その様子を微笑みながら見届け、上を見つめている。さらさらと消えていくリサの体は、まるで布の端から糸をほつれさせていくような、そんな儚さがあった。どこからともなく、白いキキョウの花が消えかけのリサの体に触れる。
これで良かったのだと、私は確信する。アリスさんもリサも幸せそうだったから。命が溶ける最期の瞬間まで、二人は微笑みあっていた。もう涙はなかった。そうして、彼女はここから居なくなった。彼女は、アリスさんによって最期を迎えて、消えた。
一度目の人形殺人は、リサ自身の手によって。二度目の人形殺人は、愛した主の手によってだった。彼女のあった場所には、キキョウの花だけが机に残っていた。
最後の一粒が消えていく瞬間、リサが「ありがとう」と風に紛れて囁いたような、そんな気がした。