Coolier - 新生・東方創想話

八椛鏡ノ改

2015/05/07 02:06:05
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白と黒の森にて

月の明かりに、ふと彼女は目を覚ました。

布団に入ってからどれぐらいの時間が経ったのだろう、意識は明確で、すぐ再び寝つけそうにはなかった。
窓から見える満月は南天。子の刻に差し掛かろうかという頃合いだろう。
彼女は布団から出た。夜警は彼女の仕事ではないが、冴えた目を酷使しようと外に出ることにしたのだ。
雲ひとつない夜空。鏡のような月が煌煌とお山を照らしている。風は強く、木々を揺らす。
だというのに、不思議なくらいに静かであった。
葉ずれの音すら聞こえない。白と黒の無音の世界。
一瞬、自分が世界から取り残されているのではないか、という錯覚すら覚える。
そんな中で、彼女は何処をどう歩いたか、ある洞穴の前までやってきた。
見覚えがある入口の形。そうだ、先日ここで人間を一人保護した……ような気がする……いや、デジャヴュだろうか?
来るの自体は初めてではないが、誰かを助けたか、記憶が定かではない。
ともあれ、もしかして、と中を覗き込むも、今日はそこには人影はなかった。

「誰もいない……かな。奥は……」

奥へ目をやると、どうも道が続いているようだった。これまでは立ち入らなかった領域へ、足を踏み込んでいく。

「風が吹いてくる……これ、開通しているの?」

彼女は奥へ進むにあたり、手持ちに光源になりそうなものがないのを危惧していたが、どうも洞穴自体、行き止まりになっているのではなく、先に出口があるような空気の流れ方をしていた。
奥に行くにつれて、風の勢いが強まってくる。足元に注意しながら進むと、ほどなくして出口に辿り着いた。
抜けた先は、やはりお山の中のようだった。ただ、玄武の沢のように目の前には河が広がっていたが。
河……そう、河である。向こう岸が視えない程度には大きな河。こんなものがお山の中にあったのだろうか。
そして、相変わらず音は死んでいた。

吹いている風の音も。
足元の砂利を踏む音も。
目の前に広がる河の流れる音も。

風が止まったのではない。
歩みを止めたわけではない。
河の水が淀んでいるのではない。

全て普通どおりに動いていながら、音だけが発せられていなかった。そんなことを考えていた矢先……

「一つ、詰んでは父のため……」

歌が聞こえてきた。

「二つ、詰んでは母のため……」

大人の声でありながら、どこか幼さを残す声で。

「三つ詰んでは……おや」

声の主が彼女に気づくそぶりを見せたと同時に、彼女の視界に白い装束に身を包んだ天狗が現れた。
白い耳に尻尾、どうやら同族のようであるが……いつからここにいたのだろう。
線は細いが、声の感じからすると、男性。彼の前には将棋盤。大将棋ではなく、通常の将棋だ。
どうやら彼は、詰め将棋を行っているようだった。

「こんばんは」

赤い目を細め、ぺこりと挨拶をしてきた。
座ったままのその姿は、声の幼さとは裏腹に自分より年上であるように思えた。

「ええ、こんばんは」

つられて会釈を返す。しかし、彼女の知る中にある顔ではなかった。
頭の後ろに、白い狐の仮面をつけている。

「はじめまして……かな?」
「多分、そうです」

彼の問いかけに、互いに認識に違いがないことを確認しあう。

「どこかでお会いしているかもしれませんが」

そういった彼女に、彼はかぶりをふった。

「んん……いや、それはないですよ」
「?……ああ、これは。確かに」

彼からは記憶にある「匂い」がしなかった。
その人物各個人がまとう匂いを、白狼天狗なら間違えようはずがない。
顔を隠し、耳を塞がれたとしても、白狼天狗だからこそ看破できる術がある。

