4. 鴉/狼―rising―
多くの庇護すべき者達を抱え、多くの期待を受け、多くの事を成してきた。
それは皆に望まれたことだったし、また自身が望んだことでもあったが、どうにもそれが、少し違うような、まるで歯車を掛け違えたように、上手く噛み合わないと感じていた。
最早記憶の彼方、忘れかけている幼き頃――暁の思い出。それでも、はっきりと覚えていることがある。
憎まれ口を叩き合いながら、研鑽を積んだあの日は、間違いなく今の自分を作り上げた体験だった。
まるで姉のような、まるで老師のような、まるで――友人のような、そんなひとと、もっといられたらきっと楽しかっただろう。それでも、望まれたことは成すべきだった。成すべきならば、暖かな毎日にすら背を向けるべきだ。どんなに辛かろうと、自分一人の犠牲があれば多くは平穏無事に日々を謳歌出来るのだから。
だが、これは違う!
断じて違う!
どうして、こんなことになってしまったのだ。
誰が、あんなものに負けたのだ。
全て呑まれて行く。喪っていく。
でも、諦めない。諦めちゃあ駄目だ。
表面では、幼い頃に言った気恥ずかしさから誤魔化したが、今だってその想いは変わらない。変えるつもりもない。
あの軽口は――はじめて交わした、あのひととの大事な約束だったんだから。
なら、こんなやつは一刀のもとだ。
約束は守る。
――どんな……にも……
それは鍵。
水に遊ぶ、記憶の断章。
◇◇◇
夕日を反射し赤くなった泉を背に、椛は慣れない格好に背中がむず痒く感じていた。
その身に纏うのは一見祭事用の天狗装束であるが、装飾が一部変更されている。特に大きな差異は、背中を大胆に露出した部分であった。これがどうにも落ち着かない。ふとした瞬間に自分の尻尾が触れただけでも、変な声をあげそうだ。
そんな羞恥の表情の椛に、龍は満足げに「うむ、似合っているぞ」などと宣っている。
曰く、これは生地に魔力を編み込んだ特別な衣装であり、ある種の耐刃結界になっていて、露出している部分もしっかり守られているのだそうだ。同じように魔力を編まれて作られた、盾代わりの籠手とは釣り合いが取れていないとも思うのだが、そんな文句を言えるはずもない。
また、チョーカーのように首に巻き付いた――早苗が髪につけているものと同じものだという――蛇型の装飾は、椛を泉からの干渉より守る結界発生機であり、また通信機としても機能するらしい。先程神奈子が取りに行っていたのはこれである。確かに、完全な単独突入には不安がある。実動的にも、精神的にもありがたい。
「昼間はなんの変哲も無い泉だが、陽が暮れてくると、獲物を引きずり込む門になる。感じられる魔力自体は大したものではなかったから、早苗がまたやらかした泉に、どこぞ妖怪でも紛れたぐらいにしか思っていなかったが……。おそらく、泉自体が巣穴であると同時に、擬態としての機能も有しているのだろうね」
まるで子供騙しの怪談のようだが、神奈子の話が事実であれば災害だ。知性の有る無しに拘わらず、生きているならば命を奪われる怖れは確実にある。つまり、好き嫌いの無い悪食である。そんなものが肥え太り、力を付ければより厄介なものになりかねない。
しかし、あの巫女は神からもそういう眼で見られているのは少々気の毒な気持ちになった。
「我々としては、こんなことで博麗に目をつけられるのは好ましくない。故に山のことは山の者で早急なる解決を、だ」
そう激励とも、圧力とも取れる言い回しをしつつ、龍は椛の肩を叩く。辟易とするが、確かに博麗の巫女に目を付けられれば、山全体の市場価値を落とすことにも繋がりかねない。龍からすれば、それだけは防ぎたい事態だろう。
――ただ、正直そんなことはどうでもよかった。自分がやるべきことは、たったひとつだけ。そこにどんな利権や、どんな思惑が複合されているかなんて、知ったことではない。勝手にすればいい。むしろその裏にあるものを、上手く利用するだけだ。
龍は頷き、掴んだ肩を軽く押すと、椛は泉に落ちる。
背中から水底に、吸い込まれるように落ちていく。
衝撃で舞い上がった飛沫が視界に広がり、やがて身体は沈み込んで世界は水で満たされた。口から漏れる空気が泡となって、水だけの世界を彩ってくれる。
沈む。
沈む。
彼女の世界は斯様に深く、暗く、その癖目映い輝きを持つ。
確かにこれは、普通の泉ではない。口から漏れ出る空気は水泡にはなれど、まるで地上のように呼吸が出来た。
呼吸を整え、改めて、光を見る。
その光は椛の過去が、まるで投影されるかのように明滅していた。
椛の想い、椛の苦悩、そして自身すら忘れていたような古い出来事。
まるでそれらはフィルムを投影したように、周囲を旋回しながら再生されている。
その中の一つに手を伸ばす。そこに映っていたのは――
◇◇◇
頭にノイズが走ったような、不明瞭、かつ不愉快な感覚を抜けると、そこはいつもの修練場、その裏口だった。窓から入る夕陽が眩しく、既にその日の訓練時間は過ぎている。当然、裏口から見える範囲には誰もいない。だがそんな場内で、小さな影が一人、その身の丈にはおよそ不釣り合いな大剣を構えやってきて、振るおうとする度に落とし、転び、身体を傷付けていた。
「これは……」
見たことがある。いや、客観的に見たのははじめてだった。
「子供の頃の、私か……」
必死に、懸命に剣を振るう。型も何もない。ただがむしゃらに、ひたすらに眼前の仮想敵を叩くように。
――あったのはただの憧れだ。誰かに望まれたわけでも、大きな志があったわけでもない。単純に、強きものに対する憧憬が、この頃の椛の原動力だった。
強きを持てば、何者であろうと守れる筈。生まれながらに防衛の任を運命づけられた白狼天狗として、そうあるべきだ。
いや、そんなものは所詮後付けだった。子供がそんな器を越えた夢を見るには理由がいる。椛にその理由は特になかった。強いて言うならば――聞き、見た、月夜に映える無双の兵士達の強さに心を打たれただけ。
――この時までは。
