人形を調べているうちに、わかったことが三つある。一つ目は、この人形は、所謂「上海人形」であること。金糸で編まれた金髪、青と白の服装、くるんとした特徴的なリボン。この人形は上海人形に違いない。二つ目は、この人形は一切喋れないこと。身振り手振りで首を振るなどして、なんとか意思疎通を図ることはできるけれど、口を動かすことはどうしてもできないみたいだった。三つ目は、この人形は何かに動かされるための魔力を宿していること。これはただ鑑賞され愛されるためだけの人形じゃない。これらの特徴から、私はこの人形が操り人形だと考えた。幻想郷で上海人形を操り人形にする人なんて、一人しか知らない。
「……アリスさんのところの子なのかな」
アリス・マーガトロイド。幻想郷一の人形遣いにして、魔法の森に住む魔法使い。上海人形や蓬莱人形を操っていて、時折人里へ人形劇をしにも来るような方。優しくて、常識人で、会話も常に自信ありげで穏やかな人。私にとって、尊敬出来て、憧れみたいな人だった。
「とりあえず、聞きに行ってみるのが丸いかな」
と、私は自分に言い聞かせるように呟いた。半分確信があった。もう半分は、不安。この人形がアリスさんのものでなかったらという不安。ひしめき合う感情と人形と共に魔法の森へと歩き出した。
森道は暗く、静かだった。同じ静かな空間なのに、冥界とは全然雰囲気が違う感じがした。森のざわめき。小鳥のさえずり。朝の風の冷たい空気。冥界が白色なら、森は青色だった。森は生きていた。私よりも強く、明白に。何十年、何百年とかけてこの森はこれだけの形相を私に向かって突き出している。森の中にいると、自分がちっぽげで取るに足らない存在であるかのように思われる。まるで、森が私を「余所者だ」と言おうとしているみたいに。
人形の森の中の小さな家にたどり着いて、私は木で出来たチョコレート色のドアの前に立った。それから、私はコンコンコンと三度のノックをする。私は、このノックしてから人が出てくるまでの間がどうにも苦手だ。ぐるぐると不安が体の中をめぐって、こわばるような感覚がする。だから、出てきた相手に対してもつい緊張しく話してしまうのだ。半分の不安が、もう半分の確信を埋め隠そうとするように、私の心を確かに満たしていた。
ノックをしてからドアがギーッと開かれるまで、一体どれだけの時間がかかっただろうか。おそらく、実時間で言えば15秒ほどだろう。しかし、私には何分にも、何十分にも感じられた。森の沈黙は私の時間感覚を奪っていた。時間がわからない孤独感。得体の知れない何かに怯えるような恐怖。そんな恐れを取り除くように、中から現れた人物は優しく口を開いた。
「いらっしゃい……って、あら、冥界のところの妖夢?」
アリスさんが、私の顔を見て驚いたような声を上げる。アリスさんと会うのは随分久しいような気がして、懐かしい感覚に陥る。
「あ、はい、冥界から来た魂魄です。人形のことでアリスさんにお聞きしたいことがあって」
「人形のこと? もしかして」
そう言うと、アリスさんは視線を私の顔から私の胴体の方に移して──すぐに私の横に佇む、小さな人形に気が付いたようだった。
「リサ! リサなの!? ここにいたのね!」
彼女は嬉しそうな目で人形の方に歩み寄った。私は人形を渡して良いものか迷った。アリスさんにこの子が死んでいることを伝えるべきか、私にはわからなかったから。けど、私が言い出すより先に、アリスさんはすぐに"それ"に気が付いたようだった。
「あれ……? これって、もしかして……」
「はい。この人形は、どういうわけか、亡くなられたみたいで……」
私は言葉を選びながら慎重に話す。彼女を傷付けないよう、できる限り柔らかい口調でそれを口にした。
「そ、そう……なのね。リサが死んで……」
アリスさんの声はかすれ、風に溶けた。私は顔を上げられなかった。訪れたのは沈黙だった。私の側、森の方から葉が一枚飛んできて、リサの肩にふわりと乗った。彼女はそれを払うことすらせず、ただじっと見つめていた。声から伝わってきたのは、強い命に対する強い驚きと、死に対する深い哀しみだった。
「あの、アリスさん」
迷っていても仕方ないと思った。このままじゃ何も解決しないとすら思った。私は意を決して、彼女に真実を伝えることにした。
