私は顔を床に押し付けて泣いていたが、ふと気づくと事務官の気配がなくなっているのに気付いた。恐る恐る顔を上げる。想像した通り、事務官の姿はすでになかった。長い長い廊下にただ一人ポツンと残され、言い知れぬ寂しさと堪えようのない悲しさ、消化できぬ惨めさが相まって、また涙があふれてきた。私はどこまで自己中心的なんだろう。泣いた挙句、見捨てられて、何もせず泣き続けるなんて。誰かに気づいて欲しいのか?慰めてほしいのか?自問したところで答えが出るはずもない。より正確にいえば、答えは明白にYesされど出したい答えは、私が私に望んでいる解答は確実にNoである。
「いやぁ、他の閻魔様に頼んで何とか代行していただくことができました。持つべきは話の分かる友ですな。さぁ閣下、帰りましょう」
いつの間にか事務官が戻ってきていたようだ。他の閻魔に話をつけるなんて簡単にできる芸当ではない。閻魔は通常、自分の領分を犯されるのを嫌う。故に他人の領分を犯すことも同様に嫌う傾向があった。何とか感謝の言葉を言おうと顔を上げようとした瞬間、自分の体がひょいと浮き上がるのを感じた。
「やはり閣下は軽いですなぁ。まぁ、少しの辛抱ですから我慢してください」
私の体は事務官によって完全に持ち上げられ、抱っこされる赤子のようになってしまっていた。驚きと気はずしさからないも言えず、ただただ小さくうなずいた。
「いやぁ、閣下が貧血でお倒れになってしまいましてなぁ。もう少し女性閻魔への配慮も必要かもしれませんなぁ」
事務官は廊下で他者とすれ違うたびにこんなことを言って相手に詮索する暇を与えない。これなら私の醜態も人に知られることもないし、具合悪そうに眼を閉じているだけでいいので楽である。それにしても何から何まで良く気の回る男だと思う。事務官がいくら優秀なポストとはいえこれほどの人材がいるのはまれであろう。小町といい、事務官といい、良い部下を持ったものだと思う。
部屋に着き、ベッドの上へ横たえられる。感謝の言葉を言おうとする私を事務官はやんわりと制止して言葉をつづけた。
「閣下には明日、明後日は頑張っていただきます。なお私は体調不良により明日より五日間有給休暇を取らせていただきます。ですから明日、明後日は、残りの書類の決裁と、裁判をしていただき。三日目以降は裁判担当でもなく、書類を作る事務官も病欠のため閣下もお休みとなります。それでは失礼いたします」
それだけ言うと事務官はそそくさと退出していった。事務官が仕事をすれば私の仕事も増えること、そして私がどうしても休暇を取らぬことを見越しての事務官の対応であることは容易に想像がついた。そそくさと退出したのも私に有無を言わせぬための措置だろう。事務官の手際の良さに、腸が煮えたぎるほどイライラしていたことも、泣きたいほど悲しい気持ちもどこかに吹き飛んでしまっていたことが不思議でしょうがなかった。が、今日はもう寝よう。今書類を読んだって頭に入ってこないし、明日になればどうせ煩い鐘でたたき起こされるのだ。そして何より、久しぶりに善意に触れた気がするのである。その感触のままに眠りに落ちたいと思う。