その日もいつも通り。
十六夜咲夜は紅魔館のありとあらゆる些事を一手に引き受け、かつ、全てをそつなくこなす。
朝、お眠りになった主人の棺桶の蓋を閉じ、一礼して部屋を後にする。
「おやすみ、咲夜」
「お休みなさいませ、お嬢様」
このなにげない挨拶が、咲夜にとってなによりの褒美であり、その日の活力源だ。
それから妹様の様子を窺いに地下へと降りる。
……上機嫌のときは、部屋を訪ねてお相手をさせていただく。
ご機嫌の斜め向きなときは、そのまま放置。
ひどいときは居候の魔女へと進言するきまりだ。
殆どの場合、部屋を訪ねて本を読んだり、おままごとに付き合ったり、カードやゲームを楽しんだりと、楽しい時間を過ごすことができる。
いつだったかご機嫌が悪そうなときに、それでも咲夜の顔を見て微笑み迎えてくれたことがあった。とても、とても嬉しかったのを憶えている。
……妹様は、一度として首筋に牙を突き立てようとしたことはない。
お嬢様と同じく、自分は好みのタイプではないのだろう。
すこしだけ、ざんねんだ。
それから、日常の雑務を開始する。
ろくに仕事もできないメイド妖精達にせめても解りやすい掃除と花の水やりなんかを教えて回り、遊んでいる奴儕はナイフでおしおき。
同時にホフゴブリンたちがしっかり館の守護警邏をしているかの確認……存外彼等は働き者だ。良い拾いものであったと望外の務めに満足している。
……実のところ、自分で全てこなす方が早いのだが、咲夜はお嬢様の命令をこなす理由も含めてメイド長なる己の立場をこなしていた。
曰く、王の側仕えであるのならば、当然人を使う術も心得よ、とのこと。
しかしメイド妖精を“ひと”のカテゴリに含めるのはちょっぴり無理があるのではないだろうか。それでも咲夜は主人の気紛れな命令を忠実に、完璧にこなしていた。
――館が賑わっているほうが、きっとよいのだ。
一通り妖精達を見回ったら、厨房に入る。
メイド妖精にもそれなりに個性がある。
仕込んでいるうちに、調理……火を任せても良い程度に成長しているものも少なからず現れる。
そういったもの達に簡素な調理法を教えつつ、自身の腕をも振るう。
……館の従者達の食事は自分達で作らせている。彼等にとっては遊びの延長なのだろうが、殊の外家事を好んでいるのは解る。とはいえ、まあ、味は保障しかねるので途中途中で手を貸している。食材が勿体ないことにならないように。
“まっとうな”時間を生きるものたちの朝食と、ハーブティを用意できたら、食事と菓子とをシャリオに載せて、配膳の小旅行を開始する。
先ずは、図書館の居候魔女の元へ。
……ヴワル地下大図書館は、咲夜の能力を応用した無限に拡がる大空間だ。
大海の如き書架の並べられた空間をシャリオと共にしばし飛ぶ……。
ほどなくして、大洋のなかにぽつんと浮かぶ孤島と見紛うような、おおきな黒壇の机とゆったりした椅子、それらを珊瑚礁のように、ぐるり囲んだ本の山が見えてくる。
その中央、椅子に座って静かに読書を続ける魔女はいる。
咲夜が提供した能力から察すれば、魔女を見付けるのはそれこそ文字通り大海から小島を見付けるが如くのはずなのに、彼女は探せばいつしか見つかるようになっている。
きっと、これも魔女の深淵なる御業のひとつなのだろう。
咲夜は魔法など識らない。
だから、すごいなあ。と思う程度の事であった。
「おはようございます、パチュリー様」
「うん、おはよう……今日はダージリン……普通なのね。それにオレンジ・ペコ……香りが薄いわ」
「はい、それから……お菓子は此方です。シナモンをクッキーに混ぜこみマドラー風にしてみました。お茶をかき混ぜつつ囓っちゃってくださいませ」
「あら、おもしろい」
「ヴィスコッティ風ティー・スプーンですわ」
「ふうん……だからお茶の香りは少なめなのね」
「混ぜ合うことをお楽しみくださいませ」
「ぐるぐるかきまわすのね」
「はい、ぐるぐる」
……食事らしい食事を摂らない魔女が、メイドの食事が運ばれる時間を楽しみにしていると小悪魔からちらりと聞いたときは酷く嬉しかったものだ。
彼女は多くを語らない。
