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「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
その声。
紅美鈴が珍しくも睡眠時間とされる紅魔館主の部屋を訪れた。
「どうぞ、お入り」
レミリアが返事すれば、恭しく一礼しながら異国の衣装を纏った中華小娘なる妖怪が部屋に入ってくる。
「失礼します――お嬢様、咲夜さんを知りませんか?」
「んん? 咲夜がどうかしたのかい」
「え……いや、その……姿が見えなくて」
「いつから?」
「ええと……小半時くらい前です」
寝間着姿のまま書斎の机に座っていたレミリアは開いていた本を閉じ、形良い眉を少しだけ曇らせ笑う。笑みを浮かべた口元に僅かながらの幼い牙が覗いて彼女の種を物語った。
それは不機嫌とかではなく、呆れた風を見せるような笑いである。
「それはお前、いくらなんでも過保護じゃないかえ?」
「あ、いや、そりゃあそうなんですが……」
「何か気になるのか」
「はい」
忠実な家臣の世迷い言を、冗談と笑って流さない程度の器量は持ち合わせていると自負する悪魔の王は、顎を軽く動かし言葉の続きを促した。
美鈴は帽子を脱いで胸に当てながら、言葉を選び、口開く。
「……喧嘩といいますか、心配を、したのです」
「――働き過ぎと?」
「はい」
「そりゃあ私も再三警告しているのだけどねえ……あの子は聞いてくれないのよ。身体を壊してほしくないのだけれども」
「それだけではありません。最近、更にその度合いが悪くなったと、そう思うのです」
「……パチェが言いだした、あのカード集めの一件が終わってからか」
「おそらく」
「ふうむ……」
――レミリアにとって十六夜咲夜とは、忠実な部下であり、無二の親友であり、可愛い娘であり、生意気な妹であり、常に新しい発見と歓びをもたらしてくれる人間だ――こんな陳腐な言葉の羅列だけでは、到底語りきれない想いも秘されている。
……美鈴の指摘の前から、なにか様子がおかしいことには気付いていた。
だが、敢えて気には掛けなかった。
もうそれは自分の仕事ではないと感じているからだ……だが、まだ放逐するには早かったのかもしれない。
あの子はまだまだ甘えても良い年頃だ。
それを、完璧なる鎧を身に纏ったが為、理不尽な我慢を自らに強いている。
あんなにあまえんぼうなのに。
自分から突き放したつもりはないけれど、寄ってくるのを、まとわりつくのを畏れるようになった子に対し、手を広げたりはしなかった。
……いずれ、誰かがあの子を護ってくれるのだろうと待っていた。
目論見はあまり上手くいってない。
そんな折、まさか事件の方から動き出すとは。
またしても悩ましい事態だ。
「お前が優しくしてやらなかったのではないか?」
「……そう、でしょうか……」
「あー、気にするなよ、冗談だ……まったく、あの子のこととなると得意の受け流しも出来ないかい?」
「いやいや化勁といっしょくたにされるのは……」
「――で、あの件は結局裏でなんぞ企む天狗を霊夢がしばき倒して終わったのだろう?」
「咲夜さんはそう仰っていましたね。あまり自分は役立てなかったと……そんなことをいう女(ひと)ではないから、その時から気になっていたのです」
「成程」
流石は紅魔館の気配り担当。自分が聞き流していたことすら耳に遺していたか。
あの子は常に冗談や軽口でこころを霞に曇らせる。
あんな風に躾たのは誰あろう自分なのだが、もう少し、素直な性格に矯正しておくべきであったかと今更ながら反省している。
……なにしろ言葉のやりとりが、動作の一挙一動が可愛くて、可愛くて、傍に置いておくと心地よくて仕方ない。
だから、自分の都合で弄りたくないと思っていた……フランドールといい、よくよく自分は育てるということがヘタクソなのだろう。
「パチェにも聞いてみるか……お前は番に戻らんでいいから、咲夜を探しな」
「畏まりました。お嬢様、あの……」
「あー?」
「お休みを邪魔して申し訳ございません」
「ハッ……お前もねえ、優しいだけじゃあ駄目なんだよ。心配なら、逃げ出す前に抱きしめて捕まえちまえば良かったんだ」
「……咲夜さんが嫌がりますよ」
「あああ、お前は本当に……!」
「?」
「いやもういい、とにかく探しておけ。私はパチェの処に行く。フランドールにはまだ黙っておくのだよ、あの子が探したいなどと言い出したら厄介だ」
「わかりました」
――或いは恋を識れば変わるかもしれない、などと淡い期待もあったのだが。
現に自分は物凄く変わった。
妖怪としての本質が塗り変わった気すらしている。
この歓びを、しあわせを、充ちたるを、あの子にも味わってほしい。
あの子はそれを私に求めようとしたようだが……応えても良いくらいにあの子が好きだった。だが、それ以上に膨らんだ親愛がそれを邪魔した。
しあわせになってほしい。
そう思っている時点で自分がその役目でないことに気付いてしまったのだ。
都合の良いことを言っている自覚はある。
「だけど咲夜。私のために朽ちたいと思うお前を受け入れるのは怖いのだよ、私も」
結局、レミリアは己を終わらせてくれると約束してくれた少女を選んだ。
後悔はない。
ないが、想いを残しているのは仕方のないことだ。
それほどにあの子を愛しているのだから。
寝間着から白のドレスに着替え、ヴワルへと向かう。
……着替えの手伝いが現れないのも珍しいことだ。
レミリアは少しずつ、嫌な予感が膨らみ始めていた。
