2.5. 約束―memory―
あの日から、鴉天狗との奇妙な師弟関係は続いていた。
お互いに周囲の眼があることから、職務と訓練を終えた夕刻より密かに修練場で待ち合わせ、剣を交えていた。鴉に偏見の無い白狼の友人曰く、まるで密会のようだと冗談混じりに揶揄されたが、そんな不誠実なものではないと否定しておいた。
あれからと言うもの、渡された朱鞘の刀は存外手に馴染み、最近に至るまで晒し続けた醜態は次第に無くなっていった。抜刀の所作、構えに型、体重移動に軸の捉え方、そして心構え。全て今までまるで意識していなかったが故に、衝撃を受けた。たったこれだけのことでこうも変わるのか、と。
夕刻訓練ではまだ使っていないが、昼間に振るう大剣。まだ満足な振り抜きこそ出来ぬものの、無様なことにはならなくなっていた。成りは違えど同じく刀。重さがまったく違うのに鍛練になるのかと半信半疑であったが、どうやら効果はあったらしい。そんな私の突然の変化に同僚達は驚き、友人は笑みを浮かべた。
次第に、ある野望が頭に浮かぶようになる。
「強くなりたい。皆を守れるような」
ことあるごとにそう嘯き、鴉は聞く毎に「なれるように頑張りな」と諭すようだった。
夕刻。いつものように木刀をぶつけ合う。一本歯の下駄を脱いでも尚高いそのひとの顔を見据えながら、剣を振るう。鴉は逆手に木刀を持ちながら、私の攻撃をいとも容易くいなして見せた。
袈裟は少し下がりながら軽く受け止められ、腹部を狙った水平は、視線を動かさず、身体に木刀を沿わせる持ち方によって防がれ、上段は――
「はい、だめー」
構えすら解き、わざとらしい笑みを湛えると、瞬間私の視界が理解不能な動きをした。――実際は、右足で私の踏脚を一払いし、突進した勢いそのままに背中から転ばされたのだ。受け身も満足に取れず、口から獣染みた悲鳴を上げながら、私の意識は遠退いた。
気が付けば、なにやら心地よい風が顔を撫でていた。後頭部には痛みもあるが、柔らかな感触もある。視界が開けば、天狗扇を扇ぎながら瞼を閉じた鴉の姿があった。
「あ、起きた。大丈夫? 意識はっきりしてる?」
扇ぐ手をやめ、代わりに私の瞳を覗くのにずいと顔を寄せてきた。近い。深紅の綺麗な瞳が間近にあり、吐息の掛かる距離。友人が言った"密会"という言葉が頭の中を乱しに乱す。狼狽を悟られぬようなるべく平静を装うが、視線が定まらなくなる。
「ごめんね、ちょっとやり過ぎた。〈鐘突〉が近いって聞いたら、張り切ってしまって」
月末に訓練生による〈鐘突〉が行われる。基本は三対三となるが、競技の性質上、一人一人の実力差は大きな優位となり得る。故に、少しでも足を引っ張らないためにも、より気合いを入れて励まなければならなかった。
ばつの悪そうな鴉天狗に、自然と心は鎮まった。変わらず膝枕の感触は気恥ずかしいものの、今なら喋れそうだ。
「私の悪い癖なんです、あれ。最初はちゃんと考えながら動くのに、上手く行かないと焦ってしまって、前へ前へと……」
そう、悪癖だ。
以前、訓練生数人による編成で山の哨戒訓練をしたことがある。実際の哨戒任務と変わらぬ内容であったがために、緊張もしていたのだろう。他の訓練生に遅れを取らぬようにという思考は判断を鈍らせ、危うく境界侵犯を犯すところであった。教官には絞られ、同じ編成隊の皆には迷惑をかけてしまった。
〈鐘突〉にしてもそうだ。仲間が一方的にやられているのを目の当たりにした瞬間、いても立ってもいられず、防御を捨てて助けに走った。勿論、がら空きになった鐘を即座に突かれ、その試合は無様な敗北を喫した。
今のような打ち合い稽古で自棄を起こしたような立ち回りは、最早日常的である。いくら扱いはましになろうとも、根本がこれでは話にならない。
「ところで、君は以前自分が持つのは千里眼の力だって言っていたよね」
突然の話に一瞬返事が遅れるが、肯定する。
私が持つ《千里先まで見通す》力は、山から眺めれば遥か先まで目視出来る。拡大率も自在であり、まさに哨戒、警戒、防衛の任務に最適だと言える力だ。だが見えるからと言って、実力が伴わなければ侵入者から山を守るなど土台無理な話。宝の持ち腐れだ。
そんな意気消沈具合を察したのか、鴉は頭を優しく撫でた。
