十
ヤマメは正邪と別れた後も、しばらく無名の丘の近くを歩き回っていた。うろつきながら、ここ最近の出来事を振り返っていた。
「そういえば、全てはここから始まったのよね」
ヤマメは独りつぶやいた。
「地底の暮らしも悪くはなかったけど、ここ最近は楽しくて仕方ないわ」
歩いているうちに、ヤマメは地下室に続く穴の近くにまで来ていた。ヤマメは辺りを見回して、
「いつも夜に来ていたから分からなかったけど、この辺ってこんな感じだったのね」
と言った。ふと、ヤマメは小さな声を聞いた気がした。再び辺りを見回したが、誰かがいるようには見えなかった。
「あのぉ、すみません」
しかし、今度こそ、ヤマメは声をはっきりと聞いた。確かに誰かが自分に声をかけていた。
「誰?どこにいるの?」
「ここです。ここ」
小さな声が答えた。
「ここって……。ああ、あんたね」
ヤマメのすぐ近くを蟲が飛んでいた。それは紫色の下地に複雑な模様を入れた羽をもつ蝶だった。
「そうです」
ヤマメは蝶が口を利いたことに少し驚いたが、幻想郷ではそんなことが起きても不思議ではないと考え直した。特に、最近は女王の力のおかげか蟲がより活発になってきている。今までに本来の姿のままで言葉を発する蟲を見たことがないとはいえ、喋り出す個体がいてもおかしくないとヤマメは思った。
「あの、あなた、蟲の妖怪ですよね」
「そうだけど」
「ちょっと、助けてほしいことがあるんですが、お話を聞いてくれませんか」
「ああ、いいよ。私は黒谷ヤマメ。土蜘蛛だよ」
「ああ、すみません。私はリグルといいます。リグル・ナイトバグです」
「リグル……」
ヤマメは驚いた。ヤマメが驚いた理由は、この蝶がリグルと名乗ったことだけではない。封印の作用でリグルのことは全て忘れていたはずなのに、何故かリグルのことを覚えていたのである。
「私のこと知りませんか」
ヤマメは少し言いよどんだ。
「どういうことかな」
「あ、すみません。意味が分かりませんよね。私、本当は蛍の妖怪で、人間の子供くらいの大きさだったんです。姿も人間に近いものでした。でも、気がついたらこんな姿だったんです。信じられないかもしれませんが……」
「いや、信じるよ。幻想郷っていうのはわけのわからないことがよく起こるからね」
「ありがとうございます」
「えっと、それで、リグル、君がそういう姿になった理由は覚えていないの」
「それが、全く。どうも、記憶がいくらか無くなってしまっているみたいで。自分がどういう者だったのかとか、そういうのは覚えているんですけど」
リグルと名乗る蝶は間を置いて
「それと、何故か私が何人もいるんです」
と付け足した。ヤマメは思わず聞き返した。
「え、何人も?」
「こういうことです」
蝶の横の辺りから声がした。ヤマメが声のした方を見ると、そこにはとんぼが漂っていた。
「ここにもいます」
次はヤマメの足元から声がした。ヤマメが足元を見ると、そこにはかまきり、百足、こおろぎ、蝸牛、てんとう虫、そして、角の生えたかぶと虫がいた。何故か、かまきりは青い木の実を抱えていた。唖然としているヤマメをよそに、今度はかまきりが口を利いた。
「私たちもリグルなんです。別に偽物ってわけじゃなくて、私たちも、私たちが私であることを何となく理解しているんです。自分も私だけど、相手も私だってことが何となく分かるんです」
ヤマメは屈み込んで、足元の蟲たちを見ながら
「ああ。うん。皆自分がリグルっていう記憶があるのね」
と言った。かまきりは
「皆、自分が私だとは思っています。ただ、皆が同じ記憶っていうわけではなくて、自分が覚えていることを、他のは覚えていなかったり、その逆があったりしました」
と言った。てんとう虫は
「むしろ私はリグル・レディバグって感じね」
などとつぶやいた。ヤマメがかまきりの言葉に応じて、
「あ、うん。だいたい分かったわ。朝に目を覚ますと小さな蟲になっていたっていう感じなのね。それで、君たちは自分がどうしてこうなったかっていうのが知りたいのね。」