「では改めて、はじめまして」
「え?ええ。はじめまして」

促されたような形であわてて挨拶をする。

「それで、あなたはここで何を?」
「ああ、詰め将棋ですよ」
「いや、それは」

わかってるんですが……という言葉を続けようとしたが、彼の目は至って真剣であった。
つまり、彼は冗談でそう答えたのではないということ。

「そうですね、言葉が足らなかったかな。強いて言えば暇つぶし、でしょうか。
 私は人を待っているんですよ。で、その暇つぶしに詰め将棋を、ね」
 
はにかんだ彼の手元には、真新しい詰め将棋の問題集がある。
真新しいのは見てくれだけで、その本自体はもう何刷もされている古典的なものである。

「ああ。その本なら私も出た当初買ってもらいましたよ。良く挑戦したものです」
「そうなんですか?じゃあもしかして、今やってるこれも解かれちゃってるのかな」

彼の言葉に彼女が盤面を覗き込むと、確かに解いた覚えのある配置であった。

「ああ。やったことありますね。これ」
「そうなんですね、自分はまだこの本に挑戦し始めたところでして」
「始めたばかり?」

その問題集が古典的とされる所以、それはかなり昔に初版が出て、今なお増刷されつづけている
珠玉の一冊であるということだ。いわば、王道の入門書といったところだろうか。
そのことを知らぬとならば、彼は詰め将棋自体、あまりやったことがないのかもしれない。

「いや、お恥ずかしい。詰め将棋自体はいくらもやっているはずなのですがね……ところで」

居住まいを正しつつ、彼はあらためて彼女を見上げてこう言った。

「貴女も将棋の心得があるようですね。どうですか、せっかくなら一局」
「私が……ですか?」
「お願いいたします」

やけに強く求められる。余程一人で行う詰め将棋に飽き、対局に飢えていたのだろうか。

「と言いますか。私の待ち人からは伝言があるんです」
「伝言?」
「はい。『私が将棋に負ける時に待ち人が来る』そうです」
「は……?」

なんだそれは。対局の終わるタイミング、それも彼が負けるというタイミングを見計らってその待ち人は現れると言うのか。

「えっと……それは謎かけか、でなきゃ何かの暗喩ですか?」
「いいえ。ですが疑問はごもっともです。私もどういうことか聞きましたので。
 ただ、言葉どおりの意味である、とのことでした」
 
そんなのは、千里眼を持つ身でも無理だ。決着を確認してから出発するのでは遅い。
幻想郷最速を謳う鴉天狗も顔を知る中にいるが、そもそもその鴉天狗には状況を確認する術がない。

「しかし、貴女が来てくれてよかった。貴女は待ち人ではないですが、鬼でもなさそうだ。
 同族で将棋の心得があるのならば、相手としてはうってつけでしょう?」
「いや……ええ」

その言葉には、少し気になるものが感じられた。そうだ……やはり、その待ち人とやらの前提はおかしい。
自分のような来訪者がいつ現れるかわからないのに、常時この河原に目を光らせておくなど、無意味としか言いようがない。
そも、この場所を知る待ち人とは一体何者なのか。そう考えれば考えるほど、彼の相手を無下に断る理由はなくなっていく。ならば。

「いいでしょう。未熟な身ではありますが、お相手いたします」

不可解な点が残ることに迷いはあったものの、結局勝負を受けることにした。その答えに、彼は破顔する。

「ありがとうございます」
「いえ、礼には及びませんよ……あなたの言う待ち人というのが何者なのか……
 そして本当に現れるのか、私も興味がわきましたので」

そう言って、彼女は盤面の前に座した。さて……

「「そういえば、まだ名前を申し上げておりませんでしたね」」

同じタイミングで、二人の声が重なる。気まずさに黙ってしまった彼女に対し、彼は苦笑しながら続けた。

「ふふ。そうですね、せっかくの対局ですし、一つ賭けでもしましょうか。
 勝った方が、負けた方の名前を聞くことができる……とか?」
「それは……」

そんなことに何の意味が……という言葉を飲み込む。この対局自体、偶然から始まった縁である。
彼女が目を覚まさなければ。夜に家を出なければ、寄り道をしようと思わなければ、寄り道にあの洞穴を選ばなければ。
互いに出会うこともなければ、話をすることもなく、名前を知ることもなかったのだろう。
それに、意味などなくても、彼の無聊の慰めにはなるのかもしれない。