「きっと前を見続けてしまうのはそれもある。どこまでも見通せるからこそ、視野が狭くなってしまっているんだ。もっと広く物事を見てみるといい。あー……前に言ってたじゃない、将棋好きって。盤面見るみたいにさ」
「……適当言ってませんか?」
「あややー。ごめんね。私ゃこういうのあんまり得意じゃない方でさ」
邪気なくそんなことを口にする。そして照れ隠しなのか、優しかった手つきが乱雑になり、頭をわしゃわしゃとかき回された。
それから暗くなるまで打ち合いを続けた。終わり際、こちらが息も絶え絶えだと言うのに、鴉はまるで息を荒げない。元々の体力ならば、白狼の方があるのは間違いないというのに。
汗でべたつく顔を洗い、鏡を見る。心なしか以前よりも顔つきが引き締まったように思えた。これも毎日の鍛練の成果か。ふと、脳裏に過るは鴉の顔。変われつつあるのは彼女の尽力あってのこと。何か、礼をしなければ。
支度を済ませ、私が修練場を出る際、鴉は思い出したように忠告を口にした。
「そういえば、最近人・妖構わずに襲い掛かる飢餓に喰われた妖怪がうろちょろしてるって話だ。見回りは出ているけどこの暗さだし、気を付けて帰るようにね」
「教官もそんなこと言って……って髪なんでそんなするんですかっ」
「いやぁ、いい触り心地だからさぁ」
また髪をわしわしとされながらも、揺さぶられる頭の中に飢餓妖怪に関して反芻していた。
妖怪の中には、飢餓感に陥り我を喪うものが度々出てくる。それは天狗のような知慧を得たことで転身した存在ではなく、より動物的、自然的な妖怪が飢餓を感じやすい。そして飢餓状態が長く続けば理性を失い、人妖としての姿を維持出来ず、ただの猛獣に成り果てる。
確かにここのところ、教官をはじめ上の白狼達が少し緊張感でヒリついていたように感じられた。天狗にまで襲い掛かることは滅多にないが、それでも用心するに越したことはないだろう。
修練場を後にし、いくつかの林を抜け、居住区に差し掛かる。家屋の窓から漏れる灯りと、楽しげな宴会や団欒の声を聞きながら、私は鴉へのお礼について考えていた。
何が好きなのか、逆に何が嫌いなのか。普段どんなものを着て、どんなところへ赴くのか。夕刻訓練をはじめてから早一ヶ月。私のことは話した。千里眼のこと、おにぎりと将棋が好きなこと。他にも色々。しかし私は鴉のことをまるで知らない。強くなるために必死なのはある、それでも一切彼女を知らないのは、意図的に話をしていないということ。
訓練で使うことはない。でもお守りとして常に脇にある朱鞘を見やる。
「知りたいな。あのひとのこと」
そう独り言ちて、空を見上げる。季節柄空気が澄んでいるからか、星がいつもより輝きを増し、数も多いように見える。さらには流れ星も。
天狗は凶兆を示す天津甕星(アマツカミボシ)などと言われたりもする。そんな天狗が流れ星に何かを託すのは滑稽かもしれない。それでも人間がそうするように、一条の星光に想いを馳せ、時に願うのも、なんだか悪くない気がした。
刀の柄を握り、眼を瞑る。
――試合の勝利を。あのひとと、より親密になれることを、切に。
◇◇◇
本来の試合では真剣を用いるが、あくまで訓練の一環であるため模造刀を使用する。木刀でないのは、形状が違うことで実戦経験を損なうからである。あくまで刀同士による戦闘経験に意味があるのだ。
しかし、私は試合開始ギリギリまで、両手でしっかりと朱鞘の刀を握っていた。緊張から心臓が早鐘を打っていたが、刀を握り、深く呼吸をすれば、自然と鼓動が、世界が静かになった。不思議と緊張も和らいだ気がする。
そろそろ前の組み合わせの試合が終わる。名残惜しいが暫しの別れと言わんばかりの表情でもしていたか、幸い同じ編成となった友人が耳打ちしてきた。
(それ、恋人さんからのお守りか何かなのー?)
全身の毛が不思議な感情と共に総毛立つ。
「違うから! そういうんじゃないから!」
思わず大きな声で否定する。一瞬の静寂と視線が痛い。縮こまる私を笑顔で見てくる友人を恨む。
周囲の興味が薄れた頃合いを見計らい、友人は耳打ちを続けた。
(別になんでもいいけどさ、あんまり入れ込み過ぎない方がいいよ。禁断の恋って感じで燃え上がっちゃう気持ちはわかるけどね)
(? なんで? あと恋じゃないし)
(なんでってそれは……まぁ、まだわからない感じの話かも)
(馬鹿にしてる?)
