第七章 四重の視覚
十八時三十分ちょうどに、灰色の上着の女性はカフェの扉を押した。
通りの向かいからガラス越しに眺めていると、彼女は窓際の席に着いて珈琲を一つ頼み、それから向かいの椅子を少しだけ引いたのだが、それは余白の窓から覗いたときとそっくり同じ手順で、きっと一秒だって違っていないのだろうと思うと、背筋のあたりが妙にむず痒くなってくる。
その日の昼の間、私たちはずっと彼女の仕事ぶりを尾けていた。
境界保全課の技官は朝の九時きっかりに、御所の塀の欠けたところに現れた。清水さんに連れられて抜けた、あの場所である。三脚に載せた計器を据えて数値を読み、板状の端末に打ち込んでから、塀に向かって透明な膜のようなものを貼りつけ、端から掌で撫でて丁寧に空気を抜いていく。
「塞いでいるわ」
メリーは顔をしかめていた。
「縫い目を、一針ずつ。あんなに丁寧に塞がれたら、向こうの光も漏れてこないじゃない。上手すぎるのよ」
「几帳面ね」
「蓮子が計算用紙の端を揃えるときの手つきと同じよ」
「私はあんなに執念深くないわ」
「三回揃え直すじゃない。四隅を、とんとんって」
技官は一箇所にきっちり十五分をかけては次の現場へ歩いていき、先斗町の石段でも、市電の軌道敷でも、一度も道を確かめるということをしなかった。時計なら何度も見る。けれど空は、ただの一度も見上げない。
私なら見る。昼間であっても、癖でつい見上げてしまう。彼女の首は、その動きそのものを忘れてしまっているのだった。
「行きましょう」
先に通りを渡ったのはメリーである。
店員はメリーに「いらっしゃいませ」と声をかけ、水の入ったコップを一つだけ持ってきて、彼女の前に置いた。隣に立っている私には、挨拶も水もない。
こういうことは、この刷に落ちてきてから何度もあった。券売機は私の硬貨を数えてくれないし、自動扉はメリーの後ろに続く私の鼻先でぴしゃりと閉まる。理由の見当はついていた。この紙にはもう、宇佐見蓮子が一人刷ってあるのだ。二人目は、数に入らない。
メリーが、引いてあった椅子に腰を下ろした。
顔を上げた灰色の女の、濃い色の眼鏡の奥で目が動く。メリーを見て、それからその後ろに立っている私を見た。十歳若い自分の顔が帽子をかぶって立っているのだから、驚かなかったはずはないのだけれど、彼女は珈琲のカップを、音も立てずに受け皿へ置いただけだった。
「双子の姉妹はおりません」
私の声である。ただし少し低くて、ずっと平ら。
「血縁の照会でしたら、局の窓口へ。勤務時間外ですので」
「この椅子、誰のために引いたの?」
メリーにそう訊かれて、女は向かいの椅子に目をやった。そこに人が座っていることを、今初めて認識したという顔をしている。
「習慣です」
「いつからの?」
「覚えていません。席を立つときに戻しますので、ご迷惑はおかけしていないかと」
「誰か、来るはずだったんじゃないかしら」
「予定にない来客はありません。私は予定を違えませんので」
「遅刻もしないのね」
「しません。する理由がありません」
そこで口を挟まずにいられなかったのは、たぶん、自分の声でそれを言われたからだ。
「理由がないんじゃないわ。待っている人がいなかっただけよ」
女の視線がこちらへ戻ってくる。眼鏡越しでも分かった。私が苛立ったときにやる、あの目の細め方である。
「あなたは」
「別の刷の、あなたよ」
「意味が取れません」
「取れなくていい。一つだけ試して。空を見て。今、何時か言って」
「時計があります」
「時計じゃなくて、星で」
長い沈黙のあとで、彼女はゆっくりと眼鏡を外した。
裸の目は、私と同じ形をしている。ガラス屋根を見上げたその先には、宵の明星が出ていた。
「……何も」
平らだった声が、初めて揺れる。
「何も起きません。子供の頃は、何か分かった気がしていたのですが、思い込みでした。治りましたので」
「治ったんじゃないわ」
卓越しに伸びたメリーの手が、女の左の手首を取った。手ではなく手首を、脈を取るように。
女の肩が跳ねた。振り払おうとした腕は、けれど振り払わないまま止まり、握られた自分の手首を、信じられないものでも見るように見下ろしている。
「誰にも、こうされたことがないでしょう」
メリーは静かに言った。
「あなたは一人で、どこへでも正確に行って、正確に帰ってこられるから。連れて行く人も、連れて帰る人も要らなかった。だから誰も、あなたの脈を数えなかったのよ」
