Coolier - 新生・東方創想話

駆狼

2021/09/23 20:44:26
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3. 剣戟―never say never―




 今まで、多くの事件に首を突っ込んできた。他人が秘匿したがる部分を引っ掻き回して面白おかしくしてはほくそえんできた。しかし自分のこととなると、どうしたらそう出来るのか、いまいち浮かんでこなかった。
 他人に厳しく自分に甘い、というわけではない。
 この出来事を伝えるに当たり、"あの子"に罪の意識を持たせないように脚色すれば、内容に齟齬が生まれかねないと思ったからだ。
 身体の中、心の隙に付け入られた挙げ句の失態だ。きっとそんな自分に対する罰でもあるのだろう。
 これまでの行いに謝罪を。これから起きることに断罪を。
 まるでこれでは遺言だ。

「でも、そうなりかねない、か……」

 ペンを止め、独り言つ。
 遺言。そんな言葉がちらついても、まるで動じないのは、自分が最早"そういうものになってしまったから"だ。
 その行く末、末路は既に見ている筈だ。成り果てるより前の対処は確立されていない。つまり事後処理となってしまう。それを"あの子"に押し付けてしまうのは、本当に最悪だ。あの方にも、その片棒を担がせてしまうのは、非常に忍びない。
 かつて、理解した。
 刃を携えれば、先に待つのは親しきものの不幸であるのだと。
 手放してみたり、距離を置いたり。結局、その場凌ぎにすらならなかったと証明されてしまった。
 ならばせめて、やれることは一つだけ。
 ペンを走らせながら、思う。
 無責任かもしれない。でも、全てを受け取って貰わなければ。

◇◇◇

 例大祭五日前。

 東風谷早苗は迷っていた。
 突如として本殿の裏側に現れた泉についてである。神奈子と諏訪子は心当たりが無いと言っていた。しかしこれだけの泉があれば、新たな参拝客を呼ぶ見せ物になるだろうだとか、そうでなくても諏訪子なら泉で遊び回っていても不思議ではない。だが実際は、あの二柱はまったく泉については触れないでいる。
 つまり、この異常な観光スポットが現れた原因を知っているのだ。そしてこれがあまり良くないものであるから、参拝客には見せない。そして対処も言及もしないところを見るに、泉を作り出した張本人を見抜いている節がある。文に取材を申し込まれたからこそ知らぬ存ぜぬを貫いたのかと思っていたが、おそらく犯人が自分から名乗り出るまで静観を決め込むのだろう。
 風に吹かれて波紋打つ水面に映る、夕日と複雑な胸中を抱いていた顔を見ながら、深々と嘆息した。
 分かっている。原因が自分であることぐらい。
 壊れた鏡を埋めた場所。そこがまさに泉の現れた地点。それで気付かない程早苗も愚かではなかった。

「まるで胸に手を当てて考えてみなさいって説教されてる子供みたい」

 また嘆息一つ。
 このままどう謝れば最適かを考え続けるのも、説教の時間を長引かせてしまうことを知っている。ならば出たとこ勝負というのも悪くないかもしれないと、早苗は踵を返し二柱の元へ――

「……え?」

 誰かに呼び止められた。気のせいではない。しかし誰もいないのだから気のせいの筈だ。そうでなければ妖精辺りの悪戯、先日の意趣返しか。しかし何かが腰まで伸びた髪を撫でながら、淫靡な手つきで手招きしている。こんなやり方は妖精ではない。
 恐る恐る振り返ると、泉の中心に立つ人影。それは特異なシルエットながら、よく見慣れたものであった。

「諏訪子様……?」

 洩矢諏訪子。『守矢神社』における秘神であり、家族だ。なんだ、やっぱり諏訪子様も遊びたかったんじゃないか。そう内心で安堵するが、諏訪子の眼を見てそんな考えを改めた。
 普通ではない。まるで感情が無く、自らの意思など無いような雰囲気。
 早苗が声を掛けようとした瞬間、泉に浮いて起立したまま、眼前まで迫り頬を両手で優しく触れられる。
 そして、問うてきた。

「早苗の怖いものはなにかな」

 怖いもの?
 何かの遊びか?
 だがそんな様子ではない。

「こ、怖いもの……」

 問われ、混乱しつつも考える。外の世界、『幻想郷』、どちらもそれなりに怖い思いをしたことはあったが、思い返せば大したものではない。今、一番怖いものは何かと考えて、半ば反射的に出した答えは――

「お二人に……怒られることです」

 瞬間。
 全身から何かが抜けていく感覚がある。それは大切なものだったが、すぐにそうじゃないことに気が付いた。
 諏訪子が消え、抜け出るやかましかった音が止み、穏やかな静けさがやってくる。聴覚、そして心にも。

◇◇◇

 口から心臓が飛び出る、という比喩がある。あまりに突然のことに驚いてしまう言い回しであるのだが、常々そんな言葉を生み出した者は気が小さい臆病なやつなのだろうと思っていた。だが実際、想像だにしていなかった出来事があると、案外心臓も口から飛び出すのではないか、と考えを改めるのも悪くはないかもしれない。
 非番。借りた本に目を通してしまおうと、床に胡座をかき、頁をめくる。相変わらず友人が読んでほしいと手渡してくる本は難解だ。クリスQの小説なんかは難しいながらに――人間との価値観の違いから感情移入はし難いとは言え――理解は出来る。しかしこれはどうだ。"正しい上司の撃墜法"、上司に並々ならぬ苛立ちを覚えている部下による攻略書であるらしいのだが、どうにも、思っていたものとは違う内容である。
 正直頭にまるで入ってこない。
 そんな折、玄関戸を叩く音が聞こえる。来客の予定は無かったはずと首をかしげつつ、椛は本を置いて立ち上がり、玄関へ向かう。何度も戸は叩かれ、嘆息混じりに「どなたですか」と戸を挟んで向こう側の来訪者に訪ね、引き戸を開けようと手を伸ばす。と、勢いよく扉が外側より開かれた。
 それもあるのだが、何より来訪者の正体が、椛に口から心臓が飛び出るという比喩を納得させることになる。

「久しいな、犬走よ。こうして顔を合わせるのは守矢の監視を言い渡した日以来かな?」

 蒼を基調にした衣装に、風に靡く長い黒髪。有象無象を寄せ付けぬ役職であるにも関わらず、どこか懐っこい雰囲気を持つ山の為政者。
 大天狗、飯綱丸龍。
 椛からすれば上も上、見上げて首が痛くなってしまうような相手であった。

「これは飯綱丸様。このような場所にどのような」

 必死に平静を保っているが、手や背中は汗まみれだ。そんな椛の心境を知ってか知らずか、龍は口許に軽く握った拳を当てながら笑った。

「いや実はな、例大祭の出し物について相談がてら、お前達と話でもと思ったんだが、射命丸は生憎と掴まらなかった」

 "その名"が出たことで、緊張の先が少しぶれる。

「わかりました。どうぞあがってください。汚いところですが」

「そうだ、氷室はあるのか? 」

「氷室ですか? あるにはありますが……」

 そう言うと、龍は微笑み手提げ袋をひょいとあげて見せる。袋からは茶色の瓶が覗いていた。

「それは重畳、こいつは温くっちゃあ美味しくないんだ」

 結局酒盛りになるのは天狗としての性なのか、はたまたそういう者が偶然椛の周囲に寄ってたかったかからなのか。以前文の家で過ごした際はよく酒を我慢したものだ。
 ――はて、何故我慢したのだっけ。
 思考の崩れ橋に差し掛かり、麦芽酒を氷室に入れると、龍は先程まで本を読みつつ座っていた辺りにどかりと腰を降ろし、椛にも対面に座るよう促した。
 酒瓶を三本氷室に放り込み、肴の準備もそこそこに、龍の対面に正座をすると、龍は心底愉快げな表情をし、椛の顔を凝視する。
 椛に宛がわれた家屋は決して大きくない。三人で食卓を囲んで夜を明かせば手狭だと改めて認識出来る程度のものである。眼前の天狗が持つ雰囲気は大きく見え、そんな狭い我が家をより窮屈に感じさせた。
 沈黙と視線に耐え兼ね、椛から切り出した。