(馬鹿になんてしてないよ。ただこれから経験していくことだから)
(歳、対して変わらないじゃん)
(こういうことは、歳とかカンケー無いの)
澄ました顔をした友人の横顔を見ながら、首をかしげる。以前から彼女は私には難しいことを、度々口にする子であった。たまに貸してくれる本も、私には難解なものばかりで理解できた試しがない。
と、決着の鐘が響き渡り、いよいよ私達の編成の出番だ。最後に強く、刀に想いを込めると、奮い立つ。刀を座席に立て掛け戦場へ向かう。
今ならきっと勝てる。
決着は早かった。どの編成よりも早かった。
直前、戦場から悲喜こもごもの表情をで退散する仲間達を得意気に見送った自分を恥じる。
「こんな無様な負け方……」
私は完全にやらかしてしまった。やる気と決意が空回り。やることなすこと全てが裏目。最早そういう喜劇のようだと笑えてしまう程に上手くできた失敗具合である。
刀の鞘を掴み、見つめる。所詮は願掛け、とは言え衝撃は大きい。自分は思っていたよりずっと成長していなかったのだ。
落ち込む私を友人と、同じ編成の訓練生が肩を叩いて慰める。気にするなといった意味合いの視線を向けてくるが、より惨めな気分になってしまった。
結局、一試合目よりはましとは言え、士気を失った者のいる編成は脆い。その後の試合でも大した戦績は残せることがなく、最終順位は最早見るまでもなかった。
私はただ責任を感じていた。二人は強い。つまり、負けた理由ははっきりしている。
きっと私には、才能が無いのだ。
◇◇◇
「は? 勝てるわけないじゃない。何を自惚れてんのよ」
そんなことを開口一番に吐き捨てられたのは、〈鐘突〉で壮絶なる敗北を味わって以来、少々期間が空いてから久しぶりに行った夕刻訓練の日であった。まるで歯に衣着せぬ正論に、労いの言葉を多少なりとも期待していた私の瞳からは、不覚にもほろりと涙が零れた。
「わ、わー! ちょ、泣かないで? ね? あっ、おにぎり食べな、ね?」
今まで見たこと無い狼狽っぷり。やはり不遜が常の鴉天狗と思えぬお人好しだと、貰ったおにぎりを頬張りながら思った。
「おほん、言葉が悪かった。言いたいのは、編成での立ち回りを学んでいないのに、勝てるわけがないってこと。ただでさえ君は自分のことで常にいっぱいいっぱい。きっと座学も集中出来て無かったでしょう」
口の中の米を飲み込み、俯き、思い返す。言われてみれば、最近は夕刻で学んだことの反芻を頭でしていたのもあり、あまり座学に身が入っていなかったように思う。反省すべき点だ。
それを察したのか、鴉はわざとらしく嘆息し、わしわしと髪を乱してきた。以前からだが、このひとはやたらと髪を触りたがる。
「まったく呆れるわねぇ。やっぱり眼が良すぎるのも考えものだわ。見える範囲が全てと勘違いしがちだもの」
鴉は木の床から立ち上がり、壁に立て掛けていた朱鞘の刀を手に取り、半身引き抜き、再び納刀。刃が鐘を鳴らしたように鳴動すると、周囲は暗闇に包まれた。壁は消え、床は石製に変わる。私は突然のことに驚いた。見慣れた修練場がこんなことになるなんて。
「別にここを使うのは、小さな剣士だけじゃないのよ」
言う鴉の背後の暗闇より、両手に木刀を携えた木人が現れる。数は一体。しかし気配はもっとある。
鴉は腕を組み、修練場の中心に立つ。
「察しはいいみたいね。これは状況確認をし続け、目の前の敵を排除する訓練。木人の攻撃や魔道器からの弾幕、それらから対象を守りつつ立ち回りなさい」
「対象?」
「そ、対象。全方位から襲われるんだから、〈鐘突〉より難しい。ちゃんと"私"を守ってね」
何やら含みを持たせつつ笑みを浮かべる鴉に、私は辟易する。訓練とは言え、自分より強い者を守ることに対して疑問を覚えてしまったのだ。そんな不満が顔に出ていたのか、鼻を軽く摘ままれた。
「私達は天狗だ。守るべき者は弱者じゃあない。我々よりも強きを持ち、しかし力を行使しない、そんな鼻持ちならない連中を守ることになる。確かに解せないだろうが、そこは変えられない」
以前から、引っ掛かりを覚えていた。
白狼天狗が勤める哨戒役は時に重役の警護も仰せつかる。しかし、そんな露払いなど要らぬ程に、重役の面々は力を持つ。煩わせない為とも言うが、そもそもちょっかいを出してくる妖怪など神や鬼ぐらいなもの。そこまで来れば、大天狗も天魔も立ち上がらざるを得ない。下っ端程度では手も足も出ないだろうから。