「だって、勝って得るものがある方が、楽しいでしょう?」
「それは、まあ」

彼の言い分は楽しい。そして、娯楽に意味はいらない。ただ、強いて言えば、その提案には公平さに欠けていた。

「あなたが勝てば、あなたは私の名前を知ることになる。
 私が勝てば、あなたは待ち人に会える」
「……ああ。どう転んでも私には得るものはありますが、
 貴女は負けた時には得るものがありませんね」
「だからどうと言うわけでもないのですが……」
「困りました。確かに、私には払える対価がない」

心底困ったと言う表情を見せる彼に対し、彼女は本心からの言葉をかけた。

「……いえ。やはり構いません。対局を通じて、あなたを知ることができれば」

そう。何がしか、対局を通じれば得るものがあるはずだ。もし彼が強いのであればあるほど、以って糧とすることができる。何より……

「それに、負けた時の事が心配ならば、負けなければいいのです」
「……ふふ、なるほど」

一度曇った彼の表情が、安堵と不敵さの入り混じった笑みに変わる。

「では、その自信に一つだけ私から挑戦を。
 先ほど申し上げた対価がない代わりとして、私が貴女の名前をいただくのは、三度詰ませた時といたします」
「……」

大した自信だ。つまるところ、彼は三度続けて勝ってみせると、そう言ったのだから。

「わかりました。その挑戦、受けましょう」
「ええ。改めてよろしくお願いいたします。こう言うのは何ですが、私は強いですよ」
「望むところです」
「では……」

彼は歩を手に取ると、振り駒を行った。表が出た枚数によって、先手と後手が決定する、将棋特有の順番決めである。

「表が二枚ですね?」
「ええ、確かに。では私も」

続けて彼女が駒を振る。表が出たのは、四枚だった。

「私からですね」

先手は彼女となった。まずは様子見で、端の歩を進ませる。これは定石から外れた、格上の相手が行う手法である。
自信ありげな彼に対する、彼女なりの挑戦であったのかもしれない。対する彼は、自分から見て右端にある歩をじっと見つめ、黙考を始めた。

十秒。

三十秒。

一分。

「……?」
前を見やると、彼は、金色の両の目を輝かせたまま、沈黙を保っている。と、目眩をおこしたようにくらりとその頭が崩れる。

「だ、大丈夫ですか?」
「……失礼しました。なんでもありません」

少し身を乗り出したのを手で制し、彼は同様に歩を一つ進めた。
なんでもないとは言うが、先程の姿は眠っていたというよりは、貧血か何かを起こしたかのように見えた。しかし、今の彼の表情に翳りはない。

「本当に?」
「ええ。お気になさらず。そして、これからお互い、待ったはなしで」
「え?ええ……」

それはもとより真剣勝負、そのつもりでいたのだが……そう、思案しながら彼女が駒を動かすと、彼は間髪入れず駒を動かした。

「え?」

あわてて次の手を考え、駒を動かす。
と。

「はい」

彼はまた、すぐさま駒を動かした。いくらなんでも、迅すぎる。

「……あの」
「待ったはなし、ですよ」
「いえ、文句をつけるつもりはないのですが、その」
「おっしゃりたいことは予想がつきます。ですが、私は考えなしに指しているわけではありません」

表情一つ変えず、彼は言った。
一瞬。
そう呼ぶにふさわしい、間隙のなさ。
最初の長考の埋めあわせをするかのように、思考時間の一つも見せないのかと思うほど、彼は高速で反応を返してくる。
しかし……ご冗談を、とは言えなかった。
また一手。

「そっちか……それではこうですか」

今度も、彼は時間差なしで返してくる。

「一応、申し上げておきます。どうか、私がこのような指し方をするからと、焦らないでください。これが、私の将棋なんです」

どこか済まなさそうな声で、彼は言った。その声色は、何に対してなのか。
内心、無理を言うなと思いながら、努めて冷静に次の手を思案する。
一手、また一手。考えの末に導かれた手は、常に最速を以て返された。

そうして、十数分後。

「……ありません」

投了を宣言したのは彼女のほうであった。

「まずは一つ、ですね」

彼は対局中と同じく、静かに勝ちを認めた。喜ぶでもなく、誇るでもなく。
理解ができなかった。彼の手は常に最速。常に最善だった。
少しでも考える時間があるなら理解しよう。一手でも遊びがあるなら納得もしよう。
しかし自分は、おそらく『最短の手』で詰まされた。