「離して……ください」
「もう一度、見て」
彼女は見上げた。
唇が動いてから音が出てくるまでに、三秒かかった。
「十八時」
掠れた声である。
「十八時、四十一分。……五十、二秒」
言い終わらないうちに頬を水が伝っていったのだが、本人はそれに気づいてもいないらしく、空を見上げたまま、数字を言い続けた。五十三、五十四、五十五と、秒を一つずつ、言葉を覚えたばかりの子供のように。
カフェの中の色が、動き出した。
壁の公共画面の縁に青が差し、卓の木目に赤みが戻り、隣の席の客の襟巻きが二色から五色になって、ガラス屋根の向こうの空が、藍から紫へと深さを取り戻していく。
「誰か、来るはずだったんですね」
ようやく目を下ろした女は、向かいのメリーを見た。
「ここに。毎日。私は、それを待っていた」
「ええ。二分十九秒くらい、遅れてあげるといいわ」
「あなたの、お名前は」
「マエリベリー・ハーン」
眉を寄せた彼女は、口の中で二度、三度とその音を転がしてみてから、涙の跡の残る顔で、ほんの少しだけ笑った。
「呼びにくいですね。メリー、では、いけませんか」
メリーは答えず、その代わりに、握っていた手首をそっと離した。
店を出ると、寺町の壁の目地が、一本だけずれている。
「開いたわ。綴じ目が外れたのね。縫い目だらけよ、今は」
私は振り返らなかった。ガラスの向こうで、灰色の上着の私が、空いた向かいの椅子を見つめているのは分かっている。あの椅子に座る人は、この紙にはいない。私たちが思い出させたのは、いない、ということだけなのだ。
それが救いになるのかどうかは、私の頭ではどうにも計算のしようがなかった。
二枚目の刷では、三晩を過ごした。
縫い目を抜けて降り立ったのは大学の旧い部室棟の廊下で、こちらの大学ではとうに取り壊されてしまった木造の二階建てが、ここにはまだ建っている。廊下の突き当たりの一室だけ、扉のガラスが割れていた。
埃の積もった床に、机が一つと椅子が二脚。その机の天板に、三文字目で止まった彫り跡がある。
秘封倶。
指でなぞってみると、小刀の刃が木目に逆らって滑った跡があった。彫ったのは不器用な人間で、それはたぶん、私だ。小学校の図工の時間に彫刻刀で親指を切って以来、刃物と私の仲はずっとこの調子なのである。
「楽しそうな字ね」
メリーが言った。
「急いでいないの。途中でやめたのも、飽きたんじゃなくて、誰かに呼ばれて顔を上げたのよ。ほら、最後の線が跳ねているでしょう」
ここの二人は、半年で境目の向こうへ行ったきりになった。時刻も場所も数えないまま、三日ほど踊るように歩いて、どの紙にも降りなかった。覚えている者が一人もいないというのに、いったい誰に、何を思い出させればいいのだろう。
最初の晩は、文芸部に新茶道研究会に天文同好会と、部室棟の他の部屋を訊ねて回ったのだが、誰に訊いても、突き当たりは昔から空き部屋だという答えしか返ってこない。聞くのはメリーの役目だった。私が聞いたところで、相手は私の頭の少し上あたりを見ながら、何か言いましたか、とメリーに訊き返すだけなのだ。
二晩目は、学生課の端末で団体登録の記録を遡った。これもメリーが操作した。私の指では、画面がうんともすんとも言わなかったからである。霊能サークルの届け出は、過去十年に一件もなかった。
三晩目になって、守衛の老人が見回りにやって来た。
廊下を近づいてきた懐中電灯の光は、突き当たりの扉の前で止まり、中を照らして、そこにメリーの姿を見つけると大きく揺れた。
「こんな時間に……ここは空き部屋ですよ」
「毎晩、いらっしゃるのね」
床に座ったまま、メリーが言う。
「昨夜も、その前の晩も、足音が扉の前で止まったわ。鍵を確かめていらしたでしょう。空き部屋の鍵を」
老人は懐中電灯を下ろした。
「癖でしてね。三十年、ここの鍵を預かっております。この部屋だけ、どうも気になって。鍵束を数えると合っているんですが、一本足りない気がするんですよ」
「足りないのは、どの鍵?」
「それが分からんのです。札はみんな揃っている」
立ち上がったメリーが机の天板を指さすと、老人は近づいて光を当て、彫り跡を見、屈み込んで、指でなぞった。そうして長いこと動かずにいる間、懐中電灯の光だけが、かすかに揺れていた。
