Coolier - 新生・東方創想話

私の幻想、あなたの理性

2026/10/17 00:46:32
最終更新
サイズ
228.83KB
ページ数
7
閲覧数
383
評価数
1/1
POINT
100
Rate
12.50

分類タグ

第一章 単一の視覚

二分十九秒の遅刻だった。
 なぜ秒まで言い切れるのかといえば、カフェのガラス屋根の向こうに宵の明星が出ていて、扉を押す前についそれを見上げてしまったからだ。十八時三十二分十九秒という数字が頼みもしないのに頭の中へ落ちてきた以上、約束の三十分ちょうどから引き算をするのに迷う余地はどこにもないのである。
「二分十九秒遅刻、ってところかしら」
 先に白状してしまえば責められない、というのが長年の経験から導いた法則なのだけれど、窓際の席で合成苺のケーキを半分まで食べ進めていたメリーは、フォークを咥えたまま、その法則には例外があることを眼だけで教えてくれた。
「自分で数えて自分で申告するくらいなら、最初から間に合わせればいいのに」
「正確に分かっているから遅れられるのよ。考えてもみて。自分がどれだけ遅れているか分からない人は、怖くてつい早く来てしまうでしょう。私は誤差を秒単位で管理したうえで遅れているんだから、これは遅刻というより、制御された到着なの」
「秒まで分かっていて遅れるほうが、よほどたちが悪いわ。知らずに遅れる人には悪気がないけれど、蓮子のは確信犯じゃない」
「本来の意味でね」
「あなたの場合は、誤用の方でしょう」
「そもそも見えないはずの境目が見える人に、たちの悪さを論じられたくないわね。気持ち悪い眼」
「蓮子の眼の方が気持ち悪いわ」
 ここまでが私たちのいつもの挨拶である。
 向かいの椅子を引いて、帽子を膝に載せる。通りかかった店員に珈琲を頼みながら、私はメリーの皿の上でころころと転がされている赤い粒を眺めた。
「その苺、旬はいつだと思う?」
「合成に旬なんてないわよ。いつ食べても同じ甘さで、同じ酸っぱさで、蓮子と違って一秒も遅れずに出てくるの」
「一言多い」
「天然の苺は一粒ごとに味が違ったんですって。当たり外れのある果物なんて、ちょっと想像がつかないけれど」
 想像がつかない、と言いながら少しも困っていない顔で、彼女はその当たりも外れもない一粒を口に運ぶ。金の髪に白い帽子、紫のワンピースという取り合わせは、灯りを落としたカフェの中でも妙に輪郭がはっきりしていて、待ち合わせの相手としては実に見つけやすい。だからこそ安心して遅れられるのだ、という本音は珈琲が来るまで黙っておくことにした。
「それで、今日の議題は?」
「本屋さんの夢を見たの」
 昨日の買い物の話でもするような調子だった。
「寺町の通りを歩いていたのよ。そうしたら一本、通りが多かったの。寺町と御幸町の間に、もう一本」
「あの間は百メートルもないわよ。通りを一本ねじ込む幅なんて、京都市のどこを探しても余っていないわ」
「だから夢なんじゃない。細い通りで、突き当たりに本屋さんがあったの。紙の本が、床から天井まで」
 ちょうど運ばれてきた珈琲を受け取ったまま、私は口を付けるのを忘れてしまった。
 紙の本というのは、今では立派な贅沢品である。情報という情報が電子化され尽くしたこの時代に、わざわざ紙へ刷ろうというのは物好きの道楽か、さもなければそれを財産と心得ている人々の投資でしかない。現に私たちも一度、倶楽部の活動記録を紙の本に仕立ててみたことがあるのだが、印刷代の見積もりを聞いた瞬間に二人そろって黙り込んだものだ。新しく刷るものでさえそうなのだから、電子化より前の古い本ともなれば、一冊で私の下宿の家賃が何年分か払えてしまう。
 それが床から天井まであると言うのだ。まさに愛書狂そのものだと感じた。
「夢の中の在庫に値段を付けても仕方ないけれど、ざっと国家予算ね」
「値札は付いていなかったわ。お爺さんが一人いて、私が棚に手を伸ばしたら『あんたは読む人じゃないな』って」
「失礼な店主ね。夢の住人のくせに」
「でも当たっているのよ。私、綺麗だと思って触ろうとしただけだもの」
 メリーは笑い、それからフォークを皿に置いて、少しだけ声を落とした。
「起きてから行ってみたの。寺町に」
「それで?」
「あったわ。お店じゃなくて、境目が」
 持ち上げたままだった珈琲を、私はようやく受け皿に戻した。
 メリーには結界の境目が見える。世界の縫い合わせ損なった箇所のようなものだと本人は言うのだが、あいにく私の眼にそれは映らない。映るのは星と月と、そこから読み取れる時刻と座標ばかりである。誰が検算しても同じ答えになるものしか見えない眼と、当人にしか確かめようのないものを見てしまう眼。その二つを持ち寄って境目の向こうを覗いて回るのが秘封倶楽部の活動内容だ。部員は二名、大学には霊能サークルとして届けてあるものの、結界を暴くこと自体が禁じられているのだから、実態はれっきとした不良サークルということになる。
 最初の活動は、蓮台野の墓地だった。私が裏表ルートから手に入れてきた一枚の写真を頼りに場所と時刻を割り出し、二時三十分ちょうどに墓石を九十度回してみたら、秋の墓地一面に季節外れの桜が咲いたのである。あれは私にも見えた。境目が開ききってしまえば向こう側は誰の眼にも映るのであって、開く前の縫い目が見えるのはメリーだけなのだ。あの夜の帰り道、私は彼女の三歩先を歩きながら、墓場帰りとは思えない鼻歌を歌っていたらしい。
「蓮子は、夢の話でも笑わないのね」
「笑う理由がないもの。いいこと、メリー。物理学は私が生まれる前に終わっているのよ。観測できるものは最小の単位まで観測し尽くされて、残っているのは同じ数式をどう読むかという解釈の順列組合せだけ。超統一物理学の講義で教わるのは答えではなく、答えの並べ方なの。そこへあなたが、誰も測ったことのないものを道端の猫みたいに見てきたと言うんだから、笑うどころかノートを出すに決まっているでしょう」
「信じてくれている、ってこと?」
「信じてはいないわよ。確かめたいの」
 メリーは頬を膨らませかけたが、途中でやめた。その代わりにフォークの先で、苺の最後の一粒を私のほうへほんの少しだけ押しやった。
「確かめるって、蓮子の眼で? 相対性精神学ではね、真実は見ている人の主観の中にしかないのよ。私が見たのなら、それはもう在ったの。蓮子が検算してくれなくても、ちゃんと」
「検算できないものを在ったと言い切れるのが、あなたの学問の図太いところよね。ともかく、それは夢じゃなくて現実の話よ。境目が寺町にあったんでしょう」
「夢と現は同じものよ」
「違うわ。だからこそ、夢を現に変えようと努力できるんじゃない。そして現実なら、今夜行ける」
 ガラス屋根の上で星が一つ増えるのを待っていたかのように、メリーは残りのケーキを二つに切り、片方を私の皿に寄越した。
 賛成の意味である。