「この人形、リサさん、ですかね、その子は冥界で幽霊となって過ごされていました」
「そして、幽々子さまから聞いたことなのですが……リサさんは、どうやら何者かに殺されてしまったようなのです」
「殺された……」
彼女の声は、先ほどと調子は変わらなかった。悲しみが彼女を包み込んでいる。居心地が悪かった。正しいことを伝えているはずなのに、悪いことをしているような感覚があった。私は次になんと声をかければ良いかわからず、殺人のことを口にしたことすら悔やまれるようだった。でも、これは必要なことだったのだ、と自分に言い聞かせる。訪れる静寂。言葉に呼応するように、不思議と森も緊迫感を持ったように静まり返った。私は森に拒絶されている。私が異変を持ち込んだことを疎むかのように、冷たい森の空気が私の肌を突いていた。
次に口を開いたのは、彼女の方だった。
「その人形はね、私の作った大切な人形。名前はリサ──リサと呼んであげて」
「リサ、ですね」
私は名前を反芻してから答える。リサ。名前の意味はわからないけれど、とても素敵な名前だった。森に染み入るような、そんな名前だった。とてもかけがえのない存在だったのだろう。私は続ける。
「リサは、何らかの原因で命を受けて、そして折角受けた生を何者かによって奪われてしまいました」
アリスさんは、リサから目をそらさない。まるで自分の娘に向き合うかのように、真摯にそちらを見つめていた。アリスさんはどんな気持ちなのだろう。娘のような存在が、命を得て、そして殺されてしまったことに彼女はどう思っているのだろう。アリスさんの横顔を見つめる。言葉はそこになかった。
「生き返らせることは、出来ないのよね」
意を決したように、アリスさんは重々しく言葉を紡いだ。
「そうですね。いくら私が冥界の者といえどもそれだけは」
死者蘇生。それはどんな魔法でも、どんな術でも為し得ない、万物の理によって制限された禁断の術だ。かねてから多くの人間が死者蘇生を研究してきた。それでも、それを成し遂げた人物はいない。私の主ですら、桜の下に眠る何者かを復活させられなかったように。
長い沈黙の後、最初に口を開いたのは相手の方からだった。
「ねえ妖夢。私、なぜこうなったのかを知りたい」
「なぜ、リサが命を授かったのか。なぜ、誰に、リサが殺されてしまったのか」
「それを、私は知りたい」
アリスさんは、そこまで一息で言った。それは好奇心からではなかった。人形遣いとしての義務感、親としての決意のようなものが彼女を動かしていた。その声からは、驚きや哀しみとかの感情は少し薄れているように感じた。アリスさんの瞳には、確かな光を宿しているようだった。光は暗い場所でこそ輝くものだ。明るいときはあって当然、という風に存在を知覚できない。でも、暗くなって、辺りが闇になった時、光はようやく自分を目立たせることが出来る。アリスさんの想いは、今になってようやくはっきり私の目に届いた。
「アリスさん、私もその謎を解きに顕界までやってきました」
目的の一致。当然、私の脳裏に一つの案が浮かんだ。彼女の助けになりたい。この人に全てを背負わせてばかりじゃいけない。私だって、誰かの力になれるんだ。私はアリスさんの手を取った。白く細やかですらっとした指だった。傷一つなかったけれど、職人の手だと思った。この手から、リサは生まれたんだ。
「あの、もし良ければ私もその謎を解くお手伝いをしたいです」
「良いの?」
アリスさんは信じられない、といった顔で、口に手を当てこちらを見る。
「ええ、もちろんです。リサの殺人の謎を、二人で解き明かしに行きましょう!」
私はリサをアリスさんに差し出し、元気づけるように少し笑った。リサを受け取るアリスさんの顔に、もう哀しみは一滴も無かった。森が彼女を励ますようにさらさらと揺れた。
私を家の中に案内し、椅子に腰かけるよう促しながら、家の中は暖かく、まだ秋だというものの暖炉に火が灯っている。机には作りかけの人形に糸と針。そして何かのメモ帳。壁には写真が沢山飾ってあって、いずれも人形たちとアリスさんがいろんな場所にいるのが写っていた。家も家具もみな木製で、まさしく"魔女の家"といった感じだ。森の洋館と言っても良い。家にお邪魔するのは随分久々だけど、随分落ち着く感じがする。森の余所余所しさと対照的に、この家は私を受け入れてくれるような感じがした。私はゆっくりと席に腰を下ろし、スカートを払った。