「……合鍵を、作ってやったんです」
声の色が変わっている。
「規則違反でね。夜中に出入りしたいと言うから。二人組でした。黒い帽子と、白い」
言いかけて、首を振った。
「いや。そんな学生は、おらんかった。おらんかったはずです。ただ」
「ただ?」
「鍵を、返してもらっておらんのです」
誰に、と聞いても、顔も名前も思い出せないのだという。うるさいくらい理屈を言うほうと、いつも眠そうなほうと、とまで言いかけて、老人はまた首を振った。
けれども、それで十分だったのだ。部屋の窓ガラスの割れ目に、すうっと色が差してきたのだから。
その間じゅう、守衛はメリーとだけ話していた。私は同じ部屋に立っていて、二度ほど名乗りもしたのに、彼の目は私の上を素通りしていく。この刷には、宇佐見蓮子はもういない。一人目がいないのなら二人目の私は数に入ってもよさそうなものなのに、どうにも理屈が合わなかった。
「蓮子、あなた薄いわ」
その夜、メリーが言った。
部室の床に座った彼女は、守衛が差し入れてくれた本物の林檎を齧っていて、頬は赤く、髪は割れ窓から差す月の光を受けて、溶かした金のように見える。山の食堂で会ったときよりも、さらに濃い。
自分の手を月にかざしてみた。透けてはいない。ただ、輪郭というものに自信が持てないのだった。
「長居しすぎているのよ。私はよその刷の色を持っていないから、移るより先に抜けていく。あなたは逆」
「私は、ここのほうが体が軽いわ」
「でしょうね」
言ってしまってから、自分の声の棘に気づいて、私は林檎の残り半分を黙って受け取った。
その晩、机に突っ伏して眠っているうちに、夢を見た。
夢の中にも空があって、星が出ている。私はいつものように、それを見上げた。
二時二十七分四十一秒。北緯三十五度二分。蓮台野。
目が覚めてからも、しばらく体が動かなかった。夢の空を読んだのは生まれて初めてのことで、しかもそれは、今いる部室の座標ではなかったのだ。眠っている間、私の眼は、別の紙の空を見ていたことになる。
メリーが、いつもやっていることではないか。
そのことを、私は彼女に話さなかった。話せば、きっと目を輝かせるに決まっている。その顔を、今は見たくなかった。
三枚目は、月の明るい刷だった。
割れ窓の縫い目を抜けて降りたところは畦道で、両側に水を張った田が広がり、その一枚一枚に月が映っている。蛙が鳴いていて、合成ではない土の匂いがして、遠くの丘の裾に、平屋が一軒、ぽつんと灯を点していた。
あの、庭のある家である。
「綺麗」
畦道の真ん中で、メリーは両腕を広げてくるりと回った。
「蓮子、ここ、境目だらけよ。どこを見ても二重、三重に重なっているの。田んぼの水にも、月にも、蛙の声にも。全部が少しずつずれていて、全部が本物」
「綴じてある刷なのに?」
「綴じてあるのは外側だけ。内側は、もう誰も塞いでいないのよ。塞ぐ人がいなくなったから」
八十四になった私は、目が見えない。境目を数える者のいなくなった刷では、ずれは積もっていく一方なのだろう。
私は畦に座り込んだ。足が、言うことを聞かなくなったのである。寺町で尻を打ってから何日経ったのかも分からず、その間に口にしたのは、メリーが分けてくれた林檎の半分と、どこかの刷の屋台の串くらいのもので、眠りは浅く、目を覚ますたびに自分の手の輪郭を確かめる癖がついてしまっていた。
「行くわよ」
それでも、そう言った。
「あの家の私に、名前を呼ばせる。それでここは外れるわ。残りは初刷だけ」
「少し休みましょう」
「休んでいる間に、あの女が本で何をするか分からないのよ」
「蓮子……あなた、自分の顔を見た? 月に透けそうよ」
「だから急ぐんじゃない」
「急いで、どうするの。また数えるの?」
メリーは、もう回るのをやめていた。月を背にして立っているので、その表情は影になって見えない。
「山へ来るとき、七回数えたでしょう。数えないでって言ったのに。寺町でも、落ちてすぐ空を見たわ。私、見ていたのよ」
「あれは、もう重ね終わった刷だったから」
「理由はいつもあるのよね。蓮子には。回転が残るから安全。出発前だから約束の外。もう打つ印がないから平気」
声は、少しも高くならなかった。蛙の声のほうが、よほど大きい。
「和内さんが消えたとき、あなたは三つ目を見たわ。清水さんが消えたとき、あなたは七つ読んでいた。蓮子、あなたの正確さが、人を消したのよ」