「あなたは……一体」
「その答えは、貴女が勝ったときに、ですよ。さ、次です」

事も無げに彼は駒をもとに戻し始めた。慌てて彼女も自陣を整理する。

「一つ、聞いてもよろしいですか」
「なんでしょう?」
「あなたは妖獣の類ではない、ですよね」
「ええ。ご覧の通りの白狼天狗ですよ」

妖獣ではない。先程の反応速度と精度……なにがしかの式をその身に下ろして計算しているのかと考えたが、そうではないらしい。
そも、式は水に弱い。仮にそうだったとしても、川辺での対局には疑問が残る。
では、あの指し方は一体何なのか……そう考えているうちに、二局目の支度が整った。

「今回は私からですか」

駒ふりの結果、今度は彼女が後手になった。
そして、先手となった彼は

「そうですね、貴女の思考の邪魔にならなければで良いのですが、話をしましょうか」

そんなことを言った。

「話?」
「邪魔だったら言ってください」

その声はしかし、有無を言わさず聞いて欲しい、というものがあった。
会話しながらの将棋には慣れているため、難色を示すことはなかった。

「私は貴女と同じように、白狼天狗の家に生まれました」

パチリと、中ほどの歩が進められる。彼女はそれに対し、対極となる歩を進めた。

「父も母も私によくしてくれましたし、友人も少ないながら恵まれた生活だったと思います」

訥々とつむがれる彼の言葉は、遠い昔を思うような響きを含んでいた。では今は、そうではないというのだろうか。

「ご覧の通り、体躯はあまり大きくないので武芸は得意ではありませんでしたが……
 この将棋に関しては、河童や同胞と、何度もやりあうほど回数を重ねたものです」

そういう彼の目は、再び金色に輝き、盤面を穴があくほどに見つめている。
二手目、彼の手順であるのだが、話を中断させてまでうながすのは躊躇われた。
彼女は固唾をのんで、彼の言葉と次の手を待つことにする。

「やってたのは大将棋が主ですけどね」
「あなたもやはり、そうなりますか」
「ええ。皆、暇つぶしにはもってこいと言うものですから……」

彼はその意見が理解できないというかのように小首をかしげながら、言葉を切った。

「でもね、私には暇つぶしなんてものではなかったんです」

それは……そうだろう。あのように高速で手を返されては、数日かかることもある大将棋ですら、その日のうちに決着がつきかねないのでは。
しかし、彼が続けた言葉はまるで方向性の違うものだった。

「ええ、暇つぶしなんてとんでもない。私にとって、将棋で勝ち星を拾うことは、自分の証明なんです」

そういって、彼は、ようやく駒を動かした。

「証明……ですか」
「ええ」

その言葉には言い知れぬ切迫感があった。それを失うと、自分が自分でない、と言わんが程の。
彼女がそろりと駒を動かすと、やはり彼は一瞬で手を返してきた。

「私にとって、指すことは比喩でもなんでもなく、生きること。勝つことは、私が有ることの証明。
 哨戒天狗としては失格かもしれませんが、剣よりも駒を持っている時の方が、きっと生を謳歌していたと思います」
 
まただ。彼の言葉にどこがしか違和感を覚えつつ、彼女は次の手を長考する。

「では、今も?」
「……そうですね、久しく忘れていましたが、やはり誰かと指すのは……良いものです」

指している相手はそれどころじゃないようでしたけどね、と付け加えながら、彼は彼女の手を待った。
全くその通りだ。こちらばかり持ち時間を削られる一方的な対局、これが公式戦であれば楽しいなんて言っていられないだろう。
まだ開戦したばかり、動かす駒など限られているのにそれでもどうすれば彼の戦法を崩せるか、そんなことを考えてしまう。
ようやく彼女が決断した手は、にもかかわらず一瞬で反応された。

「さぞ挑戦者は多かったのでしょうね」

こんな指し方をされれば、勝負が嫌になるか、どうしても凹ませてやろうと思うかのどちらかだ。
そして、対局者を一人に限らないのであれば、後者のことを考える輩は少なくないだろう。