――「私はどうにもお節介でね。泣き虫を見てると尻を蹴飛ばしたくなるし、他人を嘲る底意地の悪いやつを見ると、見返してやりたくなるの」
白狼にしては遊びがあり、鴉にしては生真面目が過ぎるそのひとの背中。強くなりたいという願望――それを無邪気な夢から、確固たる目標に変えるには十二分であった。
ひらひらと舞い落ちる紅葉のような彼女が、風に追い付かんとした、その原点。
◇◇◇
一つの泡沫から解放され、再び泉の中に吐き出された。身体はさらに底へと沈んでいく。
まるで走馬灯のように浮かんで消えた世界。足から伝わる感触、陽の暖かさ、修練場の木の匂い。全て本物だった。一体何が起きたのか分からず眼を白黒させていると、首の蛇が口をパクパク開閉させながら喋りだした。
【ようやく繋がったな。どうも通信環境が劣悪でいけない】
端末から聴こえてきたのは神奈子の声だった。流石は異変の度に巫女に力を貸し与える神。こういうことには手慣れている。
椛は喋る蛇頭を人差し指でコツコツと突つきながら、先程の現象を報告し、説明を求めた。
【こちらでは正確な観測、状況の目視も出来ていないから何とも言えないんだが、君の状況と、分かっている標的――呼称《姆髄》、だったかな――の性質を加味した推論として、泉に古い記憶情報が映し出されているのか……はたまたその異空間内がある種の時空の裂目を引き起こしているのか。いずれにせよ、君の記憶が引き金になっているのは間違いない】
「でも文さんや早苗さんの状況、里の言い伝えを考えたら、餌になっているのは怖れの感情の筈。内容自体は何でもない記憶でしたが……」
【おそらく、怖れに付随している記憶を引きずり出しているんだ。怖れ、恐怖という感情にも種類がある。本能的に感じるもの、精神から生じるもの、そして体験から学んだもの。記憶と密接に繋がるのは体験から来たものだ。つまり、それは君の――いわゆるトラウマに繋がる記憶と呼べるものなのかもしれないね】
トラウマ。
意識したことはなかった。しかし言われてみれば、結末の"あれ"は自分の中の引っ掛かりになっているだろうことは間違いない。なるほど。《姆髄》とは、あまり性格がよくないようだ。
他人の暗い部分を引っ掻き回す趣味など、反吐が出る話である。
「……どうやら記憶を見ていかないと潜水が止まってしまうようです。一つ一つ、潰していきます」
【気を付けて、おそらく《姆髄》とやらは既に君を捕らえたつもりでいる】
「上等。中から食い破ってやりますよ」
軽口を放ちつつ、続く記憶に触れる。すると古いフィルムは再び回り出し、椛の脳裏に強烈に入り込んできた。
続く記憶は、少し飛んで〈鐘突〉で大敗を喫したあと、ある日の特訓の様子。
◇◇◇
まるで視界が縦横無尽に動き回るような感覚に、多少の嘔吐感を覚えながら古い記憶を覗き込む。とはいえ、自らの記憶を客観的に見られるというのは、まるで新しい体験のように思えた。
小さな自分は、修練場の"仕掛け"によって展開した木人と弾幕魔道具から、文を守るように動いていた。時に前に出過ぎと首根っこを引っ張られ、時に守りきれずに木人に攻撃を許して――文の手で返り討ち――しまっている。客観的だからこそわかる。顔を覆いたくなるような醜態だ。
思わず、笑みがこぼれた。
当時は必死で、必死で、必死過ぎて気付かなかったが、今ならわかる。全力でぶつかりにいく椛の背中を見守る眼には、知らなかった彼女の一面があったことを。
そして――
――ちゃんと"私"を守ってね
あの言葉には、きっと多くの想いがあったのだと。
◇◇◇
記憶の上映が切り替わる。いくつの世界を見てきたか、最早数えることをやめた。最初は自分に由来する記憶だけだと思っていたが、次第に知らないものも増えてきた。
眼を開けると、友人と肩を並べ帰路につく過去の背中が見えていた。今度は自分の記憶のようだ。
楽しげに、でも少し困った顔をしている自分。きっとまた友人に、珍妙な書物を押し付けられようとしているのだろう。だがそんな時間は、当時の椛からすれば一番肩の力を抜くことの出来るひとときだったのかもしれない。
瞬間、殺気が走る。
この後の出来事を考えれば、のうのうと笑っている自分を殴ってやりたい気分だが、今やるべきことは一つ。変貌を遂げ、喉を焼く程の熱風を伴う焔を撒き散らす、あの飢餓――《姆髄》に喰われた妖怪を止めなくては。
殺気を辿り、走る。二つの背中とは逆方向へ。道を外れ、あまり足を運ぶことのない雑木林を行くと、それはいた。少女の姿を取っているが、纏う殺気は尋常ではない。見れば、既に皮膚はヒビ割れ硬質化が進んでいる。間違いなく、あの時の妖怪だ。
朱鞘より抜刀。
見た目に惑わされるな。情けなど不要。ただの一撃で胴を両断しろ。そう内心自らに言い聞かせ、走る速度をそのまま、全力で刀を水平に振り抜いた。不意討ち、抵抗の素振りは無い。確実に仕留めたはず。しかし刀を握る手には、あるはずのものが来なかった。
それは、肉を断つ手応え。
振り返り、妖怪を見やれば傷が付くどころか、"そもこちらを認識すらしていない"ようである。歩み寄り、刃を妖怪に向ければ、まるで流れ落ちる水でも切るかのように――いや、水の方が抵抗がある分いくらかマシかも知れない――すり抜けていた。
風や地を感じ、無機物には触れられるのに、生物には干渉出来ないようだ。これがこの世界における理であるらしい。
「……本当に、ただの観客のようじゃないか」
脚本通りに動く演目。結末の決まった再上演。舞台に上がることを許されていない以上、この世界において椛は観客、よくて舞台裏を動かす黒子と言ったところだろう。
どこかで誰かが笑ってる。この物語を。物語の結末に異を唱える者を。
刃の存在を介さず、二人の背中を追い掛ける妖怪。
このままではあの残酷な瞬間を、己の非力さに絶望する結末を再び目の当たりにすることになる。
息を吐き、刀を納めて走る。そして考えた。この世界で椛自身が妖怪を倒せないならば、記憶の中にいる役者に肩代わりさせればいい。足は止めず、右手を挙げて弾幕を放つ。救難信号弾幕である。妖怪が人妖を解き本性を現すよりも前に打ち上げておけば――