言われる前から知っていたことだ。余白の縁側で、自分の口から言ったことでもある。けれど、知っていることを人の口から聞かされるというのは、それとはまったく別の刺さり方をするものだった。
「じゃあ、言わせてもらうけど」
いつの間にか立ち上がっていて、膝が震えている。
「あなたの夢が始めたことでしょう。本屋の夢なんか見なければ、あの本は私の机に来なかった。ノートも、輪も、規矩京も、全部そこからよ。境目の向こうへ行きたがったのは誰? 私は付き合っただけ」
「付き合っただけ?」
「あなたがふらふら行ってしまうから、時刻と場所を押さえて、連れて帰ってきたの。毎回。それが悪かったって言うの」
「頼んだこと、一度もないわ」
蛙の声が、急に大きくなったように聞こえた。
「連れて帰ってって、私、一度も言っていない。蓮子が勝手に数えて、勝手に手を引いて、帰ってこられたでしょうって、私が言うのを待っているの。山の食堂はね、楽だったのよ。誰も私を連れ戻しに来ないから。ここも楽。ここなら私、どこまで歩いたって、誰の時計にも遅刻しない」
「遅刻するのは私のほうよ」
「そうね。そうやって、私が待っているかどうか確かめるのよね」
息が止まった。
それは、清水さんにしか話していないことだった。
「分かるわよ。何年向かいに座っていると思っているの」
メリーは月のほうへ、丘の裾の、灯の点いた家のほうへ体を向けた。
「私、あの庭へ行くわ。お婆さんの蓮子と、木になった私のところへ。しばらく、いさせてもらう」
「しばらくって」
「分からないわ。数えないもの」
「メリー」
「あなたは先へ行って。初刷でも、どこでも。正確に」
彼女は畦道を歩き出した。田の水に映った月を、一枚ずつ踏んでいくように。白い帽子が遠ざかり、この刷の濃い月明かりを吸った金の髪が、一度も振り向かないまま、小さくなっていく。
私は、追いかけなかった。
今度ばかりは、制服のせいにすることもできない。
水の匂いのする夜だった。月は明るく、田はどこまでも静かで、蛙だけが、何も知らずに鳴き続けている。
反対の方向へ歩き出したものの、行く当てがあるわけではなかった。初刷への縫い目はこの刷を外さない限り開かないし、外すには名前を呼ばせなければならず、その名前はたった今、畦道を歩いていってしまったのだから。
百歩ばかり行ったところで足がもつれ、畦の草に膝をついた拍子に帽子が落ちた。拾おうと屈んだら背中の画板が頭の上へずり落ちてきて、私は帽子と画板もろとも、泥の縁へ無様に転がった。
そのまましばらく、仰向けで空を見ていた。
星は読める。読みたくもないのに、二十二時三分十六秒、と数字のほうで勝手に落ちてくる。
手探りで引き寄せた帽子の、白いリボンの結び目が泥で汚れていたので、指で拭った。
するとその結び目の内側から、何か固いものが、するりと滑り出てきたのである。
畳んだ紙だった。四つに折って、さらに二つに折ってある。厚くて古い紙で、リボンの幅にちょうど隠れる大きさに畳まれていた。
あの夜の墓地で、白い指がこの結び目に触れたのだ。曲がっているわ、と言って。
紙は月の下で、私の掌の上にあった。
紙を開くと、ページの頭にChorusと彫ってあった。合唱、という見出しである。
畦の縁に座り直して、膝の上で折り目を一つずつ伸ばしていったのだが、厚い紙というのは折られていた年月のぶんだけ頑固なものらしく、開くたびに乾いた音を立てて抵抗する。月が明るいので、字を読むのに灯りは要らなかった。
絵と同じ線で刻まれた、活字ではない蔓の文字。上半分に短い行が並び、その下には飛び跳ねる馬のような小さな挿絵がいくつか散らばっていて、頁の肩のところに番号が彫ってある。
二十七。
あの本は二十七葉だ、と清水さんは言っていた。私はそれを三回通読し、主要な箇所は訳してノートに写しもしたというのに、最後の一葉を読んだ覚えがない。二十六葉目で「自由の歌」がぷつりと途切れ、その先はもう裏表紙だったので、そういう本なのだろうと思い込んでいたのである。
読み終わる本なら、の話だが。
店の老人はそう言ったのだし、棚の隙間は、一冊ぶんにしては幅が広かった。
私は、最後の行を読んだ。
For every thing that lives is Holy.