だが、自分をそれなりに評価してくれていることはわかる。
それはメイドとしての充足であり、当然こなすべきオーダーであった。
賓客には出来うる限りのもてなしを。
咲夜は遠い昔に主人から与えられたそれを遵守し続けている。
続き、中庭へ。
メイド妖精達の庭園での仕事を軽く確認しつつ、正門の前でのんびりと拳法の型を美しい軌跡を描きつつ演舞している妖怪の元へと近付いていく。
メイド妖精たちが、その真似事をしているのが愛らしい。
……まあ仕事をサボっているのは御愛敬としておこう。
「美鈴、ごはんよ」
「やあ咲夜さん、おはようございます」
満面に笑みを浮かべる中華妖怪……中華妖怪? 彼女の正体はよく解らない。
いやさ、それを云うならこの館に住む誰しもが謎を孕んでいるのだが。
まぁそんなことはどうでもよく、天真爛漫という言葉をそのまま体現したような笑顔を此方に向けた美鈴は、穏やかな流水の如き緩やかな舞を止め、此方へと近付いてくる。
「勿体ない」
「え、なんですか?」
「いいえ、此方のことよ」
……彼女の演舞は美しい。
かつて、博麗の巫女の目を奪ってワンミス誘った程度には、美しい。
弾幕も然り。
彼女の陽気が成せる業なのか、妖気の御業か。
とにかく見ているだけで惚れ惚れするのであまり近くで見たくない……見蕩れているのに悟られてしまうから。
とはいえもっと演舞は見たい。だのに、美鈴は自分の気配を目聡く察知し、近付くや早々に美麗な動きを止めてしまい、尻尾を振る子犬よろしく近付いてくるのだ。
声をかけずに少し遠くで見ていても、気付かれ途中で切り上げてしまう。
ああ、忠犬のジレンマ。
こればっかりは時を止めて解決できるものでもない。
最初から最後まで通しで見たいのに、未だ叶わないでいた。
「見せて」のひとことが言えない――。
「わあ、今日はシウマイですね! ……うーん、海鮮の匂いがしますよ!」
「何処からか流れ着いたものを擂り身にしたの」
「いやあ、これはもう私の中華料理の腕を超えていますよねえ、さすがメイド長!」
「世辞はよしてよ。まだまだ適わないわ」
そこで、顔向き合わせて朝食を摂る。中庭には、そういった用途に使えるテラスが各所に設置されている。
これはモーニングルーティンではない。
だが、その頻度は一番多い朝食だろう。
……美鈴と話すのは楽しい。
この館で、一番自分と目線を合わせてくれる相手だと思っている。
「……咲夜さん、少しお休みになられては?」
「――え?」
「少しやつれていますよ。気の乱れも感じます……寝不足でしょう?」
「……ああ、そういえば眠るのを忘れていたわ」
「そんな、人間離れしたことをいうものではありませんよ」
「ふふ、ごめんあそばせ」
指摘されて初めて気が付いた。
どうやら自分は疲れているらしい。
それにしても流石は美鈴だ、自分に気付かないことを気付くとは。
紅魔館において気配りの達人といえば間違いなく彼女である。
……自分は機械的にこなすこと、判断することは得意だが、機微を拾う点において美鈴に劣っていると自戒している。
実に、悔しいのだが。
「いいから、お休みなさって下さい」
「まだ仕事があるのよ」
「私がやりますから。メイド達の面倒もお任せ下さい」
「うーん、買物が……」
「私が行きます!」
……怒られてしまった。
ちょっとだけ肩を竦めると、美鈴は声を荒げたことを誤魔化すように咳を一つ。
やがて、そんな彼女の手が伸びてくる。
だから、更に身を竦めて、眼を閉じてしまう。
指が……睫に触れた。
「……咲夜さんが万一にも倒れたら、皆心配しますから」
「……うん」
やさしい声、
やさしい指、
だけど、それ以上に踏み込んでこない。
どうしてか、いつからか、美鈴と距離を感じるようになった。
もっと昔はそんなことなかった気がするのだが。
「美鈴」
「はい」
「美鈴も……心配してくれる?」
「勿論」
「……そう」
その言葉に、何故か苛立つ。
どうしてだろう。
最近、己の中にある感情が上手く制御できなくなっている……。
あの狐の言葉を聞いてから、か。
――貴女は本当に――?