「えっと、出し物の相談というのは……」

「我々の出し物、そりゃあメインは〈鐘突〉になるわけだが……よりエンターテイメントでなくてはいけないなと思ってね」

 エンターテイメント。娯楽性が必要であると、龍は言う。
 元々〈鐘突〉自体が、訓練生同士の力比べや連携確認以外にも、試合をし、観戦するというある種の娯楽としての側面も内包している。だが言い回しを聞くに、どうやらそれだけでは興業にはならないと考えているらしい。
 正直、ふざけていると憤慨したい。確かに文とはいずれ何かしらで決着をつけなければと考えていたが、それを見せ物として扱われてしまうのは心外である。文からこの話を聞いたときも感じたが、このひとは他の心情を理解などし得ないのだろう。
 故に、舵を取る大天狗としては有能なのかもしれないが。

「送り届けるべきは人間を喜ばせ、思わず投げ銭をしてしまうような剣劇だ。どちらかが一方的では詰まらない、中々勝負が着かなくては飽きてしまう。必要なのは、一進一退、されど決着はカタルシスに富んだ試合」

 後半何言ってるか分からなかったが、何とかその感想を飲み下し、理解する。それはつまるところ――

「八百長試合ってことですか?」

「それは違うな。言っただろう、剣劇だと。あくまで君達は演者だ。そも厳かなる試合など、人目に晒すべきではない。我々の立ち位置は常に上位にあらねばならないからね。ならば上に立つものとして、楽しませてやるのに一芝居打ってやるのは道理というものだ」

 モノは言い様だ。大天狗とは言うものの、この賢しい感じはやはり鴉天狗のそれである。
 きっとそんな心情が漏れていたのだろう。龍は鼻を軽く鳴らした。

「不満という顔をしているぞ犬走」

 声色を変えたわけでもないのに、確かにある圧力で身体がびくつく。噴き出す汗を煩わしく思いながら必死に言い訳を考えるが、ついぞ出ず、ただ俯く。が、そんな椛を見て龍はからからと、「そう畏縮するんじゃあない」などと一笑した。

「肩の力を抜け。雑談めいた話でなにかあるわけでもなし。それに今日は私自身の興味の方が大きい。だからこそ手土産に酒も用意したんだ。まだ飲み頃ではないみたいだがね」

 興味、という言葉で椛の警戒度がさらに上がる。こういう手合いは、興味程度と言いつつ、無意識的に権力を笠にして内面までズケズケと踏み荒らしに来るのだ。
 実際、既に一度踏み荒らされている。

「さて、まずはフェアな話が出来るよう白状しようか。お前もどうやら解せない様子だしな。――『守矢神社』からの天覧試合の提案を承諾し、そして射命丸と犬走を選出したのは何を隠そう私の独断なのだよ」

 だろうとは思っていた。『守矢神社』とのパイプ役、文と椛の関係性を知り、そしてなによりこの悪趣味な遊び方は、大天狗の中でも龍の所業と察しはつく。このひとは涼しげな顔で嫌な事柄を任せてくる。そしてより性質が悪いのは、それが利益や何かしらの循環に繋がる行為という裏付けを常に用意していることだ。仮にこちらが異議を叩き付けようが、 理路整然と言い返され、押し黙るしかなくなる。
 だからこそ自白に対して椛はただ頷き返し、「それは何故なんです?」と龍の調子に合わせることにした。

「射命丸と私は割かし古い付き合いでな、やつの素行は把握している方だと自負している。ただあんなしたたかなやつにも幾つかウィークポイントがある」

 文と龍が旧知であるのは、椛が哨戒部隊に配属されると決まった日、偶然日取りが重なった定例宴会の席で知っていた。情けない顔をして、椛の頭をもみくしゃにする――椛にとってのお守り代わりの写真は、何を隠そう龍から貰ったものだからだ。
 とはいえ、自らのことは徹底的に隠し、逆に他人のことは偏執的にまで嗅ぎ回る彼女の弱点。そんなものまで知る仲とは思っていなかった。話がどう繋がるのか、むしろ脱線していないかとは考えつつも、好奇心が勝ち、聞き返す。

「その、うぃーくぽいんと……というのは?」

「わからないか? まぁ隠すよな、そりゃあ」

 濁した。
 臭わせておいてその態度、椛自身驚く程に不機嫌になってしまい、積もり積もった憤懣の色が隠せない。肩の力を抜けと言うのなら、そうさせてもらうとばかりに。

「はっはっは、すまない。あいつの弱点、それは――刀と、お前だ」

「……え」

 思わず、声が出た。
 予想外であった。どちらも文からすれば弱点などになり得ない。刀は華麗に操り、椛はむしろ嫌がらせをすることで愉悦を得ている。だというのに、龍はこの二つを弱点だなどと言うのだ。

「信じられないか? 確かにそうだな。だがあいつは負けず嫌いだからなぁ。どうしようもなく苦手なものだろうと、どうにかして付き合おうとしているんだろうさ。それが、古い記憶に蓋をするのに、何だかんだで一番効果的だろうから」

 記憶に蓋。
 かつての彼女と今の彼女。そこには妖格ごと変化してしまったのではと思える程の乖離があるのは間違いない。だが、それが弱点であるから、というのはどうにも納得しかねる。

「ちょっと、昔話をしようか。珍しく酔ったあいつが饒舌に語った、一人の童と気紛れ天狗との、蜜月の日々の噺をね」


◇◇◇

 あの頃、世界は広かった。
 彼女の自慢の翼で全力を出しても、決して"壁"にぶつかることなど無く、強いて言うならば縦軸を上へと昇った先、数多の生命を拒絶し否定する透き通った暗闇だけが、翼を阻む壁だった。それとて壁の中から見ている分には美しいものであるし、その暗闇を貫いて瞬く星命の残滓は夜を照らす標となって、旅の仲間とすら思えてくる。
 なるほど、確かに我ら天狗は人が吹聴するように、天津甕星(アマツカミボシ)であるようだ。
 他の天狗は人間が戦争を行っている様を辟易とした表情で眺めては、火の粉から逃れるように身を隠した。だが彼女――射命丸文にとって人間達の謀(ハカリゴト)、政(マツリゴト)など、まるで興味の外である。
 意識があるのは飛ぶこと、そしていくら眼に焼き付けても足りぬ程、時間や場所、季節や気候で千差万別となる景色を見ること。
 下ろした手で海面を切り裂き、遥かな大海原を翔る。燃えるような紅き山で紅葉をひと扇ぎして舞わせて遊ぶ。
 世界は文を飽きさせない。千里眼でもあればとうに飽きているかもしれないが、幸いそんな力は無い。風を巻き上げ、誰よりも速く飛び、そして鋼の刃を自在に操るぐらいだ。そんな気紛れに振るわれる超自然的な力は、地を這うだけの人々を恐れさせるに十分であった。
 畏怖はある種の信仰となり、次第に文から自由を奪った。奔放では困るのだと、示しがつかないのだと。
 くだらない。何故人と天狗の推量のし合いに巻き込まれなければならないのだ。そんな愚痴を言えば、白い目でみられた。
 所詮は光り物に目敏い連中の考えだ。どうにも理解が出来ない。私はただ、自由に飛びたいだけなのに――文はそう考えつつも、ある山に身を潜めた。まるで火の粉から逃げた同胞と同じように。
 そこは忌々しい念仏が日中聴こえるような場所であったのだが、山を覆う、深く薄暗い森は別段嫌いではなかった。しかし日々を飛び回り過ごしていた文からすれば、木々の一本一本が格子のように思える。開けているが、ここはさながら監獄のようだと自嘲する日々。
 だからこそ、その出会いは鮮烈だったのだ。
 いるのは動物、虫なんかの小さき者達だけ。そんな中、小さき者達よりは大きいながら、文からすれば小さな者が、腰に立派な代物を差してやってきた。さながら、英雄に憧れた愚かな童子だろう。ちょっと驚かせてやれという気持ちから、樹上より声を掛けた。

