気が付けば、私は一面の鈴蘭畑に居た。前後左右、どこを見渡しても、白と薄紫の花、花、花。爽やかな香りが私の鼻腔を強く刺激する。歩いてきた記憶が怪しい。まるで直前の光景と今の景色を無理やり糸で縫い合わせたみたいだ。
「……アリスさん、着きましたね」
返事は返ってこなかった。私は彼女のいるであろう方を振り返る。目に入った景色は、さっきの光景よりもさらに不自然に繋ぎ合わせたみたいなものだった。
「あれ、いない?」
そこに、彼女の姿はなく、代わりに小さな寡黙の人形がいるだけだった。あたりを見渡しても、他には誰もいない。
「リサ、アリスさんがどこにいるか知りませんか?」
リサは首をぶんぶんと横に振った。彼女が明確に何かを伝えてくれたことに内心少しほっとしつつも、すぐに孤独で不安な気持ちになる。
「困ったな、はぐれちゃうなんて」
幽々子さまと一緒にいる時も、こうしてたまにはぐれてしまうことがあった。でもそれはあの人がふわふわしていて流されてしまうからで、アリスさんみたいなしっかり者がいなくなるのは不自然だと思った。
もう一度辺りを見回す。長く丸まった葉に連なる鈴蘭の花は、まるで葉に産み付けられた卵のようだった。私はぞっとした。ここにいてはいけないような気がした。殺されてしまうかのような恐ろしさがあった。けれど、その意識を無理やり上から上書きするかのように、卵の海をかき分けて人影が近づいてきた。
「スーさん。毒にやられた人間がやってきましたよー」
お酒に酔ったかのような高らかで朗らかな声。
「あなたは……メディスンさん?」
私の前には、金髪の人形。それはリサではなく、明らかに別の人形。確かに胸と頭には同じような赤いリボンをつけているけれど、茶色と赤を基調とした服装はリサとは明らかに異なるものだった。ほのかに鈴蘭の香りが強くなったような気がする。
私の前には、メディスン・メランコリーがいた。私は酔いを覚ますように彼女に尋ねる。
「あの、アリス・マーガトロイドさんを見ていませんか?」
ウェーブがかった金髪で、青と白の服を着ている方なのですが、と私はすかさず補足する。彼女は心当たりがなさそうだった。
「んー? あの人形連れてる人? 私は見てないなぁ」
「そうですか……」
私は肩を落とす。それにしても、さっきから意識がゆがんで上手く思考できない。まるで本当に酔ってしまったみたいだ。なんとか冷静にならないと、と思って手で自分の顔をぱんぱんと叩く。
「ねえ、その人形は?」
メディスンはリサを指差して言う。
「ああ、それはリサと言います。アリスさんの人形だったのですが、なんらかのきっかけで命を得て、その後何者かに殺されてしまったみたいなんです」
「へー、それで幽霊なんだ」
メディスンは納得したように首を縦に振る。うんうんという滑らかな動きには、人形らしさは感じられなかった。
「メディスンさん。今日はこの人形の命のことについて聞きたくて来たんです」
「命ねぇ」
私は本題に入る。簡潔な返事だけど、メディスンさんはどこか興味ありげだ。
「人形が命を宿すというのは、メディスンさんにとても似た現象だと思います。どうやったら命を授かることがあるか知りませんか?」
「そうねー」
メディスンさんはくるりとその場で回って、手で鈴蘭の花を勢いよく撫でるようにしながら言う。
「私はスーさんに力を貰ったの。素敵な素敵な毒の力よー」
「毒の力?」
「そう、私はずっと動きたかったの。そうしたら、体に凄く力が湧いてきてー、あとはそのままって感じ」
彼女の言うことは難しかった。難しいと言っても、何を言っているかわからないということではない。言っている意味はわかるけど、理屈がいまいちよくわからない。それは単に言葉が難しい以上に厄介だった。
「ええと、動きたいと思うことが大事ということですか?」
「うーん、どうかなー。『動いてほしい』と思われるのでも良いかも」
「なるほど……」
動いてほしい、か。これなら確かにわかりやすい。私はアリスさんの顔をふと思い浮かべる。顔といっても、最初に思い浮かばれたのは彼女の後ろ姿だ。
