無類商品店
香霖堂への訪問から、数日が過ぎたある日のこと。椛は改めて、霖之助のもとを訪れた。
「あぁ、いらっしゃい。件の将棋盤のことなんだが、少し困ったことになったよ」
店に入るなり、霖之助は気まずそうに切り出した。
困った、というのはどういうことなのだろう?依頼していた出元の確認が取れなかった、ということなのだろうか。
「いや、どうしてもあの一式を買いたいと言う人が現れたんだ」
その報告に、椛は少々面食らった。物好きな客もいるものだと感じたが、しかし、それよりも。
「買いたい?駒の読めない将棋盤を、ですか?」
「それなんだが」
なお言いにくそうに、霖之助は眼鏡を直しつつ続けた。その来客には読めた、と。それを裏付けるように、盤面には全ての駒が乗っていた。
「まさか」
椛が改めて駒を手に取ってみるも、やはりそこには不可思議な記号が刻まれているだけであった。
だが、駒の配置と読めない記号のそれぞれの数は、大将棋の初期配置の駒の組み合わせと照らし合わせれば、つじつまは「一応」あっているように見えるが。
「念のために尋ねますが、適当に置いたということは?」
「それはないよ」
「やけにはっきり言いますね」
「彼が行ったのは駒の選別だけで、実際に盤上に並べたのは僕だからね」
なるほど。先日彼は「並べ方がわからない」と自分で言っていた。
であるならば、その客が駒の文字を読める、というのもにわかに信憑性が出てくる。
「古代天狗語を解読したとなれば、その方は天狗か、何かの術師か……」
椛はひとりごとのつもりで呟いたが、霖之助はそれをやんわりと否定した。
「そのどちらでもない。……ああいや、術師はわからないな。でも、ごく普通の人間……のようだったよ」
椛は驚いて顔をあげた。自分の予想が外れたことも意外であったが、人物についての情報を霖之助から引き出せるとは思っていなかったのだ。
「まあ、確かに商売人として顧客情報を口外するわけにはいかないが、その彼はまだ、商品を気に行ったと言うだけの一見さんだよ。
先日どんな人がうちに来たか……というレベルであれば、話してもうちの看板に傷はつかないだろう」
「ありがとうございます。では、どのような方だったか教えていただけますか?」
礼を言いながら、椛はまるで職務質問をしているようだ、と感じた。
「まだ若い男性だったよ。人里から来たのかもしれないね」
人里に天狗文字を理解する人物が……?
それだけ希有な能力を持っているのであれば、稗田家の少女のように、誰がしか新聞記者が記事の一つにでも取り上げていそうなものだが。
「他に何か印象に残ったことはありますか」
「そうだね……将棋盤以外にもいくつか品物を見ていったけど、どれも天狗にまつわるものだったよ」
そう言って霖之助が店内を案内して回る。ヤツデの扇。投げこまれた新聞。
頭巾……人間にしてみれば、確かに直に触れるのは(新聞はさておき)なかなかないことだろうが、他の妖怪に関するものやそれ以外の用途不明な道具については目もくれず、天狗関連のものだけを選ぶ理由は不明であった。
「……天狗マニア?」
「随分と限定的なマニアだね」
「自分でもそう思いますが」
しかし、そう予想せざるを得なかった。歴史家を疑うには品が偏り過ぎているし、発明家にしては外の世界のものを選んでいない。天狗について民俗学でも修めようというのだろうか。
「話を戻そうか。将棋盤を購入したいという件なんだが」
「そうでした……その場で即決しなかったんですか」
「君が関心を持っていなければ、売っていたかもしれないね」
それはつまり。
「置いておいてくださったんですか……わざわざ?」
「うーん、まあそうなるのかな」
そういうつもりではなかったのだけど、とでも言いたそうな表情ではあったものの、結果として霖之助が椛のために将棋盤を取り置いていたのは事実であった。
「すみません。せっかくの商売の機会を」
「いや、構わないよ。どの道おいそれと手放せる品ではないし、出所如何によっては価格を考えなくてはならないからね」
「参考までに、おいくらぐらいでお考えなのですか?」
「たとえば、2ドルぐらいではどうだろうか」
「それは難しいですね、少なくとも私には払えません」
結局、その客には調べ物の最中である旨と、それ故に値を決めかねることを伝えたそうだ。
「納得いただけたんですか、それで」
「一応は。出直してくるとさ」
「そうですか……」
椛は視線を落とし、並べられた駒をつまみあげ、改めて眺めてみる。歩にあたるものだ。
整然と駒の並ぶ中、一つだけ駒の抜けた盤面は、ひどく違和感を与える様相を呈していた。
「君は」
霖之助はふと、椛にある問いかけをした。
「この将棋盤が欲しいかい?」
買いたい、という人物が出てきた以上、いつまでも案件を保留しておくことはできない。
件の客に売るか売らないか……それを決める前に、同じ品に興味を示していた椛に、意見を聞いておきたかった、というのが店主としての霖之助の考えだった。
「欲しいか欲しくないか、では答えるのが難しいですね。
ただ、私の手の届かないところに行ってしまうのは……困ります」
それはまるで、行きつけの店がなくなるのを嫌がるような、そんな答えだった。
「うん。わかるよ」
霖之助はそんな椛の答えに、満足そうにうなずいた。
「なんとなく、僕もこのまま売ってしまうのは寝ざめが悪いからね。
出所がはっきりするまでは、どうにか待ってもらうよ」
「ありがとうございます」
話はそこで途切れ、店主は定位置であるカウンターの向こうへと戻っていった。
残された椛はなんとなく盤面の前に座り、先程摘みあげた歩を指してみた。いわゆる端歩突きと呼ばれる初手である。そして、椛は目を閉じてしばし待ってみた。
「……」
十秒。
三十秒。
一分。
もちろん、相手はいないので待てども反応があるわけがない。
古代天狗語で刻まれているとはいえただの将棋の駒、勝手に敵陣が動き出す訳もなく、盤の向こうにHere comes a challenger!と挑戦者が登場するでもない。
目を開いてみても、相変わらず自分が指した歩だけが動いた状態であるし、正面の席は空きのままだ。
「ふぅ」
何をやっているのだろう、とため息をつく。と、その時店の中を一陣の風が吹き抜けて行った。初夏の香りが鼻を撫でていく。
「ああ、いい風。そろそろ頃合いってことかな」
ゆっくりと腰をあげ、霖之助に声をかけると彼は鷹揚に口を開いた。
「もうお帰りかい?うちとしてはもう少しゆっくりしていってもらっても全然構わないのだけれど」
「いえ、もう十分にさせていただきました。お話も伺えましたし……今日のところは、これで」
そう、あくまで次があるのだ。何もこれが今生の別れになるでなし、簡単に礼と挨拶を済ませると、椛は香霖堂をあとにした。
「あ……しまった」
端歩を突いたのをそのままにしてきてしまったのに椛が気付いたのは、店を出てしばらく後のことであった。