「立ち去れ。ここは貴様のような童子が不用意に踏み入れば、たちまち魂を奪われる人間禁制の――我の縄張りだ」

 なるべく分かりやすく、命の危機を演出してやる。声色も、いかにも偉そうな雰囲気を出してやった。我ながら子供染みた遊びだと、内心苦笑する。
 が、童子の反応は文の想像の逆を行った。怯えたような、強張った表情は声を聞いた途端に破顔し、首を巡らせ辺りを必死に探し回る。さしずめ、求めていたものをついに見つけ、はしゃぐような。
 文は面食らう。このような展開はまるで想定していなかった。しかし――興味深くもある。もしかしたらこれは、新たな展望が拝めるかも知れない。腰掛けていた見晴らしのよい巨木から降り、身の丈が小さくともぎりぎり視界に入りそうな手頃な樹木に飛び移り、あえて姿を晒して見せた。

「そこな童子よ。我は数百もの時を永らえた者ぞ、怖くはないのか」

「あぁ、あなた様が世に名高い山の天狗様でしたか。てっきり天狗なぞ乳母が休まぬわっぱに出任せた作り話だとばかり思っていましたが……。成る程これは興味深い」

 恐れは隠すまでもなく、そして年端も行かぬ割に妙に達観した物言い。
 少し、癪に障った。

「お前は頭が切れるようだが愚かだな。このような刻に非力な身一つで出歩くなど、その小生意気な口を裂いてやろうか」

 より直接的な、貴様は眼前の存在に命を握られているのだと。しかしそんな脅しも――

「ここで僧になれと言われていてね、母の願いは聞き届けたいが、それでも私は世のために戦いたいと思っている。だから口が裂けて物言えぬようになれば経を上げることも出来ぬゆえ、お誂え向きかもしれませぬ」

 後生大事に脇に差した刀の柄を握り込みながら、童子はのたまった。
 どういう経緯でこんな山に流され、どういう運命を背負わされているのか、そんなものは知る由もない。世のために戦いたいという義務感の由縁など、興味すら無かった。だが仮に、彼が未来で担うものが、世界の風景を変えて見せる撃鉄になり得るのならば――

「小癪な餓鬼だ。切り捨てられても文句は言えぬな」

「おぉ、手ずから手解きをしてくださるのですか! それはありがたい。天狗仕込みの刀であれば、どんな悪鬼羅刹にも遅れは取りますまい」

「本当に、弁の立つ人間とは厄介なものよ」

 ――少しぐらいの手入れをしてやるのは、やぶさかではない。

――――――――――――――――――――――――――

 あれから少し。人間からすれば、それなりの年月が経った頃。山の外は俄に騒がしさを強めていた。国々が戦争を好んだ時代を越え、世が移り変わっても、些細なことで刃は抜かれる。
 彼はその只中に身を投じなければならない定めにあった。そして同時に、それは彼自身の望むところでもあったのである。
 初めて森で出会った頃から比べ、随分と表情は精悍になったもの。どこかあった甘えた姿は完全に鳴りを潜め、佇まいはまさに武人。
 悪戯が好きな夢見がちな童子という雑草に、気紛れに業という水を与えてみただけではあるのだが――正直、ここまで仕上がるとは、文自身想像していなかった。
 時は、来てしまったのだ。

「山を降りるのか」

「はい、お師様」

 気が付けば、呼べと言っていないにも関わらず、文を"お師様"と呼ぶようになっていた。存外気分が良く、つい調子に乗って教え込んでしまったのは不覚だった。

「私は弟子など取った記憶はない。ただ美味いものをちょろまかせて来る餓鬼一匹に棒振りをさせるのを見ていただけだぁ」

 照れ隠しにもならない軽口を、手土産の焼菓子を口に運びながら言う。そんな文を見て、青年となった彼は苦笑しながら言った。

「それでもお師様は私を還そうとはしませんでしたね」

「戯けが。天狗ともあろうものが見返りや理由もなく人の子を還すわけなかろうが」

 他の天狗は露知らず、少なくとも文は人拐いなどにはまるで興味がなかった。弟子を取ることなど、必要が無かったから。
 これは、ほんの暇潰し。菓子も美味いし。

「ふふ、お陰様で並み居る兵にも退けをとらぬ腕前になれたと自負しています」

「おや、悪鬼羅刹にも負けぬのではなかったか?」

 文は人間の、ケレン味のある言い回しが耳に心地好かった。彼の自信に溢れた言葉を馬鹿馬鹿しいと思いながらも、あまりに淀み無く言うものだから、いっそ清々しいとすら思っていた。

「ものを知れば、大仰な口は聞けなくなるのが道理です。ですがこの力があれば、弱きを守る刃となり、連綿と続く営みを繋ぐことは出来る筈」

「そんなものかね。ところで、生意気な口の方はいつ聞けなくなるんだ?」

 だからこそ、彼にはその身に余る夢を――ずっと胸に抱き、語っていてほしかった。
 追い続ければ叶うかもしれない、強くなるという、無邪気な夢を。

――――――――――――――――――――――――――

 天狗の隠れ里に、久しく召集が掛かった。召集の理由は追って知らせるとのことだったが、天狗は根も歯もない憶測を頭でこねくり回すことに長けた妖怪である。会議場では既に、多数派の噂が流布されており、口々にそのことについて耳打ちをしていた。

――まるで人ならざる者のよ■■戦いをする軍■が現れたと聞いた

――その■法で、数多の首級を掲げるに至ったと

――薬にで■頼ったのか

――■■を克服し、鬼神の如き力を■■薬を人間が? あり得ぬ話だ

 宛がわれた自分の席へ向かうまで、有象無象とすれ違う度、途切れ途切れに聞こえてくる戯れ言。どいつもこいつも戦禍を恐れて一人引きこもっていたというのに、久しく動かしていない口のよく回ることと、内心毒づく。
 と、会議場の上座入口の方から、ついた名前の割には案外丈の変わらぬ天狗が入ってくる。瞬間、会場全員が背筋を正し、弛緩していた空気が張り詰める。
 よりにもよって、大天狗の中でも頭の回る飯綱丸そのひとが、今回の召集を取り仕切ると来た。そりゃあ嫌な空気も流れると、文は呆れる。

「皆、遥々ご苦労である。此度急遽の呼出はある噂に端を発するもの」

 噂。まさか本当に人間の間で妙な薬が出回っているなどという話なのか。

「貴様等が風説した奇怪なる薬の話など、足元にも及ばぬものだ」

 静まっていた会場がにわかにざわめく。これは痛快愉快だと、ほくそえんだ。
 しかし薬でないとすると、このような場を設けるに至る程に急を要する案件であるのか。それは一体――

「先日、各人里へ向かわせた遠見鴉の報告によれば――比較的大きな町に隣接した村で、《姆髄(モズイ)》の物と思われる被害が出た」

 妙な話になってきた。わざわざこんな場所まで呼び出された挙げ句、《姆髄》などと言うお伽噺が顔を出すとは。そう考えているのは文だけでは無いようで、皆が顔を合わせ首を傾げている。中には笑い出すものまでいる始末。
 しかし飯綱丸龍はそんな彼らを一喝するでもなく、粛々と話を続ける。