ならば、私達は何のためにいるのだろう。
鼻を手放し、鴉は目配せしつつ朱鞘の刀を投げ渡してきた。
「難しいことは置いておこう。今必要なのはその眼で何を見定めるか。考えるのは定まってからでもいいでしょう?」
そうだ。些末な疑問も引っ掛かりも、強くなってから改めて考えよう。
私は受け取った刀を抜刀し、顔の無い木人を睨み付け、突貫するのだった。
◇◇◇
哨戒部隊に被害が出た。
それが判明したのは明朝、まだ薄暗い中での出来事であったという。訓練生を含む三人一小隊での行動中に何者かに襲われ、一人が負傷した。大きな傷でこそ無かったものの、『妖怪の山』――天狗の領域での明確な敵対行為は珍しい。下っ端とは言え、並の妖怪には劣らぬ力を持つ天狗に手傷を負わせるのだから、尋常ではないのだろう。
撃ち上げられた救難信号弾幕。それに駆け付けた別動隊曰く、その妖怪は屈強であり、言葉は介さず、様はまるで熊のようであったという。しかしただの動物風情に天狗が負ける筈もない。つまり、それこそが山に現れたという飢餓妖怪であると、大天狗は判断した。
白狼天狗は勿論、鴉天狗、鼻高天狗まで駆り出され、昼夜問わずの大々的な"索敵"が行われることとなった。多くの天狗が参加することで、一部の通常業務は一時期に休止され、その中には哨戒部隊の訓練も含まれていた。それを喜ぶ者も少なくなかった――というより大半であったのだが、私はそれをよしとするつもりには到底なれそうに無かった。そのような非常時だからこそ、備えるべきなのではないかと。
私はその日も変わらず、朱鞘の刀を腰に差して修練場に向かった。
いつもならば騒がしい居住区は静まり返り、いくつかの林はどこか不穏な雰囲気を孕み、すれ違う天狗達は皆険しい表情。空気が張り詰めているのがわかる。そんな雰囲気に少し気圧されながらも、なんとか修練場に到着した。
引き戸を開けて、息を吐く。最近は休みの日まで足しげく通い詰めていたのもあり、ここが妙に落ち着く場所となっていた。
下駄を脱ぎ、いつも座っている定位置で正座を組み、眼を瞑る。
「……むぅ」
瞼の下、眼球が何かを見たいと疼くような、感覚。口許を歪め、落ち着けと自身に内心言い聞かせるが、やはり駄目だ。どうにも、私には精神統一の類いは向いていないらしい。
諦めて瞼を開くと、眼前に見知った顔があった。正座する私をしゃがみつつ眺めている紅い瞳。気配は無かった。一気に脂汗が出る。
すぐに解決するとは言え、このような事態の最中、勝手な行動をすれば大目玉だ。しかしそこは算段があった。これだけの騒ぎであれば確実に彼女も出払っているはず。故に、見つかることもないだろうと。甘かったと言わざるを得ない。
鴉が立ち上がると、肩が震え首をすぼめた。怒声が耳朶を打つか、はたまた拳が頭に振り下ろされるか。しかし、どちらも来なかった。覚悟が空振りしてしまい、なんとなく、拍子が抜けてしまう。
「あの……」
何かを聞かなければ、この沈黙に耐えられそうに無かった。しかしそれ以上口は動かず、やがて俯いてしまう。ずっと胸にあったのは焦燥。今そんな焦燥を押し潰すように罪悪感が噴き出している。
俯く頭を、突如わしわしと乱す彼女の手。
「いずれ皆を守れるようになりたいやつが、わざわざ守られる側に立つのは感心しないな」
「でも、一匹ぐらいならすぐに――」
「どうして一匹だとわかるの? もし複数いたら? 次は群れを成して来たら? 視野が狭いというのはそういうところよ」
戒める声色はいつもと変わらないが、どことなく安堵しているようにも思えた。
己のしでかしたことへの予想外の反応に戸惑う私を見て微笑んだ鴉は、少し感慨に耽るような表情を見せながら、続けた。
「昔、言われたことがある。力があれば――"弱きを守る刃となり、連綿と続く営みを繋ぐことは出来る筈"……なんて。これから先誰かを助ける度に、その先に続く者、さらに先に続く者を守ったことになる。それは天狗、他の妖怪、あるいは人間かもしれない。君が死ぬということは、そんな彼らを見捨てるに等しいことよ」
「先に続く者……」