「あのね、妖夢。リサに不可解な点があるの」
アリスさんは私の対面に腰かけ、突然探偵のような目つきで話し始めた。
「不可解な点って?」
「それはね、リサの人形の──元の体がないの」
「元の体? 人形本体のことですか?」
「そう。霊ではなく、肉体の方。だから、リサは自らの意思でどこかに行ったか、私の知らない間に誰かに連れ去られたか。そのどちらかだと思うの」
と、アリスさんは私に新しい謎を提供した。私はふと机の上のメモ帳に目をやる。そこにも同じような内容が書いてあって、条件ごとに分けて考えたかのようなメモ書きが残されていた。私は随分リラックスして考えることが出来ていたけれど、アリスさんの様子は堅苦しく、手に汗を握らせている。私にはどうにもそれが申し訳なく思える。背筋を正し、深呼吸をする。
「となると、まずそれがどちらなのかをはっきりさせないとですね」
アリスさんが探偵なら、私は助手だ。少しでも謎を解き明かせるように頑張らないと、と必死に頭を働かせる。
「そうね。それはリサに聞いてみるのが早いかしら」
そう言って、アリスはリサのそばに歩み寄る。
「ねえ、リサ。もしあなたが自分の意思でどこかに行ったのなら首を縦に。誰かに連れ去られたのなら首を横に振ってもらえるかしら?」
私は首を横に振ると思っていた。特に理由はないけれど……強いていうなら、殺人と誘拐は関連のある事象に思えたからだ。誰かに連れ去られて、殺された。それが、私の予想。別に、自分で出かけてその間に殺されてしまったとしてもおかしくはない。別にどちらに首を振ろうったって事態は進展すると思っていた。
しかし、帰ってきた答えは、あまりにも難解で、謎を深めるものだった。
「どうしたの? リサ、首を振って?」
「ねえ、リサ?」
──いくら待っても、リサは首を振ることはなく、あわあわとまるで何かに困っているかのようにふるまうだけであった。ぐらぐらと揺れ、倒れそうになるリサ。私もアリスさんも、お互いの顔を見合わせては、思い返したようにリサに視線を向ける。でも、やはりリサは首を振ろうとしない。その姿は、やけに私の視界に残って、記憶の奥から消えなかった。
「あの、アリスさん。これって」
「もしかしたら、リサ自身にもその区別がついていないのかもしれないわね」
彼女はそう冷静に答える。そうか。彼女の記憶が曖昧なのかもしれない。私はそう納得する。記憶喪失……。きっと殺されたショックで記憶を失ってしまったんだ。解き明かすべき謎が増えてしまったが、仕方ない。全部、私たちが解き明かせば良いことだ。
「それじゃあ、私たちで直接答えを見つけるしかないみたいですね」
「ええ。それならリサの話をするわね。リサがいなくなった日にちだけど、いなくなったのは2か月前。正確に言うと、54日前よ」
「54日前……ということは、55日前までにはリサは確かにいたんですよね?」
「ええ、そうよ。55日前、いつものように人形の数を数えた時も数は変わっていなかった。もちろん、姿を消す前、リサは生きてなんていなかった」
アリスさんは開かれたままのメモ帳を私の方から自身の方へと引き寄せ、ぱらぱらとめくりながらそう答える。
「次の日起きるとリサは忽然と姿を消していた。間違いなく戸締りもしていたし、誰かが入った痕跡はなかったわ」
「そうですか……つまり、誰かに連れ去られた可能性は低い、と?」
「私はそう思うわ」
まとめると、リサは55日前の夜にアリスさんが眠りについてから、54日前の朝にアリスさんが目を覚ますまでの間に命を授かり、そして自らの意思でどこかへ行った。そして、誰かに殺されてしまった、というのがアリスさんの推測だった。
会話を交わすうちに進展が出来た。二人で情報を纏めていくと、少しずつ真相に向かっていく。そのことは私に確かな自信をくれた。
「どうですかリサ。心当たりのようなものはありませんか?」