「笑ってしまうのも無理は無い。私も最初は笑い飛ばしてしまったからな。幼少のみぎり、寝物語に聞かされるような話である故に、仕方あるまい。だが――現実は深刻だ」

 遣いの鼻高天狗が会議の参加者に資料を渡す。文の元にも端を紐で纏められた書が回ってくる。
 ――そも、《姆髄》とは。
 『天狗の里』には子供を寝かしつけるに聞かせるような童話、"月夜の兵士"という寝物語があり、そこに登場する女神が『姆髄』である。深き泉に住み、人々の"怖れる心"を食べてくれることから、必勝の守神として月夜の兵士達には大層崇められていた。恐れ知らずの兵士達は敗けを知らず、快進撃は続き、彼らの暮らしは繁栄していったという。
 しかしある時、兵士達は『姆髄』の住む泉を埋め立て、封じた。これは、何かに頼り過ぎてはいけないという、教訓の物語だが、そう兵士達が考えるようになった理由は描写されていない。そういう歯抜けとなった部分を発想することも含めて、子供に聞かせるに都合がいい。
 そんな子供騙しの作り話。言ってしまえば嘘の歴史。が、嘘から出た真とでも言うように、『姆髄』が現れたのだと大天狗は宣言した。
 薬の件も大概であったが、さらにその上を行った形だ。
 天狗達は、嘲笑、冷笑を持って飯綱丸龍を盗み見た。以前からの不平不満、偏見や嫉妬、あることないことを小声で捲し立てる。資料を読んだ上で、この呼称はくだらないと感じるのは右に同じくだった。しかしこれが瓦版の内容を指して吐き下すのであれば面白いと言ってもいいが、こういう場では気分が悪い。文は軽く手を挙げて、龍に発言を求めた。

「射命丸か。発言を許す」

「ありがとうございます。資料には"村人全員が農具等の一撃で殺されていた"とあります。これが呼称、『姆髄』によるものという証拠があるからこその召集だと理解しているのですが……その確証をお聞かせ願いたい」

「そうだな、『姆髄』という名をつけたことに合点がいかぬ者らにも、分かりやすく説明してやるべきだろうし」

 嘲笑した者を逆に小馬鹿にするかの如く、龍は鼻を鳴らして顎をくいと上げた。その表情を見るに、はじめからこういう反応があるだろうと読んでいたきらいがある。やはり一筋縄ではいかないおひとであるようだ。

「今から七日程前のことだ。人里を巡回していた遠見鴉が、小さな農村で判明しているほぼ全ての村人の死体を発見。報告を受けた私は、内々で処理も出来るよう、極限られた者のみを率い、村を調べることにした。大きな町が近いことから猛獣によるものは除外し、想定される原因は三つ。一つ、野党の類いによる襲撃。二つ、妖怪による襲撃。三つ――村民全員による殺し合い」

 龍は自らの瞳を長い人差し指で指す。

「死体の位置関係、傷、状況を見るに、突如として村人全員が殺し合ったと見るべきだ。そして死体の瞳が物語るのは、明確な敵として襲い掛かったということ。一片の躊躇いもなく、恐怖すら踏み越えて」

 恐怖を踏み越えた。
 いや違う。踏み越えられるのはせいぜい良識の範疇だ。これは最早、人の道すら外れているように見える。

「……彼らには怖れが無かったのか」

 ふと、一人の天狗の口から漏れた言葉。それは『姆髄』と呼称された何かが関与していると、確信してしまったものだった。
 会場が再びざわめいた。

「何にせよ――天狗は、いずれ頂点に立たんとする種。ならば下々を庇護せずなんとする。このような被害を出さぬ為にも、各々眼を光らせ、『姆髄』を討伐するよう努めよ」

 龍の声に、皆が頭を垂れる。
 確かに村一つが失われるのは大きい。それを阻止したいという気持ちもわかる。しかしあまりに曖昧が過ぎる。これでは動きようがない。
 と、一人手を挙げ発言を求めた天狗がいた。先程まで薬の噂を口にしていた天狗だ。

「発言を許す」

「は。関連があるかは定かではありませんが、昨今、人間離れした戦いをする軍隊があると聞いています。それを薬による精神の作用とばかり思っていましたが……」

「なるほど。その軍を有する詳細な人里を報告せよ」

「は。ここから北西の――」

 耳朶を打つ場所。そこには聞き覚えがある。誰から聞いたのかなど、最早考えるまでもない。
 仮にその話が本当ならば、止めなくてはならない。

 しかし、そんな想いは届かなかった。

――――――――――――――――――――――――――

 雨。
 一面を埋め尽くすのは人の亡骸と、そこから立ち昇るむせかえるような瘴気であった。平時であれば見晴らしがよく、蒼穹の美しいこの丘も、今はさながら地獄の様相である。
 いや、地獄の方が幾分かマシかもしれない。
 濡れて頬に張り付く髪を人差し指でかき退けながら、樹上より文は見ている。微動だにしなくなった敵を足蹴にし、勝鬨をあげる様を無感情な瞳はしかと捉えていた。
 文からすれば少し前、弟子からすれば十数年一昔。それからすっかりと変わってしまったものだ。童子の時分は怖いものを知らず、青年の時分は世間を知り、そして今は――人を捨てているように見えた。かつて悪鬼羅刹をも切り捨てられると豪語した口は切れ味の快楽に汚ならしく歪み、愚かにも自ら囚われているようである。それが天上からではなく、奈落への誘いの糸だとも知らず。

――いや、あれは彼の望んだ姿だった。

 あの召集から暫くして、ある魔道具がかの村に運ばれた事実を突き止めた。
 それは一見青銅の円盤に見えるが、青銅の下は鏡になっているという。鏡はあるものを封じていた。
 『姆髄』。
 恐怖を糧に生きる怪物は、人々から恐怖を得るために甘い言葉を吐く。きっと彼にも魅力的な提案をしたのだろう。
 村人達が殺し合う少し前、村から再び青銅鏡は運ばれた。そして鏡はある武将の手に渡ってしまう。
 結果として、人の道を外れた獣がそこに生まれた。怖れを持たぬ生物は、最早思慮を持たず、欲望のままに生きるは、害獣と変わらない。
 獣が牙を持たなければ、あるいは力が弱ければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。牙を与えたのは誰でもない、文自身である。
 力を与えてしまったなら、振るう心を教えてやればよかった。だがそれを怠ったのも、また文自身。
 濡れた髪。服。身体を伝う雨粒。落とした視線の先、両手で掴むは鋼の牙。
 わかっていた。力を持てば代償が必要になることは。
 わかっていた。力を与えれば責任が生まれてしまうことは。
 わかっていた。鴉が牙など持つべきではないことは。
 世界は広い。自慢の瞬翼を持ってしても網羅など出来やしないほどに広い。文は広い世界が好きだった。広い世界を見続けた。そうしていたら、狭い世界で見落とし、取り零した。
 彼を堕としてしまったのは『姆髄』などではない。文の業だ。
 ならばせめて、最期だけは見送るべきだと、自らに課した。

 以降、鏡の行方は知れず、呼称『姆髄』のものと思われる事件も起きることはなかった。
 いや、起きていたのかもしれない。しかしそんなものから、天狗達は興味を喪失していた。
 どれぐらいの時が必要かもわからない。しかし間違いなく実現出来る理想郷の創造。そんな話が、とある者等よりもたらされたのは丁度この時分であったのだから。

――――――――――――――――――――――――――

 時は流れ、最期の時は来た。
 寺の敷地内にある小さな別館。彼は今にも泣き出しそうな表情で、妻子を殺した自らの――かつて文が授けた朱鞘の刀の切っ先から零れる血潮を眺めていた。