私が思わず口に出すと、急に気恥ずかしくなったのか、少しだけ頬を赤らめながら「ガラにもない話だったわね。忘れて」と鴉は咳払いした。
言いたいことは大いに理解できる。正しいとも思う。後進を導く師として立派な方向性だ。
刀の柄を握る。掌が痛むぐらい、握る。
それでも――やはり守るには力がいる。
理解した風を装い、外面を繕いながら、鴉に礼をした。今にして思えば、これでは最早どちらが嘘吐と罵られる鴉なのか分かったものではなかった。
◇◇◇
多くの天狗の手により、飢餓妖怪は数刻の内に討たれた。
聞けば、最初に小隊を襲った一体以外に、計二体が発見され、全て討滅されたのだという。哨戒部隊は不意を突かれたが、事前に支度をし警戒を怠らなければ手傷を負うことなどあろうはずもない。力を持ち、思慮深く、常に優位な立ち位置から見下ろす。それが天狗という妖怪なのだ。
それから数日。
どうにも彼女の考えが読めない。私はずっと考えていた。
守るための剣。そこの認識は共通であるはずだ。私は守るための力を。だが彼女の場合、口では力が必要と言いながらも、己を守る剣を修得させることに終始しているように感じられる。実際、木人を用いた訓練において、危ない瞬間は必ず助けるように動いていた。
今回の飢餓妖怪騒動にしても、訓練生は教官の元、前線に帯同を許されていたと聞く。一方私は訓練すらさせてはもらえず、事態が終息するまで修練場で待機だった。その間、ずっと頭を撫でられていたせいで髪はぐしゃぐしゃなまま直らず、頭にはまだ感覚が残っている。
友人との帰り道、私は深々と嘆息した。
「おやおや、とても大きなため息ですね」
「色々あんの」
「色々……さては例の恋人さんと何かあったな」
「だから恋人じゃないし、師匠みたいなやつだし」
「どっちでもいいけどさ、辛かったら別れる勇気も必要だからね?」
またこの恋愛頭はと呆れはしたが、別れる勇気に関してはなるほどと思った。それでもいいかもしれない。
腰に差された鞘を見やり、柄を握ろうとして、やめる。
彼女が私に教えてくれたことは多大である。しかし、彼女が指し示す最終目標は私が目指す処とは違う道筋だということが、薄らと見えてきている。ならば、そのことを話し、お礼をして、離れるのがいいのではないか。
頭で離縁の光景を想像してみる。多くの選択肢があったが、どうにも、複雑な心境になってしまう。
出会い、そして関わるのは簡単なことだが、離れるのは案外難しいのかもしれない。
腕を組み、うんうんと唸る私を見て、友人は愉快そうに言う。
「すぐに答えを出す必要は無いと思うけどね。ただ曖昧な関係が一番尾を引くし、お互いに不幸になるからはっきりした方がいいってだけ」
「ちょっと声楽しそうにしてんじゃん」
「楽しいんだもん。仕方ないじゃん」
答えの出ない、出す気もないそんなよもやまな話として私の苦悩は消化されていく。
――今にして思えば、もう少し真面目に考えておけばよかったのだと、後悔だけが残る。
私は常に誰かの言いなりだ。訓練生としても、彼女の弟子としても。そして悩みすらも、誰かの言いなり。
友人は何かを思い出したかのように耳をぴくりとさせると、私の右肩を掴み、含みのある笑みを浮かべる。
「そうだ。君に是非目を通して頂きたい本があるんだ。ちょっと家に寄っていきなさいな」
友人は度々よくわからない本を読ませたがる。そして困り果てた私の顔を見て、いい顔をするのだ。逃げようにも彼女は押しが強く、必死の抵抗も無意味だとわかってから、渋々ながらも付き合うようにしている。
この時鴉が言ったように、つぶさに周囲に気を配っていたならば、もしかしたら、向けられる視線と殺気を捉えられたのかも知れない。
――後悔、またひとつ。
◇◇◇
私は焦っていた。
いつもよりも速く、風すらも追い越して飛翔する。しかし裏腹に、気持ちばかりが先に行く。故に、もっと速く。
それは、夕刻にいつも現れる愛い子の相手をしてやろうと修練場に向かっていた時のこと。道の端で物々しい空気を纏った二人の白狼天狗がこちらに気付いて一礼した。見れば、簡易的な検問所が敷設されており、この道を行く者らを一人一人確認していた。
なんだか、嫌な感じだ。
張り詰めていた白狼天狗の一人に横から近付き、肩に腕を乗せながら、軽く耳打ちをする。
(これ、どういうこと?)