私はリサの方を向いて尋ねる。しかし、彼女は相変わらずあわあわしているだけで、まるでなんのことかわかっていないという風であった。その様子はやたら私に不安感を搔き立てさせるようで、恐ろしかった。こんなにもかわいらしい人形が不気味な態度を取っているだけでこんなにも焦らされてしまうものだろうか。彼女はもはや、なぜ自分がここにいるのかすらわかっていないのかもしれない。
「あの、アリスさん。やっぱりこの子、記憶を失っているんじゃないでしょうか」
私は思い切って仮説を正直に伝えた。
「私もそう思うわ。殺人のショックで記憶を失うことなんて……想像に難くないわ」
アリスさんは慈愛を感じさせる声でそう言った。それは、彼女にとって受け入れがたい仮説のはずだった。記憶を失うということは、リサがアリスの人形であることすらわかっていないかもしれないということだからだ。アリスさんにとって、リサは娘のような存在のはずだ。自分の娘が殺された上、記憶を失うだなんて、それがどれほど辛いことかは想像に難くない。考えているだけなのに、背筋が凍るような感じがする。それなのに、アリスさんはこんなに冷静に受け答えて、向き合って……。
森から、小鳥のさえずりがかすかに聞こえてくるような気がした。歯車を撒くような、少しいびつだけど小気味良い声だった。
「あの、アリスさん」
私の脳裏に、ふとある仮説が思い浮かんだ。「四十九日」。かつて幽々子さまが言っていた。人は死んでから、三途の川を渡ったり、閻魔様の裁判を受けたり、冥界に居を移すまで49日の時間がかかるらしい。これがリサにも言えるならば……。間違っているかもしれないけれど、今はなんでも言うべきだと思って、覚悟を決めてアリスさんに向き直った。
「人は死んでから冥界に行くまで、49日の時間が必要なんです。これは四十九日と呼ばれています。そして、リサが冥界に現れたのは今日が初めてのことでした。つまり、リサがなくなったのは49日前ということになりませんか?」
アリスさんははっとしたような口ぶりでこれに答える。
「それが本当なら、リサが生きていたのは……」
「55日前の夜から、49日前まで、ということになりますね!」
私は気付きを得たように言い放った。アリスさんの目も大きく見開かれ、静かに私の言葉を飲み込んでいるようだった。この気付きは、確かに大きな進展だった。
「ねえ妖夢。こんなに大切な人形なのに、理解するのってとっても難しいのね」
そう言う彼女の目はどこか遠くを見つめているようだった。そしてその表情には、悔しさとも悲しさとも言えないような、複雑な思いが宿っているように見えた。
「アリスさん。55日前から49日前、何をしていたか覚えていますか?」
「流石に前のことだからちょっと記憶が曖昧だけれど、覚えているわ。リサがいなくなってしまったことに気が付いて、まずは家の中をくまなく探したわ。居間、寝室、ベランダ。物が多い屋根裏や倉庫は見渡したくらいでしっかり確認しなかったけれど……倉庫には鍵がかかっているし、屋根裏は……そうね、私にとってもリサにとっても過去の場所だから。きっとここにはいないと思って──」
「すみません、アリスさん。過去の場所って?」
その言葉は、私の胸の奥に小さな棘のように残って、つい聞き返してしまった。
「屋根裏のことが気になるの? そうね、あの場所は私にとってもう終わりを迎えたものを集める所なの。私が人形遣いとして未熟なとき、作るのを失敗してしまった人形とか、もう今は使わなくなった人形劇の舞台装置とか。そういう所だから、私も人形たちも近づくことは滅多にないし、そこの物を物色するのは……リサのためと言えども、抵抗感があったわ」
「そうなんですね。すみません、聞きづらいことを聞いてしまって」
「良いのよ、別に。とにかく、探しづらかったのだけれど……、あの時の私は焦っていたかもしれないわね」
彼女はすっと表情を緩めた。その表情には、後悔よりも別の感情が含められているような気がした。
「結局、よくよく考えて、そもそも物が多すぎてとても人形が入り込むスペースはない、と。そう判断したの。続けても?」
「はい、お願いします」
アリスさんはとても2か月前の記憶とは思えない調子で言葉を続ける。
「次に、家の中にいない、と判断したから、私は夜中に一人で出歩いて、そのまま操るための魔力が切れてしまったのではないかと考えたの。私の魔力は持って18時間。だから毎朝操りの"仕込み"をしないといけないのだけれど……」