「久しいな、山を降りてからどれぐらい経つ」

 悲壮感を放つ背中に声を掛けると、俯いた顔を上げ、振り返る。見開いた瞳には、驚きと嬉しさ、そして悔恨の念が見えた。

「わかりませんな……ただ少なくとも、あなたの姿がまるで変わらないことに驚くぐらいの年月は経っておりましょう」

「そうか、そのぐらいになるやも知れぬな」

 彼はまるで道端ですがる浮浪者にも似た眼をして文を見た。
 あぁ、私が見ていたあなたはもういないのですね。そう内心、失望とも安堵とも思える感情が走る。

「お師様、あなたはこの木葉のようです。気がつけばそこにいるのに、風の向くままあちらへこちら、また気がつけばいなくなっている。私は何度か山を訪れたが、ついぞあなたは姿を見せなんだ。しかし今目の前にフラリと現れる。何故今になって……?」

 探していたのは知っていた。助けを求めていたのは知っていた。しかし、手遅れだとわかってもいた。彼の心に、かつての輝きは無い。そこにいるのは求道者ではなく、破戒者であるのだから当然か。

「……聞きたいのはこちらだ。このようにみすぼらしい場所で、妻と娘を手にかけて尚、何故そのような目で私を見ているのだ?」

 投げ掛けずにはいられない。ひょっとしたら別の答えがあるかもしれない。勘違いかもしれない。

「……私はただ、皆のために戦場を走っていたのです。だのに、私が戦果をあげる度に皆が私へと向ける目は化け物を見るそれになっていきました。民草の役に立ちたい、その一心であったというのに、果ては自刃で果てる末路。まるで報われぬ」

 が、現実はこんなもの。
 心根は水を得過ぎた結果腐り、葉は病気に蝕まれ、実は猛毒を腹に育む。土壌を犯し、隣り合った者すら堕落させる疫病だ。
 己が精神性を見つめることすら出来なくなった愚か者。先を見ていると勘違いした結果生まれた、現実主義の被り物をした世迷者。

「お前は詰まらんな。私が授けた業(わざ)、私から盗んだ業(わざ)、そんな詰まらぬことのために振るわれていたのか。悲しくなる」

 せめて今際の際、気付き、懺悔の念を得て欲しい。そんな気持ちから、言葉を紡ぐ。
 我ながら不器用なれど、少しでも、闇を照らせたならば。

「詰まらぬ、と」

「詰まらぬよ。かつてのお前は世のために刀を振るうと大見得を切ったのだ。だが最早、見る影もない。童子以下だ、今のお前は」

「……確かに、久遠を生きるあなたからすれば、私は山で出会ったあの頃よりずっと、童子だったのかもしれませぬ」

 あぁ、彼はもう――幼い己にすら憧憬を覚えてしまうのか。
 文は背を向け、別館を後にする。背後で――その昔、弟子だった男が事切れる音がした。
 振り向き、うずくまるように腹を刺し、動かなくなった男を見る。刺さった刀から手をほどき、"証"とした刀を再び手に取り、腹より引き抜く。

「このようなことなら、刀なぞ早々に捨てるべきだった。本当に、本当に、詰まらぬ……」

 代わりに自らの脇に差していた刀を持たせると、血に濡れた朱鞘を掌が痛い程握り、はじめての弟子に無言の別れを告げた。

◇◇◇

 人間と過ごした日々。
 『姆髄』。
 人間の豹変。
 龍の話が終わる頃には、正座した袴を両手はぎゅっと握り、下唇を噛んでいた。聞いた話が全てでは無いはずだ。文にしか知り得ぬこともあるだろう。あくまで酒の席、龍に話した彼女の弱い部分、さらにその一部でしかない。しかし、そんな断片でも、あまりにふざけている。
 頭に来た。今までも散々な目に合わされてきた。ろくなことをしない上司の尻拭いばかり。憧れた姿など、最早薄れる程に過去の話だ。
 だが、今でもよく覚えていることがある。――刀を携え、自分を助け、導いたあの頃。椛を見守る顔の下、朱鞘を見る度に見せた眼。そして先日の張り詰めた声色。
 きっと椛はその人間と重ねられていた。そして刀は出来事を想起させるに足る代物なのだろう。理解はした。納得は――あまり出来そうにない。
 彼女にとって、私はそんなに――

「まぁ正直、やつ自身の口から言うべき話ではあるんだが、如何せん強情だからなぁ。そこに加えて弱みを見せたがらないだろう? 特にお前にはそうなる。世話を焼きたい誰かの前では格好をつけたい阿呆なのさ」

 言うと、龍は懐よりおもむろに一枚のカードを取り出した。スペルカードではない。それは以前、龍珠を用い、弾幕を嗜む者達の複製した力を込めた札。アビリティカードと呼ばれるものだった。
 人差しと中指で挟んで寄越したカードには、見たことの無い図柄が描かれており、通常のカードには無い、"試作"という押印が押されている。

「会話もそうだが、楽しむにはまずフェアになるのが最低条件だと私は常々思っている。ビジネスなら有利な条件を叩きつけるのが定石ではあるが、あくまでも興行だからな。まぁ当人がいないから、完全ってわけでもないが……気にするな。で、そのアビリティカードの効果だが――」

 愉快そうにアビリティカードの説明をする龍を余所に、椛はまるで別のことを考え、まるで頭に入ってこなかった。脳裏に去来するのは――ひとを小馬鹿にした顔、酒宴で絡んできた鬱陶しい顔、たまにする真面目な顔、頭を撫でてくる時の顔。

「――というわけだ。さて、これで一通りだな。おっと、思った以上に長話をしてしまった。せっかくの麦芽酒だったが冷える前に話が終わってしまったね」

「あ、お持ちしますね」

「いや、いい。あれは"お前達"への土産だからね。頃を見計らって飲んでしまって構わない。これはどこぞの神の受け売りだが、腹を割って話をするにはもってこいの酒なんだそうだ」

「は、はぁ……」

「いずれその酒が役に立つ場面もあるだろうさ。それまでは大事に冷やしておくといい。きっと美味い」

 そう言い残すと、龍は立ち上がり後ろ手を振りながら去っていった。
 龍が玄関から出るまで半ば放心していた椛は、はっとし慌てて見送りに外へ出る。既にそこに大天狗の姿は無く、後頭部を平手で叩き、ばつの悪い顔をしつつ仰ぐ。
 するとそこには赤と蒼、そして光の粒子が広がるなんとも美しい空が広がっていた。その空は、懐かしき夕刻訓練の帰り道、流れる星を見ながら願ったあの日そのものであった。

――知りたいな。あのひとのこと

 駆け出しの頃、星に願った想いは、まだ叶わずにいる。
 それでも椛は改めて星に願う。――いや、かつてそれは願いだったのかもしれない。弱い自分では、手が届かなかったから。曖昧なものにすら救いを求めた。だけれど今は違う。守られるだけの自分じゃない。守れず嘆く自分じゃない。
 幼き日々にさようなら。
 千里を見通す瞳が映す千の星。輝きを放つ観衆を前に、大見得を切るのも悪くない。彼らを前に、想いの吐露をするのはきっと覚悟を決めることにもなるはずだ。

