七
ヤマメが地下室の天井の穴をくぐり、地下室に降り立った。蟲妖たちは石碑で作業をしていたが、ヤマメの帰還に気がついて「おかえり」などと声をかけた。
正邪は火のついていない蝋燭が円形に並べてあるところの前に敷かれたござのところで作業をしていた。ヤマメが正邪に近寄ると、正邪は顔を上げた。正邪の顔の腫れは引いていた。おそらく、仲間の中にいた蜂の妖怪が治したのだろうとヤマメは思った。正邪は作業をしながらヤマメに話しかけた。
「おかえりなさいませ、黒谷様。リグルを無事に捕まえたようでなによりです」
「とりあえずリグルには眠ってもらっているよ。儀式のときに騒がれると面倒だからね」
「そうですか。起きたままでもそれはそれで面白いかと思ったんですがね」
ヤマメは蝋燭の円陣に歩み寄り、その中央に頭が石碑の方を向くようにリグルを置いた。
「暴れられると面倒だし、妖怪の叫び声はサカナにはならないからね」
ヤマメはリグルの手足を蜘蛛の糸で床に縛り付けていた。
「サカナ?一体何の話ですか」
「よし、終わった。……そういえば、君にはまだ伝えていなかったかな」
ヤマメは正邪と話をしようとした。しかし、石碑の前で作業をしている蟲妖の一人が
「ヤマメ、終わったならこっちを手伝って」
と言ってヤマメを呼んだ。
「正邪、ごめん。続きは後でね」
ヤマメはそう言って、石碑の方へ歩いていった。正邪はヤマメの背中を目で追いながら、
「もしかして、私が今、準備をしているこれって……」
と呟いた。
正邪は手のひらから火の玉を出して、蝋燭に一つ一つ火をつけた。その間に蟲妖たちはござの前に並んだ。正邪は蝋燭の点灯を終えると、ヤマメの隣の位置に移動した。ヤマメは正邪が所定の位置に移動したのを見届けると、毅然とした表情で口を開いた。
「それでは、これより女王様の封印の解除の最後の行程を試みる。皆の者、女王様、そしてありとある全ての蟲たちの繁栄を取り戻そうではないか」
ヤマメの声は地下室中に響いた。蟲妖たちは片手を掲げておうと声を上げてヤマメに応えた。正邪も遅れて同じ行動をとった。そして、皆が姿勢を正した。
張り詰めた空気の中、最初に行動を始めたのは弦楽器を持った少女だった。腕と同じくらいの長さの弦楽器を抱えると、弓を弦に滑らせ始めた。弓の動きに合わせて、弦楽器からは滑らかな旋律が流れ始めた。それに合わせて他の蟲妖たちが奇妙な響きの声を出し始めた。蟲妖たちは力のこもった声を抑揚や響きを変えながら発し続けた。その声は長く耳に残るものだった。それが言葉だったとしたら、現在使われている言葉とはまるで別物だったのだろう。声は不思議と弦楽器の少女の奏でる音楽に調和していた。
音楽はしばらく続き、それが緩やかに終局しようという頃、石碑に変化が生じた。石碑の文字の発する光が弱まった。そして、その文字の上を小さなものが歩いていた。それはとても小さな羽虫だった。ただ、普通の羽虫と違って、腹部に長い管が付いていた。
音楽が終わると、蟲は石碑から飛び立った。正邪はそれを見て、ヤマメに話しかけた。
「黒谷様、あの羽虫が女王様ですか。なんというか、随分かわいらしい方ですね」
羽虫は辺りを飛び回っていたが、やがて、リグルの額の上にとまった。
「ちょっと違うわ。あれはベクターでしかないわよ」
「ベクター?」
「つまりは、女王様を新しい肉体に運ぶためだけの存在よ。あの蟲の中に女王様が入っているのよ」
「そうなんですか」
蟲は管をリグルの眉間に突き刺した。かすかな痛みを感じたのか、リグルの顔が少しだけ歪んだ。
「黒谷様、今、女王様がリグルの中に入っているんですね」
「そうね。あの羽虫の仕事もそろそろ終わるわ」
「それにしても、あなたみたいな方が横文字を使うとは」
「長年病気を操っているとそういう知識も増えるものなのよ。外の世界では恋文にバイラスをつけてばらまくのが流行ったらしいわ」
「なんですかそのバイラスというのは」
「病気の基本的な単位の一つよ。他にもバクティリウムなんてのもあるわ」
「私、英語は苦手なんですよ」
ヤマメの言葉のとおり、羽虫は少し経ってから、管をリグルの皮膚から引き抜いた。羽虫はそのまま動かなくなった。
そして、羽虫が管を突き刺した辺りから、黄緑色に光る玉のようなものが出てきた。それは蛍の光の色に似ていた。点滅こそしなかったが、玉は光の強さを周期的に変えていた。
黄緑の玉はふわりと浮かぶと、石碑の方に飛んでいった。そして、石碑にぶつかったかと思えば、そのまま石碑に吸い込まれるようにして消えた。すると、石碑の文字の光が再び強まり、蝋燭の炎が全て消えた。
「今ので、あいつは……えっと誰だっけ、まあいいや。えっと、その石碑に封じられたってことですよね」