「ええと、仕込みをする時間と眠る時間は何時頃なんですか?」
「仕込みをするのは午前6時。眠りにつくのは午後10時ね」
「となると、人形の魔力が切れるのは午前0時ですね」
そう言うと、アリスさんはふと席を立ち、歩き出した。向かう先にあるのは、ガラス窓のついた、小さな本棚。アリスさんはガラス窓ではなく、その二つ下にある横長の引き出しをぐっと引いて、ある一枚の畳まれた紙を取り出した。正方形に畳まれたそれを一回、また一回と開いていくと、中からは地図の模様が顔を出した。
「そう。私が眠ってから人形が動かなくなるまで2時間の猶予がある。だから人形の速さで出歩ける範囲を絞ってみた」
そう言って、アリスさんは地図上のこの家を中心にぐるりと線を描いた。線といっても、鉛筆やペンを用いて、ではない。まるで毛糸みたいに、細く透き通って、それでいて見失わない赤色の線だった。
操っている人形の速さは、人の歩く速さと同じか、それより少し遅いくらい。人形が動ける範囲の候補は、魔法の森より少し広いくらい。具体的には、魔法の森の他に、博麗神社、人里までは行ける」
「この中を探したんですか?」
私の視界は、赤の毛糸の円内のみに釘付けにされた。
「そうね、まずは魔法を使って探したわ。"人形の場所がわかる魔法"をね。この魔法を使えば、人形の魔力が切れていても、人形の大まかな位置がわかるの。それを使って探したけれど、少なくともさっき挙げた3つの候補にも、当然の私の家にもリサは居なかったわ」
「え? 移動可能な範囲内にいなかったんですか?」
不可解な事実が私の中にずんと沈んで、影を残す。この赤い円の中にしかいないはずなのに、そこにリサがいないなんて。新しい謎……。まだまだわからないことばかりなのに、また一つ謎が増えてしまって、私はそれに歯ぎしりする。
「おかしなことに、そうなのよ。一応、人里で聞き込みをしてみたりしたけれど、特に収穫はなかったわ。だから、偶然通りかかった誰かが人形を持って行ってしまったと思ったの。人形を大切にしてもらえる人に拾われたなら、それも悪くないと思ったわ」
そう語るアリスさんは、言葉とは裏腹に寂しげに見えた。当然だ。自分の人形を「誰かに拾われた」で納得するのなんて、そんな簡単なことじゃない。わかっていても辛いんだ。アリスさんの言葉は、自分を無理矢理許すための方便のようにしか私にはとれなかった。
「それで、手掛かりがなくなってしまってどうしたんですか?」
「これ以上の捜索は難しい、と判断して、その日はそれで家に帰ったわ。家に帰っても、当然何も変化はなかった。
リサを除いた私の人形たちが、私の代わりに家事をしているだけ。
それでも、私は諦められなかったのね。自分の魔法が間違っていると思って、魔法の森を何度も何度も探したわ」
「でも、リサは……」
「そう、見つからなかった。それだけが、55日前から49日前の私の行動よ」
そこまで言って、アリスさんは俯いてしまった。地図は何も語らず、不可解な事実を叩きつけてくるのみ。リサも、ただ黙ってアリスさんの方を見つめている。ねえ、本当にあなたは何も覚えていないの? 私はこの子に頼りたかった。でも、頼り切れるほど、この子のことをまだ知らない。信頼するために知りたいのに、知ることが目的だなんて。机の上の電灯が、一瞬チカチカと消えそうになって、また明かりを灯した。
命。殺人。増える謎。人形の行方──。わからないことが多すぎる。私は一体どうしたら良いのだろう。
そうだ。こういう時は謎を絞って、落ち着いて事件を振り返ってみるんだ。そうすればきっと、新しいことが見えてくるはず。
まず、ここで解き明かしたいのは人形の行方。いなくなったのは55日前の午後10時から54日前の午前6時までの間のどこか。
そこから行方が全く分からなくなって、49日前にリサは亡くなった。そして、今日の午前6時、リサは冥界に現れた。午前10時になってようやく幽々子さまと一緒に人形に向き合い、殺人の事実を知った。