視たくない運命が迫っているのではないかと懸念し始めていた。
――ヴワル図書館
「私はしらないわよ。あんたの方じゃないの、カードショップ楽しいとか喜んでいたのは」
「いやまあそれはそうなのだけど」
事情を説明しての第一声であった。
自分は無関係だと言いたげな言葉。まあパチェらしいと言えば、らしい。
椅子の隣に身体を潜り込ませ、魔女の肩を枕に凭れる。
いつもの香木の匂い。
柔く細く華奢な身体が少しだけ動いてレミリアのための隙間を作る。
「……だいたい、三十分見ないからって――」
「あの子に限って時間の経過を問うのは無意味だ。それに……メイドベルに反応しない」
「……?」
レミリアは懐から、咲夜を呼びつけるベルを取り出し見せた。
二、三度振る。ちりんちりんと、心地の良い澄んだ音が仄かに響く。
如何なるときも、それを鳴らせば咲夜は立ち所に現れる……筈だった。
「タネも仕掛けもありますわ」
と宣うチャーミングな笑顔と共に。
……メイドは姿を現さない。
「……過保護ねえ」
「そう思うか?」
「……突っかかるわね。本当に私はしらないのよ」
「もういいよ、それは。だから調べられないか? あの子がこのベルを鳴らしたのに現れないのは、とてもとてもおかしいことなんだよ」
「機嫌を損ねて何処かの隅にでも丸まっているかもよ」
「それなら背中を撫でてやりたいから、探せ」
魔女は溜息を一つ。
そして指先をくるくると回してみれば、
「……この世界に居ないわ」
唐突に、解を導き出した。
「どういうことだ」
「あの子の能力を研究しているのは識っているわね? 時間や空間の操作は致命的な危険を伴う……何が起きてもいいように、あの猫には特別製の首輪を付けているのよ……その反応がこの世界上にいないと告げている」
「パチェ、あの子のことに関して私は平静を保つのが難しい。あの子は無事なの? どうすれば呼び戻せるの?」
「…………難しいわね」
「難しいって、どういうことですか!?」
美鈴の声が響く。
唐突に会話に割って入ってきたのはいつの間にか二人の頭上にいた番人だった。
ふわっと降りて、魔女の机に縋り寄る。
永い付き合いだが、彼女がこんなに声を荒げるのは極めて珍しいことだ。
魔女が剣幕に眼を丸くしているくらいには。
それほどに、紅美鈴という妖怪は安定している。
泰山の如し也を体現していた。
「この世界にいないものを呼び戻すから大変ってこと。それに……その世界に私達は干渉できない。なんせ、時が止まった世界なのだから」
「? 時止めのことか?」
「そう。これは研究中で、仮説に過ぎないけどね。あの子の時を止める、というのはこの世界の時間を止めるのではなく、彼女だけが自由に時間を利用できる時の止まった世界、空間に転移しているという考え方」
「そこから戻ってこないと?」
「そういうことね。私達がこうして喋っている時点で時は流れている。この時点であの子はこの世界の何処かにいなければいけない。それなのに、時間は流れ、あの子はいない――或いは私達が認識できないか……」
「あの子が私に呼ばれて現れないのだ、何かがあったに違いない」
「どうすれば助けられるのですか?」
「――ちょっと、いっぺんに迫らないでよ」
レミリアと美鈴が少しだけ険を下げると、魔女は、はーっと息を吐いてから言葉を紡ぐ。
隣で物言わず立っていた小悪魔がお茶を注ぎ始めた。
「時間遡行の理論とか理屈を語っても仕方ないわね。ポイントは、時の止まった世界(仮定)があって、咲夜はそこに入った。だけど時は止まっていない、私達が咲夜のいないことを認識している。つまり時は動いている……この時点で、救出は不可能。だって、彼女の時を止めた定点から世界は動いてしまっているのだから。誰も、起きてしまった過去には戻れない」
「不可能って……そんな、どうにもできないのですか?」
「既に時間のズレが起きてしまっているのだから難しいわね……そもそも、その世界に干渉できないって言ったでしょう? 助けるもなにもないのよ」
「そんな……」
「……いいや、なんとかできるはずだ」
レミリアは魔女の椅子からぴょんと飛び上がる。
「……霊夢の処に行く。あの子は世界渡りが出来る。パチェ、咲夜を見付ける方法を考えてくれ。認識できないとかナントカはどうでもいい。なんとかしてくれ」
「また無茶を……」
「お願いします! パチュリー様! なんでも手伝いますから!」
「ちょっと暑っ苦しいわね……わかった、わかったから落ち着きなさい、美鈴」
そのやりとりを最後まで見ないまま、レミリアは全速で空を駆けた。
この時間なら、霊夢はまだ境内の掃除をしているはずだ。
背中に魔女と門番の「陽が出ている」との警告を無視し、赤い彗星の如くなりて一気に空へと舞い上がる。
たちまちに朝の光が身体を刺激する――今日も憎たらしいくらいに良い天気だ。
普段なら、紅魔館の中庭で、あの子は鼻歌混じりに洗濯物を干しているのだろうか。
正門前で、門番と談笑しているのだろうか。
庭園の木陰で、フランドールと水やりをしているのだろうか。
ほんの数十分だ、まだ一時間にも満たないのに、こんなにも咲夜が恋しい。
小さく首を振り、音を追い越す勢いで蝙蝠羽根が空を切る。
……どうしてもっと優しくしてやらなかったのか。あの子が何か悩んでいたのは気付いていたのに。どうしてもっと甘えさせてあげなかったのか。あの子はいつも寄り添いたがっていたのに。
「嫌だぞ……そんなの……私はお前を見届けるって約束したんだから……」
陽の光が眼球に突き刺さるせいか、涙が滲んでくる。
まったく、ほんとうに……世話の掛かる子だ!