 寺町通のアーケードは、二十三時を過ぎると照明が半分に落ちる。昼間は土産物と新茶道の看板で賑やかな通りが、急に舞台の裏側のような顔になる。
 その新茶道の教室の看板と、合成菓子の店の閉じたシャッターとの間でメリーは足を止めたのだが、私の眼には繋ぎ目の揃った何の変哲もない煉瓦の壁があるばかりで、試しに睨んでみても壁は壁のままだった。
「ここ?」
「ここよ。少しだけずれて刷られたみたいに、輪郭が二重になっているの」
 私はアーケードの切れ目まで数歩下がり、ビルの隙間に覗く夜空を仰いだ。
「二十三時四分十二秒。北緯三十五度〇分、東経百三十五度四十六分。寺町通で間違いないわ」
「どうして毎回それを言うの。寺町通なのは看板を見れば分かるじゃない」
「帰り道の目印よ。入った時刻と場所を押さえておけば、出てきたときにどれだけずれたか測れるでしょう。あなたが向こうでふらふらしても、私が連れて帰れる」
 メリーは肩をすくめて私の手首を取った。境目を越えるとき、彼女はいつもこうして手首を、脈でも測るように握るのである。
 壁に向かって三歩進み、煉瓦に鼻をぶつける覚悟を決めて踏み出した四歩目で、靴底に伝わる感触が、均された舗装からでこぼこした石畳のそれへと変わった。
 顔を上げると、細い通りが奥へ伸びていた。両側の家はどれも軒が低く、窓という窓に灯がない。背後に遠ざかったアーケードの照明の代わりに、突き当たりの一軒だけが黄色い光を道にこぼしている。看板の字は「反故堂」と読めた。
「ほごどう、と読むのかしら」
「書き損じの紙のことよ。古書店の屋号にしては、ずいぶん縁起が悪いわね」
 軽い引き戸を開けたとたん、視覚よりも先に嗅覚が反応した。乾いた糊と埃と、それから何か甘いものの混じった匂いだ。古い紙が少しずつ分解していくときに出るのだと、これはあとになって教わったことである。
 棚は本当に床から天井まであった。しかも背表紙は一冊ごとに高さも色も違っていて、同じ規格のものが一つもない。ただそれだけのことが、規格品に囲まれて育った眼にはひどく騒がしく、私は入口で二、三度まばたきをしなければならなかった。手前の棚には同じ題の本が五冊並んでいるのに、一冊は角が丸く、一冊は背が焼け、もう一冊からは誰かの挟んだ紙の付箋が何十枚も、鳥の羽のように飛び出している。電子の書架なら一つの項目にまとめられてしまうはずの五冊が、ここでは五人のお年寄りのように肩を並べて立っているのだった。
「夜分に二人か」
 レジの奥に老人がいた。痩せて背が高く、座っていても棚の三段目に頭が届きそうなその人は、眼鏡を額に押し上げて私たちを順に眺め、メリーのところで視線を止めた。
「あんたは昨夜も来たな。読む人じゃない方だ」
「夢の中だったのに、覚えていらっしゃるのね」
「こっちは起きていたよ」
 面白くもなさそうに言って、老人は今度は私のほうへ顎を向ける。その指先が黒いのは汚れではなくインクの染みなのだと気づくまでに、少しかかった。
「そっちは」
「宇佐見です。あの……これ全部、本物の紙ですか」
「偽物の紙というのがあるなら見てみたいね」
「触っても?」
「触るだけなら断る」
 伸ばしかけた手を引っ込めて、私は自分でも意外なことを口にしていた。
「読みたいんです」
 値段を聞くつもりだったし、来歴も聞くつもりだった。どうやって電子化を免れたのか、この通りはいつからここにあるのか。質問は検証の手順どおりにきちんと並べてあったはずなのに、口から出てきたのは、列のいちばん後ろに置いてあるものだったのである。
 老人は長いこと黙って私の顔を見ていたが、やがて立ち上がると、棚ではなくレジの下から薄い一冊を取り出して、私の手に載せた。拍子抜けするほど軽い。
「うちは売らない。読む人に預けるだけだ」
 革でも布でもなく、厚紙を糸で綴じただけの表紙を開くと、ページいっぱいに炎が描かれていた。その炎の中を裸の人影が昇り、あるいは抱き合い、隙間という隙間に蔓のような文字が這っているのだが、よく見ればそれは活字ではなく、一文字ずつ絵と同じ線で刻まれていて、どこまでが絵でどこからが字なのか、境がまるで分からない。
「『THE MARRIAGE of HEAVEN and HELL』。天国と地獄の結婚。……誰の本ですか」
「ウィリアム・ブレイク。三百年ばかり前の、倫敦の彫版師だ。銅の板に自分で詩と絵を彫って、自分で刷って、女房と二人で一枚ずつ色を塗った」
「一枚ずつ?」
「一人ずつ、と私は言うがね。同じ版から刷っても、塗る日が違えば色が違う。だからこの男の本には、同じものが二人といない」
 どうやらこの人には、本を人のように数える癖があるらしい。
 全部で二十七葉だと老人の言うその本をめくっていくと、三葉目に、こんな一行が彫ってあった。