それから、私はこの人形を調べた。わかったことは、上海人形であること、喋れないこと、そして、何かに動かされるための魔力を秘めていたこと。……魔力? そうか、魔力だ! 私ははっと気付く。仕込みをしていない彼女は本来魔力がなくなってしまっているはず。それなのに、朝見た時には魔力が残っていた。これが表すことって……。そこまで考えて、私は強く頷く。それから、アリスさんに向かって自信を言葉に変えた。
「アリスさん! 人形が見つからなかった原因がわかりました!」
私の大きな声が静かな部屋に響く。
「えっ、それはどうして?」
アリスさんは興味津々といった様子で聞いてくる。
「人形は、"仕込み"なんて要らなかったんです! 自分で動いていたんですよ!」
「どういうこと?」
私は順を追って説明する。
「今朝、私がリサを見つけた時、リサの体には確かに何かに操られるための魔力を宿していました。本来であれば、"仕込み"をしていないリサの魔力は既になくなってしまっているはずです」
「ええそうね。えっと、つまり?」
私は確信する。
「命を得ることで人形としての魔力を使う必要がなくなった……、つまり、リサは54日前の午前0時までの間に命を授かっているはずなんです!」
「……!」
彼女も私の方を見上げ、はっきりと目を見開く。家の小窓から涼しげな風が流れ込んできて、ふっと彼女の髪が揺れた。私は告げる。
「リサは操り人形としてどこかに出かけたり連れ去られたりしたわけではなく、命を持った一つの生き物として、どこかに消えていったのです!」
私は席を立ち、机の上の地図を見下すように見つめる。この地図がリサの居場所の全てじゃない。生きて原動力を得たリサにとって、この世界は少し小さすぎる。私は地図を手に取り、元あったような正方形の形に、一枚一枚、丁寧に折り畳んだ。折るごとに畳まれるのは、感情か、事実か。無言のままそれを折り終わって、私は終わったことと始まったことの角を合わせるようにして、机の端に置いた。それを見越したように、机の横の開いた窓から、枯れた葉が一枚入ってきて、地図の上にはらりと乗った。
「……それなら、私の探知魔法が反応しなかった理由もはっきりするわね」
彼女は言った。
「あれは人形を探す魔法だから、生き物を探すことはできな……いや、でも、こういう場合ってどうなるのかしら」
「命を授かった人形が探知魔法に反応するか、ということですか?」
私も同じような謎を浮かべていた。人形を探す魔法。それは文字通り人形を探し出すことに特化している。命を得た人形が同じように人形として判定され、探知されるのかどうか、私にはわからなかった。こればっかりは推測じゃ答えられない。
「ええ。こういう特殊な事例は、魔法の専門家に聞いてみた方がいいかもしれないわね」
答えを出せない私を横目に、アリスさんはリサを抱え、くるりと踵を返して歩き出す。どこかに出かけようとしているのだろうか。
「どこかへ向かわれるのですか?」
「妖夢も付いてきて。紅魔館の魔女にちょっと話を聞きに行きたいの」
そうか。七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジ。紅魔館に住むあの人なら、人形のことや魔法のことについて詳しいかもしれない。答えを出せなかったことに歯がゆさを感じつつも、頼れる人物がいることに、内心よしっ、と拳を握らせる。地図の上の葉を左手で払ってから、期待を寄せて、私もアリスさんの後ろを歩きだした。
一つ目の謎、人形の持ち主──それはアリス・マーガトロイドだった。アリスさんとリサと、私。アリスさんがドアを勢い良く開き、家の方から外に向かって突風が吹き出す。追い風だった。私は、新しく増えた仲間たちと共に、紅魔館に向かい出した。
そういえば、家を出る直前、アリスさんはリサに一言話しかけていたな。
「ねえリサ。少しはあなたが私の元を離れてしまったこと、思い出した?」
人形は「はい」とも「いいえ」ともつかない微妙な角度で首をかしげていた。わからない。私には、この子のことが何もわからない。人形の寡黙さにため息が出そうになる。でも、それはぐっとこらえた。ふと隣のアリスさんのことを見つめる。彼女はリサのその様子に一体何を思ったのだろう。彼女は一体どう思っているのだろう。私には到底わからなかった。この子の謎も、この調子で解いていけるのだろうか?