「ええ。それはもう、数え切れないほどでした。全員、返り打ちにさせていただきましたけれど」

それは……返り打ちではなく、打ち返し、というべきなのではないだろうか。
それにしても全員。全員と来たか。

「それはつまり、あなたを負かせた挑戦者というのは」
「いませんでした」

「悪狼」という駒が大将棋には存在する。その牙は、いくつの王将を詰ませ、幾度自軍を守ったのだろうか。
今の対局にはその駒は存在しないが、それでも彼自身が悪狼であるかのように(狼ではあるのだが)、彼女の王を詰ませにかかる。

そうして。

「では、私がなんとしてもその第一号になってみせましょう……と言いたいところですが」
「その言葉も、何度聞いたかわかりませんね……」
「そうでしょうとも……そして何度こう言われたことでしょうね……『ありません』」

どうあっても、彼の牙は、彼女の牙が彼の王を獲るよりも先に彼女の王にかかる。彼女はまたも、王将を守り切れなかった。

「ありがとうございます。これで、あと一戦ですね」

まだ一戦あるのか。少しうんざりしている自分に気付き、かぶりを振った。
今の考えは、次の対局も負けを認めているようなものだ。勝負は下駄をはくまでわからない。
そんな彼女に、彼はなおも追い打ちをかけるように続けた。

「次も必ず」

その自信は、一体どこから。
考えろ。あの長いタイムラグのある彼の初手、そして時間差を感じさせない二手目以降。
そこに、彼の指し方の正体があるはずだ。タイムラグ。時間差。時間。
そこまで行きついて、彼女はある結論に達した。
もし、最初のあの長い思考時間が、次の手ではなく、以降の手全てを考えるために費やされたものだとしたら。

「失礼ですが、お尋ねしても?」
「ええ、私が誰かという質問以外であれば」
「あなたには、先程までの二局。どこまで見えていたのですか」

その質問に、彼の口角がすいっと上がる。

「はい。……初めから終わりまで全部です」

戦慄が走った。予測が当たった、その事実に対してだけではない。一体どれだけのコストを費やせばそのリターンは得られるのか。

「初手から投了まで全部、ですか」
「はい。全手……いえ、全パターンですね。そこからは一手ごとに絞り込みです」

事もなげに。
彼はそんな看過できない一言を言ってのけた。

「どう指せば、どう動くか。どう指せば、どの駒が取られるか。
 それらはつまり、違う指し方をすれば回避される未来。
 よく言うでしょう、『あの時こうしていれば』と。私の将棋には、それはありません。
 どう動けば、最終的に私が勝つか、負けるか。それが全て見えているのです」
 
それは、聞くだけで人生から色を失いそうな告白だった。この先の事が全てわかる、
そんな能力があるとすれば、なんて人生はつまらないものになるだろうか。

「ああ、誤解しないでいただきたいのですが、私のこの予測が有効なのは条件があるんですよ。
 万物の未来を見通せるほど天狗をやめてはいません」
 
それでも彼が「限定的ながら、未来予知の目を持っている」ということに他ならない。
一手ごとに駒の数、それも駒ごとの動く方向の数だけ可能性が存在するのであれば、最終的なパターンは一体何通りになると言うのか。
それを、その中から、彼は己が勝つパターンを見出していると……そう言うのだ。

「なればこその……あの思考時間ですか」
「そうです」

彼女は絶句し、だが納得した。なんというチート……なんという越「見」行為。
札遊びでは札の背に微妙な色をつけ、その中身が何であるかを看破するという違法行為が存在する。
だが、彼自身、駒にも盤にも何も細工はしておらず、ただ己の能力のみで(それも肉体的負荷という代償を払って)行っている。
これを……ただの「違反行為」と斬って捨てられるものだろうか?
彼は何ら不正はしていない。自力の上でその先を見ている。
そこまで考えて、それでも彼女は答えた。

「であるならば……であるならばこそ、負けるわけにはいきません」
「…………ですか」
「なぜなら、あなたのそれは、将棋ではない」

彼女のその言葉に、彼の顔色が変わる。
それは怒りではなく、驚きによるものだった。

「あなたのそれは、確かに不正ではないでしょう。
 ですが、やっているのはあなたが見た光景をなぞって、駒を動かしているだけ。
 あなたの脳内にある、勝利するという未来をトレースしているに過ぎません。
 たとえ、あなたのそれが本当に未来予知だとしても、いえ、未来予知だとするならばこそ、
 私はそんなものを将棋と呼ばない。であるならば」
 