 数多の星々に願いを。
 私に――ひと欠片の勇気を。

◇◇◇

 翌々日。例大祭三日前。

 他人の過去を知ることは、同時に己の過去を掘り返す切っ掛けになる。経験における評価とは基準があり、常に相対的であるからだ。あのひとはこのような経験をした。ならば自分はどうだった? 口ではひとそれぞれ、比べること自体がナンセンスと宣っていながら、横並びにしなければ、自身ですら幸福の度合いを見定められない。
 愚かな話ではあるが、真理でもある。
 だが、それが決して悪いことだけでもない。
 自分がまだ小さな剣士見習いだった頃、助け、導いてくれた彼女が、その小さな背中に一体どれだけのものを背負っていたのか。荷物は軽いに越したことはない。それでも尚、どうして自分という新たな荷物を背負ってくれようとしていたのか。
 文に比べ、椛が積み重ねてきたものは薄い。だが薄くとも、軽くとも、比べ、歩み寄ることは出来る筈だ。
 椛は守矢例大祭の準備から逃げてまでもぎ取った哨戒任務を抜け出し、ある場所に来ていた。そこは、今となっては二つの意味で道すがらとなった――毎日歩く通り道、そして尊き日常と離別した、そんな場所。居住区の入口。
 だが、ここに来た理由は、そんな思い出に浸るためではなかった。今日も今日とて侵入者などいやしない山を、その眼でくまなく見渡していると、そのひとがいたのだ。その場所に。
 それこそ通り掛かりかもしれない。しかし何か運命的なものを感じられずにはいられない。座るに丁度いいお気に入りの岩から腰を上げ、もつれる脚に一抹の焦りを覚えながら、椛は走った。
 息を切らし、なんとか辿り着いた時、射命丸文はそれを知っていて待っているように、こちらを振り向いた。
 瞬間、空気で感じる。
 何か、違う。
 直感的に身構えるが、文はそれを見て腹を押さえながらゲラゲラと笑った。

「なぁにそれ? まるで私が不審者みたいに」

 確かに文だ。外見、風に乗る匂い、所作。どこにも相違は無いはず。だのに、何故ここまで違和感があるのか。

「場所を移しましょうか。そうね、今時分ならまだ搬入用具の確認も終わっていないだろうし、下見がてら、二人きりで『守矢神社』なんてどうかしら? 闘技場みたいで中々面白い設営なのよ」

 暫し沈黙の移動の後、珍しく誰もいない『守矢神社』に到着した。二柱が顔を出さないのは珍しくもないが、巫女すらいないのは少々不思議に思いつつ、本殿正面に設営された〈鐘突〉のための戦場に足を踏み入れた。中央、祭壇を模した装飾に囲まれ、〈戒剣〉が地に突き立つように設置されており、当日はそれを奪い合い、互いの開始位置の背後にある鐘を守りつつ、相手の鐘を〈戒剣〉で突くことになる。
 雛壇になった客席に誰もいないせいなのか、妙に広く、静かに感じる。

「覚えてますか? あなたが昔、こんな小さかった頃……〈鐘突〉の試合に負けて泣いてたこと」

 声色は穏やか。しかし明確な"殺気"が肌をヒリつかせる。毛は逆立ち、顎を引き、奥歯を噛み締め、意識して呼吸を一定に保つ。
 文は鐘を背にし、開始位置についた。

「今はあまり訓練としてはやらないようだから、機会も無かったし、人数も違ければ、相手も格上。でもこれは、あの時の雪辱戦だと思いなさい」

 指をくいと、装飾の一部として設置されていた真剣を、風を巧みに操り手元まで持ってくると、スラリと抜刀。力を抜いた構えで挑発するように言った。

「どうせあの大天狗のことだ。まともな試合をやる気なんてさらさら無いんでしょう。なら今ここで、前哨戦にして本番をやってしまった方が、お互いの溜飲も下がるというもの。それとも、そんなナマクラじゃ不安かしら?」

 椛も開始位置に立つと、腰から朱鞘の刀を引き抜き、抜刀。研かれた刀身に反射し映る己の瞳を凝視し、迷いが無いことを再確認してから、切っ先を文に向け、刃の腹に指を添わせた構えを取る。
 それを合意と受け取った文は、左手甲に刀身を乗せ、引きに構え直す。
 八百長に対し疑念を持っていたのは事実。ならば断る理由はない。そしてなにより――自分が彼女を越えられれば、自らに課した呪縛からあるいは解放してあげられるかもしれない。業を教えた人間の代わりに。

――私は荷物じゃなく、一緒に荷物を運ぶ、同行者になるんだ

 先に仕掛けたのは椛だった。文の左側面に回り込むように、姿勢を落として地を蹴り駆ける。〈戒剣〉のある祭壇を背にすることで、攻めと守りを同時に行う。
 気合一閃。"愛刀"を右横腹から左肩、駆けた勢いと両腕の力を全力で乗せて一気に振るう。
 文はそれに対し、戦気揚々。歯を剥き出しに笑い、殺気を孕んだ一撃を避けるでも受け流すでもなく、細腕からは想像もつかぬ全霊の振り下ろしにて、一撃必殺すらあり得た一振りを相殺して見せた。真正面からの力と力の拮抗は、激しい火花となって互いの瞳、光彩を照らす。
 文の方からぐいと攻められ、鍔迫る形で中央へ押される。
 そこでようやく椛は思い至る。付き合いは長いが、本気で戦うのははじめてなんだ。
 そんな思考を遮るように、脚を払われ姿勢を崩す。転倒する直前、地面に手を着き、左脚を伸ばし身体を独楽のように回転させることで、文の脚を逆に狩る。しかしそれは後方に避けられた。
 再び距離が空き、仕切り直し。しかし敵陣地には確実に攻め込めている。ここで手を休めるな。
 即座に立ち上がると、椛は中段に構えて突貫。刀を鞘に納め脱力している文に接近、一戟、二戟、三戟と、斬撃を叩き込んでいく。が、それらは簡単に鞘で防がれる。しかしそれもわかっていたこと。何戟かもわからないぐらい打ち込んだ瞬間、今まで一定の拍子で繰り返していた攻撃の速度を上げ、防御の調子を崩しに掛かる。わざと避けずに防いでいたのも理解していた。それが彼女が持つ、椛に対しての"癖"なのだから。だからこそ、揺さぶれる。
 その搦め手に動揺が見えたのを、椛は見逃さない。歯を食い縛りながら息を吐き、渾身、加速した一閃は、確実に"文の手から刀を吹き飛ばすに足る"だろう。
 が、文は納刀したまま、その一撃を鞘で受けきった。刃は鞘を破壊しめり込んでいる。
 ひやりとした。

「甘い」

 その一言と共に刀から手を離す文。拮抗していた力が抜け、前のめりに体勢を崩す椛。めり込んだ刃で支えられ刀の柄を文は掴み、椛が体勢を立て直すよりも速く、まるで抜刀の手伝いご苦労とばかりに力任せに上へ向かって振り抜いた。
 椛の手から弾き飛ばされる朱鞘の刀。そして振り抜いた衝撃で分かれた鞘。文は刀を掲げ、そこに鞘が落下。修練場でよく聞いた鐘の音のような納刀音を響かせた。
 一瞬。一瞬にして片や刀を地に落とし、片や余裕と言わんばかりに技を披露する。

「さぁ、刀を拾いなさいな。まだ終わりなんて言わないでよね。もっと殺す気で来なきゃ、死ぬわよ?」

 顎を伝う汗を拭いつつ、椛は刀を拾い、再び構えた。
 強さはわかってはいた。しかし分かりきってはいなかったのだ。
 文は得意の俊足で、即座に間合いを詰めると、無様ながらに受けるのがやっとという連戟を繰り出してくる。眼を少しでも反らせば刃は肉を切り裂きに来るだろう。
 後退しつつ受け続ける。文が姿勢を落とし、まるで椛が最初に見せたような逆袈裟で振るった。刹那、避けるよりも先に脳裏に焼き付いた火花を想起し、全力の振り下ろしでその斬撃を相殺、再び鍔迫る。
 