「なんで……」
確かに放った。しかし手から弾幕は一発すら出ることはない。
やはりこの記憶の世界では、多くの制限があるようだ。
舌を一つ打ち、とにかくあの場所へ向かわなくてはと、足をより早く動かし駆ける。
所詮は頭から抽出された、ただの記憶。泡沫に消えるかつての悔恨。今更思い出の中で何が変わるわけでもない。何を変えられるわけでもない。言うなれば、慰めだ。こうしておけばよかった、今ならこうするのに。ふと垣間見る夢現に、時折そんな後悔を滲ませていた。
見終わるだけで、それだけで先に進める。
でも触れられる。ならば頭の中で出来ることはしておきたい。
それが夢の中で遊ぶ、ただの妄想だとしても。
◇◇◇
仮に過去が変わったら。そんなことを時たま思うことがある。一人遊びなその思考は別に特別なことじゃなく、生きていれば誰しもが一度は考えることであるし、例え考えなかったとしても、"成りかけた"部分は後悔という形で明確な傷となって残るだろう。
後悔ではなく、教訓として生かすことが出来るなんて言うひともいるが、それは後に続く結果が伴っているという前提のものであるし、残念ながら、私にはまったく当て嵌まらなかった。
私は、常に後悔に苛まれている。
自分が負債を背負うだけならどうにでもなった。幸い私はちょっとのことで挫けたりする程、ひ弱な心ではなかったから。
でも、大切なひとが私のことで後悔という傷を受けるのは、違うと思ったのだ。
ある日、私は終着点の見えない世界で目を覚ました。そこは数ある歴史、数ある時間、数ある生命の感情を溜め込む場所。
最初は水の中をたゆたうそれらを誰かの、あるいは私の記憶だと思っていた。しかし事実はその真逆。その光景は別の時間、別の世界、別の誰かが今まさに体験している事象なのだ。
そう結論づけたのには理由がある。
最初に疑問を得たのは、自分のものと思われる記憶の光を覗いた時だった。大筋は合っていたが、微妙な違いがあったのだ。強いてそれを言葉で現すならば、道筋の差異だろうか。バッドルートやノーマルルートなんかもいい。
そして正そうとして触れると、すり抜けてしまう。結果が決まっていて、それに干渉することは許されない。つまりこの中ではそれが正しいのであり、私ではない私が体験し得たかもしれない可能性の一つなのだと。
そんなとんでもない話を頭の中でこねくり回しながら、ではそれらとんでもないものを内包出来る存在とはどのようなものか、そしてその中で思考を維持している自分は何なのかという問いを抱いた。
無限にある光の中、無限にある時間を使い見つけた自分のものと思われる断片。そこに答えはあった。
私は、私ではなかったのだ。
幼き日、私はある妖怪に助けられたことがある。
私は好奇心が強いが、同時に方向に弱かった。気の向くままにふらふらと出掛けては迷子になる、バランスの悪い子供だったのだ。
ある日、私は里に迷い込んだ一匹の妖精を山の麓まで送り届けた。その妖精からお礼として"鏡"を貰い、私も家に帰ろうとするも、迷い、妖怪の巣穴に入ってしまう。しかし妖怪は親切にも道案内をしてくれ、私も妖精のそれにならい、お礼として"鏡"を手渡した。
巡りめぐった運命の後、その鏡が切っ掛けで、私は右腕を失うことになってしまう。
鏡の中に巣くう何者かによって心を失った妖怪に襲われ、牙に掛かった右腕は、私の心と共にその者によって取り込まれた。
強きを持つ妖怪の中には、身体が欠損した場合、その欠損部位が魂の一部と人格を備えて一つの個を形成することがある。曲がりなりにも天狗、そうなってしまっても不思議はない。神道で言う、分け御霊のようなものか。
取り込まれる怖れの記憶、それを鍵とし、開いた時間と空間の扉を自由に閲覧出来る力を持ち、本来の私から切り離され、新たな自我を得たのが私――というわけだ。
肉体を部分的に有しているからこそ形を保ち、怖れより好奇心が強いからこそ自我を保てる。世間的には変わった性格でも、こういう結果に繋がったのは悪くない。
そして永い永い時の狭間で、はじめての来客だ。
かつて私の本体が傷を負わせた、唯一の後悔。
あの顔はきっと、"あのひと"の為に動いている顔だ。そして世界の理を知らず、未だ私を助けられるつもりでいる。
結果はどうあっても変わらない。なら、せめて道筋を示そう。
怪物の胃の腑でたゆたう私からの、これは最初で最後の――
◇◇◇
熱い。こんなにも熱いのに、己はここにいて、ここにいない。世界を照らす悪意の炎はかつての二人を焼くためだけに空気を燃やす。
地を踏みしめる度に朧気な記憶が鮮明になっていく。このあと何が起きて、自分がどのような行動を取るのかがわかっていく。だからこそ、すぐに逃げ出してほしいと、今のお前では何も助けられないと――伝えたくても、伝えても、応えてはくれなかった。
なんて悪趣味な監督だ。裏方が悲鳴をあげても、悪辣な脚本と演出をよしとしている。
そこにあるのはひらすらに自己満足。主菜をより味わうための前菜。
相対する飢餓妖怪。友人は丸腰。一人では勝てないと判断したかつての椛は、弾幕を打ち上げた。
覚えている。忘れたくても、忘れられるものか。友人は強かった。だのに自分がその道を断ったのだ。すぐに逃げ出していたら、放たれた殺気に少しでも感付いていたら。彼女の将来はもっと明るかった筈だ。
はたと気付く。
そうか、確かにこれはトラウマだと。
常に頭の片隅にある矜持。その根底は、守りきれなかった悔しさと、そして怖れであるのだ。二度とあんな思いをしたくないという弱さだ。
飢餓妖怪はかつての椛には目もくれず、友人を狙う。あの瞬間が、今まさに来ようとしている。眼を閉ざしてしまいたい、潰してしまいたい。すぐにでも逃げ出してしまいたい。
届かない手が震える。
弱い己が耳元で囁く。どうせ終わったことだと。
確かにそうだと理解する。所詮は瞬く残光、燻る残火。手を出さずとも、すぐに終わる悪夢でしかない。
――本当に?
耳朶を打つのは聞き慣れた声。しかし誰かのものではない。
――本当は?