ふう、とここで彼女は息をついて、その言葉を言いきった。

「将棋指しとして、あなたに負けるわけにはいかないのです」

それにこれがもし、将棋ではなく、侵入者との真剣勝負であったのであれば、哨戒天狗として、背を向けるわけにはいかないだろう。ならば……それと同じことをすれば良いだけの話。
ただ今回は、一度退いて上に報告という選択肢はない。こちらの牙を、剣を、否、「詰め」を、その王に突き立てるまで。

「不肖の身ではありますが、最終戦、推して参ります」
「はい。こちらこそ」

最終戦。
先手は彼女となった。第一手、歩を進めたところで同じように彼は長考を始める。

(さあ、好きなだけ予見なさい。そして私が負ける姿が見えたとしても、
 仮令負けるとしても、私は最後まで指し続ける)

そして、やはり彼はその金色の瞳で盤上を見つめたうえで……

「……え」

初めて、動揺の色を見せた。その目は見開かれ、驚愕の表情で盤上を見つめている。
何か、おかしなところがある、と言わんがばかりに、一つの歩しか指されていない、その盤上を。

「……どうして?何度やっても見えない……?」

彼の言葉は彼にしかわからない。しかし、その発言は明らかに、致命的なエラーが発生しているということだった。

「いや、見えているのか?だとしたらありえない、だって、ここから何も変化がないなんて、そんな」

いかがなさったのですか、と彼女が声をかけようとした、その瞬間。

(いいえ。なぜならこの対局は、ここで終わりで終わりだからですよ)

彼と彼女のものではない声が、あたりに響いた。二人が顔をあげると、先程まで誰もいなかった空間に、少女がひとり立っていた。

「そういうことだねー」

白と黒の羽根を背にまとい、くすくすと笑いながら興味深そうに盤面を見ている少女。

「貴女は……」

彼女はその少女を知らない。いや、正しくは何かで見て、知識としては知っている。知っている、はずなのに名前が出てこない。知っているような気がする、というだけだ。
何故?何故私は、あの不明確な少女の存在だけで、ここまで心をかき乱されるのだろう?

「や。おにーサン、久しぶり」

その少女は、彼女のことが見えていないかのように、目の前の彼に向けて声をかけた。彼はその声に、初めてその眼を赤く戻した。

「え、あ……お久しぶり、です」

古くからの知己に出会ったような言葉が交わされる。彼のほうは、この少女が誰なのかを、正しく理解しているようだった。

(長くお待たせしてしまいましたが、ようやくあなたの番が来ました)

再び、先程の声が響いた。

「え」

驚きの声は、彼の口から発せられたものだった。

「そういうこと。本来これはあの人の役目なんだけどねー、僕が代わりを指名されちゃったから。意味、わかるよね?」
「……はい、それは、つまり、私が」
「そういうこと。さあ、それじゃ行こうか」

少女は同行を彼に促した。まだ対局が途中であることや、そこにいる彼女のことはまるで意に介する素振りもない。
何より、先程あの声がこの対局はここまでと言った。
では。この少女が……彼の待ち人なのか。しかし、その待ち人は彼が勝負に負ける時に来ると言ったはず。
まだ勝負は着いていないはずであって……?
そこまで考えて、彼女ははたと、一つの可能性に気づいた。

「ですが、この勝負は、まだ」
「うん?ついてないね、まだ。でもさ、これ以上続ける気なの、おにーサン?その手で?」

ぴしゃりと。対局に拘る彼に、少女は諭すように続けた。見ると、彼の指先が消失している。
もやのように輪郭はあれど、どうやってもその手では、駒をつまみ上げることができないようだ。

