三途の川に到着した。大小ごろごろと散りばめられた無数の石々を踏み鳴らして私は進む。踏みしめるたび、ぐしゃり、ぐしゃりと石同士がぶつかり合う音がして心地が良い。静寂の中に響いていくその音は、暖炉の暖かさが部屋を満たすアリスさんの家とも、曇った感じの薄暗い図書館とも、鈴蘭の香りが心を惑わす無名の丘とも、いずれとも異なる空気を醸し出していた。乖離感。自分が自分でいなくなるような錯覚。ここは、生者が肉体を捨て死者となる、区切りの場所だった。
「久々に来ましたけど、やはり不気味ですね」
私の声は届いているようだけど、アリスさんは黙っている。辺りはもう薄暗い。時刻で言うと午後7時ほどだろうか。風はもう冷たさを帯びていて、肌寒い。リサを見つけてから、もう半日が経つ。たった半日の出会いだけれど、私は随分とこの子と一緒の時間を過ごしたような感じがする。それでも、まだ知らないことばかりだ。殺人の謎……リサが大きな謎を抱えて私の前に立ちふさがっているような想像をして、私はぶんぶんと首を振る。
「夜になってしまいましたけど、小町さんはここにいらっしゃるのでしょうか」
「きっといるわ。なんとなくそんな感じがする」
アリスさんの予感は的中した。少し歩くと、夜空の下、彼岸花に囲まれた大きな木の下で、誰かと話をしている小町さんの姿がすぐ目に入ってきた。
彼岸花の赤は血の赤だ。生者の命を吸い取って、赤色を灯す。細長く伸びた花弁は私たちに向かって手を伸ばしているのだ、と、以前幽々子さまが言っていたことを思い出す。それを思うと、この場にいることが死に関連付けられた場所であることを再確認して、恐ろしくなる。それでも、と私は意を決して木の下の人物へ声をかけに行った。
「あの、すみません。小野塚小町さんですか?」
「ん? 誰かと思えば、冥界のとこの妖夢と……アリス?」
小町さんはすぐ振り返ってこちらに気が付いてくれた。私はその後ろに目を向ける。彼女が話していたのは、同じく目当ての人物、映姫さまのようだった。
「小町さん、映姫さま、こんばんは」
私は二人に挨拶をする。二人も私に快く挨拶を返してくれた。
「すみません、こんな夜遅くに。今日はアリスさんの人形のことで相談があるんです」
「人形? あー」
小町さんはリサに目を向ける。それを見るなり、彼女はにっと笑って私たちに言った。
「はーん、なるほど。さてはこの子の謎を解きに来たわけだ」
「どうしてそれを?」
返ってきたのは意外な返事だった。アリスさんは尋ねる。
「どうしてもなにも、この子は私が向こう岸まで運んだ幽霊だからね」
「その人形のことなら私も覚えています。物珍しい人形の霊だから、裁決のことは記憶にしっかり残っています」
二人ともリサに見覚えがあるようだった。
「それで、確か名前はリサだったか」
「はい、リサで合っています。彼女のことを知っているのですか?」
「知ってるも何も、あたいは幽霊の声が聞けるからね。あんたらが知りたいであろう内容は一通り知ってると思うよ」
知りたいであろう内容。謎のこと。私たちには知らなきゃいけないことが沢山ある。私はどれから聞こうか迷ったものだけれど、それを考えるまでもなく、アリスさんは、我先にと質問した。
「ねえ小町。それじゃあ単刀直入に聞くけれど。リサを……リサを殺したのは一体誰なの?」
しばしの沈黙。小町さんは答えるか悩んだような顔をした。私にはどうして答えるのを躊躇おうとするのかわからなかった。でも、沈黙を切り裂いたのは映姫さまの方だった。
「その答えは、あなた達自身で知るべきことです」
帰ってきたのは、至極当然で、厳しい返事だった。アリスさんが口を挟む前に、私は映姫さまの前に立ってできる限り角が立たない言い方で言い返した。
「映姫さま。私たちはリサの殺人の謎に必死に向き合ってきました。それでも、これは答えを見つけられない謎だったんです。せめてヒントをいただけませんか?」
映姫さまは悩むことなく答える。
「全く、最近の者は答えを急ぎすぎます。最初から答えを求めて、それでもわからなければヒントをヒントを、と。思考を止めることは生きることを止めることと同義。自ら生を投げるような真似をするものに良い来世は訪れませんよ」
やはり、それでも帰ってくるのは変わらず痛い指摘だった。
「あのー、映姫さま。ちょっとくらいは良いんじゃないですかね?」
小町さんが苦笑いしながら口を挟む。
「あなたも全くわかっていない。人の努力を妨げることは大変愚かなことです。あなたの勝手で本来通るべき困難を避けることは本人のためにならず、ひいては自身をも努力しない道に連れて行くようなものです」