言うなれば、内なる声。
瞬間、世界は止まり、真っ白な光に包まれる。
立つのは二人。一人は椛、もう一人は――
――本当の、気持ちは?
先程まで背中を見ていた幼き椛だった。純粋無垢ながら、強い想いを秘めた瞳はこちらの瞳を真っ直ぐに見据えている。
息を吐き、俯いた。今の自分には、その瞳に応えられない。
「私には無理だ。所詮は一介の下っ端、使い走り。きっと君が抱いた夢とか、希望とか、そういうのとはかけ離れてしまっているから」
嫌なことを口走っている。まるで小狡い鴉のような言い訳だ。だが、現実とは常に夢を裏切るもの。憧れは憧れのまま、追い付くことなど出来はしない。それを世に、"大人になった"と言うのだろう。
しかしかつての自分は、より力強くこちらを見る。
――憧れたものはなに? 今まで追ってきたものはなに?
追い掛けた。
決して大きくはない、しかして力強いその背中を追い掛けた。
けれどその人はとても脚が速かった。一陣の風の如く、世界を切り裂くように一瞬で駆けていく。必死に追い縋るけれど、決して追い付けるものではないと頭では理解していた。
名は体を表すとはよく言ったもので、自分の名前がまさにその言い回しに当てはまる。風となるその人に吹かれて散りゆく燃える紅葉色。どう足掻いても触れられるわけもなく、今日も奔放なつむじ風に吹かれて舞うのみ。
手を伸ばしても、叫んでも変わらない。そのひとは振り返りもしない。
仮に押し殺した感情を子供のように開けっ広げて泣き腫らしても、鼻で笑って相手にしてくれないことは分かりきっていた。
小さきあの日も、そして今も。
青み掛かった黒翼を羽ばたかせて、髪を揺らして、変わらずあなたは先を行ってしまうのだろう。
そう、それはあなたが――あなたがただひとり、背中を向けながらも、尊大な夢に向き合ってくれたからだった。
光は引き、再び記憶が動き出す。
最早迷わない。心のままに、身体が赴くままに。
椛は叫び、地を蹴って、今まさに噛み砕かれんとする友人に向かって飛び込み、"右肩を思い切り押し出し"た。
右腕を失いながらも死の淵より逃れた友人を見送る。
鈍く、水が滴るような音がした。牙は身体に食い込み肉を穿ち、血を吸っていく。
これが記憶をねじ曲げた末路。無理矢理に表舞台に躍り出た裏方の役回り。
でも、これでいい。自分に正直に、眼前の誰かを助けられたなら――
「いいわけないじゃん! なに言ってるのさ」
妙にはっきりと、頭に直接雪崩れ込むように聞こえた。倒れていた上体を起こし、全身を確認する。直前まで食い込んでいた牙は既に無く、かすり傷すら無い。まるで最初からそんなものは"無かったかのように"。
息を吐き、少しの安堵。周囲を見渡すと、そこは薄暗く多数の椅子が設けられ、眼前には巨大な白幕が設置された舞台がある。白幕には舞台と対角にある部屋より光が照射され、何やら映像が映し出されていた。
「ここは……」
立ち上がろうと柔らかな椅子の手摺に手をかけると、突然背後より声を掛けられた。椛は声の方に振り向こうとすると、制止される。
「おいおい、上映中に立ち上がったり後ろを向こうとしたりするのはマナーがなっていないんじゃない? さ、座って前を見るんだ」
言われた通りに席につき、映し出される映像を見る。それは誰かの視点らしいのだが、よくわからない。
「ここは一体どこなんだ」
「お喋りもマナー違反なんだけど、観客は私と君だけだし、それに私はここの管理人だし、まぁいいでしょ
ここは映画館。フィルムに連続した光を当てて、スクリーンに投影することで、大迫力の映像を楽しめる娯楽施設。外じゃあ生活の一部みたいなものらしいよ」
「……それで、なんで私はここにいる?」
「映画に興味薄すぎない? まぁいいや。――君はある時間軸で死にかけるような体験をした。この世界はあくまで過去。各々の記憶を鍵にして開かれた数多の可能性次元。重なり合う世界(レイヤー)の、ほんの薄皮一枚。そこを覗く君はあくまで霊体。だから傷を負っても肉体は損傷しないけれど――」
「ごめんなさい、もう少し分かりやすくしてもらえないだろうか……そういう難しい話はその、あまり得意ではなくて」
「そうだった。君はそんな感じだった」
管理人はそう言うと納得したように手拍子を打つ。彼女は自分を知っているのか。椛は疑問を抱きつつ、難しげな文章の書かれた本を読んでいる映画を見つめる。
「ここは過去に繋がる世界の入口。そして記憶はその扉を開く鍵。伸ばされた手の先にある空間の一つ。で、今の君は魂だけでここにいる。理解出来る?」
「なんとか……。でも物には触れられるのに、魂だけなのか?」
「そんなことは幽霊にだって出来るからね。むしろ、触れられないものの方が印象に残ったんじゃないかな」
確かに。ものには触れられる。にも関わらず飢餓妖怪は切れなかった。だが噛み砕かれそうになったり、なんとも曖昧なものだ。まるで、何か法則があるように。
「簡単なことでね、確定した事象は変わらない。いや、変えられないよう操作されている。何故なら、アレがそうでなくては困るからさ。餌場として」
「……それって」
「ご明察だ。君達が《姆髄》と呼ぶあの存在のこと。しかし乳母の真髄とは皮肉な名前をつけたものだね。最初に接触した人々からしたら、自分の中にある恐怖を取り除いてくれたのが聖母にでも見えたんだろう。その実が、とんだ毒婦であるとも知らずに」
管理人が指を弾くと、白幕に映し出されていた映像が切り替わった。現れたのは、まるで絵本のような筆致で描かれ、軽快な音楽に合わせて動く紙人形劇。
「むかしむかし、そのまたむかし。泉を中心にして栄えた人間の國がありました。住まう人々は、水面に満月が映る度にお祭りをしたりして、仲良く、平和に暮らしていました――」
映画に合わせて管理人が言ったこの聞き馴染みの深い一節。