  Without Contraries is no progression.

「対立なくして、進歩なし」
 声に出して訳した私の肩口から、メリーが覗き込んでくる。
「蓮子の好きそうな言葉ね」
「あなたのことが書いてあるのよ。私の反対側にいる人のこと」
「それ、褒めてるの?」
 老人が鼻を鳴らしたのは、ひょっとすると笑ったのかもしれない。
「条件が二つある」
 彼はレジ越しに手を伸ばして、私の手の中で開いていた本を閉じ、その表紙の上に、インクの染みた掌を一度だけ置いた。
「一つ。読むだけにすること。金に換えるな、人に見せびらかすな、機械に取り込ませるな」
「ええ、二つ目は」
「版をなぞるな」
「なぞる?」
「線を指で辿るな、という意味だ。読むのと辿るのは違う。辿れば開く。開けば、閉じられなくなる奴がいる」
 何が開くのかを聞きそびれたのは、ちょうどそのときメリーが私の袖を引いたからである。
「蓮子、そろそろ。輪郭が合ってきているわ」
 境目というのは潮のように満ち引きするものらしく、それが見える唯一の人間にそう言われてしまえば、こちらに議論の余地はない。私は本を鞄の底にしまい、老人に頭を下げた。
「お返しはいつ」
「読み終わったらでいい。読み終わる本なら、の話だが」
 引き戸を閉めながら振り返ると、レジの後ろの棚に一箇所だけ本の抜けた隙間が見えた。それが一冊ぶんにしては少し広すぎるように思えるが、確かめる前に戸は閉まってしまった。
 石畳を戻って四歩目で、靴底に煉瓦の感触が返ってくる。振り向けばそこは目地の揃った壁で、掌で押しても、もうびくともしない。私はアーケードの切れ目へ出て、もう一度空を見上げた。
「二十三時四十一分五十秒。場所は同じ。ずれはなし」
「ほら、帰ってこられたでしょう」
 得意そうに言ったメリーは、それから握ったままだった私の手首に気がついて、思い出したように指をほどいた。

 私の下宿には机が一つしかなく、その上はいつもガラクタで埋まっている。それらをまとめて床へ下ろし、卓上灯を引き寄せてから、ようやく鞄の底の本を取り出すことができた。
 読むだけ、というのは、少しも難しい条件ではないはずだった。
 表紙を開けば炎のページである。昇っていく人影と、抱き合う二人と、蔓の文字。私は灯りの角度を変え、一度本を閉じてからもう一度開き、それでも足りずにページを卓上灯のすぐ下まで持っていった。
 店で見たとき、あの炎は確かに朱色だったのだ。橙から赤へ、紙の白を少し残して塗ってあって、黄色い電球の下だったぶんを差し引いたとしても、暖色であったことは動かない。だいたい私は色を見間違えない。毎晩、星の一つ一つの色を見分けているこの眼が、朱と藍を取り違えるわけがないのである。
 それなのに、机の上の炎は青かった。
 藍に近い青が紙の端まで塗り込められていて、人影はその中を、まるで水底から浮かび上がるように昇っている。蔓の文字も、抱き合う二人の腕の角度も、私の記憶と一本も違わない。線は確かに同じなのだ。
 違っているのは、色だけだった。


