Coolier - 新生・東方創想話

駆狼

2021/09/23 20:44:26
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1. 祭事―beginning―




 追い掛ける。
 決して大きくはない、しかして力強いその背中を追い掛ける。
 けれどその人はとても脚が速かった。一陣の風の如く、世界を切り裂くように一瞬で駆けていく。必死に追い縋るけれど、決して追い付けるものではないと頭では理解していた。
 名は体を表すとはよく言ったもので、自分の名前がまさにその言い回しに当てはまる。風となるその人に吹かれて散りゆく燃える紅葉色。どう足掻いても触れられるわけもなく、今日も奔放なつむじ風に吹かれて舞うのみ。
 手を伸ばしても、叫んでも変わらない。そのひとは振り返りもしない。
 仮に押し殺した感情を子供のように開けっ広げて泣き腫らしても、鼻で笑って相手にしてくれないことは分かりきっていた。
 小さきあの日も、そして今も。
 青み掛かった黒翼を羽ばたかせて、髪を揺らして、変わらずあなたは先を行ってしまうのだろう。
 そう、それはあなたが――

 水底に、吸い込まれるように落ちていく。
 衝撃で舞い上がった飛沫が視界に広がり、やがて身体は沈み込んで世界は水で満たされた。口から漏れる空気が泡となって、水だけの世界を彩ってくれる。
 沈む。
 沈む。
 彼女の世界は斯様に深く、暗く、その癖目映い輝きを持つ。
 その光は彼女の過去が、まるで投影されるかのように明滅していた。
 彼女の想い、彼女の苦悩、そして皆が忘れた彼女の守りし者。
 それらをひとつひとつを胸に刻みながら沈んでいく。
 約束を果たすために。

◇◇◇

 例大祭一週間前。

 木の床を叩いた鈍く重い音と騒々しい連続した軽い打撃音が耳朶を振るわせ、意識を辛うじて保ったままの微睡みから引き上げられる。一気に覚醒し、明瞭になった視界が捉えたのは、大工の木槌よろしく軋む床板を打った、横倒しの刀だった。座っている長椅子に立て掛けていたのが倒れてしまったらしい。
 座ったまま上半身を倒して刀を起こす。微睡み抜けゆえに、二度ほど掴み損なってしまったが。
 再び刀を椅子に立て掛け、息を吐く。詰所には達磨ストーブがあるのだが、建物自体年季の入った造りであるため隙間風は容赦なく暖気を奪っていく。室内だというのに上着と首巻きが外せない始末だ。
 天狗の根城、『妖怪の山』でも標高の高い場所は所々白いものが残っているものの、季節は春先。草花は萌えて、冬は静かだった『九天の滝』や『玄武の沢』も活気づきはじめていた。とは言え、まだ朝方は冬の残滓が居座っており、時折雪もちらついていた。
 宿直の朝。日が昇りはじめの今時分がもっとも堪える。眠気も相まって最悪の気分だ。
 と、立て付けの悪い引き戸が開く音がした。そう言えば先程刀が倒れるのとは別の――足音のようなものも聞こえた気がしたが、誰かいるのだろうか。
 身体を縮こまらせ、いつもより着込んでるからかシルエットは少し丸い。そんな少女は達磨ストーブの火を見つけるやいなや、足早に暖を求めて駆けてきた。

「おはよー椛。さすがに朝は寒いわね、羽がかじかんじゃう」

 珍しい白狼天狗以外の客人は、鴉天狗だった。だが他の鴉天狗に比べて物腰は柔らかく、裏が無く、とっつきやすい稀有な例である。
 名を、姫海棠はたてという。
 耳と鼻先まで真っ赤にしているはたてを見てふふと笑い、本日宿直で暇をもて余していた犬走椛は立ち上がり、ストーブにかけてあったヤカンを携え台所へ向かう。

「おはようございます。温かいお茶淹れますね」

「ありがとぉぉ……助かるぅぅ」

 椛は沸いていた湯を急須に注ぎながら、なんとも腑抜けた表情で火を前にうずくまりながら手をかざしているはたてに、他愛もない会話の切っ掛けを投げた。

「朝早いんですね。朝刊配達ですか?」

 以前別の鴉天狗に、戯れに出した朝刊の配達を手伝わされたことがあった為、その苦労や心痛、眠気に至るまで想像に難くなかった。
 ふと脳裏にとある鴉天狗のにやけ面が掠め、げっそりしてしまう。怖気が背中を伝い、軽く身震いする。
 早起き出来ないなら朝刊なんて企てなければいいのにと、内心毒づいた。