知らぬはずがない。それは"月夜の兵士"の物語の、最初の一節なのだから。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
――平和に暮らしていた彼らの國を略奪者が狙い、襲い掛かる。平和に慣れた人々には戦う術は無く、滅びの足音が聞こえてきた。
その時、月に照らされた泉より女神が現れこう言った。
――あなた達に戦う勇気を授けましょう
國の人々は怯えることをやめ、武器を取り、戦うことを選んだ。勇猛に戦う彼らを見て隣國は驚き、その國に住まう者達は"月夜の兵士"と呼ばれ、八面六臂の大活躍をすることになる。
國は次第に大きくなり、気が付けば周囲の國々は全て仲間に引き入れて――侵略して――いった。
これら全ては泉の女神様、《姆髄》が勇気をくれたお陰だと皆口々に言い合い、喜ぶ。が、國の長はそんな住民達を戒めた。
「女神様――怪物――の力にばかり頼っていてはいけない。我々は、我々自身の力で前へ進まなければならないのだ」
人々は女神の泉を埋め立てた。女神には新たな居場所をと、泉に見立てた鏡に――その怖れ喰いの怪物を封じ込めるのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「そう、彼らは別に女神に頼り過ぎないようにと学び、成長したわけではない。その代償を知り、手を出すべき存在ではなかったのだと理解したのさ
そりゃあそうだよね。《姆髄》が喰らうのは怖れなんかじゃない。本当に喰らっていたのは"良心"なんだから」
「良心? まるで別物のように思うが」
「他に影響が及ぶことに恐怖を覚えるのは、知性を得た生命の特権。まったく関わりがない者にまで及ぶ良心など、普通は持てないもの。
なにより、天狗とは旧くからそういうものだと、一番理解しているのはあなたでしょ?」
ふと、脳裏に"無いはずの記憶"が想起される。関わりがないはずのもの、関わる必要の無いものに関わり、救いたい、守ってあげたいとすら感じた――短いながらに深い、深い暖かな想い出。
ずっと昔からそうしてきた、ただ――それだけのこと。
そんなことを、誰かが叫んでいた。
その言葉で椛は奮起したのを、微かに。微かに。
「あのひとの気持ちを、想いを知るなら……君も思い出さなきゃ。小さな友人のことを」
映画館は消え去り、再び真っ白な世界に包まれる。足元には沢山の鍵。眼前には扉が一枚立っている。
ここは過去に繋がる世界の入口。そして記憶はその扉を開く鍵なのだと管理人は言った。
散らばり、最早どの扉の鍵なのか分からないものだって、鍵穴に合わせ続ければ答えは出る。今まで鍵を認識すら出来なかった。扉を知らん振りした。でも今は、どちらも見える。なら見つけ出せる。"大切な友人"の顔を、忘れるはずなど無いのだから。
扉は開き、全てを見る。
あまりに残酷な運命を背負った、二人の人の物語。
そうかと、独り言ちる。自分は今までこんな荷物を忘れていたのか。
気が付けば、また映画館。だが白幕に映っているのは人形劇ではなく、一匹の鴉による慟哭だった。
恐慌に出た人間の弟子。
友人の未来を守れず、心に傷を負った天狗の弟子。
そして、弟子と二人で守り通せなかった姉弟。
そんな映像が立て続けに流れ、最後に映るは座り込むそのひと。
白幕の彼女は刀を抱き締め、震える声で叫んでいた。
「私が刀を持つと、皆が不幸になる……!!」
拳を握る。心の底から怒りが噴き上がってくる。
背を向けた、憧れのそのひと。きっとやむにやまれぬ事情があるのだと思っていた。けれど、蓋を開ければこんなもの、理由にすらなっていないではないか。こんなことでうじうじと情けない。
椛は多くの世界を見てきた。自分の過去、他人の過去、そして、彼女の過去。だからこそ言えるのだ。
そんな悩みはくだらないのだと。
懐から二枚の写真を取り出す。一枚は上司の情けない姿。もう一枚は、"四人で撮った"記念の姿。
姉弟は確かに不幸だった。それでも、最後は幸福にこの世界を去った。あれを不幸だったというならば、殴ってでも言い聞かせよう。
椛は確かに一度絶望した。それでも友が生きていたから、師匠が側にいたから、膝を折らずに今があるのだ。
最初の弟子は気が触れた。しかしその裏にあった想いを"見てきた"今では、彼は間違いなく英霊だ。
最高の結果じゃないのは確かだ。でも、そこに不幸のままだった者は一人としていなかった。その最後に導いたのはまぎれもなく――
「もういくよ」
写真を懐に戻し、椛は席から立ち上がり出口へ向かう。
背負う荷物は増えたはずなのに、不思議と身体は軽かった。
「途中退席はマナー違反だよ。それともなにか緊急の用事でも?」
「上司の撃墜法、その四。寝坊がちな上司なら毎朝起こしてあげましょう。一日のはじまりにあなたの顔を見せてあげれば、上司もあなたを気にすること間違いなし……だっけ。まだ全部読んでないんだ、あれ」
出口前で一度止まり、振り返る。席に座っているのは見覚えのある顔。しかし、本人ではない。何故なら、隻腕ではないからだ。
管理人は嘆息し、肩をわざとらしくすくめた。
「なんだ、気付いてたんだ」
「当たり前じゃん。〈鐘突〉で一緒に負けた仲だもの」
嬉しげに、しかし寂しげな表情を湛える管理人は、自らの右手をいとおしそうに撫でながら、「バレたついでに」と一つの決意を込めた眼差しを椛に向けた。
「《姆髄》は結果を変えない過去の揺らぎは許容する。当時助かったのが別の要因だったとしても、今この瞬間は絶対に君の手によるもの。だから――私を、私の本体を助けてくれてありがとう」
あぁ、そうか。
これが必要なんだ。
単純過ぎて気付かなかった。本当に簡単な話だった。
言葉にすれば、形にすれば、ただそれだけで。
最高の結果でなくても、傷痕が刻まれたとしても、営みを繋げることが出来たなら。