(私の意に従うこと、それだけが今この場であなたが積める善行です。
 それ以外にあなたがここで『つむ』べきものは、もはやありません
 それに、私はこう申し上げた筈です、『あなたの待ち人が来る時、あなたは負ける』と)
「では……」
「そう、僕が君の待ち人ってわけ」
「でも……いえ、貴女が見ているならこそ、私は負けるわけにはいかないんです!生涯不敗を貫くと、他ならぬ貴女に約束した、それなのに……」
「……お馬鹿だね。そういう約束なら、きっちり守ってくれたじゃないか。もしここで負けても、その約束を破ることにはならないんだよ」

少女のその言葉はとても穏やかだった。
もう命を賭して勝ち続けなくてもいいのだ、というねぎらいが、そこにあった。

「……そう。そういうこと、ですか」

彼はその声にどこまでも残念そうに俯いた。

「あ、あの……」

ようやくの思いで、彼女が声をあげる。この対局は二人のものであり、誰かに妨げられるべきものではない。
何の権利があって、という言葉はしかし、告げることはできなかった。
この少女が持つ威厳とも呼べる雰囲気と、先程行き着いた仮説が本人により述べられたこと、そして何よりも……他ならぬ、対局相手の一言によって。

「ここまでです」

盤上の王は健在であり、互いの王手には程遠い。だと言うのに、彼は負けを宣言した。

「私の手番で、私がこれ以上指せないとなれば、私の負けです」

彼が将棋に負けるときに現れる、と言っていた待ち人。
逆説的ではあるが、その待ち人は確かに、彼が負けを認めるタイミングで現れたのだった。

「それに、もし手を動かせたところで、意味がない。もう、私には何も見えなかったのだから」
「だ、だとしても……」

普通に指せば、と言おうとして、言葉を失った。彼にとっての将棋とはつまり、己の目の通りに駒を動かすこと。
それ以外を知らぬとなれば、もしや彼は……

「先の言葉。私のこれは将棋ではない、というあなたの言葉で、私は既に負けを宣言されていたのかもしれません。
 やっと……わかりました。己の間違いが」

彼は、自分に言い聞かせるように、何事かを呟いた。

「ありがとうございます。最後に挑戦したのが貴女のような人で、よかった」

そう言いながら、彼は盤の前から立ち上がる。

「それじゃあ行こうか?」

くるりと背を向け、去っていこうとする少女。

「ああ、待ってください。これだけは、ちゃんと伝えないと……約束ですから」

彼の安らかなその顔は、少女に誰かを想起させた。だというのに、それが誰かを思い出すことができない。

「さようなら、同族のお嬢さん。私の名前は、×××といいます」

彼女は絶句した。
何故。
何故、あなたがその名前を言うのか。その名前は……
その瞬間、目の前の少女と共に、彼は彼女の前から姿を消した。

「縁があったら、また。次は、貴女の言う通りの将棋で戦えますように……」

彼女が思考を停止している間に、そんな声が、聞こえた気がした。
木々を揺らして、風が吹く。相も変わらず、音も匂いもしない。
今更、気づいたことがある。彼からは「知っている匂いがしなかった」のではなく。
彼には「匂いそのものがなかった」のだ。

そうして、彼女は、ようやく得心した。
この不条理な光景が、一体何であり、何処であり、今のこの自分自身が、何者であるのかを。

(あなたもわざわざ御苦労様でした。本来あなたのあるべきところにお戻りなさい……)

先程の声が響く。
その次の瞬間、彼女も先に姿を消した彼らと同じように、指先から雪解けのように姿を消失させていき、あとには彼らがいた痕跡は何一つ残らなかった。






月の明かりに、ふと椛は目を覚ました。

急速に、頭の中で何かの情報が収縮していく。目が覚めた瞬間、見ていた夢の内容を失念するあの状態だと、胡乱な頭で椛は自覚した。
何か重要な夢だったような気がして必死に思いだそうとするも、手から砂がこぼれおちていくがごとく夢の記憶は取り戻すことができなかった。
窓を見ると、欠けた月が南天にのぼっていた。ああ、今日は月食だったのだな、と理解する。

ざわざわと風に揺れる木々の音を背に、椛はもう一度横になり、眠ることにした。
明日は早いのだ。友人の河童と将棋の約束をしているのだから、遅れるわけにはいかない。
まるで長い対局を終えた後のように、彼女は疲れた頭を、再び眠りの中へと落としていった。

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