「そうなの。普段はやらないけど、今回はちょっと理由があってね」

 はたては肩掛け鞄から新聞を1部取り出しこちらに渡してきた。湯気の立ち上る湯呑みと交換にそれを受け取り、長椅子に腰を降ろし自分の湯呑みを傍らに置く。丸められた〈花果子念報〉の朝刊を開くと、これまたげっそりしてしまう顔が写っていた。
 常に奔放に振る舞い、多くを巻き込み、挙げ句間接的に白狼天狗をこき使う立場となっている神物。東風谷早苗をでかでかと写した一面を見た椛は無言ではたてに向き直る。はたても「気持ちはわかる」という表情で苦笑した。

「何でも『博麗神社』より先に例大祭をやることで集客効果がどうちゃらとか、最近では夏に先んじて肉まんやおでんがなんちゃらとか、なんかよくわからないけど諸々理由があって広告出すって話になって、出すなら朝イチに見てもらいたいとか言いはじめた結果こうなってるわけ。まぁ、貰うものは貰ってるしこちらとしては別に構わないんだけど……」

 つまり祭の宣伝として朝刊を出させたということか。相変わらずよく分からない巫女である。
 独断で――発端は彼女だろうが――動いているとも考えづらい為、守矢の他二柱も承諾済みなのは明らかだ。だとすれば、間違いなく上を通じて哨戒部隊にも話が回ってくる。
 空中索道建設を最後に比較的大人しかったから失念していたが、存在するだけで害は現状無い摩多羅隠岐奈よりも、同じ山のご近所神家族の方が余程厄介であるのだ。
 ある大天狗も、きっとまた頭を痛めていることだろう。飯綱丸龍に関しては、ビジネスチャンスと考えるかもしれないが。
 茶をすすり、一息ついたはたては口を尖らせ続けた。

「でもさ、〈花果子念報〉だけじゃなくて〈文々。新聞〉にも広告出してることはちょっとなぁって思うわけ。あっちは夕刊だけどさぁ、まるで私の新聞だけじゃ足りないみたいじゃない」

 きっと話を持ち掛けられた時、嬉しかったのだろうなと椛は綻ぶ口許を湯飲みで隠しながら思った。
 鴉天狗の大半は一物腹に抱えたような言い回しをするが、彼女に限ってその印象は間違いである。派手な見た目に反して真面目であり、書く記事もそんな性質が反映された雰囲気――着眼点は鋭いとはある鴉天狗の言――を纏っている。それ故の地味さと、報道以外のミニコーナーが少々陳腐なのはご愛敬か。
 大体の不満を吐き出してスッキリしたのか、話題はコロコロと変わっていった。最近出来た人里の甘味処の話や、昨日作った料理の話、幽霊楽団の新曲の話、果ては詰所の隙間風の話まで、本当に意味もなく、でも悪くもない時間を過ごした。
 気が付けば交代の者がやって来る刻限になっていた。随分話し込んでしまっていたらしい。
 空いた湯呑みを洗い、交代の挨拶を済ませると、詰所を出る。日が昇り切れば多少は暖かい。

「すいませんはたてさん。付き合わせる形になってしまって」

「ううん、全然いいよ。むしろ楽しかったぐらいだしね」

 邪気の無い笑顔を向けられ、むしろこちらが気恥ずかしい。表裏が無いのも困りものだ。
 と、はたては「そう言えば」と、首を傾げながら切り出した。

「私が詰所に入る前に文が出ていったのが見えたんだけど、何かあった?」

「……は?」

 思わずそんな声が出る。
 射命丸文という良くも悪くも天狗を体現しかたのような妖怪が、何も無いのに自分の処を訪れるなどあり得ない。しかも、特に悪戯を仕掛けられた様子は無かった。いや、実は既に仕掛けはされていて、それに気付いていないという可能性は十二分にあり得る。