「今でも君の隣にいるあいつも、きっと同じように考えてるはずなんだ。素直になるのは気恥ずかしいし、伝わっていないかも知れないけれど……だから」
ならばこちらも謙遜せず、ただそこにあるがままに応えればいい。それこそが、守りし側に立つ者としての矜持であるはずだから。
「うん、助かってよかった。そうじゃなきゃ、変な本の話が出来ない」
椛は笑顔を浮かべ、前を向く。
不幸なんかじゃない。そう、誰も不幸なんかじゃないんだ。
――私も、不幸じゃない。だからあなたのせいじゃない
管理人――友人の右腕に背を向け、映画館を後にする。
恩人に報いるために。
言葉を届けるために。
◇◇◇
懐かしき顔が去ったあと、フィルムの回る音だけが鳴るシアターに、一人の男が現れる。管理人の座る席の傍らに立った男は、ただスクリーンを眺めるのみで、何も言わない。それでも、口許の緩み具合を見るに、嬉しいことがあったのだとわかる。
普段であればおちょくるような軽口を一つ、二つと投げ合うのだが、今日はそれもない。何故ならば、管理人にもいいことがあったからである。
一人しかいなかったシアターの席は、気付けば満員になっていた。
かの怪物に喰われた心。挑み、断たれ、ここに霊魂として留まる者。様々あれど、抱く指針は皆同じ。
牙は磨がれた。
次は翼が必要だ。皆で翼を迎えにいこう。
多くの時代、多くの人、多くの妖怪を文字通り食い物にしてきた、大いなる厄災に今こそ その牙突き立てる時。
慰みの上映会は、終わったのだ。
◇◇◇
光より泉の中へ戻った椛は、記憶の光が拡散していくのを見る。
今ならわかる。あれは仄暗い水底を照らし、《姆髄》から逃れるための道しるべであったのだ。
と、首元で奇妙なチョーカーがしゃげしゃげと唸りをあげた。
【繋がった? 聞こえてるか? 犬走!】
蛇の口から放たれるは神奈子のものではなく、龍の声。いつもの冷静かつ見下ろすような口調ではなかった故に、一瞬誰か判別出来なかった。
慌てて椛は「聞こえてます!」と返事をすると、なにやらぶつぶつと言いながら龍の声が遠くなっていく。
首を傾げていると、替わり神奈子の抑えた声が聞こえてきた。
【あー、すまない。実は交信が途絶えた辺りから、徐々に虚勢が剥がれて狼狽えはじめてな】
想像し、吹き出しそうになるのを必死に堪える。後ろから【お前今なにか余計なこと言ってるな? 言ったな?】という必死な様子が聞こえてくるため余計に悪い。
気持ちを落ち着かせ、蛇に報告する。
「これより泉の底に着底、目標の探索を開始します」
【了解した。対処が難しいと判断したら、すぐに上がってきてくれ】
「了解」
交信を終了し、足元を見る。山の標高を既に越えているとしか思えぬ程に深き水底が輪郭を獲得しはじめていた。だが底から目測でおよそ百尺程の高さに、空間が見える。何かの力によって半球状に切り取られた空間は、強固な壁によって水の侵入を防いでいたが、下駄の歯が触れた瞬間、椛だけが壁をすり抜けた。
浮力を失い、落下するのを飛翔することで防ぎ、軟着陸すると、周囲を見渡した。その光景を一言で表すならば巨大な水槽――水は外側にあるが――だ。気が付けば顔を出した月。これだけ深いというのに、その煌々とした光は仄かに世界を照らしている。そしてこの壁が特殊な性質をしているのだろう。光は屈折し、ある一点に向かって照射されていた。
光の道の先、金色に輝く球体が宙空に浮かんでおり、それを守るかのように二体の石像が鎮座していた。石像のシルエットは人馬という様相で、眼は無く、顎は爬虫類の如く凶悪であり、肩を抱き俯くその様は、魔除け、門番のような雰囲気を併せ持っていた。
首の蛇に触れ、神奈子を呼び出す。
【む、前に魔力の塊があるな。おそらくそいつが目当てのものだ】
神奈子の言を受け、刀を抜く。月光の一部が刃に反射し、ゆらりと輝くと、その光に呼応したかの如く、門番めいた石像がひび割れ、経年した表皮よろしく崩れていく。内部から出でるは鋭さを持つ硬質な身体、四本の馬脚の先は槍のようで、踏み込む度に火花が爆ぜた。
妖怪とはお世辞にも言えぬおぞましき姿。椛は覚えが――いや、思い出していた。外見こそ違えど、纏う悪意は違えるはずもない。
刃を籠手に添え、引きの構えをとる。刃と籠手が擦れ、ジリジリと火花を散らす。
言ってしまえば、酷く頭に来ていた。頭に来ている原因の鴉天狗に恨み節を垂れ流してやりたいのに、そんな些細な願望すら邪魔しに来るやつがいる。今まで《姆髄》に挑み、倒れた者達には確固たる信念があったはず。しかし生憎、椛にはそんなもの無かった。
二頭の人馬は吠え、両腕を歪な剣へと変化させて椛に襲い掛かる。
脳裏にあるのはただひとつ――
「邪魔を――するなぁぁぁあぁぁあぁっッっ!!!!!」
突進してくる二頭、椛の首と胴を狙って別々に振るわれる腕剣を、地を蹴り跳躍することで回避。すれ違い様に身体を捻って翻し、左右を走り抜ける人馬に斬撃を一撃ずつ叩き込んだ。
悲鳴を背中で聞きながら、着地後、踵を返し、舞うように刀を振るう。切っ先より弾幕が高密度で圧縮され、さながら天狗火のような燃ゆる刃の軌跡を宙に描く。最後の一閃を描き切ると、同時に姿勢を低くし腰だめに刀を構えながら駆け、一気に人馬に肉薄。槍のような前脚に刃を入れ、関節より断ち切った。体勢を崩した人馬を下から掬うように蹴り上げると、浮いたその巨躯目掛けて刃の軌跡が殺到。弾け、焼かれ、その場に沈む。
もう一体を見据え、左手を差し伸べる。人馬を挟み込む形に形成された弾幕のアギト。その牙が揃った瞬間、間髪入れずに噛み砕く。
必殺の一撃を間一髪でかわした人馬は、椛の周囲を旋回しながら左腕を弓に似た形状に変化させ、そこから有機質の矢尻を複数生み出し、一斉に放った。
眼を見開き、数を見る。計五発の矢、容易い。
一、顔を剃らして回避。
二、刀を左袈裟に振り、切断。
三、返す刃、水平に振り、両断。
四、左脚を軸にした一蹴で、迎撃。