 閉架書庫の温度は、一年を通じて摂氏十八度に保たれている。
 大学図書館の地下二階にそんな部屋があることを、利用者の大半は卒業するまで知らずに終わるのだが、それも無理のない話だろう。電子化の済んだ資料は端末からいくらでも読めるし、済んでいない資料などというものは、建前上はこの世に存在しないことになっているからだ。
「宇佐見さん、七分の遅刻です」
 鉄の扉を開けてくれた司書は、挨拶よりも先に手帳へ何やら書き込んでいる。和内怜さんといって、閉架の担当で白い手袋と鉛筆を決して手放さない人である。去年、物理学末期の紀要を探しに初めてここへ下りて以来、私はこの人の手帳にせっせと遅刻の記録を増やし続けているのだった。
「七分三十秒くらいだと思うんですが」
「私の時計では七分です。閉架では、私の時計を正とします」
 真顔で言うものだから、冗談なのかどうかがさっぱり分からない。私の眼のことをこの人は知らないはずで、せいぜい秒まで言いたがる妙な学生くらいに思われているのだろう。それはそれで、少々心外ではあるけれど。
 一つきりの閲覧机には緑の布が張ってあって、私は鞄から例の本を取り出すと、真ん中にそっと置いた。
 人に見せびらかすな、とあの老人は言ったのだが、これは相談であって見せびらかしではない、というのが一晩かけて私の練り上げた解釈である。機械に取り込ませない、という条件のほうはきちんと守るつもりでいるのだから、まあ半分は合格だろう。
 和内さんは本に触れる前にまず手袋を新しいものに替え、それから表紙を開いてずいぶん長いこと動かなかった。
「……どちらで」
「預かりものです。出所は、言っても信じてもらえないと思います」
「では聞きません。なお、聞かないことも記録はします」
 鉛筆を走らせながら、彼女は紙の端だけをつまんで一枚ずつページをめくり、ルーペで線を追っては灯りに透かして紙の繊維まで確かめていく。その手つきは、医者が古い友人を診察しているようにも見えた。
「レリーフ・エッチングですね。凸版の腐食銅版です。描いた線のほうを残して、周りを酸で溶かす。溝に線を彫る普通の銅版画とは、ちょうど逆のやり方になります。作者はこれを地獄の印刷法と呼んだそうですが」
「地獄の……」
「正確には、地獄式の腐食剤による印刷です。見かけの表面を溶かし去って、隠れていた無限を露わにする、と。この本の中に、本人がそう書いていますよ」
 表面を溶かして、隠れていたものを露わにする。どこかの不良サークルの活動方針のようだと思って隣を見ると、メリーは本ではなく、書架の奥の暗がりのほうをぼんやり眺めていた。
 和内さんが机の端末を引き寄せたので、私はたぶん顔色を変えたのだと思う。
「あ、機械に取り込ませ……」
「電子版と照合するだけです。この本を機械に通すわけではありません」
 先回りしてそう断ってから彼女が呼び出した画面には、同じページが映っていた。題字に、昇っていく人影に、抱き合う二人。
 ただし、炎は朱色である。
「違いますね」
「違うんです。しかも」
 言えば正気を疑われるだろうな、と一拍ためらったものの、黙っていたところで色が戻るわけでもない。
「昨夜、預かった時点では朱でした。帰って開いたら、藍になっていたんです」
 和内さんは笑いもせず、鉛筆も止めず、「昨夜、朱。今朝、藍。本人の申告による」と手帳に書きつけた。
「信じるんですか」
「記録することと信じることは別です。ちなみに、電子版のほうを疑ったことはありますか」
「電子版を?」
「ブレイクの彩飾本は、同じ版から刷っても一冊ごとに彩色が違います。九冊残っていれば九通りの色がある。ところが端末で引くと、出てくる画像は一通りきりでしょう」
 鉛筆の尻でこつこつと叩かれた画面の隅には、「定本」という二文字が、薄い灰色で入っていた。
「電子化のときに、どれか一冊を選んでそれを正としたんです。残りは異本ということになって参照されなくなりました。ですから正確には、電子版は写しではなく決定なんですよ。どの一冊を正本にするか、どこかの誰かが決めたわけです」
「誰が」
「記録にありません。記録にないということを、私は記録しています」
 それまで黙っていたメリーが、暗がりから目を戻して口を開いた。
「選ばれなかった方は、どうなったのかしら」
「紙が残っていれば、紙の中に。この本と色を比べたいのでしたら、現物が一冊、卯東京の資料館にあります。閲覧は予約制で、手袋着用」
 和内さんは手帳を一枚破ると、紹介状の代わりだと言って私にくれた。そこには請求記号と彼女の署名と今日の日付が、几帳面な鉛筆の字で並んでいた。