「ええ、女王様の代わりにね。君があいつの名前を忘れたのも、まあ、私も忘れてしまったけど、あの封印の作用のためよ」
「意外とあっさり終わりましたね。もうちょっと泣き叫んだりするかと思いました」
「女王様との力の差が大きかったからだろうね。確か、あの妖怪、あまり強くなかったはずだから、抵抗する間もなかったみたいね」
「そうですか。ああ、惜しい方を亡くしましたね。でもまあ、革命に犠牲はつきものですから仕方ありませんね。今となっては良い奴だったかどうかも分かりませんけど」
「正邪、亡くなる方というのはね、良い人ばかりらしいわよ。だから、きっとあの妖怪も優しい奴だったんじゃないかな」
「優しい妖怪なんているんですかね。あ、でも、そういえば、私も蟲娘は心が天使だって聞いたことがあります」
「となると、私も天使なのかしらね。病をばらまく天使かな。……さてと」
ヤマメは蝋燭の円陣の中に横たわる少女に近づくと、屈みこんで、少女の肉体に手を伸ばした。そして、少女の肉体についている蜘蛛の糸を取り外した。ヤマメは蜘蛛の糸を手の中にしまうと、立ち上がり、蟲妖たちの方に振り向いた。そして、ヤマメは笑顔で
「さて、私たちができることはこれで終わり。後は女王様の復活を待つだけよ」
と言うと、蝋燭の円陣の前のござを指差した。
「でも、ただ待つだけなのもつまらないわ。あそこに座って楽しく待つことにしましょう」
蟲妖たちは移動してござに座り込み、ござの上に置いてある酒やつまめるものを手に取り始めた。ヤマメはござの近くに立ったままでいる正邪に近寄った。
「正邪、君も一緒に飲んで待ちましょ。遠慮は要らないわ」
「まだ女王様の封印の解除の最中なのに大丈夫なんですか。私、それも儀式に使うものだと思っていたんですけど」
「もう私たちにできることはないのよ。それに、これから長く待つから、立ったまま待つなんて退屈だと思わない?」
「本当に大丈夫なんですかね」
「まあ、女王様の復活前のお祝いということで。本格的なお祝いは女王様が復活した後に場所を改めてからするけどね」
正邪は怪訝な表情のまま、
「はあ。そうですか」
と返事をした。
八
薄暗い地下室の中に、煙がわずかに立つ蝋燭が円を描くようにして置いてあった。その円陣の中央には一糸まとわぬ少女の肉体が横たわっていた。わずかに開かれた目は虚ろで、額の上には尾をもつ小さな羽虫の死骸があった。
そして、その蝋燭の円陣の前にはござが敷いてあった。蟲妖たちはその上に座り、思い思いに談笑をしていた。その話題の中には蘇りつつある過去の記憶もあった。
ござの隅の方では、正邪がちびちびと酒を飲んでいた。正邪はヤマメの肩を叩いた。ヤマメは蟲たちの談笑に加わっていたが、ヤマメは会話の相手に詫びを入れると、体を正邪の方に向けた。
「ごめん、君のことを放置していたわね。ついつい話がはかどっちゃってね」
正邪は心配そうな表情をしていた。
「別にそれはいいんです。それよりも女王様の体にまるで変化がないように見えるんですけど、大丈夫ですか。もう結構時間が経っていますけど」
ヤマメは微笑みながら答えた。
「問題ないわよ。生き物の変化というものはね、最初は静かに準備が行われる。そして、機が熟したら一気に目に見えて大きな変化が起こるのよ。それは蟲妖も同じなのよ」
「そうなんですか」
「それにね、本当はもう変化は起こっているのよ。正邪は蟲じゃないから分からないのかもしれないけど」
「本当ですか。どんな変化が起こっているんですか」
「女王様はもう肉体の内部の改造を進めているわ。気になるのなら、あの体に耳を当ててみると良いわよ。女王様の分身たちが肉を食べて体を作り直している音が聞こえるはずよ」
正邪は扁平な管に足のはえたものが肉にたかっている光景を想像した。
「やめておきます。まあでも、安心しました」
「正邪も一緒に飲みなさいよ」
ヤマメは正邪を会話の輪の中に招き入れた。正邪はヤマメに応じておそるおそる席を移した。それでも、正邪は話に加われそうになかったため、適当に相槌を打ちながら酒を飲むことに集中することにした。そうして蟲妖たちの思い出話が長々と続いた。
そして、しばらく経つと、ヤマメが立ち上がって、会話に花を咲かせていた蟲妖たちに声をかけた。
「さて、そろそろお開きね。続きは女王様が目を覚ました後よ」
蟲妖たちは
「あ、そうだね。もうこんな時間か」
「女王様とのお話が楽しみだね」
「そろそろだね」
などと言って、ござや食器の片付けを始めた。正邪もそれに参加しながら、ヤマメに話しかけた。
「どうしたんです。何かが始まるんですか」
と言った。