一瞬だけ眉根をヒクつかせ、真一文字に閉じた口を弛緩させると、白狼は仔細を語った。
「先日の飢餓妖怪騒ぎ、あの後我々は連中が寝床にしていたと思しき洞窟を見つけました。中は妖精達に荒らされた後な上、腐臭が酷く、鼻の利く白狼による探索は難航しましたが、妖怪の捕食痕を見つけ、そこが根城であったと断定しました。ですが……」
白狼は俯く。
「どうにも、見つかった捕食痕の数が討滅された数と一致しないんです。討滅されたのは三体、しかし捕食痕は四体分」
「一匹だけ大喰らいだったんじゃない?」
「もしかしたらそうかも知れません。ですがその四体目は、"五指を使って食べていた"ようなのです」
聞けば、大半の骸は食い散らかされたような捕食痕だったのに対し、一部の骸には五つの爪で刮ぎ落として食べたような痕跡があった。また、爪の大きさから体躯も人妖程であると判断されたらしい。
確かに妙な話だ。今回里に侵入した飢餓妖怪の形態は熊のような様相で四足。立ち上がることは出来ても、指を器用に操るには少々知性に欠ける。三体全てがそうあった以上、四体目だけが出来るとは考えにくい。
「あくまでかもしれない、ですが……万が一がありますから。我々に飢餓が紛れ込んでいないかこうして確認しているのです」
「なるほど、ご苦労なことね」
可能性は二つ。
一つ、異種である。完全に別の種族が共に行動していたなら、一匹だけが指を使った食事をしていてもおかしくはない。
二つ、飢餓状態ではない個体がいる。妖怪は飢餓状態が続くと"本来に近い姿となり、知性が著しく低下する"のだが――仮に飢餓に落ちず、知性を維持した個体がいたなら、その個体が、仲間が殺されるのを見ていたなら。
白狼達もそれを危惧したからこそ、検問を敷いているのだろう。人妖となれるならば、溶け込めることも可能だろうから。
私が白狼から離れ、顎に親指と人差指を当てて思考していると、もう一人の白狼天狗が何かに気付き、空を仰ぐ。そして呟くように言った。
「あれは、救難弾幕」
白狼の視線を追い、確認する。確かに救難弾幕が上がっている。しかし慣れていないのか形状がぶれている。その方角には――
「居住区の方だ! 今すぐ待機している警備隊に連絡を――」
背後、慌ただしく指示を飛ばす白狼達を尻目に、私は翼を顕現、下駄の一本歯で地を蹴ると、周囲の木々を激しく揺らす風を発生させながら飛翔した。
嫌な予感がする。夕刻、居住区、そして拙い救難弾幕。確率は高くはない。しかしどうしても脳裏に"あの子"の顔がちらつく。奥歯を食い縛り、最高速で飛行する。それでも遅い。
もっと速く。
もっと速く!
もっと速く!!
ようやく居住区が見えてきた。腰のベルトから天狗扇を取り出しつつ、地上を視認。居住区の入口付近に倒れる二人。巨体が一つ。周囲は火の手が上がっている。
私は広がり行く紅蓮の炎をかき消すが如く、全身に風を纏って急降下した。
――あの子の心だけは折っちゃいけない。あの子は、皆を守れるような者になってもらわなければ。
そんなエゴを、胸に抱きながら。
◇◇◇
そいつは突然現れた。
小さな少女の姿を取り、不気味なまでに表情を殺した顔面は、内に秘めたる怒りの炎を押さえ込むかのよう。
帰り際、友人との団欒を引き裂いて、少女は悲鳴を上げる。すると内側より溢れる敵愾心と復讐心が形になったように、人妖という殻を破って出でる者がある。それは威圧的、かつ暴力的な内面。まるで熊のような体躯と体毛ではなく鎧の如き皮膚、筋肉質の四肢、顔の左右には灼熱に燃ゆる器門があり、まさに怒りの化身という姿である。
上体を上げていななき、体重を乗せた前足を地面に叩きつけ、まるで焼印のように内部が赤熱した器門より、瞼を閉じたくなる程の熱風を放出。唾液を吐き散らしながら、咆哮を轟かせた。
はじめて、殺気を向けられている。
"怖れを失い"狂気に染まった瞳を向けられている。
鴉天狗や木人にも殺気はあるが、内心戯れと理解した上で噛み殺せる範囲に留まっていた。
だが修練場から出た先で出会った妖怪、浴びせつけてくる止めどの無いそれは、まさに感情の濁流だ。
殺意。
厭悪。
宿怨。
憎悪。
怨恨。
――食欲。
そんな物が入り雑じり泡立つことで身体に重くのしかかる。脚は固まり、思考はかき混ざる。それでも脳裏には、鴉の言葉が強く響いた。
――"弱きを守る刃となり、連綿と続く営みを繋ぐことは出来る筈"……なんて
腰の刀、柄を握り込む。一瞬、抜刀し果敢に挑むという選択肢が過る。しかし同時に、鴉から得た教訓を思い出す。
吠え猛る敵は眼前。友人も動けない様子で武器は携帯していない。実力、心境、多くを加味して勝ち筋、薄し。ならば今、自分がやるべきこと、やれることはなんだろうと、纏まらない頭に拳を叩き付け、無理矢理にでも思考する。冷静に、状況を把握し、最適解を――思い付く。