「生きとし生けるものは、みな聖い」
声に出して訳すと、蛙の合唱がそれに重なった。
紙の色が、変わりはじめている。
挿絵の馬に塗られた淡い藍が端から朱に染まっていき、朱と藍とが混じり合って、ページの中央で濃い紫になった。あの本と同じで、この紙も境目の色を拾うのだ。ここは境目だらけの刷だと、メリーが言っていたではないか。
ところが拾っているのは、ここの色ではなかった。
気がつくと、私は空を見上げていた。見上げようとしたのではなく、紙から目を上げたら、そこに空があったのである。
二時二十九分五十一秒。
そんなはずはない。今は二十二時を少し回ったところで、さっき読んだばかりだ。数字がもう一つ、上から重なっている。
二時三十二分十九秒。
星空が、二枚あった。月の明るい田の空と、もう一枚。彼岸花の匂いのする、暗い空。
私は、石段を駆け上がっていた。
息を切らし、帽子を手で押さえている。遅れた。二分十九秒。いつものことだ。メリーは呆れた顔で墓石にもたれていて、蓮子の眼の方が気持ち悪いわ、と言うだろう。それで帳尻が合う。いつだって、そうやって合わせてきたのだから。
墓地の入口で、足が止まった。
メリーは、いた。
いちばん大きな墓石の前に、こちらを向いて。ただ、体の右半分が、石の向こう側にあった。
石をすり抜けているのではない。石のこちら側の空気が障子紙のように薄く裂けていて、彼女はその裂け目に、肩まで浸かっているのだ。金の髪が二枚、白い帽子が二枚、少しずつずれて重なっている。
「蓮子」
声も、二つ聞こえた。
「遅いわ。二時半に開くって、言ったのに」
笑おうとして、口の端が震えている。
「先に、ちょっとだけ覗こうと思ったの。そうしたら、足が」
走り寄って、こちら側に残っている左の手首を掴んだ。脈が速い。引いても動かないのは、向こう側から同じ強さで引かれているからだ。
空を見た。
読めばいい。秒まで、声に出して。時刻と座標が決まれば、彼女の位置もこちらの紙に決まる。そう考えたのであり、その式は正しかったのだ。二分十九秒前であったなら。
「二時三十二分四十秒、北緯三十五度二分」
言い終える前に、分かってしまった。
彼女はもう、半分向こうにいる。座標を確定させれば、確定するのは、半分に裂かれた位置なのだ。
メリーの口が開いた。悲鳴は出ない。空気の出ていく音だけがした。
右手が鞄を探っていた。薄い本。厚紙の表紙。あの店で預かったものだ。版をなぞるな、と言われた。なぞれば開く。閉じられなくなる奴がいる、と。
開けばいい。閉じなくたっていい。
離れないためには、一つになればいいのだ。足して一つにしてしまえば、余りは出ない。
題字のページを開いた。炎の中で抱き合う二人。彼女の左手を取り、その指を私の指に重ねて、線の上に置いた。
「蓮子、何を」
「大丈夫。計算は合っているから」
MARRIAGE、という字を、二人の指で辿った。
目が、覚めた。
草の上に倒れていて、体が妙に軽い。起き上がろうと手をついたら、その指が長かった。細くて、白い。視界の端に垂れている金色のものは、自分の髪だった。
向かいに、もう一人が倒れている。黒い髪に白いシャツ、赤いネクタイ。帽子が脱げている。それが身じろぎをし、目を開け、起き上がって、自分の両手を見た。
私の顔が、こちらを見る。
私の口が開いて出てきたのは、私の声をした、私のものではない悲鳴だった。
足の下の地面が、紙のように破れた。落ちていくのは、金の髪のほうである。破れ目の縁へ、黒い髪の手が伸びてくるのが見えた。指を寝かせた、撫でるようなあの手が。
届かなかった。
白でさえない場所へ、落ちていった。
蛙が鳴いている。
私は畦に両手をついて吐いた。胃の中にはろくなものが入っていなかったので出るものはすぐになくなったのだけれど、体のほうは、それでもまだ吐こうとし続けた。
自分の手を見る。短い指に、人差し指の鉛筆のタコ。
私の手だ。私はまだ、ちゃんと私の中にいる。
膝から落ちた紙が、草の上で裏返っていた。そしてその裏にも、字があったのである。
彫った字ではなく、細い筆で、墨で書いてある。丸みがあって、少し右に流れる字。講義の帳面を借りるたびに、読みやすくて羨ましいと思っていた、メリーの字だった。
拾い上げようにも手が言うことを聞いてくれず、ずいぶん時間がかかった。
あなたが見たものについて、補足しておく。
誤りは二つあった。
第一に、位置を確定させようとした。自由度を一つ減らせば足りると考えた。相手が既に二枚に跨っている場合、この操作は相手を固定せず、分断する。
