六
無名の丘から少し離れたところに林がある。その林の一つの木の根本にリグルは腰掛けていた。リグルは正邪との出会いを思い出していた。リグルはつぶやく。
「今思えば、あいつは最初から不自然だったわ。でも、何度か会っているうちに、何となく怪しむのをやめてしまったのよ。そもそも、天邪鬼を信用したのが間違いだったわ」
リグルは空を見上げた。新月の夜空は月がない代わりに星がよく見える。地上の恒星である蛍たちも闇によく映える。リグルの周りにはいつの間にか蛍が集まっていた。
「あいつの真意を聞き出してやりたかったけど、仲間がいるみたいなことを言っていたわ。あんな狭い場所じゃ、いくら私でも不利よ」
少し風が吹くと、リグルは肌寒さを感じて少し身を震わせた。
「そういえば、服、置いてきちゃったわ。まあ、後で何とかしよう。もう取りに戻れないしね。……あ、私、何も着ないでここまで飛んできたんだわ。あのときは必死で何も考えていなかったけど、あの姿を誰かに見られていたとしたら……。き、きっと、大丈夫よ、今日は新月だもの」
リグルが顔を真っ赤にしていると、リグルの手の上に蛍がとまった。その蛍を見ていると、何となく気分が落ち着いた。
「もう正邪と仲間は合流しているのかしら。でもここまで離れれば、流石に見つからないわよね」
リグルは手の上の蛍に話しかけた。
「やっぱり信用できるのは君たちだけよ。蟲以外の友達なんて要らないんだわ。君たちは絶対に裏切らないものね。こんなに素敵な親友が最初からたくさんいたのに、別の友達を作ろうとした私が馬鹿だったのよね」
蛍たちは何も返事をしなかった。ただ瞬くだけだった。蟲たちの寡黙さをリグルは嫌っていなかった。
ふと、微かな音がリグルの耳と触角に届いた。リグルは危機感を覚え、とっさに素早く飛び上がった。手の上の蛍は驚いたのかどこかへ飛んでいった。リグルは木の半ばくらいの高さまで飛び上がっていた。しかし、何故かそれより高いところまでは飛べなかった。リグルは片足に違和感を感じ、浮遊しながら足首にそっと触れてみた。そこには白くて太い紐のようなものが括りついていた。紐から指を放そうとすると、指からは糸が引いた。紐の端は背後の木の幹にまで続いているようだった。
「この紐みたいなの、べたべたするわ。これは」
再び、前に聞いたのと同じ小さな音がした。リグルが気づいたときにはもう手遅れだった。リグルは強い力で胸と腹を殴打されてふっ飛び、木の幹に背中をぶつけた。そして、木にくっついたまま動けなくなった。リグルは足についていたものと同じものが自分の腹や胸にもくっついていて、それが自分の動きを止めていると理解した。リグルは
「蜘蛛の糸?」
とつぶやいた。すると、誰かが
「そうだよ」
と言った。
「だ、誰?」
リグルの声に応えるように、小さな人影が近くの木の陰から現れた。影はリグルに近づいていく。蛍の光に照らし出されたそれは、全体的に褐色の服装をした少女だった。髪は金色で、リボンか何かで髪を結わえている。その少女はリグルに
「お前はリグル・ナイトバグだね」
と言った。リグルは体をゆすりながら、その少女に言葉を投げかけた。
「もしかして、蜘蛛の妖怪?」
少女は薄ら笑いを浮かべながらリグルの言葉に応じた。
「まあ、そんなところかな。私は黒谷ヤマメっていう。短い付き合いになるけどよろしくね」
リグルの抵抗も虚しく、リグルにはりついた特大の蜘蛛の糸はまるで剥がれそうになかった。
「あんた、土蜘蛛みたいだけど、正邪とグルなの?まさか、こんな早くに私を見つけるなんて」
「そうだね。確かに私は正邪と目的をともにしているよ」
「蟲のよしみで私を見逃してくれない?」
「できないな。私が蟲の一員であるからこそ、お前を見逃すことはできないわ」
「どういうことよ?」
「それは今から教えてあげるよ」
ヤマメは地面を蹴ると、木に張り付いているリグルの方へまっすぐに飛んで来た。
「来ないで!」
リグルは蟲を呼び寄せようと、近くの蟲との交信を試みた。
恙虫、雀蜂、早く来て。私を助けて……。
しかし、いつもと違って、まるで反応がなかった。リグルは冷や汗をかいた。
なんでよ。さっきは来てくれたのに。もう蜜蜂でも足長蜂でもくわがたでも鈴虫でもこめつき虫でもなんでもいいから早く……。
そうこうしているうちに、ヤマメはリグルの目の前にまで接近していた。
「なんで蟲が呼べないのよ。さっきはうまくいったのに。あんた、私の体に何かしたの?」
「いや、蜘蛛の糸を浴びせた以外にはまだ何もしていない。少なくとも、お前にはまだな」
ヤマメはリグルの体についた蜘蛛の糸を掴むと、器用に操って木からはがし、そのまま暴れるリグルを向かい合う形で抱きかかえた。リグルは蜘蛛の糸で手も足もふさがれてしまっていた。