「私が向こうから飛んで来てる時にさ、ちょっと慌てながら出ていったんだよね。てっきりまたくだらない喧嘩を――あ、くだらないとか言っちゃった」

 口を押さえて「今の無し、言葉の綾」と言い訳をするはたてだが、まるで聞いてはいなかった。
 特に何か盗られたわけでも、悪戯描きをされているわけでもない。だとしたら、居眠りを撮られた? その可能性は大いにあるのだが、違和感は拭えない。長く付き合いを持ってきたからこそ言えるのだが、その程度の為だけに態々早朝に詰所くんだりまでやってくるには――不本意ながら、自分はネタとして弱すぎる。そも、サボタージュ摘発記事ならば、以前二度程食らっているのだから、いくら記事に困り果てても使い回しはしないだろう。一見記者としてプライドなど無いように見えるが、根幹のさらにその根っこの部分だけは揺るぎ無いものだと端からでもわかる。
 ――回りくどい。目を背けるのはやめにしろ。
 それらしい理由付けを探す己を叱咤し、腰に挿した刀を見やり、瞼を閉じる。宿直であるため、いつもの大振りの剣と盾ではなく、鮮やかな朱鞘の刀のみを携えてきた。ひとつ、ふたつ、いやもっと沢山の思うところがある一振りなれど、そうそう手放せぬ品。
 射命丸文が突然やってきて、特に何事も起こさず帰った。そして傍らにはこの刀。
 瞼を開き、自嘲めいた笑みを浮かべた。特に理由もなく手に取った刀が、長らく閉ざしていた記憶を思い起こす鍵になるとは。開いた扉はきっと、自分のものだけではないはずだ。
 椛は、「なーに一人で納得してんのよ」と呆れているはたてを余所に、清算は近いかのかも知れないことを予感し、添えていた右手で刀の柄を握り力を込めるのだった。

◇◇◇

 例大祭二週間前。

 壊れた物は地面に埋める、そんな風習があるらしい。勿論どこで行われていて、どういう意味があり、いつからそれが根付いたのかなんて知る由もない。調べることも無いだろう。だが最後を迎えた道具を敬い、こうして弔ってやるのは礼儀として悪くはないと感じていた。とかく『幻想郷』において道具は時に意思を備え、言葉を介し、あまつさえ弾幕を駆使しながら下克上なる妄言まで吐き散らす始末であるのだ。生物にしてやるように、土葬にするというのは何ら不思議ではないだろう。
 東風谷早苗の手には随分古く、緑青の浮いた円盤。装飾が施された表面には亀裂が蜘蛛の巣状に走っていた。亀裂の一部は欠片となって崩れており、隙間からは白い何かが見えている。軽く爪で小突いてやれば、それがガラスのような材質であると分かった。随分曇ってしまっていて最早写し出すことは無いが、これは青銅鏡であるらしい。
 この鏡を本殿の裏手に埋めることを思い至ったのは、今から少し遡る。

 昼過ぎ。例大祭の準備をするに当たり、祭具の類いを引っ張りだし、余裕があるなら手入れしておかなくてはと、蔵の戸を開けることにした。年末年始の行事や細かな催しこそやっていたものの、準備が必要な規模の大きな祭は"引っ越し"てからは何だかんだご無沙汰で、随分と蔵に風を入れていなかったのは少し気掛かりであったのだ。
 蔵の戸は観音開きである。蝶番は錆び、動きが悪くなってしまっていて開けるに苦労したが、なんとか左右の扉を開ける。光が射し込み風が入った蔵の中、突如として無数の何かが飛び出してきた。それは齧歯類でも寒イボ必至の昆虫の類いでもなかった。半透明の翼を持ち、華やかな衣装を纏うそれらは『幻想郷』においてはありふれた自然現象の一部。突然根城を暴かれパニックを起こして飛び出してきた妖精達だった。
 早苗はドタドタと慌ただしい一瞬の出来事に放心。こんなこともあるんだなと妙な得心を抱きつつ、妖精により巻き上げられ埃が舞っているだろう蔵に袖で鼻と口を押さえながら足を踏み入れた。妖精達がいたならば荒れ果てていてもおかしくないなと内心辟易しながら、入り口より入る光に照らされた内部を軽く見回す。長物は倒れ、蔵書は落ち、飾りは妙な所に置いてありはしたが、荒れているという様子ではなかった。むしろこれは、突然の来訪者に驚いた結果のようにすら感じられる。

「意外と埃も積もっていないし、何も壊れてない……。ひょっとしたら妖精さん達普通に住んでただけなのかも。悪いことしてしまったかなぁ」

 不法侵入には変わり無いとはいえ、悪さを働いていた趣でも無し、『博麗神社』裏に住む妖精達のように見て見ぬふりというのもよかったかもしれない。
 蔵書を拾い上げ、元の場所に戻しつつ辺りを見回す。すると、背後で何かが落ちた。それは木製の薄い箱。落下の際の音からして、中には高密度な代物が入っているようだった。
 サーッと血の気が引く。
 結果的に、妖精達を驚かせたことで割れることが無いはずだった箱の中身、青銅鏡を割るに至ってしまったのだった。

