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部外者の立ち入った事情/裏
彼の家は、霧雨家には遠く及ばないにしろ、商家として暮らしを確立するほどには名の通った家であった。
人の出入りも多く、その口に登りやすくなるのは当然のことであった。
嫁入りがあったり、跡継ぎ候補が生まれたりすれば、その界隈の話題の一つにもなろう。
そんな家に、待望の長子として生まれた彼は、純然たる人間ではなかった。
父母に原因があったわけではない。共に出自は明白であったし、彼らも、その親も、その親の親も、純然たる人間であった。
それでも、ある日の昼に生まれた彼は、その日が沈む頃に人ならざる姿へと変貌した。
瞳は赤く、耳は獣のそれとなり、髪も生え揃わぬうちから白い尾が生えた。
そして朝日が登る頃には、ふたたび生まれた時と同じく、人の姿に戻っていたのである。
結局のところ、何が原因なのかはわからない。数代前の祖先が魔と交わり子をなしたのか。
あるいはもとより父母のどちらか、または双方にその因子があったのか。
結果として、
「高天(タカマ)の家には妖の子が生まれた」という風聞だけが、人里で囁かれることとなった。
幸いなことにと言うべきか、彼は姿こそ変われども自我を失うことはなかった。
ただそれでも、事情を知らぬ周りの反応はどうしても違うものになる。
家族にこそ疎まれはしなかったものの、口さがない大人や、異端を嫌う子供相手では如何ともならなかった。
自分は自分のままなのに、夜になると人は自分から離れてゆく。
その事に対する筆舌にしがたい想いは、静かに彼の中に溜まっていった。
ある夜。
十にもならぬ彼は里を抜け、山に駆け入った。
幸い夜の彼の姿ならば、妖怪が異端視する理由もなく、危険はなかった。いざとなったとしても、彼には逃げ足にかわるだけの能力が備わっていた。
夜の間だけではあるが。
そうして、彼は暗い洞穴にいる。衝動的に里を出てしまった彼は、戻ることもできず、膝を抱え、座り込んでいた。
どれぐらいそうしていたのだろう。外は闇夜。月も雲に隠れてしまっている。そんな、誰の目にもつかぬはずの暗がりの中で、
「とうさま、いました」
彼は、幼い声を聞いた。
はっと顔を上げると、洞穴の入口に、二つの人影があった。一人はまだ自分と歳も変わらぬであろう子供。
隣の人影の裾を握り、こちらを見据えている。もう一人は、長身の大人であった。
大人の方は提灯を下げ、背中には大きな刀を背負っている。
二人に共通しているのは、自分と同じく白い尾と耳を持っていることであった。
ただ、自分と違い、赤い頭巾をかぶっている。その頭巾が、彼らが山の天狗であるということを教えていた。
「だいじょうぶですか?」
先程の声の主が、彼に語りかける。自分と同じ赤い目が、心配そうにこちらを見ていた。
その質問に答えようとするよりも先に
「ありがとう。さがりなさい、モミジ」
大人のほうが口を開いていた。開いている方の手で子の頭に手をやり、ゆっくりとなでる。
「よく見つけてくれた。ここからは、私の仕事だ」
「はい、とうさま」
褒められたことを嬉しそうに尾を振る。
その、モミジと呼ばれた少年(おそらく)は、父親の袴の後ろ側に下がり、それでもこちらを伺っていた。
そうして、現れた父親天狗は
「―――――――――――」
彼の顔を見るなり凍りついた。
「………?」
この人は、何故、妖魔でありながら、自分のこのなりを見て驚くのだろう?