と言うと、蝸牛は
「そうです。目を覚ますとというよりも、気がついたらという感じですけどね。あなたみたいな蟲の妖怪なら、蟲のよしみで手伝ってくれるかもしれないと思いまして」
と言った。ヤマメは
「そうね、蟲のよしみだもの。手伝ってあげるわ」
と笑顔を作って言った。かまきりが
「ありがとうございます」
と言った。ヤマメはかまきりのもつ木の実を指差して
「えと、ところで、なんで君は木の実を持っているのかな」
と言った。すると、木の実から
「象虫の幼虫である私が中にいるからです」
という声がした。
「ああ、なるほど」
かまきりは再び言葉を発した。
「実は私、おなかに針金虫を飼っているんですが、それもリグルなので色々と大変です」
かまきりの腹部からも
「そういうことです。よろしくね、ヤマメさん」
という声が聞こえた。ヤマメは口元を少しひきつらせながら、
「よ、よろしく」
と応じて立ち上がり、一つ咳払いをした。それから、蟲たちに向かって
「ちょっと心当たりがあるわ。ついてきてくれないかな」
と言った。
ヤマメとリグルたちは地下室にいた。地下室はヤマメが以前に来たよりも暗く、視界が悪かった。そのため、ヤマメは左手の人差し指の先に火を灯して明かりにしていた。ヤマメは左肩の上に百足とこおろぎとてんとう虫を乗せ、右肩の上にかまきりとかぶと虫を乗せていた。左肩の蟲たちは火を恐れたのか、狭い肩の上で縮こまって固まっている。かまきりは相変わらず木の実を持っていた。蝸牛はヤマメの服を濡らさないようにかぶとむしの甲の上に乗っていた。蝶ととんぼはヤマメの近くを飛んでいた。
「どういうことだ」
ヤマメは呟いた。石碑があったはずのところには瓦礫があった。瓦礫には文様があって、石碑のなれの果てであることが推測できた。ただ、文様は光を発していなかった。ヤマメはあの強力な封印が壊れた理由が気になった。ヤマメは蟲たちに
「リグル、この場所に見覚えがないかい」
と聞いてみたが、蟲たちは
「いえ、全然」
「私も」
「同じく」
「初めて来ました」
「ここってどこですか」
「何なんですかこれは」
「この瓦礫がどうかしたんですか」
などと答えるばかりだった。ヤマメは顎の下に手を置き、
「そうか、知らないのね」
と言いながら、頭の中で推理を巡らした。ヤマメは封印されたリグルが想定以上に弱すぎたことが石碑の崩壊の原因ではないかと考えた。元来、石碑は力の強い妖怪の封印のために作られていた。そのために、封印の力がオーバーフローしてしまったのではないか。ヤマメたちが立ち去った後に、石碑が余分な力に耐えられず、自壊してしまったのではないか。そして、その衝撃で、封じられていたリグルの精神は大打撃を受け、精神の何割かを消失するのと同時にばらばらになって離散し、近くにいた蟲たちに取り憑いたのではないか。ヤマメはそのように推測した。しかし、ヤマメは
「いやぁ、この瓦礫、前からあったんだけど、変な模様があるからさ。もしかしたら、君たちの変身の原因かもって思ってね。違うようだね」
とだけ言った。リグルたちは
「残念です」
「確かにいかにもって感じの場所だね」
「強大な妖怪が封じこまれていたと言われたら信じそう」
「もしかして、この瓦礫に触ってどうかしたとかって感じかな」
「なにそれ怖い」
などと口々に言っていた。ヤマメは
「ところで、君たち、これからどうするつもりなの」
とリグルたちに尋ねた。蝶が
「どうするって、特には考えてません」
と答えた。ヤマメは
「ちょっと提案があるんだけどね。実は近頃蟲の国ができる予定なんだ。最近、強い蟲妖が復活してね、その妖怪を中心に蟲の繁栄のための活動をしているんだよ」
と言った。蝶は
「だから最近蟲たちが活発なのね」
と言った。かぶと虫は
「いつの間にか蟲のリーダーの座を下ろされていたんだけど」
とつぶやいた。ヤマメは