 卯酉新幹線ヒロシゲは、酉京都と卯東京の間を五十三分で走る。
 窓にはカレイドスクリーンが嵌め込んであって、松並木だの宿場の屋根だの遠い富士だのといった東海道の風景が、歌川広重の絵を元に合成された、どこにも実在しない沿道として流れていく。上京するたびにこれを眺めてきた私などはすっかり慣れてしまったが、メリーはあまりお気に召さないようだ。
「偽物の景色を五十三分も見せられるのよ。退屈だし、窮屈だわ」
「速くて揺れなくて、快適じゃない。私は嫌いじゃないわよ」
「その割に、さっきから時計ばかり見ているわね」
「ここには空がないんだもの。見るしかないのよ」
 スクリーンの空にも一応星は描いてあって、子供の頃に一度、試しに読もうとしてみたことがあるのだが、何も返ってはこなかった。配置がでたらめだからではない。綺麗すぎるのだ。本物の星というのは、あんなふうに等間隔には瞬かない。
「広重の東海道にも、刷りの違いがあるんですって」
 メリーは和内さんから仕入れたばかりの話を、窓に向かって繰り返した。
「初めに刷ったのと、あとから刷ったのとで色が違うの。空のぼかしが省かれたり、人の着物の色が変わったり。版木がすり減ってくると線まで変わってしまうそうよ」
「じゃあ、このスクリーンはどの刷りなの」
「いちばん売れた刷り、じゃないかしら」
 窓の中では、日本橋の朝焼けが品川の海へゆっくりと溶けていくところだ。それは誰かが選んだ朝焼けなのだと思うと、選ばれなかった朝焼けがいったい何枚あったのか、もう誰にも分からないのだということのほうが気にかかってくる。
「でも、よく出来ているわ」
 窓に指を近づけてみると、松の葉の一本一本にまで、ちゃんと風が通っていた。
「画素も遅延も、人間の眼の限界よりずっと細かいのよ。本物の景色と並べて見せられても、区別できる人はいないでしょうね。ヴァーチャルとリアルは区別できない、というのが今の常識なんだから」
「区別できないなら、どっちでもいいじゃない」
「よくないわ。区別できないのと、区別がないのとは、別のことよ。区別できないのはこっちの問題で、区別がないのは向こうの性質の話。この窓の向こうにあるのは土の壁。そこはスクリーンがどれだけ精巧になっても変わらないの」
「蓮子は、その壁を見たことがあるの?」
 ないのだった。この新幹線が地下を走っているということを、私は路線図と、それから星が見えないという事実から知っているにすぎない。
「私には、どっちも同じに見えるのよ」
 メリーは窓ガラスに額を寄せた。
「夢で見た景色も、この窓の景色も、京都の景色も。見ている間は、みんな同じくらい本当なの。あとで思い出すときにだけ、これは夢、これは窓、って札を付けるのよ。だからその札を付け間違えてしまったら、私にはもう直しようがないわ」
 さらりと言ってのけたけれど、聞き流していい話ではない。それなのに気の利いた返事を探しあぐねているうちに、窓の中の景色は浜名湖の渡しへ差しかかってしまった。
 浜松を過ぎたあたりで、スクリーンは夜の場面に入る。雪の宿場だ。画面が暗くなるとガラスの表面には車内の灯りが映り込み、座席の背や荷棚や、通路を歩いていく販売員の姿までがうっすらと浮かび上がってくる。
 そして、私たちの席も。
 窓を見て、隣を見る。膝の上に例の本を開いたメリーが挿絵に見入っているのを確かめてから、私はもう一度、窓へ目を戻した。
 映っているのは一人だった。
 並んで座っているはずの二人ぶんの幅に、帽子をかぶった影が一つだけ、座席の中央に腰かけている。試しに右手を上げてみると影も手を上げたのだが、上がったのが右なのか左なのか、それがどうしても見分けられない。
「メリー……」
「なあに」
「窓、見てくれる?」
 彼女が顔を上げたまさにその瞬間、スクリーンは朝の場面に切り替わり、三河の橋と白い空が、映り込みをきれいさっぱり消してしまった。
「橋ね。綺麗だけど、偽物よ」
「……っそうね」
 偏光フィルムの干渉、というのが私の出した結論である。カレイドスクリーンは多層の薄膜でできている。角度によっては反射像が重なることもあって、二人の像が一つに畳まれてしまうというのも、光学的にはありうる話なのだ。
 ありうる、と口の中で三回唱えてから、私は一つだけ聞いてみた。
「さっきの影、帽子をかぶってたのよ。どっちの帽子だったと思う?」
「さっきの影って何? 見ていないのに分かるわけないじゃない」
 もっともな答えではあった。なにしろ、見ていた私にも分からなかったのだから。