アリスさんはリサに動いてほしかったのだろうか。彼女はリサに人形遣いのようになってほしいと言っていた。もしかしたら、動いてほしいと願われていたのかもしれない。でも……私の思考が上手くまとまり始めているのを邪魔するかのように、メディスンさんは追加で話を被せてきた。
「それにね、何かが体全部を満たしてあげないと動けないと思うわ」
「満たす?」
考える余地を奪われた私は生返事で返す。一度集中しようと考えて、息を勢い良く吸った。私が息を吸いきるより前に、メディスンさんは先に答えた。
「私の場合はスーさんの毒。その子の場合は……なんだろうな、愛? 綺麗ねー」
メディスンさんから出たのは、意外な一言だった。
「それはメディスンさんから見て、ということですか?」
「うん。そう見える。その子を満たしたのは愛ね」
愛。きっとアリスさんはリサを愛していて……動いてほしいと願った。だから命を授かったのかもしれない。確かにそれなら、と納得する。でも、それだけだろうか。私は素直に疑問をメディスンさんにぶつけてみることにした。
「メディスンさん。愛されて、動いてほしいと願われただけで人形が動くものでしょうか?」
命って、そんな簡単に授かるものだろうか? 命の誕生は、ただの想いや素材の合成だけで成り立つものではないような気がする。命が生まれるのは、一つの奇跡だ。そんな奇跡が、愛情と願いだけで簡単に生まれてしまうなんて、何か違う気がする。私の視界の端、鈴蘭がその命を主張するかのように風に揺れる。
メディスンさんにあって、リサにあるもの。メディスンさんやリサにあって、他の人形たちにないもの。それって……
「きっと、何かもう一つ大事なものがあるのね」
良く見知った、優しくも鋭い声が聞こえた。
「アリスさん!」
振り返ると、そこにはさっきまでいなかったはずのアリスさんがいた。以前観た時のような悲しみは表情から消えていて、その代わりに、謎を解き明かそうとするアリスさんの決意が見て取れた。彼女の到来は私にとって何より頼りになった。
「どこにいたんですか? 私心配して……」
「そんなことより。人形が命を得るためのものの話だったかしら」
「そうだけどー、あなたは毒にやられていないのね」
「まあいろいろあるのよ。ねえ妖夢。何か……私が見落としていること、ないかしら」
アリスさんはメディスンの調子に流されず、私にヒントを求めてきた。答えのわからないもののヒントを。
今、アリスさんは"もう一つの大事なもの"を探している。見落としていること……きっとそれは、彼女がリサから目を背けてきたものだ。強い思いでありながらも、同時に見たくないと考えてしまうようなこと。
メディスンさんには動きたいという強い目標があった。でも、リサは? リサは自分の手で人形を作り出そうとしていた。もしかして、リサの人形制作は、単なる役割じゃなくて、それ以上の意味があったのかもしれない。それって……
私は意を決して言葉を紡いだ。
「アリスさん。アリスさんは人形を作ろうとするリサを見てどう思っていたんですか?」
アリスさんは目を閉じてしっかり考え込んだ後、自身の指を組み、目を伏せながら答えた。
「最初は、私のような人形遣いになってほしいと考えていた。いずれは私の腕をも超えてほしいとも思っていた」
風が凪いだ。
「だけれど……同時に、私より上手になるのを恐れていた。あの子が独り立ちするのは嬉しいことのはずなのに……。私のこと、もう必要なくなるんじゃないかって思うと、怖かった」
呼吸の音も消えた。
「嫉妬のようなものだったのね。私の作った人形が、私の手を離れてしまうなんて。生み手としての、親としての寂しさもあったかもしれない」
「それでも……それでも、私はリサに上達してほしかった。誰よりも優れた人形遣いに、なってほしかった」
アリスさんの指はがっちり組まれていたけれど、それでも確かに震えていた。自分への怒りか、後悔か。私はアリスさんの後ろを見た。小さな、か細い川があった。静かだけど流れていた。うねって、僅かに土を削り、太陽の方向へと向かって進んでいた。生きていると思った。私は目線を戻し、アリスさんに聞いて思ったことをそのまま話した。