第二に、分断を修正するため、二者を一に合成しようとした。合成は成立した。ただし同時性の条件を満たしていなかった。一方が百三十九秒遅れていた。結果、合成は交差して起き、余りが二つ出た。
字はメリーのもので、言い回しは私のものだった。
自由度だの、同時性の条件だの、あの夜のことをこんなふうに書く人間が、私の他にいるだろうか。加速器のトンネルで、メリーは帳面を読んでこう言った。字は蓮子ね、でも言い回しは私よ。
あれの裏返しが、ここにある。
余りの一方は紙の外へ落ち、縁に住みついた。今、これを書いている。
もう一方は紙の内に残り、未知の病として山へ送られ、そこで自分の顔を鏡で見続けた。あれに私は、小泉墨という名を付けた。あれは自分を今もメリーだと思っている。訂正するつもりはない。訂正できる立場にない。
川を渡った晩にあなたの眼が百三十九秒遅れたのは、墨の眼と初めて同期したためである。あれの眼は、あの夜から百三十九秒遅れたままだ。
墓地で数を数えた声。昔からそう、という言い方。扇を持つ手の、一本だけ立った人差し指。初めて会った夜にもう知っていた、二分十九秒。
あれ、私の体だわ。目つきが、蓮子だった。
メリーは最初の晩に、全部言っていたのだ。それを私は、酔っているのよ、の一言で片づけた。
八雲紫は、私だった。
かつて私だったものが、千年かけて別の誰かになった、その誰かだったのである。
本について。
あれは初刷の本であり、墨の持ち物だった。墨はあれを閉じることで定本を完成させるつもりでいる。閉じるには二十七葉が揃っていなければならない。
私は最終葉を抜いて、あなたに持たせた。本を墨に渡したのは、渡さなければ墨は初刷へ戻らないからである。あれは本を抱いて、最初の場所へ行く。蓮台野。二時三十分。
一葉欠けた本は、閉じない。
裏切ったのではなかったのだ。
答案を出す直前の顔、とメリーは言っていた。解けたと思っていて、それでも出してみるまでは分からないときの顔、と。
眼について。
潰しても無駄であることは、縁側で述べた。その先は書かない。書けば写しになる。写しは重ねられる。
あなたが山で聞いたことにも、答えない。答えは既に持っているから。
そこで行が空いていて、その下に、同じ筆の少し小さな字が続いている。
なお、正しい手順は存在する。
遅れないこと。二人が同時に、同じ線を、同じ速さで辿ること。その場合、合成は交差せず、余りは出ない。得られる一者は、墨よりも、私よりも強い。どの刷も、その一者の前では重ねることも隔てることもできなくなる。
使うかどうかは、あなたが決めることである。
さらに一行。そこだけ、墨が少し滲んでいた。
二分十九秒は、私が数えておいた。あなたは数えなくていい。
紙を膝に置いた。
田の水の一枚一枚に月が映っていて、丘の裾の家にはまだ灯が点いている。あそこにメリーがいるのだ。八十四になった私と、木になった彼女と一緒に。
正しい手順。
遅れなければよかった、というだけのことだったのである。同時に辿りさえすれば、余りは出ない。
そうすれば、もう待たせなくて済む。待っているかどうかを確かめなくて済む。向こう側へ行ったきりになる心配も、連れて帰る手間も、頼んでいないと言われることも、何もかもなくなる。境目を見る眼と星を読む眼とが、一つの頭の中に収まるのだ。秘封倶楽部の、完成形ではないか。
欲しくない、と言えば嘘になる。
それどころか、はっきりと欲しかった。月が傾いていくまでの間、ずっと。
空の東の端が白みはじめた頃、畦道の向こうから、白い帽子が歩いてきた。
立ち上がることもできず、座り込んだままで近づいてくるのを眺めていると、朝の光の中のその金髪は昨夜ほどには濃くなくて、いつもの、普通のメリーの髪の色をしている。私の前で足を止めた彼女は、しゃがみ込んで顔を覗き込んできた。
「ひどい顔」
「あなたは、いい顔ね」
「別に眠っていないわ。お婆さんの蓮子と、一晩話していたの」
朝露に濡れた畦の草の上、私の隣に腰を下ろして、メリーは続けた。
「柿の木の下に立ったのよ。枝が帽子に触ったわ。でもね、蓮子。木は、木だったの」
「どういうこと」
「私じゃなかった。私だったものが、もう、私じゃないものになっていたの。悲しくも、寂しくもないのよ、あの木は。ただ揺れているだけ。六十年かけて、そうなったのね」
彼女は自分の手を見つめている。