夕刻。陽は沈み、夜の帳が降りてくる。月と星が顔を覗かせ、妖怪が騒ぎ立てる頃合い。そして、私が修練場に向かう頃合い。
――ならば、修練場に向かう彼女が気付くかもしれない。
私は柄から手を離し、空に向かって掲げると、弾幕を撃ち上げた。拙く、形は崩れ気味だが、あのひとに――いや、誰かに伝わればそれが今は最善だ。
妖怪は救難弾幕を見るや、頭を振りながら私を睨み付けた。それはそうだ、何故ならば、あれが撃ち上がったことで仲間は殺されたのだ。妖怪からすれば、私は憎き敵に見えたことだろう。
即座に思考を妖怪に戻す。こちらに意識が向いたのは僥倖だ。友人を逃がすにちょうどいい。
朱鞘より刃を抜き放ち、軽く曲げた左腕に峰を当て、引きの構えを取る。殺気を込めた瞳で妖怪を睨み付けた。あの巨体を受けるのは自殺行為。出来るだけ引き付けて、避け続ければいい。こういう立ち回りは、鴉との試合で嫌と言うほど叩き込まれてきた。
妖怪は再び咆哮。突進してくる。狙い通り私に――来なかった。まるで視野に入ってすらいないように。剥かれた牙が並ぶアギトは、迷いなく友人を目掛け開かれる。器門から漏れ出た怒りの溶岩が周囲を火の海に変えながら、逃げようとした獲物を牙は逃がさなかった。踵を返し走る友人の右腕――不思議と身体が左へ押し出されたように見える。まるで誰かに肩を叩かれたように――を、いとも容易く噛み千切ったのだ。
片腕を失ったことで体勢を崩し、地に伏す友人。そんな彼女を意にも介さず、腕を咀嚼する妖怪。表情などない――しかし私には、奴が嗤ったように見えた。
瞬間、私はなにも考えられなくなり、恐怖すら感じず、妖怪に斬りかかった。振り下ろした刃は人一人はあろうかという巨腕に切り傷をつける。が、妖怪は大して気にもせず、ただ羽虫を払うように私の身体を軽く払った。それでも衝撃は凄まじく、小さな身体は簡単に吹き飛ぶ。呼吸が出来ず、吐瀉物を散らしながら地面に転がった。携えていた刀は地面に突き立ち、その先には動かない友人が微かに見える。手を伸ばしても届かない。
広げた指。この手では何も掴めないことを、こんな形で思い知らされる。歪む視界と、己の息遣いだけが聞こえる。
全霊を賭して何も成せぬまま。
命を賭して何も救えぬまま。
――いや、皆を守れるようになんて、カッコつけてただけかもしれない。鴉に師事し、言葉を残したかつての弟子に比べたら、きっと私のしてきたことは遊びも同然。
目尻に熱いものを感じながら、意識が遠退いていく。
私を喰らわんと、迫る足音。
喰われるってどんな感じなのだろう。痛いのは嫌だな。いっそ幼き日に聞いた"寝物語に出てきた神様に、怖れを食べてもらいたい"。そうすれば多少はましな最後になるかもしれない。そんなことを考えながら、瞼を閉じて、その時を待った。
刹那、内より破裂したような轟音が鳴り響き、妖怪を地面から持ち上げるのは黒き竜――いやそれは、辺りを焼いていた炎を瞬時にかき消し、立っていたならば吹き飛ばされていたかもしれない程容赦なく旋回する竜巻。
何とか耐えていた妖怪がついに宙へ舞い上がり、それを見計らったかのように竜巻は消滅。地上へ自由落下。自らの巨大さ故に、落下の衝撃はそのまま妖怪自身への痛打となった。
次いで髪を乱す風が頭を撫でる。乱雑であるが、その内に優しさを感じるこの感触に、私は覚えがあった。地に突き立った刀を引き抜き、転がっていた朱鞘を風を巧みに操って手元に持ってきたそのひとは、目線程の高さで力強く納刀し、鐘のような音色を響かせる。
霞む眼で確かに見た。決して大きくはない、それでも力強い背中。
私が今、憧れを持つ背中だ。
妖怪は起き上がり、突然の乱入者に怒りを迸らせる。頭部の器門が開き、炎を纏う岩を連続して吐き出した。
鴉は顎を引き、妖怪をひと睨みすると抜刀。飛来する炎岩を切り落としていく。最後の一つを切り払い、剣先で燻る炎を振り払うと、左の天狗扇より風刃渦巻く球弾を飛ばす。球弾は妖怪の目前で弾け、無数の風刃によって構成された弾幕となって襲来した。
全身に裂傷を刻む弾幕を、こんなものとばかりに踏み出しながら妖怪は喰らう。だがそれを見た鴉は笑みを浮かべた。再び放たれる炎岩を、一本歯の下駄を軽快に鳴らしながら右へ左へ、宙を翻り着地し前へとかわしつつ、妖怪に肉薄。右手の刀を喉に向かって刺突した。
が、妖怪は喉を貫かれて尚、鴉を喰らわんとアギトを向ける。
明瞭になりつつある視覚で、私には見えていた。妖怪の呑み込んだ、"風刃弾の行方"を。
「……敵、せめて、腕だけでは足りない、敵を、この牙で――」
鴉が左手を刀に添える。
「――いいわけないでしょう」