「そう、それでいい」

「うるさい!!」

 その後も激しい打ち合いは続き、〈戒剣〉――試合など既に眼中に無く、互いに真剣な切り合いとなっていた。
 一進一退を繰り返すに連れて、妙な感覚が輪郭を帯びていく。幼き頃の記憶という引き出しに、何か見覚えのあるものが入っている気がして。
 と、危うく肩を撫で切りにされるところを右に払って弾き、左を軸に翻って一度距離を取る。気が付けばあれだけ攻め込んでいたのに戦場の中心にまで戻されていた。

「おやおや? 思考先が散らかると集中力が散漫になるのは相変わらずですか?」

 軽く曲げた左腕に剣の峰を当て、構えながら余分な思考を振り払う。言われた通り、考えながら戦うのは未だに苦手とするところだった。防戦なのが余計にそこに拍車をかける。ならば常に攻めに出るべきだ。だが単純な動きでは崩し切るに至らない。
 ならば、崩れるよう動かすまで。
 両手で構え直し、地面に沿うように刀を力任せに振るった。剣圧で舞い上がる土煙。その腕力による勢いをそのまま乗せて、鞘を投擲。
 文は土煙を裂いて現れた回転し飛来する鞘を軽く刀を振って上方へ弾き飛ばし、次ぐ刃を警戒し構えた。が、椛は一向に現れず、次第に視界が回復していく。
 その、一部始終を視ていた。
 弾かれ舞う鞘を左で掴み、下方に見えるは好敵手。空を蹴り、こちらを視認するより速く、文の懐に入り携えられた刀の腹を激しく打ちすえ、砕き、続き左手の鞘を右肩に叩き付けた。折れた刀を落としよろける文。
 手は休めない。倒れるまで"叩く"。
 右の刀を峰に持ち替え、踏み込み、水平に振るう。当たればきっと、すごく痛い。だがやらなきゃならない。きっと彼女はそうでもなければ止まらないだろうから。
 が、そんな感情を一気に砕かれる。
 文はその場に踏み留まり、振るわれた峰打ちを右手で掴み止め、動かないように握っている。握った指からは、止めどなく血が溢れていた。
 俯いていた文が、ゆっくりと顔を上げる。
 呼吸が止まる。
 なんだこれ。
 なんだこれ。
 なんだこれ!
 疑問とも否定ともつかないものが噴き出してくる。
 こうして戦うことで、迷いを払えたらなんて希望的観測だった。救われようとしたのは、むしろ自分だった。
 またあの時のような関係に戻れるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていたのだ。
 だが眼前の彼女の眼は物語る。
 そんなことは不可能であるのだと。
 震えた手は刀を手放し、二歩後退る。
 記憶の引き出しを探し当てた。
 この"生物として必要な何かが欠落しているような気持ち悪さ"は、以前感じたことがあった。忘れるはずもない。かつて相対した獣。飢え、本能のままに牙を剥いたあの――
 狼狽する椛を尻目に、文は血を流しながらも掴んだ刀を構え直す。
 畏怖を捨てた瞳。瞼を閉じて、自らの腹に朱鞘の刃を――

「そいつはちょっと話が違うんじゃないか、射命丸」

 天狗であれば膝を着き、頭を垂れる透き通った声が響いた。直後、降り注ぐは星を模した弾幕の嵐。それらは文から刀を取り上げるように命中し、手から零れた刀は地面に転がる。
 そしてともなく現れたそのひと、大天狗、飯綱丸龍は文の額に札を貼る。すると、文は意識を失いその場に崩れ落ちた。

「お前は本当に自分本意で愚かなやつだ。また同じ過ちを繰り返すつもりだったのか」

 龍は眠る文にそう独り言つと、椛に向き直り言った。

「私も認識出来ていない事柄があった故、こんなことになってしまった。許せ」

「あの、まるで状況が掴めません」

「あぁ、説明する。――まずはこのド阿呆を運ぼう。やらかしたことの責任はしっかり取らせる。だがそれは目を覚ましてからの話だからね。それに、手当ても必要だろう」

 頷き、椛は手拭いで右手を縛って応急手当てを施してから、文を抱える。存外軽いその身体に、少し驚く。先程まであった迫力からは想像もつかない華奢な四肢だ。

「じゃあ向こうに運んでくれ」

 龍が指差した先、そこは『天狗の里』ではなく、『守矢神社』の住居の方であった。
 と、気配を感じ、そちらに視線をやると、先程まで気配すらなかった守矢の柱が、日頃の神性はどこへやら、少々ばつの悪そうな表情でそこにいた。
 八坂神奈子の態度を見るに、龍とは既に話がついている様子である。
 椛は半ば睨み付けるように神奈子の眼を見据え、言う。

「納得の行くお話を伺いましょうか」


◇◇◇

 治療を施した後、客間の一つに敷かれた布団に文を寝かし、縁側に出る。神奈子によるものだという意識を封じる符がある以上、目を覚ますことはないだろうが、病床を前に話をすると言うのも憚られた。
 神奈子は縁側の戸を開け、腰掛けた。一つ大きく息を吐き、口を開く。

「ハシシを喰らうもの、という言葉を知っているかな」

 神奈子の問いに、椛は神の背を見つつ軽く首を傾げたが、一方龍はすぐに返した。

「ハシシ、人間の頭を壊すとかいう薬か」

「そうだ。それを大量に接種し、恐怖を抑制した上で標的を狙う暗殺集団。それがハシシを喰らうもの。外の世界では有名な話だ。創作の題材にもなるぐらいにね」

 その話を椛は知らない。が、似たような内容を知っていた。それは勿論、龍も同じだろう。
 "月夜の兵士"。
 差異はあれど、大筋は非常に似ていた。あの寝物語はいつ出来たか定かでは無いが、《姆髄(モズイ)》とは、ハシシのことを指していたのかもしれない。あるいは、逆か。いずれにせよ、ろくなものではないのは確かだ。

「先程の、あのブン屋の戦い方はまさにその暗殺者(アサシン)だった。心身の痛み、正否に対する恐怖を失い、半ば妖怪の本質的な部分にまで還ろうとしていた。だがすぐにそうならなかったのは、お前さんのお陰なのかもな」

 神奈子は椛に振り返り、微笑んだ。傍らの龍も肩を叩き頷く。少しだけ気恥ずかしい。
 妖怪の本質的な部分。それは人間によって恐れられる根本。今は知性を持ち、言葉を介し、人の姿を象れているが、その垣根が崩れればおぞましい姿へと変わるだろう。人間が猿になるのを嫌悪するように、妖怪もまた知性を失うことは堕落と捉える。
 確かに戦い方、あの眼は間違いなくその兆候であった。しかし人の姿を維持し続けていたのは、"椛の前では格好をつけたい"という文の想いがあったからだ。

「今はなんとか堪えているが、いつまで持つかはわからない。だから、原因を叩く必要がある」

 神奈子は立ち上がると本殿の方を指差す。その背中には、心なしか焦りが見えた。

「本殿の裏側に泉がある。それはただの水ではなく、特殊な異空間になっていて、その奥に原因があるようだ。うちはこの手の祟りみたいなのの探知が得意なのがいるんでそこは間違いない。ただ、中に入って解決しようにも、空間そのものに何らかの影響を受けてしまう可能性がある。そこで私が結界を張るわけだが……守れるのは一人だけだ」

 先日、〈文々。新聞〉で報じられた『守矢神社』に突如として現れた泉。目敏い文ですら気付けなかったその全容。神々もまた、異変に気付くまで時間が掛かった上、対策には手をこまねくような状況。
 故に、確実に原因に対して打撃を加えるならば、相応の実力者であるのが前提だろう。神奈子は結界を張らなければならない以上出向けない。選択肢として残るは椛自身と龍、そして守矢の――