 季節感の薄い額の汗を拭い、シャベルを地面に突き刺すと、しゃがみ込み手を合わせる。
 あれは私のせいではありません。妖精が悪いので、もし復讐する算段などがございましたらそちらにお願いします。そんな自己保身のみを第一にした祈りを一つ捧げると、シャベルを回収し、敷地の端に作った簡易土葬地を後にした。
 埋めた鏡より、ドロリとした何かが這い出るのを感付けるほど、東風谷早苗は慎重な人物では無かった。

◇◇◇

 彼女にとって御山とは一つの市場である。かつて魂の複製を込めた弾幕遊びにも使える、蒐集を目的としたアビリティカードは山の商人達を引き金とし、『幻想郷』全体に流通させることが出来た。その他にも、山の印象を良くする為に、他の大天狗からの提案を全面的に承諾し、飢饉手前の人里に食料を解放したりもした。人里の掌握は課題であったから、お誂え向きだったと言えよう。
 この地全体の事情、及びムーブメントは『妖怪の山』から。その考え自体はかの神とも共通であり、そういう意味ではいいビジネスパートナーである。
 とは言え、一方的に条件を鵜呑みにするほどお人好しではない。鵜呑みにさせてやったと勘違いし、満足させておいて、最終的に大きな利益とさらなる利益への足掛かりは我々が得る。それこそが大天狗である飯綱丸龍の考えた、『守矢神社』の三柱との最も適切な付き合い方であった。
 下手な動きをすれば、早急に博麗の巫女が動くことになる。ならば蓄えられるだけ蓄えられてから、"後片付け"として異変解決に出向いてもらう。その根回しという意味でも、東風谷早苗との接触も大いに意味がある。つまり、この度の面会は天狗の手が回りやすくする、触りにもなるのだ。
 その為にも両神社を射命丸文や、犬走椛に見張らせていたというのに、椛はあまりに不干渉。文はどうにも入れ込み過ぎる。ある意味では、姫海棠はたてがもっとも俯瞰的な物の見方は上手いのだが、如何せん邪気が無さすぎた。天狗とは思えぬ純粋さにむしろ将来が怖い。
 空中索道が建設されてからというもの、人間の出入りが激しくなっている。天狗とは一陣の風を纏いて飛来するものだが、それでは少々具合が悪くなってしまった。尖った耳を隠すのに傘を被り、あたかも修験者のように錫杖を携えて、他の参拝客と同じように階段を登るのも悪くない趣向だ。
 何組かの人間とすれ違い、社務所に向かう。畏まった内容ではないのだから、話をするならば本殿というのは少々仰々しい。あの神はそういう点において割かし軽い。
 案の定、話しに来た神――八坂神奈子は仰々しさの権現とも言える注連縄飾りすら見せず、ちゃぶ台の前で胡座をかいてこちらを手招きしていた。

「やれやれ、手を合わせた神がそのような姿だと知れたら、この神社の評判はがた落ちであろうな」

 笠の唾を指で摘まんでくいと上げ、呆れた表情を見せた龍。しかし神奈子はそれを一笑に伏して言う。

「何を言う。今時これぐらいの気軽さは必要なのだよ。畏まるのは年に一、二度で十分なのさ」

 そうのたまう神にならい、履き物を脱いで社務所内の休憩室に入り足を崩して腰下ろす。神奈子はちゃぶ台に頬杖をつき、人懐こい笑みを浮かべて話を切り出した。

「まずは守矢例大祭への協賛、礼を言うよ。天狗と手を組めるのは円滑な運営には必要不可欠だったからね」

「こちらとしても山が潤う興行は願ってもいないからね。とは言え、我々が協力出来る範囲は絞られるぞ。現状、鴉達に宣伝させているようだが……あとは麦飯握りの出店なんてどうだろうか」

「いやそうじゃなくて」

「美味いぞ。栄養もあって優秀な兵糧だし、何より安価で……」

「いやそうじゃなくて」

 神奈子は龍に対して裏方による支援を求めていた。
 『妖怪の山』において天狗は実質的な支配権を握っている。それは最大勢力であり、上に立つだけの力があるのは勿論であるが、何よりも山の経済水準を上げることに尽力する姿勢を他の種族が好意的に捉えたことによるのだ。先のアビリティカードに関する事件も、界隈に新たな稼ぎが舞い込んだことで、それを企画した天狗は評価を上げている。妖怪の場合は人徳と呼ばれる、仙人辺りがなりがちなポジションに対して何ら興味を示さない。必要なのは己の利となるか否か。つまり、天狗――飯綱丸龍という大天狗が協賛することで、利となる可能性を感じた妖怪らが集まり、盛り立ててくれるという算段だった。