「それでね、君たちも一緒に来ないかなと思ってね。もしかしたら、元に戻る方法も分かるかもしれないしね。どうかな」
とリグルたちに言った。リグルたちは
「いいんですか」
「ついさっき知り合ったばかりの方にそこまでしていただけるなんて」
「ありがたい話です」
などと答えた。ヤマメは続けた。
「いやね。私の贖罪のためにも是非来てほしいな」
すると、リグルたちはざわめきだした。
「ショクザイ?食べ物?」
「私たちを食べる気なの?」
「丸のみにするの?踊り食いなの?」
「貴重な栄養源なのね」
「体外消化するつもりなのね」
「エスカルゴは嫌だ」
「いや、佃煮だね、きっと」
「すみません、孫太郎さん。あのときの約束は果たせそうにありません。むしろあなたと同じ最期を迎えそうです」
「私は寄生虫もちなんで食べてもおいしくないです。せめて私だけでも見逃して。他のは美味しいけど私はやめた方がいいわ」
ヤマメはリグルたちの様子を見て、くすりと笑うと、
「違う違う。そういう意味じゃない。贖罪っていうのは、罪を償うっていう意味よ。君たちを食べたりなんてしないわ」
と言った。蝶は
「黒谷さんが私たちを食べるわけないって分かってましたよ」
とすました調子で言った。他のリグルたちも
「ああ、よかった」
「かまきりの私、見損なったよ」
「だいたい、まずさでいえばてんとう虫である私の方が上よ。私の毒液をくらってみるかい、かまきりさん」
「冗談だよ。冗談に決まっているじゃないの。ちょっと、やめて。角で目を狙うのやめてよ。こっちは針金虫の私の命も預かっているんだよ」
「わ、私の実を盾にしないで」
などと言っていた。百足は
「罪?黒谷さん、何か悪いことしたの」
とヤマメに質問した。ヤマメは困ったような表情をしながら
「まあ、ちょっと前に蟲を見殺しにしてしまったことがあってね。それで、窮地にいる蟲はできる限り助けてあげたいと思っているのよ」
と答えた。リグルたちは
「ああ、そうなんですか」
「変なことを聞いてすみません」
「きっと黒谷さんは悪くありませんよ」
「素敵な心がけですね」
などと応じた。ヤマメは再び笑みを作ると
「これは私のことさ。気にしないでくれ。……そんなことよりも、君たち、一緒に来てくれるよね」
と言った。リグルたちは
「ありがたいです」
「是非お願いします」
「お言葉に甘えて」
「妖怪に食べられそうで不安だったんです。これじゃあ妖精にも勝てません。だからありがたいです」
「よろしくお願いします」
などと答えた。リグルの了解を得られたことを確認すると、ヤマメは
「象虫の君は私がポケットに入れて運んであげるよ」
と言って、右肩に右手を近づけた。かまきりは
「お願いします」
と言った。ヤマメはカマキリから実を受けとり、ポケットに入れようとした。その間際に木の実から
「よろしくお願いします」
という声が聞こえた。実は確かにヤマメのポケットに収まった。ヤマメは
「よし、じゃあ、私の右手の上に集まって」
と言って、右手を掲げた。飛んでいた蟲たちは右手の上に着陸した。肩の上の蟲たちは腕をつたって移動した。
ヤマメは蟲たちの移動を確認すると右手を少し下ろし、そして一気に振り上げた。蟲たちが中に舞った。蟲たちは悲鳴とも歓声ともつかぬ声を上げた。ヤマメは右手の指先からいくつかの細い蜘蛛の糸を発射した。ヤマメは右手を器用に動かし、目の細かい籠を作った。その中には蟲たちが上手く収まっている。
ヤマメは即席の虫籠に向かって
「このままだと不便だから、とりあえずここに入っていて。くっつかない糸だから安心して」
と言った。白い籠の中からは
「ありがとうございます」
「これからもよろしくお願いします」
「柔軟な良い糸ですね」
「さすが土蜘蛛。かっこいいです」
「百足も糸を吐けたら便利なのに」
という声が聞こえた。ヤマメは
「それじゃあ出発するよ」
と言うと、籠を両手に抱きかかえて飛び上がった。そして、地下室の天井にあいた穴を通り抜け、そのまま飛び去っていった。