五、魔力の篭った籠手により守られた左手で鷲掴み、力を込め――
「いいじゃん、籠手(これ)」
――粉砕。
その余裕綽々な対応に一瞬たじろぎ脚を止めたのを、椛は見逃さない。刀を納め――身体を翻し、勢いを乗せて鞘を飛ばす。鞘は人馬の顔面に命中し、高々と打ち上がった。
自身の最大の走りで瞬時に接近、その巨躯を駆け上がり、両肩に脚を置くと、両逆手に構えた刀を脳天に突き立てた。人馬は糸の切れた人形のように全身から力が抜け、崩れ落ちる。
直前、飛び降り、遅れて降ってきた鞘を振った腕で弾いて回転、滞空させて調子を合わせ刀を差し込み、納刀した。
一息つく。今の一連の動きを鑑み、改めて思う。大剣も随分慣れたが、やはりこれぐらいの刀が性に合う。そして――
「守りが二人、目標が後方に一つ」
この状況、まるで〈鐘突〉だ。
目標である金色の球体に近付きながら、そんなことを考えていた。なんともおかしな話であるが、経験が生きたと言えよう。
さぁ、あとは大元を絶つのみ。"鐘"の前に立ち、柄に手を置いた――刹那、金色の球体より無数の触腕を伸ばし、内二本が椛を激しく薙ぎ払った。なんとかその強撃を籠手と鞘で防ぎつつ、衝撃を逃がすよう受け身を取り、体勢を立て直し球体を睨み付ける。
球体より伸びた触腕は、二体の人馬だったものの成れ果てを掴むと、粉々に分解、鉄(クロガネ)の破片で強大な両腕のシルエットを形作った。
このような姿をしたものが《姆髄》の正体だとして、これを女神、乳母と称した者は随分と比喩が利きすぎていると、内心毒づき奥歯を噛み締める。
《姆髄》は耳心地の悪い、鉄同士が軋み合う音を響かせながら、両腕で地面を擦った。擦れた先から火花が散り、火花は赤熱した針となって、椛に放たれた。避け、叩き落とし、防ぎ、いなすものの、《姆髄》が身体を軋ませたり――
「っっっ!?」
眼前、触腕の一本を弾いた刀によって生まれた火花すらも針になり襲い掛かるため、攻勢に転じることが出来ない。さらに振るわれる強腕にも気を配らなければ、一撃で致命を受ける可能性すらあった。
結果、火花針は椛の全身に少しずつ傷を作っていく。息は徐々に乱れ、汗が顎を伝う。
どうしたらいい。
何か突破口は無いか。
経験則から発想する。しかし、《姆髄》が動き出してから蛇は反応せず、助けは望めない。突っ込むのは命を投げ捨てるに同じ。逃げようにも、針は執拗に襲い掛かってくる。
手詰まりだ。じわじわと壁際に追い込まれる感覚。
と、球体部が開き、泡立つ粘液がぼとりと吐き出される。粘液は蠢きながら次第に形を取り、やがて椛の姿に成った。その椛は発声器であり、また、人格を持たぬ《姆髄》の擬似的な触媒となるものだった。
「喰われ、良き心のみを持ったまま、この胎内で永遠を生きていけば……憎しみ、苦しみ、全てから解放される。死別した者とも、この手を使えばまた会える。離別の哀しみすら克服出来る、正しい世界の創造だ。だのに、何故お前は私と戦う? 怖れは無いのか?」
振るわれた触腕を防ぎ、それにより生まれた火花針を魔力を解放した籠手で払いながら、椛は鼻で笑う。
一瞬諦めかけた。そんな自分を嘲る笑いだ。
「そうかい、お前はそんなくだらない頭で動いていたのか」
そう一蹴し、膝を着きそうになる脚に力を入れ、両腕で刀を携える。火花針が刺さり、その痛みにのたうち回るのは後にしろ。
こいつは今、生きとし生けるもの全てに唾を吐いたのだから。
「……怖れは想いやる心の裏返しだ。良心だけを取り出したって、そこにあるのはハリボテに過ぎない。怖れて、苦しんで、それでも他人を想うからこそ、離れることが悲しいんだ」
「わからない、ならばこそ、捨てるべきものではないのか」
脳裏に廻るは在りし日の己。在りし日の友。在りし日の少年。
「勘違いするな! 限られた命を燃やし尽くした者、その哀しみを奪う権利など、お前には無い!!」
触腕を切り裂き、肩で息をしながらも、前を向く。あらゆる場所に針が刺さり、全身が焼けるようだ。
それでも、立っていられる。
――憧れたものはなに? 今まで追ってきたものはなに?
そう聞いたのは、幼き日の自分ではなかった。本当にそこにいたのは、"憧れを唯一吐露した少年"だ。
追い掛けた理由など、今更だろう。
憧れた彼女が守ってきたもの、これから守るべきもの。
それが過干渉だとしても、妖怪として、天狗として正しくないとしても!
「それに、人間が怖れる心によって妖怪は生かされている。そいつを横取りしようとするなら、切られたって文句は言えないだろう――」
懐、龍に渡された一枚のアビリティカードを取り出した。試作と描かれたそのカードは、実際に運用されたものではなかった。
名称、〈疾風の黒翼〉。人間や力の弱い妖怪が使うことを前提とし、抑制が施された普及型の〈疾風の下駄〉とは違い、射命丸文の持つ最大速力を再現出来るものだという。
試合の際、もっとも公平ではないのは速さに尽きると考えた龍が、椛に手渡したものだが、使う気など毛頭無かった。しかし相手が相手ならば、公平性だの精神性だの考える必要すらない。
何よりこいつは、彼女と共に切り伏せるべき――二人の敵なのだから。
カードを高々と投げ、重力に従い地に落ちようとした瞬間、片膝を着く程の全力で刀を地面に振り下ろし、アビリティカードを両断した。込められた魔力が刃を伝う。魔力を帯びた刃で火花が散るほどに地を削り、己を中心にした円陣を描く。円陣を走る魔力の奔流は、火花が変化した針を巻き込み吹き飛ばす螺旋の暴風となって、犬走椛を包み込み込んだ。
やがて螺旋が消えて、最後のひと吹きが椛の顔を、髪を、そして"背の黒翼"を優しく撫でる。
きっと彼女は望まない。
きっと彼女は願わない。
でもそれがなんだという?
椛は聞いた。彼女が最期、自ら命の終わりを迎えようとした瞬間の言葉を。
――ごめんね
ふざけるな。
ふざけるな!