 卯東京駅の地上は、相変わらず騒がしい。
 色とりどりの髪に発光する上着、それに外の人間には意味の分からない合言葉。東京の若者というのは、自分たちにだけ通じる規則をいくつもこしらえて、その中で暮らしているのである。私の実家はここから在来線で二十分ほどのところにあるのだけれど、寄れば彼岸でもないのに墓参りに付き合わされるのが目に見えているので、今回は素通りすることに決めていた。
「蓮子の生まれた街ね」
「生まれただけよ。京都のほうが性に合うの。夜が暗いから」
「星がよく見える、って意味?」
「他にどんな意味があるのよ」
 派手な一団が横断歩道の真ん中で踊りはじめても、咎める者は誰もいない。メリーはそれを、珍しい祭りでも見物するように眺めていた。
「規則がたくさんあるのに楽しそうね。京都の規則なんて、みんな真面目に守るだけで誰も踊らないのに」
「自分で作った規則と、与えられた規則の違いでしょう」
 言ってしまってから、どこかで読んだ文句に似ている気がしたのだが、出どころは思い出せなかった。
 資料館は、駅から歩いて十五分ほどの旧い官庁街の一角にあった。受付で和内さんの紙片を出し、手荷物を預けて地下へ下りていくと、通された閲覧室は窓のない真っ白な部屋だった。あの鉛筆の署名は絶大な効き目を持っていたらしく、係員はそれを一目見ただけで奥へ引っ込むと、平たい箱を捧げ持つようにして戻ってきたのである。
 渡された手袋をはめて蓋を取れば、箱の中には、私の鞄にあるのと同じ大きさで同じ厚さの一冊が、行儀よく寝かされていた。表紙を開くと、炎は朱色。その隣に鞄から出した預かりものを並べると、こちらは藍。係員は目を丸くしたものの、紹介状の署名をもう一度確かめて、何も言わずに透過台の灯りを点けてくれた。
 そこから先は私の領分だ。
 片方の本の該当ページを透明フィルムに複写し、もう一冊の同じページの上に重ねる。線が合うかどうかを見るにはこれがいちばん早い。人影の輪郭も蔓の文字も題字の飾りも、四隅を合わせたとたんに、フィルムと紙の線がぴたりと一本に重なった。髪の毛一本ほどのずれは紙の伸び縮みによるもので、これは誤差のうちに入る。
「線は同一。同じ版から刷られているわ」
 次は色で、持ち込んだ分光計をページに当てて同じ箇所の反射を測ってみると、朱と藍との間には、波長にして二百ナノメートル近い差が、れっきとした数字になって現れた。
「彩色は別。それも、塗り直した跡がどこにもない。最初から藍として塗られた紙よ、これは」
「昨夜は朱だったのに?」
「昨夜は朱だった紙が、今は、最初から藍だった紙になっているの」
 自分で口にしておきながら、ざらついた味の残る言い方である。ところがメリーは朱のページと藍のページとを見比べて、そのどちらにも、まったく同じ顔で頷いてみせた。
「どっちも綺麗ね」
「感想を聞いてるんじゃないの。どっちが本物かって話」
「どっちも本物でいいじゃない。同じ板から刷って、違う日に塗ったんでしょう。お店のお爺さんが言っていたわ。同じものが二人といないって」
 分光計を置いた私の頭の隅には、さっきから講義の脚注が一つ引っかかっていた。物理学が観測の限界に行き着いて、あとはもう解釈しかすることがなくなった頃に、いくつも出ては消えていった仮説のうちの一つ。検証のしようがないという理由で教科書からは落とされたものだ。
「メリー。世界のほうが刷り物だとしたら、どう思う」
「世界が?」
「一枚の版があって、そこから何枚か刷られているの。線は同じ。物理法則も、星の位置も同じ。でも、塗られた色だけが違う。そういう解釈が昔あったのよ。刷る、という字を書いて『はく』と読ませていたわ。一枚一枚が刷で、全部まとめて刷界」
「じゃあこの本は、別の刷から来たの?」
「もっと悪いわ。昨夜と今朝とで、別の刷のものと入れ替わったのかもしれない。あるいは、入れ替わったのは私たちのほうで……」
 そこで言いさしたのは、メリーの口元がどう見ても綻んでいたからである。
「蓮子、それなら私が夢で歩いているのは、よその刷ってことになるわね」
「仮説よ。検証できなければ哲学と同じ」
「でも測ったじゃない、今」
 彼女の指は、分光計の表示をまっすぐ指していた。
 そうなのだ。差は測れてしまった。同じ線の上に載った違う色。二冊を並べさえすれば、誰が測っても同じ数字が出てくるだろう。
「……観測できるなら、それはもう物理よ」
 半分は、自分に言い聞かせるための台詞だった。
 帰りがけに係員が差し出した閲覧票は紙の台帳で、請求者の署名欄に名前を書けという。この本を見たがる人間など年に一人いるかどうかなのだろう、私の前には一行しか埋まっていない。
 日付は昨日。請求記号は、私の書こうとしているものと同じ。
 そして署名欄には、宇佐見、とあった。


 寺町の壁は、ただの壁になっていた。
 新茶道の看板と合成菓子の店との間。三日前の夜にはたった四歩で抜けられたはずの煉瓦を、私はまず掌で押した。次に拳で叩き、最後には肩からぶつかってみた。夕方の人通りの中でやることではないと分かっていても、他に検証の方法を思いつかなかったのだから仕方がない。
「どう?」
「輪郭はぴったり合っているわ。一枚の絵みたいに」
 メリーは気の毒そうな顔で、私の肩に付いた煉瓦の粉を払ってくれた。
「引き潮なのよ。境目って、ずっと同じところに開いているわけじゃないの」
「返しに行けないじゃない、本」
「読み終わったらでいいって言われたんでしょう。読み終わったの?」
 痛いところを突かれた。二十七葉を三回通読して、主要な箇所は訳してノートに写しもしたのに、いっこうに読み終わった気がしないのである。とりわけ格言のページがいけない。七十ばかりの短い文が並んでいるのだけれど、その一つ一つが、ことごとく私の専門に喧嘩を売ってくる。

  いま証明されていることは、かつては想像されただけのことだ。

 物理学が終わった時代の学生に向かって、三百年前の彫版師がこういうことを言うのだ。
 そんなことを考えながら、鞄の口から覗いていた本の背を何の気なしに引き出して表紙を開いた私は、そのまま歩道で棒立ちになった。
「メリー」
「なあに」
「朱よ」
 炎が、朱色に戻っているのだ。
 壁から離れてアーケードを十歩下り、開いてみると藍。引き返して壁の前で開くと朱。念のためもう一度離れれば、やはり藍。本を開いたり閉じたりしながら行ったり来たりする私を、通行人たちが大きく迂回していくのが視界の端に入ったけれど、構っている場合ではなかった。
「色が変わるのは時間じゃない。場所だわ」
「場所?」
「境目が開いていた場所の近くでだけ朱になるの。この紙は向こうの色を拾うのよ。ということは、これを持って歩けば、今どこが開いているかが分かる。あなたの眼と合わせて、二系統で確かめられるわ」
 方位磁針でも扱うように本を胸の前に構えてみせると、メリーは少し唇を尖らせた。
「私の眼だけじゃ信用できないってこと?」
「検算は多いほうがいいって言ってるの。測定器が一台きりの実験なんて、怖くて論文にできないでしょう」
「私、測定器なのね」
 頬をふくらませはしたものの、彼女はすぐに先に立って歩き出している。その眼はもう、通りの奥にある私には見えない何かを追いはじめていた。