映姫さまは相変わらずはっきりしている。厳しく、それでいて公正。言っていることも正しくて、付け入る隙がない。私は困ってしまう。
再度訪れる沈黙。誰一人として次の言葉を発しようとしない。発する言葉に困ってしまっていると表現するのが正しかった。私も、なんと言えば良いかわからなかった。あまりにも正しい理屈を突きつけられてしまうと、言おうとする自分の次の言葉すら、間違っているような感覚がするものだった。花も、川すらも沈黙していた。そんな重い、重い沈黙を破ったのは、一切喋ることのできない、寡黙の人形だった。
「……あんたも知りたいのかい?」
リサは、小町に頼み込むように頭を下げていた。意外だった。一切言葉を発さない人形は、小町さんの口を自分こそが、と開かせていた。リサが自ら自身の謎を解き明かしに動いている。最初はあんなに頼りなかったのに。リサの変化が、まるで自分のことのように何より嬉しくて、心強かった。
「リサ……」
「でも、あんたは……いや、違うな。そうだな、知っておいた方が良いだろう」
小町さんは踏ん切りがついたように言う。
「小町さん、お願いします」
「お願いします」
私たちは改めて頼み込む。
「ちょっと小町……」
映姫さまの声を遮って、小町さんは話し出した。
「あんたらはリサをただの被害者だと思っているんだろう? でもそれだけじゃない。
リサは、ある大きな"罪"を抱えている存在なんだ」
自然は雄弁だった。さっきまでの沈黙が嘘だというかのように、彼岸花は風に揺れてはらはらと音を立て、川はまるで勢いを強くしたかのようにざあざあと流れる。
「ちょ、ちょっと待って小町。どういうこと?」
アリスさんは言葉の意味を理解できないといった様子で返事をする。小町さんは続ける。
「リサには、大きな罪があった。だから、私がこの子を岸に運ぶのにも時間がかかったもんだ。何なら、私はこの子が冥界に行けるとすら思っていなかったさ」
アリスさんは愕然として、言葉を失ってしまっている。でも、リサはまだ身体を逸らさず、彼女に向き合っている。知ろうとしている。聞こうとしている。リサの最初の様子とは全然違っていた。それは成長のようだとさっきは思ったけど……、今ではもはや少し不気味だった。
もしかして、リサは私たちに聞かせようとしている? だからリサはこんなにも活発になって……あたかもリサは最初から全部知っているような……。
「リサ。もしかして、あなた全部知っていたのですか?」
私は暴く。リサの嘘を。違うならそれでも良い。むしろ、そうあってほしい。それでも、帰ってきたのは見たくもない返答だった。
リサは、目を瞑り、意を決したように首をゆっくり縦に振ったのだった。
「ちょっと待ってリサ。あなたまでどういうこと? 記憶を失っていたんじゃなかったの……?」
「私は……私は」
アリスさんは益々混乱して……崩れ落ちた。このままじゃアリスさんが壊れてしまいそうだ。私たちは、リサに騙された。それはあまりにも大きい出来事で、根本を覆すような現実だった。
風が冷たい。空気が寒い。雨でも降ってきそうなくらいに。いや、むしろ雪でも降ってほしかった。
「なるほどな。その子は、元々はあんた達に知ってほしくなかったんだろう」
「罪のことを、ですか?」
私も言葉の温度に酔わされながら、なんとか意識を保って答える。
「ああ。でも、真相に近付くうち、その子の心境も変わってきたんだろう。だから、その事実を告げたんじゃないかね」
崩れ落ちたアリスさんにリサが近寄り、慰めるようにそっと寄り添う。申し訳なさそうにするその姿には、不思議なことに悪気は感じられなかった。むしろこれは私たちのために吐いた優しい嘘……そんな感じがした。
私はアリスさんを見下ろした。人形のように脆そうだと思った。私の前を歩いて、率いてくれていたアリスさんのことを思い返す。凛としていて、憧れていたアリスさんのことを思い返す。今こそ、彼女の役に立ちたかった。励まさないと、と決心した。私は少し考えて、リサに感じた思いを、そのまま包み隠すことなく伝えることにした。
「アリスさん。世の中には優しい嘘だってあります。これはリサが私たちのために吐いてくれた噓だと、そう思うんです」
「その嘘ををやめて、真実を伝えてくれたことは、きっととても大事なことです。リサにとっても辛いことです。私は、その決意を無駄にするべきじゃないと思います」
「解き明かしませんか? リサの嘘の謎を。リサの罪を。そして、リサを殺した犯人を」