ヤマメはリグルの耳元にささやいた。
「間違ってもかみつかないでよ。私には病気を操る程度の能力があるの。私の体液をちょっとでも飲み込めば、ろくなことにならないわよ。私にとってもお前にとってもね」
ヤマメは方向転換し、リグルを抱えたままリグルが来た方向へ飛び去った。その後をたくさんの蛍が追いかけていた。蛍はさながら飛行機雲のようであった。
「リグル、これからお前に何が起こるかを話してやるわ。お前の能力が効かなくなった理由もそれに関係しているのよ」
ヤマメの行き先は無名の丘の方向だった。
「なんで私をあそこへ連れていこうとするのよ。私を解放してよ。なんで土蜘蛛のあんたが同じ蟲の私にこんなことをするのよ」
「教えてあげるよ。正邪はお前に女王様の話をしたらしいわね。天邪鬼が言ったことだけど、それは本当の話よ。お前が女王様の封印を解くのに必要なのも本当。でも、お前にはまだ伏せてあることがあるの」
いつの間にか、ヤマメの後を追っていたはずの蛍たちはいなくなっていた。ヤマメは速度を徐々に上げていった。
「あの封印は封印されたものの力を徐々に奪っていくの。そのせいで、女王様は肉体を失ってしまい、今は精神というか魂というか、そういう形になっているの。妖怪は精神に比重を置いた存在だから、体がなくてもどうにかならなくもないんだけど、女王様は蟲を体現したお方。だから、蟲としての体がないと完全に復活することはできないの」
「あの、細かいことはよく分かんないけど、まさか、私を女王様の新しい体として献上しよう、とかそういうんじゃないよね?」
「理解が早くて助かるわ」
リグルは青ざめた。
「嘘」
「私はあいつと違って嘘は吐かないわ」
「あんたの仲間の蟲を使えばいいじゃない。それなら喜んで女王の肉体にでもなんでもなるでしょ」
「私の仲間から犠牲を出したくない。お前は結局は他人だからね。それにお前は弱いといっても、一応蟲を束ねてきた実績があるからね、色々と都合がいいのよ」
「都合がいいって……」
「あともう一つ、お前が必要な理由があるわ。実はあの封印、強すぎて完全には解除できなかったの」
「え」
「封印を極限まで弱めても、時間が経つと元に戻ってしまうのよ。封印が元に戻ると、女王様をいくら解放しても再び封じ込められてしまうわ。だから、女王様の代わりにお前の精神を封印するの」
「どういうことよ」
「つまりは、お前は贄でもありデコイでもあるっていうことよ。まあ、あんまり気に病まないで。万が一、封印が解けることもあるかもしれないわ」
「それって何年後のことなのよ」
「大丈夫よ、妖怪は寿命がすごく長いから。お前はまだ若いみたいだしね」
「そういうことじゃないわ」
「そうそう、私がお前を見つけられた理由も教えてあげるわ。それはね、今、女王様のある程度封印を解いているからよ」
「私がいないと封印が解けないんじゃなかったの?」
「確かに、お前がいないから完全に封印を解いたわけではないわ。でも、完全に解けないだけであって、中途半端に解くことはできるのよ。それで、女王様の力で蛍を操ってお前を追尾させたの。私は蛍の光を追ってお前の隠れていた場所を見つけたの」
「そういえば、私の周りに蛍がいっぱいいたわ。普段通りだったから気づかなかったけど」
「お前は蛍だから蛍を使うのは相性がよかったわ。もう蛍への命令は解除しているみたいだけど、まだ力は使っている。お前の能力が効かないのは、お前と同じ効果で、それ以上に強力な権限をもつ能力を女王様が使っているからよ」
「つまり、女王は私の上位互換……」
「お前は蟲を統べる立場にありながら、自分自身の強さは配下頼りよね。それがお前の弱さよ。そして、女王様とお前との決定的な差なのよ」
「なんで私がこんなことに」
「リグル、お前をかわいそうに思わないでもないわ。お前も素質がないわけではないと思う。成長すれば立派な蟲妖になるかもしれないわね」
「だったら、私を今すぐ解放してよ」
「でもね、リグル、今起きていることは、お前が強ければ回避できたことでもあるわ。それに、私たちももうやめることはできないの」
「そんなのあんたたちの勝手じゃない。なんで私を巻き込むのよ」
「妖怪は勝手なものよ」
「そんなの横暴だわ」
「妖怪は横暴さとそれから生まれる恐怖の権化なのよ。お前は与えられた能力と立場の割に考えも力も弱すぎたのよ」
リグルはそれからもできる限り体をゆすり、声も張り上げた。しかし、ヤマメはリグルの抵抗に動じることなく滑るように一方向へ飛んでいった。そして、薄明るく光る鈴蘭の群生がヤマメの視界の片隅に今にも入り込んだ。無名の丘まではもうすぐのところである。