「アリスさん。きっと、それはリサも同じだったんじゃないでしょうか」
「リサも?」
「はい。アリスさんがリサに人形遣いになってほしいと思うように、リサも人形遣いになりたかった。大きな目標があった。そういうの、"大志"って言うんじゃないでしょうか」
大志というキーワードが、話している自分の胸の中にすら、じんわりと残った。そうか、大志か。他の人形になくて、メディスンさんやリサにあるもの。
「そんなはずないわ、リサは元はただの人形で……」
アリスさんはそこまで言って、嫌な考えを払うように頭を振った後、独白とも語りとも取れないような呟きを吐いていたのを、私は聞いた。
「でもあの時の表情……来る日も来る日も針と糸を持って……。まるで本当に……」
川のせせらぎと風の吹く音がその言葉を運んで、空に溶かした。
私の考えが正しければ、大志はメディスンさんにもあるはずだ。リサの人形遣いになりたいという大志と同じように、メディスンさんにも同じものがあったはず。そうだ、彼女は以前志していたものがあったはず。私は確かめるように問いかける。
私は、メディスンさんにも確かめる。
「メディスンさん。あなたは"人形解放"を目指していますよね?」
「そうだけど……それが何?」
メディスンさんは当たり前のことを何をいまさら、という風にちょっと不機嫌そうに答える。私は続ける。
「メディスンさんの"人形解放"。リサの"人形遣い"。どちらも"大志"と言って良いものですよね」
それを聞いて、彼女はなるほどねと言わんばかりに頷く。
「大志かあ。私にとっては夢ね、人形解放。その子が人形遣いになることも、きっと夢だったのかもね」
夢。その言葉を聞いたアリスさんは、はっと顔をあげる。一息吸ってから、はきはきと、それでいて重々しく喋り出した。
「リサは、人形遣いに憧れていた。
最初は別の係だったのに……針と糸を操ることに興味を持ちだした。
人形遣い係に任命すると、彼女は他の誰にも負けないといった風に人形を作っていた。その姿はとても素敵で……頼りがいがあったわ」
アリスさんはまるで昔を懐かしむように語る。風が走っていく。
私はそれを聞いて思い出した。私が幽々子さまの護衛として剣を振るって修練した毎日を。白玉楼の庭師として枝ばかりの桜を選定していた日々を。私にとっても夢だった。その時間は生きている自覚があって、幸せだった。
「リサの夢は、人形遣いになること。それに私の愛情と願いが混ざり合って……新しいリサが生まれたのね」
そこまで言って、アリスさんはもう一度息を吸う。鈴蘭の上品な香りが風に乗って運ばれてきて、私の緊張がぐっとほどけていった。
「気付けなくてごめんなさい。リサ。あなた、夢を見ていたのね。私とおんなじ夢を」
そう語るアリスさんは、どこか憑き物が取れたようだった。鈴蘭の毒がアリスさんを溶かしたのだと思った。彼女自身は毒が効いていなさそうに語っていたけれど、実のところ毒は回っているんだ。酔った思考が彼女自身の毒を奪って、楽にしたんだ。私はそう思った。
「私の推理は以上よ。ねえリサ。あなたはどう思う?」
アリスさんはリサに言葉を投げかける。リサは返事をしてくれるだろうか。またあわあわと体を揺らすだけで、これ自体も何も生まない問いかけになるかもしれない。それでも彼女は話しかけていた。問いかけ自体に意味があると、彼女は信じていたのだろう。
リサは、少し悩むように首をかしげた後、何かを飲み込むような表情を浮かべた。そして、首をうんうんと縦にゆっくりと振った。小気味良い動きで、それでいて重い動作だった。ふと見ると、二人の目には涙が溜まっているようだった。推理は正しかった。
アリスさんの顔がぱっと明るくなる。リサの命を授かった原因は、「愛」と「願い」と「夢」。その三つが由来だったのだ。
「やりましたね……!」
「ええ、ええ……!」
私とアリスさんは手を握り合う。ぽかぽかとした手だった。子供のようで、ずっと握っていたかった。
「なに、私の知らないところで勝手に盛り上がらないでくれないー?」