「お婆さんに訊かれたわ。誰かいるのかい、声が昔の知り合いに似ている、って。だから言ったの。呼んであげてください、返事はないけれど、って」
「呼んだの?」
「呼んだわ。メリー、って。六十年ぶりに。そうしたら木が、枝の先まで全部揺れたの。風もないのに」
夜の間に田の水の色が変わり、畦の草の緑が深くなったのは、そのせいだったのか。三枚目の綴じ目は、彼女が一人で外してしまったのである。
「お婆さんが言っていたわ。あの子は、連れて帰ってくれなんて一度も言わなかった。だから連れて帰らなかった、って。それでね、こうも言ったの。迎えに来てほしかったのは、わたしのほうだったんだねえ、って」
メリーは少し笑った。その目の縁が赤い。
「蓮子は歳を取っても、気づくのが遅いのよ」
「……悪かったわね」
「私もよ。ここなら楽だって言ったでしょう。本当に楽だったの。あの庭にいれば、そのうち木みたいに、何も怖くなくなるって分かったわ。だから帰ってきたの」
「どうして」
「怖くなくなるのが、嫌だったから」
彼女の指が、いつもの握り方で私の手首に回ってくる。
「連れて帰ってもらうのは、もうおしまい。帰る場所は、自分で決めたわ」
言葉が出てこなかったので、代わりに膝の上の紙を渡した。
メリーは表を読み、裏を読んだ。途中で一度息を止め、読み終えてからも、長いこと黙っていた。
「私の字ね」
「ええ」
「言い回しは、蓮子」
「ええ」
「やっぱり」
驚いた様子はない。蓮台野の夜からずっと、彼女は知っていたのだ。知っていて、私が自分の眼で読むのを待っていてくれたのである。
その指が最後の段落の上で止まった。正しい手順は存在する。
「蓮子は、これ、どう思うの」
嘘はつかないことにした。昨夜あれだけ本当のことをぶつけ合ったあとで、今さら取り繕っても仕方がない。
「使いたい。少し」
「私も、少し」
紙に目を落としたまま、メリーは言った。
「遅れずに来てくれる蓮子って、いいわね。待たなくていいし、置いていかれないし」
「あなたがどこへ行ったか、探さなくていい」
「数えられる心配もないわ。自分で数えるんだもの」
蛙が一匹、田の水へ跳び込んだ。もう月は映っていない。
「でも、そうしたら喧嘩ができないわ」
「ゆうべみたいな? あんなの二度としたくない」
「私は、またしたいわ」
顔を上げた彼女は、真っ直ぐにこちらを見た。
「蓮子が本当のことを言うの、初めて聞いたもの。私も初めて言ったわ。一人になったら、あれは言えないのよ。言う相手がいないから」
鏡の中にしか会いたい人がいない、と紫は言っていた。私の顔をしたあの人は、私の声で、れんこ、と鏡に向かって繰り返していた。答える者のいない名前を。
「使わない」
「ええ。使わないわ」
メリーは紙を元の折り目どおりに畳んで、私の掌に載せた。捨てはしない。これは二十七葉目、清水さんに返す本の最後の一枚なのだから。私がそれを帽子のリボンの内側へ戻すと、先に立ち上がった彼女が手を貸してくれた。
発つ前に庭の家へ寄ったのは、メリーがそうしたほうがいいと言ったからである。
縁側の老女は湯呑みを膝に置いて柿の木のほうへ顔を向けていたが、草を踏む音を聞きつけてこちらを向いた。目は開いているのに、焦点はどこにも結ばれていない。
「ゆうべの娘さんかい。もう一人、連れがいるね」
「分かるんですか」
そう言った私の声に、老女は眉をしかめた。
「嫌な声だね。録音した自分の声みたいだ。若い頃のわたしは、そんな偉そうな喋り方をしていたかね」
「していたと思います」
「そうかい」
歯の少ない口で、彼女は笑った。私が八十四になったら、きっとこういう笑い方をするのだろう。
「眼は、まだ読めるのかい」
「読めます。今のところは」
「わたしはね、読めなくなってから、ずいぶん楽になったよ。数字が降ってこない夜というのは、静かでいい。ただ、楽になるのが遅すぎた。あの子がまだ返事をするうちに、そうなればよかったんだがね」
朝の光の中で、柿の枝が揺れている。
「迎えに行きな。行けるうちは」
見えない目が、私のほうへ向けられた。
「行けなくなったら、来てもらいな。頼むんだよ、ちゃんと口で。わたしは六十年、それが言えなかった。正確な人間というのはね、頼み方を知らないんだ」
見えていないのは分かっていたけれど、私は頭を下げた。
門を出るとき、後ろで掠れた声が、木に向かって話しかけているのが聞こえた。メリー、今朝は若い客が二人来たよ、と。時刻のことは、言わなかった。