アリスさんは黙っていた。一切の言葉を発さず、ただ静かに座り込んでいた。私の声は届いただろうか。ここで諦めたくない。アリスさんと一緒に、リサの真実を知りに行きたい。与えられた使命としてではなく、そうすべきこととして今はそれがやりたい。
風が一瞬強く流れた。一切の虫もいないこの彼岸に、赤やピンク、黄色に白といった様々な色の秋桜の花弁がどこからか舞って来る。夜空に浮かぶその花々は、満天の星空のようにも、一面のオーロラのようにも見えた。そのうちの一つ、赤色の花弁が、アリスさんの髪に留まった。その花は、アリスさんに元気を与えるみたいだった。色が抜け落ちていって、透明になった花弁がスカートへ落ちる。アリスさんはもう目に見えなくなったそれを手で払って、立ち上がって、答えた。
「そうね。こんなところで止まるわけには、いかないわね」
「アリスさん……!」
「この先どんなことが待っていても、ここまで来たら知らないと。そして、解決させないとね」
「決意は固まったようだな」
小町さんは上機嫌にそう言う。それを見る映姫さまが大きなため息を吐いたのを、私は見逃さなかった。
「小町、帰ったらお説教ですよ」
「問題文に誤りがあっただけですってー」
「問題文、ね」
私はそれを見てふふふと笑う。本当にこの死神は、優しくて怖くない方だ。ふと、映姫さまがこちらに向き合って、真摯な顔つきで言った。
「良いですか。少し難しいお話をします」
そう少し笑顔で断ってから、話し始めた。
「人は、3つの『ち』によって構成されます。家族から流れ込む価値観である『血』。地域や業界から流れ込む価値観である『地』。生きた時代や社会から流れ込まれた常識や知識、価値観である『知』。この人形は、その点において『知』が足りていません。
『血』としては、彼女にはアリスという家族のような存在から流れ込んだ価値観が存在しています。
『地』についても、彼女にはアリスの家で過ごすことで獲得した価値観が存在しているでしょう。
しかし──『知』について、彼女はこれを獲得するだけの経験を得ていません。そう、彼女は外の世界を知らな過ぎる。外の世界で過ごさなかったからこそ、本来得るべき知識すら欠けてしまっている。それは、"罪"を"罪"と認識できぬままそれを犯してしまうということも十分に考えられるということです。あなた達にとって大事なのは、罪の内容を単純な意味で考えすぎないことです。私が彼女を天界にも地獄にも落とさなかったのは、そうしないだけの十分な理由があったから。あなた達もそれをしっかり考えるべきでしょう。私から言えるのはここまでです」
映姫さまは鮮明に言った。正直、内容の意味は難しくてわかりづらかった。それでも……「罪を罪と認識できぬままそれを犯してしまう」という一文は、私の中にはっきりと残った。
「映姫さま、何故それを私たちに?」
映姫さまはくすりと笑って答えた。
「解答欄の長さに対して、問題文が短すぎるのは良くないことですから」
小町も呼応するように笑う。どうやら、この謎はそう簡単に解けなさそうだ。彼岸花たちも笑うように揺れていた。
「小町さん、映姫さま、ありがとうございました。続きは自分たちで解き明かそうと思います」
「二人ともありがとう。知って見せるわ、この子のこと」
そう言って、私は小町さんと映姫さまに別れを告げた。そうだ。この子のことは、私たちだけで解き明かすべきだ。答えを他人に聞いては、意味がない。
「アリスさん。次はどこに向かいましょうか」
「そうね、一旦私の家に戻りましょうか。もう夜も遅くなってきたし、それに……」
「それに?」
アリスさんは一息吸ってから答える。
「リサのことを知るのは、リサの過ごした場所で行うべき。そうでしょう?」
彼女は当然のことと言わんばかりに答える。確かにそうだと私は思う。リサにとっても、それが一番良いだろう。
「ねえリサ。あなたのこと、あなたから聞くんじゃなくて、私たちで解き明かしてほしいのよね」
リサは首をうんうんと縦に振る。これはただの謎解きじゃない。リサが出題する問題を、私たちの手によって解き明かす"試験"なんだ。
「では、戻りましょうか。私の家に」
私たちは歩き出す。アリスさんの家に向かって。そこで、全ての謎が解けるのだろうか。リサが嘘を吐いた意味。リサの罪の内容。冥界に落ちた理由。そして、リサを殺した犯人──。いや、解き明かしてみせる。私は決意を固める。心臓の鼓動が聞こえてくるようだ。どくん、どくんという体の揺れに合わせて、私は一歩一歩を踏み出していった。