「つまり我らは何もしなくていいと? とんだ客寄せ……いや、商人寄せの道化だな。まぁこちらにもある程度の分け前があるのであれば構わないが……」

 解せなかった。こんな話であれば、いつも寄らせている他の天狗にでも話をすればいい。態々呼び出したのには理由があるはずだ。口許を曲げた人差し指で軽く触れながら、龍は柔和な表情の下、様々な可能性への対応を思案した。

「話はまだはじまったばかりだ、それにそんな警戒するようなことは言やぁしないから安心しなよ。まぁまずはこれでも呑もうじゃないか。別にいけないクチじゃあないんだろう?」

 神奈子の傍ら、小さな氷室――冷蔵庫から取り出したのは、茶色の硝子で出来た瓶だった。口は木やコルクではなく、金属製と思しきもので封じられている。

「こいつは麦芽酒。外じゃビールなんて呼ばれる酒でね、決して高価なものではないし、畏まった席ではあまり出さないような類いの代物だ。ただ――」

 神奈子は蓋を開け、同じく冷蔵庫から取り出した透明の硝子で深めのぐい呑みに注いでいく。茶色の硝子で分からなかったが、内容は黄金色でキメ細やかな泡立ち、何とも美しい酒だった。

「腹を割って話をする場にはもってこいの酒なのさ」

 そう言って麦芽酒をぐいと煽ると、一気に呑み干した。「どうした、怖じ気づいたのか」と言わんばかりの挑発的な眼に、苦笑しつつ軽く呑み切る。

「ふむ、味を批評するより呑むという行為自体に重きを置いた酒なのだな。宴会なんかでも使えそうな一杯だ。とは言え、苦味自体も悪くはない」

 中身の無くなった硝子のぐい呑みを弄びながら、龍が落ち着いた声色でそう述べると、神奈子は愉快げにカラカラと笑った。

「大天狗様も随分と酒にご執心みたいだねぇ」

「天狗が人間から赤い顔をしていると勘違いされたのは、戦いながら杯を傾けていたからと言われてる。なれば大した不思議もありゃしないでしょう?」

 そんな戯れ言に「違いない」と笑い、代わりを注ぎつつ、この酒を大層好むらしい神は話を切り出した。

「これはこちらからの提案……提案?」

 何故疑問系。
 神奈子自身、腕を組み首を傾げながらも続ける。

「まぁなんだ、うちの風祝が言い出したことなんだが……剣による天覧試合をしたいと」

 心中察するに余りある。東風谷早苗という神物は中々に破天荒なようだ。本当に彼女と接触して利益があるのか不安になってきた。
 そして理解する。こんな話は下っ端に話せば妙な噂になりかねない。確かにこれは警戒に値せず、酒をふるまって貰わなければ聞くに耐えない内容だ。

「なんでも、せっかく『幻想郷』には天狗がいるのだから、本物の刀による試合を見たい。きっと客も喜ぶ……だそうだ。子供の頃に見た何かがそんな印象を持たせているみたいで……」

 頭が痛くなってきた。それは眼前の神も変わらぬようであり、酒の力を借り言ってみたはいいものの、口に出すことで改めて突飛な提案だと理解するに至ってしまったようだ。
 確かに神奈子は軍神だ。戦うことで土地を拡げ、支配し、与えてきた。だが例大祭において必要なのは、どちらかと言えば豊穣神としての側面。そんなハレの日に流血沙汰などあれば、守矢の神は血を好む等と思われかねない。
 だがこの神、擁する巫女の我が儘を容認したいという考えもあるらしく、そんな二枚の板に挟まれている状況であるようだ。
 龍は呆れつつも、思案する。
 巡らせるのは、そんな阿呆の言を如何に儲け話に繋げるかだった。儲けとは、単純な金銭的なものだけではなく、その後の天狗の立ち位置が有利になるよう働きかけるという意味もある。
 祝いの日、そんな中でも血生臭くなく、かつエンターテイメントとして客を喜ばせる内容。さらに、利を得るまさに一挙両得の案。