 鴨川の飛び石は、夜になると水音だけになる。
 出町の三角州から少し下ったあたりに、川幅いっぱいに石が並べてあって、ところどころ亀の形をしたのが混じっているのは、きっと昔の誰かの趣味なのだろう。街灯の光は岸のところで途切れてしまうので、石の列は川の中ほどから先、闇の中へ溶けていくように見えた。
 そこへ辿り着くまでに、私たちは夜の大半を歩き通していた。日が暮れてから、寺町を出て河原町へ、河原町から御所の塀沿いへと、本を開いては閉じ、閉じてはまた開きながら歩いたのだが、炎が朱になりかける場所はいくつかあっても、メリーに言わせればどれも開ききってはおらず、少し離れればすぐに藍へ戻ってしまう。ところが夜が更けるにつれて、その朱はだんだん濃く、長く残るようになっていき、日付が変わってしばらくした頃、鴨川の土手まで来たところで、とうとう色が戻らなくなったのである。
 本は、土手を下りたときからずっと朱のままである。
「川の真ん中よ。向こう岸が二枚あるの。奥の一枚が、少し左にずれているわ」
 メリーの言葉を聞きながら仰いだ空は、雲が薄くて星がよく読めた。
「二時五十一分三十秒。北緯三十五度一分四十秒、東経百三十五度四十六分十秒。鴨川、出町の南」
 
 言い終えるのを待って、メリーが私の手首を取る。
 一つ目の石、二つ目の石と渡っていって、五つ目に足を載せたところで水音が変わった。流れの速さは同じなのに、音の高さだけが半音ほど上がったような気がしたのである。七つ目の亀の甲羅を踏んだときには、対岸の街灯が橙から白へ切り替わるのが見えた。いや、あれは切り替わったというより、最初から別の街灯だったように見える。
 岸に上がってみると、土手の上に屋台が出ていた。
 そんなものは、こちらの京都にはない。深夜の路上で火を使う商売など、衛生条例が何重にも禁じているのだから。それが五、六軒も提灯を連ねて湯気を上げていて、客までちゃんといるというのに、誰ひとり私たちを見咎めようとしないのだった。
「同じ場所よ」
 月を探し当てて、私は言った。
「座標は寸分も違わない。なのに」
「色が違うでしょう」
 メリーの声は弾んでいた。
 言われてみれば、何もかもが少しずつ違うのである。土手の草の緑は深いし、提灯の赤には黄が混じっているし、対岸のビルの輪郭は記憶どおりなのに、窓の灯りの数が合わない。線は同じで、塗りだけが違う。ふと見下ろした自分の胸元では、赤いはずのネクタイが提灯の下で臙脂色に見えていた。
「長居すると移るのよ」
 私の視線に気づいたらしく、メリーが言った。
「こっちの色に、少しずつ。夢で長く歩いた朝は、起きても部屋の色がしばらく変なの」
「それ、今まで言わなかったわね」
「聞かれなかったもの」
 悪びれもせずに答えた彼女は、もう屋台の前に立っていて、鍋の中で出汁に浸かっている、切り口の白いものを覗き込んでいる。
「筍。前に夢から持って帰ったのと同じだわ」
 屋台の主は金を取らなかった。というより、私たちの差し出した硬貨を見て首を傾げ、面倒くさそうに手を振っただけだった。メリーは遠慮なく経木の皿を受け取ると、その一切れを私の口に押し込んできた。
 歯が繊維に沿ってすっと入る。
 合成の筍というのは、どこを噛んでも均一に柔らかいものだ。ところがこれは根元が固くて穂先がほどけ、噛むごとに青い匂いが鼻へ抜けていって、最後にはわずかなえぐみが舌の奥に残る。一本の筍の中に、同じ場所が一つもないのである。
「……これ、土から生えたやつよ」
「でしょう」
 感心ばかりしていても観測にならないので、私は屋台の主にいくつか質問をさせてもらうことにした。
「今日は何月何日ですか」
 妙な客だという顔をしながらも主が答えてくれた日付は、こちらと同じだった。
「この国の都は」
「京都に決まってるだろう。遷都してからずっとこっちだ」
「東京へ行くには」
「ヒロシゲで五十三分。あんたら、どこの田舎から出てきたんだ」
 都も、新幹線も、所要時間も同じ。線は共通している。
「夜中に屋台を出して、衛生局に叱られませんか」
「衛生局?」
 主は湯気の向こうで首をひねった。
「聞いたことがないね。腹を壊した奴は、次から来ないだけだよ」
 法則、同一。地理、同一。条例、相違。筍、美味。ノートに書きつけていると、横から覗き込んだメリーが、私の鉛筆を取って筍に二重丸を付けた。
 彼女は残りを経木ごと包んで鞄にしまっている。どうやら持って帰るつもりらしい。持って帰れるものなのかと聞こうとして、私は何気なく川のほうを振り返った。
 霧が出ていた。
 さっきまで七つ目まで見えていた飛び石が、三つ目から先、白く塗り潰されている。霧は水面を這いながら土手を上がってきて、提灯の灯を一つずつ呑み込み、それにつれて屋台の声は遠くなり、客の姿も薄れていった。屋台の前から戻ってきたメリーが黙って私の手首を取ったときには、もう私たちの周りだけが丸く切り抜かれたように残っていたのである。
「それ、私の本よ」
 霧の中から女性の声がした。
 若い声だ。聞き覚えがあるのに、誰の声なのかが分からない。分からないくせに、うなじの毛だけが先に逆立った。録音した自分の声を聞いたことのある人なら、この感じを分かってくれると思う。骨を通さずに耳へ届く自分の声というのは、知らない他人のようでいて、それでいて他の誰のものでもないのだ。
 あれは、私の声だった。
「返してくれるかしら。色が違ってしまう前に」
 ただし口調が違う。私は、あんなふうに語尾を柔らかく伸ばしたりはしない。
「どなた」
 先に応じたのはメリーで、私の手首を握る指に力がこもっている。
「その本の持ち主よ。ずっと探していたの」
「預かったのは私です」
 ようやく声が出た。自分の声と会話するというのは、合わせ鏡を覗き込むのによく似ている。
「店の人に、読むだけにすると約束しました。あなたに渡す約束はしていません」
「読むだけ」
 霧の向こうで、声が少し笑った。
「もったいないわ。あなた、知りたいのでしょう。こちらがどうなっているのか。あといくつあるのか。全部を、一度に見たいのでしょう」
 図星を指されて、返す言葉がない。
「十四枚目を開いて」
 指が勝手に動いて、十四葉を探し当てていた。炎の中に横たわる人と、その上を飛ぶ影。蔓の文字が、そこだけひときわ太く刻んである。