……飯綱、とか言ったか。
人の心の脆いところを擽るとかいう能力だとか聞いた。
馬鹿馬鹿しい。
自分の心などという、容易いものを制御するのにどうして苦心せねばならぬのか。
私は唯の機械でありたい。
お嬢様の為だけに動く自動人形でありたい。
どうしてこころなどという、錆に邪魔されねばならないのか。
「咲夜さん」
「……あ」
美鈴の心配そうな声の低さが変わる。
いけない、これ以上彼女に寄りかかるわけには。
心の中で謝りつつ、銀の懐中時計を動かした。
せかいがとまる。
同時に、
咲夜だけの世界が始まった。
咲夜以外の全てが凍った世界。
咲夜だけが動く世界。
咲夜だけが生きる世界。
咲夜だけに許された世界の刻がうごきだす。
目前で、凍れる時の中に澱んだ親愛なる妖怪の頬に触れる。時の枠から外れたその頬には柔さも、暖かさも感じられない。
「ごめんね」と口に出す。
「……聞こえなければ、こんなに素直になれるのにね」
でも、美鈴の優しさは誰にでも振り撒かれるものだ。
自分だけが独占してはいけないとおもう。
だからこそ、自分は瀟洒であらねば。
完璧であり続けなければいけないのだ。
……美鈴の言うとおり、少し疲れているのかもしれない。
自室に戻ろう。
美鈴の頬を優しく撫で、そして踵を返す。
そこでカクン、と膝が一瞬笑った。
……想像以上に疲労が溜まっているようだ。
もしかしたら、あの狐を懲らしめた後からそのまま休んでいないかもしれない。
騙し騙し螺旋を巻き続けていたつもりだが、所詮は人のからだ、限界は容易くやってくる。
いっそ吸血鬼になってしまおうか
そんな夢想を自嘲し、薄笑む。
ひととして在り続ける。それも、自らに課した枷だった。
この苛立ちも、思った以上にポンコツ気味なからだも、全て愛して止まない。
それでいいのだ、心から思う。
それと不甲斐ない自分を嘲笑うのはまるきり違う事柄なのだ。
自室に戻った。
幾度となくお嬢様より「もっと良い部屋に棲みなよ、なんなら私の隣の部屋とか」と言われてきたが、咲夜は最初に宛がわれたハウスキーパー・ルームから移らなかった。
――此処が好きなのだ。
愛しい主に抱かれ眠ったベッドは十年の歳月を経て尚現役だった。
「さて……」
刻を止めているときだけ自らに許しているずぼら寝。
ささっとメイド服を脱ぎ去り床に散らばらせ、そのまま身体をベッドへと投げ出す。
下着も面倒だから取り払う。
うまれたままのすがたとなったらドレス・コードが許される。ふかふかのベッドに出迎えられて、枕を抱いて眼を閉じた。
魔女曰く「刻の停まったベッドは硬くなければいけないはずなのに、貴女がそうして眠ることが出来るということに、興味が尽きない」……とのことだが、咲夜にとってはどうでもいいことだった。
「一番解らないのはじぶんのこと。そんなの誰だってそうですわ」
たちまちに意識が深い泥沼に沈み込んでいくのを確かめながら、むにゃむにゃと独りごち呟く。
柔らかい感触が心地よい。
……ほんとうは、一睡たりともゆるせないのに。
人間は、本当に不便だ。
一秒の無駄なくお嬢様の為に尽くしたいのに。
限られた時間、生の全てをあの方に捧げたいのに。
私だけの時間など欲しくない。
暇を与えるという言葉がなにより怖い。
我が身一挙一動の全てがお嬢様のために在る。
十六夜咲夜とは、そういうものでありたかった。
「お嬢様……」
意識が途切れる。