喉に突き刺さった刀は体内の風刃弾を帯び、刀身を中心に風の刃が渦巻いた。そして竜巻の如き剣を水平に――妖怪に背を向ける程に力強く振り切ると、背後よりかすれた断末魔が上がった。
◇◇◇
残心。
瞼を閉じて暫し。
薄く開き、刃を鞘に納め、そして奥歯を噛み締めた。
聞こえてきたのだ。再び撃ち上がった救難弾幕の破裂音に紛れ切らぬ、嗚咽混じりの慟哭が。
破いた弟子の左袖。噛み千切られた友の右腕をそれで押さえている。白かった布は真っ赤に染まり、端から血が垂れる。流れ出る血潮に同調するように、弟子の瞳から溢れるは、悔恨の証。
担架を持った医療班が到着し、私と弟子に一礼して、腕を失った友を運ぶ。命に別状は無いが、腕が再生するかはわからないらしい。
その宣告が、心をより苛むことがわかっていた。だからこそ何か言えることはないかと、支えられないかと、かつての過ちを繰り返さぬように、何かを。
が、先に口を開いたのは弟子の方だった。
「……私が、弱い、から……何も、見えて……いなかったからっ」
弟子は手に残った友の血を見て、顔を歪ませながら、なんとか形にした言葉でそう言った。
手の届く場所にいたのに、叶わなかった、ちゃんと救えなかったことがどれだけの重荷になるか。
しかし、同調や、軽率な慰めなどしてはいけない。それは暗に、私の荷を押し付けるに等しい行為だからだ。
今はただ――
「君は出来る最善を尽くした。本当に、よくやったわね」
「でも!」
「――君が行動しなければ、二人とも死んでいた」
うずくまる弟子に寄り添い、頭をいつものように撫でてやる。普段なら多少の抵抗もあるが、なされるがまま。
「以前なら、きっと激情に駆られて無謀な手に出たでしょう。でも今回は状況を鑑みて、信号を撃ち上げた。結果的に私が来た。つまり君は友達を、君自身を救ったのよ。それは誇っていい。先に続く者を、ちゃんと守ったんだから」
震える肩。きっと怖かったはずだ。そんな己を噛み殺してでも、この子は行動した。
ならば立ち直れる。先に進める。
――今はただ、そんな彼女の道を指し示せばいい。
私は強く抱き締める。
彼女も強く抱き返し、必死に声を殺しながらも、溢れる涙を流し続けた。
◇◇◇
それから年が半分過ぎた。
飢餓妖怪の一件以来、特に目立ったことはなく、平々凡々な日々が続いている。腕を磨き、そしてまた腕を磨く。そんな日常。
強いて何かあったかを聞かれれば、博麗神社の跡取りに目処がついたことと、友人が元気になったことぐらいだろうか。友人は哨戒部隊に着任するのを諦め、現在は事務仕事をこなしている。それだけ聞くと気に病むべきと思ってしまうが、曰く、「ぶっちゃけ身体動かすのめんどくさいし、本読み放題だし」と。それが"気にするな"という目配せであるのは、何となく察しがついていた。複雑ではあるものの、言われてしまえばそうするしかない。だから、"強いて"。
あとは大したことではないが、一つあった。本当に大したことではない。でも記憶に残る、そんな事柄。
その日も訓練が終わった後、夕刻の訓練のために、修練場へ。
私が修練場に備えてある真剣を手に取り、木人の準備をしていると、背後から声が掛かる。
「そういえば、これを返すのを忘れていた。はい」
そう言って手渡してきたのは、どさくさで無くしたとばかり思っていた朱鞘の刀だった。私は刀を両手で受け取り、視線を落とす。
何でもないこの刀にすら、朱鞘と呼べる。しかし今の今まで眼前の彼女を、名前で呼んだことがなかった。そして、私自身も呼ばれたことがない。お互いにある種、秘密の関係であったがために起こってしまった稀有な状況である。
刀を見続ける私を怪訝な表情を浮かべる鴉に、意を決して持ちかけた。
「あの、私は犬走椛です。あなたの名前を」
一瞬面食らっていたが、笑みを浮かべて鴉は名乗る。
「私は射命丸文。君のことは……犬走だと他人行儀だし、もみじ、椛がいいわね! 私は文さんでも文ちゃんでも文さまでも……そうだ文お姉ちゃんってどう――」
「それだけは嫌ですね」
「即答」
そんな他愛もない、それでも大切なやりとり。
一通りじゃれ終わり、一息ついて、文は言った。
「椛、強くなって。誰かを守れるように、何より自分を守れるように。あなたがそうなれるまで私が支えて、守ってあげるから」
時折思い出す。この時の経験、この時貰ったその言葉を。
今の自分は間違いなくこの頃に形成されたのだろう。固まってしまった骨組はそう変えられない。
ふとした瞬間の表情を見る度に思うことがある。
文の骨組もまた変えられない程に固まり、故に、自身を苛む呪いと化しているのではないかと。
だから刀を手放し、この日以来、私に背を向けたのではないかと。
まだ私は、あのひとにお礼を出来ていないのに。