メディスンは不満げに漏らす。
「メディスンさん、人形が命を授かった理由がわかったんです」
彼女は目をきょとんとする。
「あらそうなの? なんか随分あっさりだったわね」
彼女は溜息混じりにそう返すが、その言葉をアリスさんははっきりと否定する。
「いいえ、あっさりなんかじゃないわ。これは……私がリサに向き合って見つけた証拠なんだから」
気が付けば鳥が鳴いていた。ピューイと響くこの声はヒヨドリのものだろうか。耳に残るけれど不快にはならない高い音。これはきっと私たちへの祝福だった。
「よくわかんないけど。じゃあ私の役割はこれでおしまい?」
まるで早く帰りたい、と言いたげだった。眠たそうに彼女は欠伸をして、それにつられて私も欠伸が出そうになる。でもそれをぐっとこらえる。もう一つの謎──殺人の謎のことを頭の片隅から引っ張り戻してきて、改めて尋ねた。
「ああと、すみません。最後にもう一つ聞きたいんですが、人形を殺した犯人について思い当たる人はいませんか?」
「そんなの私が知るわけないじゃない」
彼女はもう一度欠伸をしながら答える。とても素直に感情表現をする人だと思った。これ以上問い詰めるのも申し訳ないと思って、口まで出かかった「何か手がかりの一つでも」という言葉をぐっと喉に戻したが、彼女は自分から次の言葉を話してくれた。
「あ、でも、あの三途の川の橋渡しなら知ってそうじゃない? あとは説教臭い閻魔とか」
多分、それは小野塚小町さんと四季映姫・ヤマザナドゥさんのことを言っているのだろう。死神と閻魔様……。死に深く関連するあの人たちなら、この事件についても何か手がかりを持っているかもしれない。
「わかりました。ありがとうございます」
私は一礼する。続けてアリスさんが、
「あなたのおかげで大事なことに気が付けたわ。礼を言うわね」
と丁寧に頭を下げるものだから、慌ててメディスンさんは
「え、ええ、どういたしまして」
と不慣れなお辞儀をするのだった。そうして、動揺しているメディスンを横目に、私たちは鈴蘭畑を後にする。次に向かうのは……三途の川だ。私たちは地面を埋め尽くす鈴蘭の踏み潰さないよう注意しながら、一歩一歩足を進めていった。
「そういえばアリスさん。最初姿が見えなかったですけど、どこにいたんですか?」
私はとっておいた疑問を投げかけることにする。
「少し、リサを距離を置きたかったの。私がリサをどう思っているのか、一度整理したくて。そしたらあなたが鈴蘭の毒気にやられてしまって……私は魔法があるから平気だったけど、私もちゃんとリサに向き合わないとと思って。それからあなたのことを必死に探したのよ」
「そんな、それは申し訳ありません」
頭を下げる私に対して、アリスさんは手を口に当ててくすくすと笑う。「いいのよ別に」と言ってくれたけど、私は自分が迷惑をかけてしまったことが情けなく、恥ずかしかった。それでもあんまりアリスさんが慰めてくれるものだから、私もすっかり立ち直って、先の返事の答えを聞くことにした。
「それで、リサについて、答えは出ましたか?」
アリスさんは笑ってるとも泣いてるとも取れない顔で答えた。
「わからない。やっぱり何度考えてみても、はっきりはわからないわ。けど……一つ気付いたことがある」
「それは?」
アリスさんはリサを手に取り、顔の前に掲げる。私の横、アリスさんの奥から爛々と輝く太陽は、アリスさんの頭をかすめ、リサへ届かぬ光を照らす。逆光だった。私から見るリサは暗かったけれど、アリスさんの側から見るリサは光り輝いていた。
「リサは、私にとって特別大事な存在だってこと。決して失いたくない、私だけの人形だ、って」
風がアリスさんの髪を揺らし、私はリサの方を向く。リサはばつが悪そうに下を向くだけで、その表情をうかがうことは出来なかった。けれど、その様子は、私にはリサが言葉を話したがっているように見えたのだった。
二つ目の謎、命を授かった理由──それは愛と願いと夢が生んだ奇跡だった。最後の謎──殺人の謎を解き明かすべく、私たち三人は三途の川へと向かった。