「あれ、そういえば巫女は……」

 思わず溢したその言葉に神奈子は自嘲めいた笑みを浮かべる。龍も少し神妙な面持ちをした。

「実は今、"本殿の中が酷いことになっていて"な。やったのは早苗だ。まるでさっきの天狗と同じように、怖いものなど無いという感じだった。妖怪ではないから身体の異常こそ無いが、放っておけば取り返しがつかないことをやりかねない。だから今は、眠ってる。諏訪子のやつはずっと付きっきりだ」

 背中に宿る焦燥の訳を知り、それでも尚気丈に振る舞い、自らは残らざるを得ない状況。日頃迷惑を掛けられている側、とはいえこの神を信仰する人間の存在に対して多少ではあるが、理解出来た。
 椛はそれ以上の言及を避け、冷えた頭で考える。
 神奈子は結界を張り、維持する為には残らなければならない。早苗はおそらく文と同じような状況にあるのだろう。諏訪子はその看病についている。
 仮に龍が泉に入り、最悪出られなくなった場合、指令系は破綻を来す可能性がある。それだけ、彼女の立ち位置は現在の天狗社会にとっては要となっている。
 つまり選択肢など端からありはしない。
 いや、わかっていた。かつて文の言った言葉――

――「私達は天狗だ。守るべき者は弱者じゃあない。我々よりも強きを持ち、しかし力を行使しない、そんな鼻持ちならない連中を守ることになる。確かに解せないだろうが、そこは変えられない」

 子供の時、てんでわからなかった矛盾。引っ掛かりは今、もうない。
 一人を守った先に、大勢の守られた者がいる。だから、多くを導ける大天狗を守らなければならない。

――「力があれば――"弱きを守る刃となり、連綿と続く営みを繋ぐことは出来る筈"……なんて。これから先誰かを助ける度に、その先に続く者、さらに先に続く者を守ったことになる。それは天狗、他の妖怪、あるいは人間かもしれない。君が死ぬということは、そんな彼らを見捨てるに等しいことよ」

 この判断を聞けば、きっとあなたは怒りますね。椛は一抹の郷愁を覚えながら、内心呟く。でもそれは、自分だけではない。
 文がいなくなることで守られない者は、きっと、より多くある筈だ。
 だったら動けばいい。仮に拙い手捌きでも、周りが見えていなくても、決めたらすぐに行動するのが、生来持ち得た唯一の取り柄なのだから。

「……実力不足は承知です。危険過ぎるのもわかってます。でも、私が――」

「八坂の。私から進言しよう。今回の件は我が左腕に任せてもらえないだろうか?」

 決死の覚悟をあっさり奪われた形だ。
 しかし意外でもあった。飯綱丸龍という大天狗は、常に高い目の出る賽子だけを振るような妖怪だ。だからと言って臆病というわけではなく、確実に勝つための道筋を構築してから挑むのが、彼女にとっての勝負事だからである。
 そうなると、椛は賭場に押し出すには少々以上に価値が下がる。部の悪い賭けもいいところ。
 だと言うのに、椛を左腕などと宣い、挙げ句任せろなんて言い出すのだから、また心臓が口から飛び出すかと思った程だ。
 龍のお墨付きに、神奈子は頷き返す。

「中がどんな状況かは分からないが、サポートは全力でさせてもらう。そうと決まれば急がなければな。ちょっと待っていてくれ、渡すものがある」

 言い、神奈子が外したのを確認した龍は、「私からも渡すものがある」と懐より一枚の紙を椛に手渡した。
 それは龍に対して宛てたものであり、差出人は文である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 親愛なる大天狗、飯綱丸龍様

 まだ楽園が必要ではなかった頃、一度だけまみえる機会のあった《姆髄》を記憶しておられるでしょうか?
 まだ可能性ではありますが、《姆髄》が『幻想郷』に入り込んでいるかもしれません。

 というのも、先日、『守矢神社』への取材を行った際、一夜にして現れたという奇怪な泉。仮に物語が真実だとして、これが"月夜の兵士"達の怖れを喰らっていた頃、地上にあったとされる泉なのでは、と。
 また、調査した結果、近年突然暴れだす妖精の目撃例が散見されたことと、魔道具――青銅鏡らしきものを妖怪が持っていたという証言が複数あり、またその特徴も同一では無かったことから、妖怪の手を渡り、移動していたと推測します。
 飯綱丸様も記憶に新しいとは思いますが、『天狗の里』を襲った飢餓妖怪、彼らの遺留物の中には、欠けた鏡と思われる破片も回収されており、当時は無かった可能性、《姆髄》の力による妖怪の恐慌の線が濃厚となりました。

 そして裏付けとして最も強力な一つ。それは、私自身が怖れを喰われてしまったことです。
 泉の全景を見た瞬間、頭をいじり回されたような感覚と共に、不安という不安が取り除かれた心持になりました。
 現状、この状態を解決する手立てはわかっていません。ただその末路はわかっています。

 ここからは私事なのですが、ご容赦を。
 昔、弟子がいました。素直で、でも少し口の悪いところもある、大事な弟子です。しかし私には、彼女を最後まで育て上げられませんでした。
 それはひとえに私の問題ではありましたが、今ならば"どうにか出来そう"です。時間が無いので乱暴になりますが、私から巣立たせてあげたいのです。
 
 そして、勝手な話ではあるのですが、弟子をどうかよろしくお願いいたします。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「まったく、不器用なのもここまで来れば立派なものだ。まるで青臭い若人じゃあないか。千年以上生きた者でも、老成には差が出るのだなぁ」

 そうからからと笑う龍。
 手紙の内容は状況の記録が主であるが、最後の数文だけが異彩を放っている。ともすればこれは遺言だ。自分の死期を悟った者が、やり残したことを誰かに託すような。
 これが事前にあったのならば、龍が先程の剣戟を止めに来たことも頷ける。裏を返せば、それだけギリギリの状況であったのだ。
 しかしこれは――

「すごく、ムカつきますねこれ」

 思わず出たその言葉に、龍の笑いが固まった。
 椛は手紙をぐしゃりと握り潰しながら、捲し立てる。

「何が最後まで育てられなかっただ。何が巣立たせてあげたいだ。
 いつもいつも、自分本意で他人を見ていない。今回だって自分の中にあるわだかまりを発散しているだけではないか。本当にこちらがどう想っているかなんてまるでわかっていない。
 どうせ私のことを子供だと思ってるそうに違いない。だからこんな舐め腐った上から目線で物事が言えるんだ。
 挙げ句弟子を頼むだ? その上、弟子の目の前で腹を切ろうとしたのか? どんだけ荷物を押し付ける気なんだよあの阿呆は! 死にたいなら隠れてひっそり一人で死ね!」

 言い終え、暫しの沈黙。
 捲し立てている間に戻ってきた神奈子も、椛の豹変ぶりには唖然とするしかないらしく、所在なく神奈子から向けられた視線を龍は知らぬ存ぜぬとばかりに受け流すことしか出来なかった。
 肺一杯に空気を吸って、そして吐く。これで溜まっていた分と、新たに溜まった不満は言い終えた。もし自身が《姆髄》の毒牙に掛かったとして、文のような醜態を晒すことはないだろう。仮に晒すにしても、多少は緩和されるはずである。

――「椛、強くなって。誰かを守れるように、何より自分を守れるように。あなたがそうなれるまで私が支えて、守ってあげるから」

 かつて血に染まり、今再び血に染まった朱鞘の――約束の刀。その柄を優しく握って、犬走椛は改めて誓う。
 何もかも捨て去ろうとも、それを私が背負いながら、お前の背中を追い続けよう。それがあの日から変わらない、射命丸文というくだらぬ鴉天狗と交わした約束。
 諦めることなど、してやるものか――と。

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