「そろそろ女王様の復活の最終段階よ。女王様の復活も近いわ。ござを片付けて出迎える準備を始めるわよ」
「黒谷様、復活の最終段階ってどんな風なんですか」
「女王様は最後に外見を整えるわ。女王様にふさわしい、美しい肉体に変えるのよ。実をいうと、それもちょっと時間がかかるのよね」
「それじゃあ、もうちょっと待ってもよかったのではないですか」
「最後の行程は派手だからね、じっくりと見た方がいいのよ」
ヤマメはそう言って微笑んだ。
「それに、食事をしながらはやめた方がいいしね」
「食事がまずくなるようなことでも起こるんですか」
「まあ、色々とね」
蟲妖たちは片付けと準備を終えると、再び蝋燭の円陣の前に並んだ。
ほどなくして、蝋燭の円陣に横たわる少女の体に変化が生じたのに正邪は気がついた。少女の口が動き始めたのである。少女の唇はもごもごと小さく蠢いていた。
「黒谷様、口が動いていますけど、何が始まるんです?」
「面白いことが始まるのよ」
「答えになっていませんよ」
「説明しにくいから、その場で何が起きているか教えてあげるわ」
少女の口がわずかに開いた。すると口の中から細長いものがいくつも這い出てきた。あまたのそれは少女の体の上を這って移動していた。それは芋虫だった。芋虫は細長い体の下にある柔らかい足を動かして、芋虫にしては素早く移動していた。芋虫の中には触角の上に乗ったものもいた。触角は芋虫の重さに負けて曲がった。
「黒谷様、あれは一体?」
「あれは女王様の分身よ」
「分身?」
「女王様は体を様々な蟲の形に変えることもできるのよ。あれはたぶん、蚕か何かの類を参考にしたものね」
「女王様の能力は蟲を操るだけではないんですね」
「一匹の蟲の世代は短いけど、その分、様々な環境に蟲は適応できるの。女王様はその蟲の強さを自分の身一つで体現できる。それだからこそ、あらゆる蟲は女王様に従うのよ」
少女の口から出てきた芋虫たちは少女の体のあちこちに移動した。芋虫たちは少女の体のほとんどを覆ってしまった。
芋虫たちは移動をやめると、口から白い液体を吐き出し始めた。芋虫の体の大きさに見合わぬほどに吐き出された多くの液体は少女の体を芋虫と羽虫の死骸ごと包み込んだ。やがて、液体は固まっていき、艶やかな光沢を帯びてきた。
「これは繭ですか」
「まあ、そんなところね」
「この中で蛹にでもなるんでしょうか」
「蛹ではないけど、似たようなことにはなるわ」
「似たようなことですか」
「蛹になる蟲は、蛹の中で体の形を大きく変容させるの。羽のない芋虫が蛹から孵ると羽の生えた蝶になるのは、蛹の中で体を大きく作り変えるからよ。女王様は繭の中で体の形を完全なものに変えるのよ」
巨大なドーム状の繭は子供を収める棺と同程度の大きさだった。芋虫の吐き出した液体が完全に固まると、繭からは水が跳ねるような音がし始めた。
「どうやら外見の改造が始まったようね」
正邪は繭の中から錆びた鉄のような臭いが漂っていることに気がついた。
「この臭いは、血ですか」
「女王様は繭の中で色々と剥き出しになっているから、そういう臭いがしても仕方ないわ」
「剥き出しですか」
「物事を新しくするには、古いものを一度捨て去らなくちゃいけないからね。女王様は昔も、今の格好に飽きると、こうやって外見を変えようとすることがあったわ」
「イメチェンって奴ですか」
「そのいめちぇんっていうのが何かは分からないけど、まあ多分そうなんじゃない」
繭の中の音はしばらく続いた。その音がやむ頃には、錆びた鉄の臭いも薄れていった。
「そろそろ女王様の復活が完了するわ」
「やっと、女王様とご対面できる、というわけですか」
やがて、繭から衣擦れのような音がし始めた。その音がする度に繭がわずかに揺れた。ヤマメは
「間もなくよ」
とつぶやいた。
やがて、繭の内側から繭を引き裂いて何かが現れた。それは少女の形をしたものだった。ベッドの上で仰向けに眠っていた少女が、目を覚まして上半身を起こしたかのように、繭を引き裂いて現れたのである。蟲妖たちはざわめき始めた。正邪も目を輝かせて少女に注目した。
少女はそのまま立ち上がって、体に付いていた繭の切れ端を払うと、その裸体を蟲妖たちに示した。少女は全身がしっとりと濡れていた。肌は美しくて輝くようだった。体格はかつてそこに眠っていた妖怪と同程度だった。しかし、それ以外の髪や触角、羽、顔立ちなどは全くの別ものだった。
自分を見つめる蟲妖たちに向かって少女は微笑んでみせた。ヤマメは蘇りつつある記憶の中に少女の笑顔を認めた。そして、ある名前が脳裏に浮かび上がった。それは他の蟲妖も同じだったようで、蟲妖たちは歓声を上げて、その名前を呼んだ。