紅魔館にたどり着いたのは、午後3時になるころだった。陽はまだ高く、暖かい。先ほどよりも少し風が強くなっているように感じられる。まるで太陽は全身で夏を表現しようとしているのに、風が秋ですよと制しているみたいだ。しかしその陽も風も、この紅い屋敷の中に入ることはない。何せ、そこに住んでいるのは日差しを嫌う吸血鬼なのだから。
要件を伝えると、門番の人はあっさりと通してくれた。何せこの平和な幻想郷には門番など必要ないのだろう。現に、私も幽々子さまの護衛に回ることはずいぶん減ったように思われる。平和なのは有難いことだけれど、自分の役割が失われていくのは、そこはかとない寂しさがあった。これは良いことなんだ、と自分に言い聞かせながら、私は紅魔館地下図書館へと足を運んだ。
たどり着いた地下図書館。呆気にとられるような本の量。少し湿気でかび臭くなった本の山々。暑苦しい内観とは反対に、空気はとても涼しく居心地が良い。なんらかの冷却魔法でもかけられているのだろうか? 私はほっと溜息を溢す。そうしていると、本棚の影から紫色の髪をした、いかにも魔女と言わんばかりの女性が姿を現した。パチュリー・ノーレッジさんだった。
「久しいわね、アリス。それと冥界の従者」
パチュリーさんは二人に挨拶する。口には自然な笑みがこぼれている。久々の友人に出会えたことに喜んでいるのだろう。私はそれを邪魔しないように、一歩後ろに後ずさりした。
「お久しぶりね、パチュリー」
「こんにちは、パチュリーさん。冥界の魂魄です」
二人で名を名乗ると、パチュリーさんは私たちを机に案内した。机は木製で広々としていて、本を読むためというより、むしろ会食用の机のように見えた。アリスさんと私が机の中央の片側に腰かけ、パチュリーさんがアリスさんの対面に座る。アリスさんは机につくなりリサを私の対面の位置いそっと置いたが、リサの体は微かに震えているように見えた。まるで、何かを恐れている様子。知らない現状よりも、知る未来を恐れるような、そんな様子。記憶喪失者にとって、記憶を取り戻すことは不安なことなのかもしれない。その姿に、私はどうしようもない寂しさを覚え、胸がぎゅっと締め付けられた。
「魔法の森のみからならまだしも、冥界から客人とは珍しい。それで、今日はどういった要件?」
私たちはこれまでのことについて話した。人形が命を得たこと。その命が殺人で奪われたこと。人形の行方を知るために魔法を使ったこと。殺人の謎を追っていること。経緯から事細かに話した。
「それで、私が聞きたいのは二つあるの。一つは本当に人形が命を授かることがあるのか。もう一つは、人形探知の魔法は命を授かった人形にも効果があるのか。この二つを聞きたいの」
アリスさんは布を縫い合わせるように、静かに話した。
「そうね……」
パチュリーさんも呼応するかのように静かに話し始める。
「まず前提として、私は人形に命が宿るなんて話は今まで一度も聞いたことがない。
愛着を込めていた人形に魂が宿ること自体はまれにあるけれどね」
「そうなんですか?」
と、私は返す。意外な事実が私の目を丸くさせた。
「ほら、人形が涙を流したり、髪を伸ばすようになったり。ああいうのは怪奇現象とされるけれど、本質的には魂のやりとりと言えるものよ」
パチュリーさんの発言には芯があって、私を簡単に納得させてしまう。納得する私だったが、アリスさんはぽつんと会話の引き出しを広げる。
「でも今回宿ったのは……」
「そう、命。魂が宿ったところでそれはあくまで人形が何か軽く体を動かせるようになっただけ。所謂"自律人形"……。自分の意志で自由に動ける人形なんて滅多に聞いたことがない」
アリスさんははっとした表情をする。
「あなたは自律人形を作ることが夢だったかしらね」
そうか、アリスさんは自律人形を作るのが夢だったんだ。リサは自律人形と言える存在なんだ。でもせっかくできたその人形は死んでしまって……。アリスさんは……。
「そう、ね。夢だったわね」