  知覚の扉が清められたなら、あらゆるものはありのままに、無限に見えるだろう。

「その線を、指で辿って。そうすれば開くわ。どこでも、いつでも。境目を探して夜中に歩き回ることも、その子の眼を借りることも、もう要らなくなる」
 その子、と声は言った。メリーのことを。
 人差し指が、紙の上に浮いている。
 知りたいかと聞かれれば、それは知りたいに決まっているのだ。子供の頃、理科の教科書の最後のページに「これで全部です」と書いてあるのを見つけて、その晩ひどく腹を立てたまま眠れなかったことを、今でも覚えている。その外側が、指一本ぶんの距離にあるのである。
 線の一本目に、爪の先が触れかけた。
「蓮子」
 メリーの声は小さかった。
「輪郭が締まっていくわ」
 彼女が言ったのはそれきりで、止めもしなければ、手首を引きもしなかった。ただ握っていたのだ。脈を取るように。
 指を浮かせたまま、私はページの文字をもう一度読み直した。無限に見えるだろう、とある。開くだろう、とは書いていない。行けるだろう、とも書いていない。書いてあるのは、見える、だ。
「……私は、知りたいだけなの」
 口に出してみると、思っていたよりもはっきりした声になった。
「使いたいわけじゃないのよ。開けたいのでも、持ち帰りたいのでもなくて、そこに何があるのかを、自分の眼と頭で確かめたいだけ。それにね」
 私は本を閉じた。
「メリーの眼を要らなくする方法なんて、秘封倶楽部には必要ないの! 部員が一人になったら、サークルの認可が取り消されるもの」
 霧の向こうは、しばらく黙っていた。
「そう」
 溜息のような一言で、怒っている様子はない。
「じゃあ、またね。蓮子」
 名前を呼ばれた。私の声で。
 霧は来たときと同じ速さで引いていき、提灯が一つずつ戻り、屋台の声が戻り、飛び石がまた七つ目まで見えるようになった。帰りの石を渡りながら、メリーがぽつりと言う。
「変な声だったわね」
「誰の声に聞こえた?」
「分からないわ。知ってる人が二人、いっぺんに喋っているみたいだった」

 こちら側の土手には屋台などなく、草の緑は浅くて、対岸の街灯は橙色だった。ネクタイもちゃんと赤い。
 メリーが鞄を開けて取り出した経木の包みの中で、筍はまだ温かかった。
「持って帰れたわ」
「現物が残るのね。記録しておかないと」
 ノートを出しかけたものの、その前に習慣が勝って、私は空を見上げていた。
「三時十二分ちょうど。場所は同じ。往復で二十分と三十秒」
 言いながら目を落とした左手の腕時計は、電波で合わせる安物ではあるけれど、日に一秒も狂わないのが取り柄である。
 その針が、三時十四分十九秒を指していた。
 時計を振り、耳に当て、秒針がちゃんと動いているのを確かめてからもう一度空を見たのだが、星の返してくる答えは変わらない。三時十二分、今は十五秒。土手の上に覗いている大学の時計塔に目を移すと、文字盤の針は、腕時計とぴったり同じところを指しているのだった。
「蓮子?」
 私は何も答えられなかった。引き算は一瞬で済んでいたし、それは迷う余地のない、私のいちばんよく知っている数字だったからである。
 私の眼が、二分十九秒遅れていた。
 
  ◇

 ここには星がない。
 月もなければ上も下もなく、白いとさえ言えない。白というのが一つの色だからで、ここは紙の、何も刷られていないところなのである。

 一、二、三、と指を折って数えていく。十本では足りないので十三回折り返し、九を余らせて、百三十九。折るたびに誰かの手を借りているような気がするのは、この指が、数を数えるにしては細すぎるからだろう。

 百三十七、百三十八、百三十九まで来たら、一へ戻る。
 百三十九の次が百四十であることくらいは知っているし、その先の数だって、望むなら幾らでも計算してみせる。計算は得意なのだ。式を立てて境界条件を与えれば、たいていのものは解ける。
 解けないのは、この百三十九だけである。

 一、二、三。

 一秒の長さは変えていない。星がなくたって一秒は一秒として数えられる。それだけは手放さずにおいた。
 縁の向こうで、誰かが空を見上げている。時刻を読んでいる。秒まで、それも得意そうに読んでいる。

 遅れている、と私は思う。
 百三十九、遅れている。

 一、二、三。

コメントは最後のページに表示されます。