ふざけるな!!
勝手に助けて、勝手に救って、挙げ句差し伸べられた手を拒否するだなんて我が儘が過ぎるというものだ。
ならば、こちらの我が儘にも付き合ってもらう。
その為にも、邪魔なものは排除するのみ。
気が付けば、《姆髄》への怒りは文への怒りに擦り変わる。
誰かを守れるように、何より自分を守れるように。
あの日の約束を――今こそ果たす時だ。
「――さぁ見せてやる、本物の獣を」
見据えるは金色に輝く悪しき月。いかに放つ月虹まばゆかろうと、その光に潜む闇の手指に一切の余地なし。
右に携えるは朱き鞘。絆の刃。
背に有るはいとしき憧れ、決意の翼。
その雄々しき出で立ち、疾風を駆けるは風神にも勝る紅葉色の狼。
その姿を形容するに――"駆狼"(クロウ)。
両強腕を叩き合わせ、無数の火花針を射出する《姆髄》。灼熱の針群は、熱波を生んで皮膚を焦がし、尖なる先は骨すら射抜く。まさに命を焼き尽くす死の雨。
だがそれは勿論、当たればの話。
駆狼は翼を羽ばたかせ、数枚濡羽を残して飛翔。針は方向を変え、追跡するが、追い付ける速度ではない。放たれる風圧により、針は次々失速し消えていく。
刀を両手、胸の前で構えた。翼を閉じ回転しながら鋭角に降下。《姆髄》の強腕を捉えた瞬間翼を開き、刀を振るった。人馬の身体で造られた腕は、接合していた触腕から切り裂かれ、鈍い音を立てながら地に落ちる。
下駄の歯を慣らしながら着地し、瞼を閉じ、残心。
その様を隙と捉えた《姆髄》は二本の触腕をもたげ、先端を展開。鉤爪状に変化させて掴み掛かる。
駆狼は眼を開き、振り向き様に鉤爪を弾き、もう一方の鉤爪を朱鞘で抑え留める。加わる力を逸らすように鞘を引っ込め、力の掛け処を失いあらぬ方向へ向かった触腕を一太刀に切断した。
椛の人格を複製した粘液がはじめて悲鳴をあげた。痛みなど知らない、知りたくもないとばかりに腕をかきむしるが、悲鳴はより激しさを増すばかり。呼応したように、球体は激しく揺れ、触腕も地面を叩き、抉り、暴れた。
刀を絹糸でもなぜるように優しく走らせ、切っ先を《姆髄》の核、球体へと向ける。月の光を反射し怪しく輝くその表層は、見るからに硬質であり、刃が通るか否か。
しかし、別段不安は無かった。
何故か。
それは剣戟の一瞬に千里眼が捉えた人影に由来する。
アビリティカードの魔力が底をつき、背より翼が消えた椛は、深々と嘆息した。間が良いのか、あるいは悪いのか。わざとなのか、あるいは偶然なのか。どちらにせよ、"彼女は必ず二番手で待ち構えている"。
いつもであれば、前線に出ないことに数限りない文句を垂れるところであるが、今なら別の捉え方が出来る。
あのひとになら大将を任せても安心だ――と。
そして、背中を任せられると。
《姆髄》の作り出した異空間、椛と《姆髄》だけの決戦場に新たな声が上がる。よく通る声で、主は名前を叫び構えていた。
思わず笑みが零れる。案外、自分はわかりやすい性格をしているのかもしれないなどと、嘲った。
「椛ッッッ!!!」
「はいッ!!!」
名を呼ばれた椛は《姆髄》の核を視界に入れたまま、遥か後方に控えた射命丸文に、刀の切っ先を向けた。
文は構えた天狗扇を大きく振るうと、三発の風弾が放射状に放たれる。それは一点に集束するよう軌道を描き、椛の構える朱鞘の刀の刃に命中。弾け、混じり合い、螺旋状の巨大な剣となってその暴威を顕現した。
間髪入れずに振るわれた天狗扇より巻き起こった超大な旋風は、椛と《姆髄》、両者を呑み込む鎌風のベール。しかし意味合いは両者でまるで違った。椛には背中を押す追い風に、《姆髄》にはその巨体を押し留める神風に。
風の剣をしかと握る。優しく押された背中。駆ける脚は、全身に及ぶ傷の痛みなど無いように地を踏む。
己の危機を察知した《姆髄》は残された強腕と触腕で核を包みさらなる防御を固めるが、一閃――遅れて異空間全体を吹き荒ぶ嵐を波及させた一太刀で、紙でも切るかの如く裂かれた。
「――――――――ッッッッッッ!!!!!!」
咆哮。
螺旋はより旋動を増す。
右腕を思い切り突き出し、いよいよ風の刃は核の外殻を捉えた。
「私は――正しき――世界を――」
「正しいものか」
戯れ言を一蹴し、力の全てを注ぎ込む。
風のベールが外殻を抉じ開け、露出した心臓を鋼の牙が穿つ。断末魔と共に消え去る乳母は自らの最後、椛に聞くに堪えない憎悪を吐き出し、ようやく悪心を知った。
鉄の身体は崩れていき、けたたましい音を響かせる。
ガランガラン ガランガラン
さながら、それは突いた鐘が奏でる音色のようで――
◇◇◇
誰かが誰かを呼んでいる。
誰かが自分を呼んでいる。
瞼は開かない。それでも肌で、耳で、感じることは出来た。
なんと落ち着く、なんと優しい、なんと懐かしい風だろうか。
そのひとは木葉ではなく、その実は風だった。なら焦がれてしまうのは当然だ。
人間は時に、追い付けぬものを求めて走る。自らを鼓舞する為に、尊大な夢を語る。
いや、そうじゃない。本当は見栄を張ったんだ。
それでも、その見栄をあのひとは夢だと言った。人間には過ぎたる夢だと。
きっと叶うと信じてくれた。だから、最期の最期まで諦めずに走り抜けた。
脱落してしまったけれど、夢は少女に引き継がれて今もあのひとと共にある。
よかった。夢は続いている。
よかった。今も朱鞘と共にある。
ゆっくりと瞼を開けば、やはり懐かしき姿がある。
今にも泣きそうな笑顔のあのひとに言う。
どんな悪鬼羅刹にだって、あの娘なら――
見えるものは泡沫に消えて、光のみが世界に残る。