冷たく一言。その顔は下に向いていて、こちらからでは見ることが出来ない。きっと、古傷を触れられるような痛みがアリスさんを襲っているんだ。鈍く、ずきずきとした、そんな痛み。アリスさんがほんの一瞬だけ拳を握り締めるのを、私は見逃さなかった。
「命が宿った人形は、もはや自律人形と言って良い存在。せっかくなら実物を見てみたかったけれど……残念なことになってしまったわね」
パチュリーさんも嘆くように呟く。綺麗に切り揃えられた前髪の下、髪と全く同じ色の眼からは、ハイライトが薄れているかのように見えた。そうか。もうリサは命を持った人形なんかじゃない。ただの死んだ人形なんだ。
私はそっとリサを手に取る。相変わらず髪も服も、どれもきめ細やかに編まれていて美しい。死んでいるとは思えなかった。でも、生きているとも思えなかった。
「ねえパチュリー。どうしてリサは命を持ったのかしら」
アリスさんは尋ねる。知りたい、と思う心が前面に出ていた。
「これは魂の話になってしまうけれど……、何らかの強い感情をぶつけられると人形に魂が宿ることがある。愛情や慈愛といった白い感情。憎悪や殺意といった黒い感情。心当たりはある?」
パチュリーさんは淡々と述べる。きっとこの子は愛されて育ったんだ。リサの様相がそれをまざまざと語っていた。
「当然だけど、マイナスな感情はぶつけていないわ。愛情や慈愛も他の人形たちと同じように向けていたわ。……あっでも」
そこまで言うと、一息挟んで、過去を懐かしむかのように上を見上げて、彼女は言葉を繋ぐ。
「私は人形たちに必ず一つ役職を付けるの。料理係、洗濯係、戦闘係……、その中でも、あの子には特別なものをあげたの」
「その役職って?」
私はすかさず尋ねる。
「あの子は……人形遣い係。私と同じように、人形を作り、人形を操る。そんな子になってほしかった。最初は別の係だったけれど、ある日、悪戯だったのかしら、自分の手で糸と針を動かそうとした。最初はすごく不器用だったけど、毎日、針を持っては試していた。私はそれを見て、きっとこの子なら私みたいになれると。私をも越えるかも、と。そう思ったわ」
きっと、それはアリスさんにとって憧れのような、夢のようなものだったのだろう。普段冷静なアリスさんが、珍しく口を震わせている。涼しげな図書館の空気が、一瞬私を刺したような気がした。
「それでも結局、あの子は人形の一つも残せずにいなくなってしまった。人形を作るのはとても繊細で、覚えることが多くて……、それくらい難しいことなの」
アリスさんの声は、どこかかすれていた。口調こそ平静を装っていたが、体はどこか震えていた。彼女の視線の先にあるのは、かつての理想の日々か、それとも叶えられなかった未来か。私は、言葉を返すことができなかった。ただ、静かに、リサを見つめるしかできなかった。
彼女がここまで言うのは、きっと彼女の経験則なのだろう。誰よりも人形遣いが大変なことを知っていて、それでも夢を託した人形。それがリサだったのかな。
「その期待や愛情が人形に伝わって、命を宿した、ということはあり得るわね」
パチュリーさんはあくまで学者然として続ける。でも、感情がないわけじゃない。パチュリーさんの言葉は、どこか柔らかく、確かに同情のようなものが感じ取れた。
「人形遣いの人形。そんな思いを託した人形が、その想いによって命を授かった。これは一つの仮説だけれど、筋が通らなくはないわ」
"筋が通らなくはない"。彼女は理屈では理解しつつも、
「パチュリーさん。命を授かった人形は、人形なのでしょうか?」
私は頭から捨てられない疑問を投げかける。
「これは魔法のことにもつながってくるけれど……。答えを言ってしまうと、『解釈次第』よ」
「解釈次第?」
返ってきた意外な言葉に、私はオウム返しで聞き返す。
「そう。つまり、この場合、アリスが命を持った人形を人形として捉えるか、ということね。それによって魔法の効果も変わる」