ああ、侵入者が人間じゃなかったから驚いたのか……そんなことを、彼は考えていた。
「とうさま?」
「……あ……すまない。なんでもない」
我に帰った様子の天狗は、咳払いをしてからあらためて彼のほうを向き直った。
「さて、まずは安心なさい。私達は、君の敵じゃない」
諭すような声が、天狗の口から発せられる。
子供相手に、わかりやすい言葉を選んで話しているようだった。
自分の父を思わせる声の調子と、内容が、驚きに固まった体をほぐしてゆく。
「君の名前を聞かせてもらえるだろうか」
彼が名前を答えると、天狗は鷹揚に頷いた。
「高天家から依頼にあった名前と一致しているね、モミジ?」
「はい」
天狗は何かを確認し、鴉を一羽、外に向けて放った。
しばし後に戻ってきた鴉を確認すると、改めて彼の方へと向き直った。
「さすがは射命丸といったところか……速さだけは認めよう。
それで、君についてなんだが、人里から捜索依頼が出ている。
たった今、ご両親にも連絡がついたとの知らせが入った。
もうすぐ家に帰れる、だから安心なさい」
その言葉を聞いても、彼の顔色は優れなかった。
そう、たとえ帰れたとしても、彼の中では何の解決にもなっていない。
戻ればまた、あの奇異の目の中で過ごすのだ。その様子に、天狗は心苦しそうに表情を歪める。
「難儀なことだな」
その心中を見透かしたかのように、天狗はそんなことを言った。
「君がどんな生まれを持ち、どんな事情を抱えてここにいるのか、私にはわかりかねる。
だが、君には確かに帰りを待つ人たちがいて、今、現に探してくれている人々もたくさんいる。
それでもなお、君は帰りたくないと言うのかな」
「それは……」
にわかには信じられなかった。
確かに、父母には心配をかけたろうし、こうして山の妖怪にまで捜索依頼が及んでいるということは、人里など何をかいわんやという具合だろう。
それでも、それはあくまで『高天の家の子』の捜索をしているだけではないか、という考えが頭を離れなかった。
「そのような顔をするものではないよ。……誰かを思い出してしまうではないか」
その声は、どこか遠くを思い、残念そうな響きを含んでいた。
「どうか家にお帰り、人の子よ。全うな親ならば、子を心配しないはずがない。
それは山に入れずにいる君の親も同じ事だ。そして、共にいられるうちは、親子共にあるのが幸せなことなのだから」
寂しげな目をしてそう言いながら、天狗は再び我が子の頭を撫でた。
くすぐったそうに、少年は目を細める。その光景に、両親の顔が浮かんだ。
ああ。なぜ自分は、親の元を離れてしまったのだろう。
誰が何を言っても、何があっても、自分を守ってくれている、父母の元を。
ややあって、俯いた頭に、手が置かれる。
少しだけ視線を上げると、少年が歩み出て、先ほど自分がされていたように、彼の頭を撫でていた。
「いいこ、いいこ……」
初対面とは思えぬほど、その声は心に染みた。
自分よりも幼い子の、小さな手の暖かさと声の優しさが、涙となって瞳からこぼれ落ちた。
その様子を見ていた天狗が、一段落したのを見計らって声をかけた。
「モミジ。やはりまだ、お前に任せることがあったようだ。彼の、案内を頼む」
「わかりました、とうさま。たてますか?」
父親に促され、少年の手がゆっくりと頭から離れる。その小さな手が、今度は彼の前に差し出された。
「うん」
もう、家に、里に戻ることへの抵抗はなかった。ゆっくりとその手を握り、立ち上がる。
「わたしよりおおきかったんですね」
ニコリと笑って立ち上がった彼を見上げる。
下駄を履いた少年……いや、少女よりもなお、彼は少しだけ背が高かった。
しかし今は、その自分より小さな少女が、なによりも頼もしく見えた。三人は連れ立って洞穴を出ると、山を歩いて降りた。
山麓には別の天狗と共に彼を待つ親と、人里の人々の姿が見えた。下につくなり、父母は天狗の制止を振り切って彼に駆け寄った。
彼の出奔についてはとがめることなく、無事で戻ったことを喜び、しっかと彼をかい抱いた。
里の人々も、ただの人間の親子と変わらぬその姿に己が色眼鏡とそれがもたらした子供への影響を恥じ、彼が戻ったことを喜ぶと同時に、口々に謝罪の言葉を述べた。
あの天狗の親子は、いつしか山麓から消えていた。だが、その存在は彼の中に強く刻み込まれ、片時も色あせることのない記憶となったのだ。
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