「剣、剣ねぇ……」

 思い付く。
 かつての負債を未だに抱える愚か者と、愚か者に負債があると知らぬ実直者。その二人に剣を交えさせたらどうなるか。
 利益というより、愉快ではあるだろうなと、龍の中にいる管狐よりも邪で悦を求める心が囁いた。
 ある鴉天狗による"嘘偽りもかくやという記事"を頭の中で反芻しながら、黄金色の酒を飲み干すのだった。

◇◇◇

 例大祭一週間前。

 空が赤みを帯びる頃、一本歯の下駄を鳴らしながらゆっくりと歩く。いつもより、ずっとゆっくりと。腰に挿した細身の刀に左手を預け、右手には夕食の食材が詰め込まれた籠をぶら下げる。時折聞こえる家族の団欒に頬を綻ばせながら、椛は『天狗の里』、居住区を歩く。
 仕事と鍛練で疲れているし、もう少し簡単なもので済ませてしまうのが常なのだが、今日は特に理由もなくちゃんとしたものを食べたくなった。幼き日、ある天狗が常々言っていたことを思い出す。身体を作るには鍛練は勿論、食べることも重要だ、と。
 すっかり忘れて――というより上書きされて――いたが、今の自分を作ってくれたのは、他ならぬその天狗であった。
 身のこなし、太刀筋、所作に至るまでを叩き込まれ、その癖本人は飄々とし、まさに天狗を体現したかのような妖怪柄。椛にとって、彼女は――
 ふと、"嫌な風"が頬から髪を撫であげた。明らかに嫌がらせの体で吹いた風。その発生源を眼で追えば、本気で不愉快な顔がそこにあった。木に背を預け、帽子の唾を摘まみ、カーキ色の取材スタイルの鴉。射命丸文を一瞥しつつ、無視して通り過ぎようとする。が、首根っこを掴まれ引っ張られた。

「うぐぇっ、何をする!」

「無視しようとするからよ。こちらは一応用向きがあって待っていたのだから、ちゃんと部下らしく頭を下げなさい。いや、飼い犬の方がいいかしら?」

 顔を付き合わせればこれである。椛は舌を打ち、襟を掴む手を振りほどきながら向き直る。腕を組み、やっと聞く気になったかと鼻をふふんと鳴らした文に、雑に頭を下げた。

「で、何の用だ。お前の暇潰しに付き合っていられるほど、私は暇じゃあない」

 そう突き放すと、文は逆に面食らったようだった。なるほどと勝手に納得してその軽い舌を回し始める。

「どうやらあなたにはまだ話が来てないみたいね。まぁ理解は出来るかな。そりゃあ私とあなたでは積み上げてきた実績が違うから」

 ねちっこい嫌味を挿入しなければ死んでしまうのかこいつはと、怒りよりも呆れが先行してしまいつつあった椛だが、何やら文と椛、どちらにも関連のあることのようだ。
 文は背を預けていた木から離れ、背筋を正して相対した。

「……んぉほん、大天狗様より伝聞よ。来る守矢例大祭にて、我々天狗は全面的な協力を約束。その折、訓練刀による〈鐘突〉模擬戦を観客の前で執り行う。対戦札は犬走椛、そして――」

 待て。総毛立ち、背中は悪寒が走り、眼は見開く。待って欲しい。

「私、射命丸文が務めることになった……叩きのめして上げるから、ちゃんと覚悟しておくといい」

 何故こんな形で。確かに文との清算はするべきだと考えていた。しかしこのような、他者から背中を蹴飛ばされてまで作られた状況下など、誰が望むというのだ。
 何か反論しなければ。こんな風に乱されるのは望んでない。だが、椛の口は真一文字に閉じられたまま、何も語ることは無かった。
 それに気付いたのか、はたまた文句も言わないのが肩透かしだったのか、文は鼻を鳴らして左を通り過ぎる。
 その時、微かにだが、耳朶を震わせた言葉があった。

――まだそんなナマクラ持っていたのね

 背後、遠ざかる文の気配を感じながら、椛は俯く。
 昔からそうしていたように、朱鞘の刀、その柄を握る。何か不安に思ったり、誤魔化したり、奮い立つ時、決まってこの刀の柄を力一杯握った。この刀以外ではこんなことをしないことから、やはり自分はかつての記憶に縛られている。そう改めて認識することになった。
 変わった。変われたと思っていた。だが違った。こんなちょっとしたことで思い出す。なんと弱い。他人に心の行く道など解けた義理ではない。
 気が付けばすっかりと夕日は沈み切っていて、帳が夜の住人達の喧騒を連れて、降りてこようとしていた。

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