パチュリーさんは一冊の本を手に取る。手に取る、といっても本棚からではなく魔法陣からだ。パチュリーさんが机にぐるりと指先で円を描くとそれは魔法陣になって、墨を垂らしたかのように真っ黒なハードカバーの本を呼び出すポータルになるのだった。そうして、彼女はその本をパラパラとめくり、自分の考えが間違ってないことを確認するようにうんと頷く。
「じゃあアリスさん。アリスさんは命の宿った人形のことをどう思うんですか?」
今度は私がアリスさんに疑問を投げかける。しかし、次に返事が来るまでには随分と時間がかかったように思えた。
「そ、そんなの決まってるじゃない。人形に……人形に決まっているわ」
意外だった。リサを見つめながらそう答えるアリスさんの声には、私でもわかるくらい、明らかに動揺の色が見えていた。言葉を話せないリサも、どこか動揺しているように見える。見ているこっちすら不安になってしまうくらいに。
「アリスさん? 私は……」
私は、まず彼女を落ち着かせようとした。リサへの思いを綴らせることは、彼女にとって酷なことのように思われた。しかし、私の声を遮って、パチュリーさんが話し出した。
「ねえアリス。本当にそう思っている?」
アリスさんはびくっと肩を震わせる。
「今までに考えたことがあるの? 起こりえるかわからない、人形の命の発生なんて。
私が思うのはね、アリス。あなたは人形が命を持つかなんて考えたことはなかった。だから、"人形を探す魔法"の"人形"の定義に、命を持った人形は含まれていなかった。その結果、リサの居場所を見落としてしまった。違う?」
その人の言葉は随分鋭くて、まるで良く研がれたナイフのようだった。アリスさんはそれに刺し貫かれて動かなくなってしまった。でも、彼女は藻掻いていた。彼女が何かを発しようとして口をパクパク動かしているのを、隣からでも確かに確認できた。
「パチュリーは、私がリサのことを人形だと思っていない、と言いたいの?」
言葉は震えていた。言葉自体も、どこか自分に言い聞かせるような口ぶりだった。
「そうとは言わないわ。子が育って家を出ても親子の関係が変わらないように、関係は永遠に途切れないという考え方もある。でも、今回は特例なの」
そこまで言われると、遂にアリスさんは黙り込んで目を伏せてしまった。リサの方を向くと、本だらけの棚にただ一つ飾られた写真立ての方を見ていた。その写真立ては、まるで夜空に輝く月のようだと思った。月にはパチュリーさんと、レミリアさんや咲夜さん達が写っていて、みな笑顔だった。月に言葉を奪われたようで、とても眩しかった。
「ねえアリス。人形が命を持つことが本当にあるか、という話だったわね」
パチュリーさんの言葉に、彼女は黙って頷く。
「さっきも言った通り、私からは何とも言えないのが現状。けれど、実際の自律人形に話を聞いてみれば良いんじゃないかしら」
「自律人形に?」
アリスさんはようやくこちらに向き直り、返事をした。まだ少し声は震えていたけれど、それをあえて無視するかのように、パチュリーさんは続ける。
「無名の丘の鈴蘭畑に、元が人形の妖怪がいるでしょう?」
「メディスン・メランコリーさんですね」
私はなんとか会話に置いて行かれないように答える。パチュリーさんは頷き、続きを話す。
「あの人形は鈴蘭の毒によって動くようになった自律人形。妖怪だから、人間やリサの命とは別物かもしれないけれど……それでも話は参考になるはずよ」
アリスさんは何かを思案したかと思うと、ふと無言で席を立った。椅子の足が固い床を引っ搔く音が響く。これから無名の丘に向かうのだろうか。私も追いかけるように席を立つ。
「二人とも、興味深い話をありがとう。殺人の話については私には見当もつかないけれど……、それも含めて私の方ももう少し調べてみる。謎が解けることを祈っているわ」
「……ええ、ありがとう」
「こちらこそありがとうございました」
二人で軽く礼をして、地下図書館を後にする。ドアを閉じるパチュリーさんは片手をそっと振っていて、私もそれに返すのだけれど、アリスさんは目を逸らすようにしながらすぐに振り返ってしまった。階段を上り、地上を目指す。地上は今何刻だろうか。窓のないこの図書館に、風が吹き込むことはなかった。