畦道へ戻っていく途中で、分かったのである。
紫が書かなかったこと。書けば写しになる、と言ったこと。私が、何を手放せばいいのか。
眼ではない。眼は潰したところで印が残る。もっと手前にあるものだ。この眼と一緒に、生まれてからずっと私が握りしめてきたもの。規矩京を綺麗だと思わせたもの。閉架では私の時計を正とします、と言われるたびに、胸の奥でちくりと引っかかっていたもの。
分かってしまえば簡単な式で、簡単なぶんだけ、取り返しがつかなかった。
「蓮子?」
「何でもない。行きましょう。縫い目、開いているんでしょう」
「開いているわ。そこらじゅうに」
先に立ったメリーが、田の水の光る畦道を歩き出す。
私は彼女に、まだ言わなかった。
カフェは、もう閉まっていた。
ガラス屋根の下の灯りは落ちて、椅子は卓の上に逆さに載せられ、扉には「本日終了」の札が下がっている。それでも私たちが扉の前の石段に並んで腰を下ろしたのは、他に行きたいところを一つも思いつかなかったからである。
帰り道を選んだのは、メリーだった。
月の明るい刷の畦道から縫い目を一つ抜け、二つ抜けていく間、私は一度も空を見なかったし、数えもしなかった。自分がどこを歩いているのか分からないまま手首を引かれていくというのは、目隠しをして階段を下りるのによく似ていて、三つ目の縫い目を抜けたとき足の裏に当たったのが亀の甲羅の形をした石だと分かった瞬間には、膝から力が抜けそうになった。
鴨川の飛び石である。街灯は橙色で、土手に屋台は出ていない。私たちの刷だ。
「色、合ってる?」
「合っているわ。蓮子のネクタイ、ちゃんと赤いもの」
それから寺町を上がって、いつもの道を通ってここまで来たのだ。途中の夜更かしの売店でメリーが合成苺のケーキを一つ買ったら、店員は私にも「ありがとうございました」と言ってくれた。数に入っている。たったそれだけのことで、頬がゆるんで仕方がなかった。
石段の上で箱を開けたメリーは、付いてきた樹脂の匙で、ケーキを二つに切り分ける。
「半分こ」
「それ、あなたが待っている間に食べる分でしょう」
「今夜は蓮子が先に来ていたことにしてあげる」
苺はいつもの味がした。いつ食べても、どの刷で食べても、きっと同じ味なのだろう。向こうの林檎を齧ったあとの舌にはずいぶん平たく感じられたけれど、その平たさが、今夜は妙にありがたかった。
「初刷へは、どこから入るの」
「蓮台野よ。二時半に、いちばん深く開く。清水さんが言っていたとおり」
「あと四時間あるわね」
「四時間と、少し」
その「少し」の中身を、私は口にしなかった。腕時計を見れば済むことなのだが、見なかったのである。
ケーキがなくなり、箱を畳んでしまってから、私は話した。
何を手放すつもりなのか。それを、どうやってやるのか。
メリーは最後まで黙って聞いていて、聞き終えてから最初に言ったのは、たった一言だった。
「嫌よ」
私たちは川まで歩いた。座ったままでいると、互いの顔を見ないわけにいかなかったからだ。
夜の土手は水の音がするばかりで、対岸の街灯が流れに映って、橙色の線になって揺れている。
「もう一度、言って」
流れのほうを見たまま、メリーが言った。
「蓮子が何をするつもりなのか。私に分かる言葉で」
「見当というのは、紙を合わせるための印よ。和内さんが教えてくれたでしょう。版木の隅に彫ってあって、紙の角をそこに当てる。眼を潰しても駄目だと紫が言ったのは、削った跡が印になるからだけど、考えてみれば当たり前なのよね。見当というのは、彫ってある場所に意味があるの。形じゃなくて。そこが基準だ、ということ自体が印なのよ」
足元の石を一つ、川へ蹴り込む。
「私の眼は、時刻と場所を読む。それはただの能力よ。あなたの眼が境目を見るのと同じ。でも私は、読むたびにこう思っていたの。これが正しい時刻だ。これが正しい場所だ。誰が検算しても同じ答えになる。だから、私が基準だ、って」
「蓮子らしいわ」
「閉架で和内さんに、私の時計を正とします、って言われるたびに、少し腹が立っていたのよ。空さえ見えれば私のほうが正確なのに、って。規矩京を綺麗だと思ったのも同じこと。迷いようがなくて、全部が一つの基準で決まっている場所。あれは、私の頭の中をそのまま外へ出したような街だった」
「蓮子が設計したみたいな、って私、言ったわね」
「当たっていたのよ」
川面を、風が渡っていった。
「校合者が欲しがっているのは、私の眼球じゃないわ。私が『これが正しい』と思って読む、その一点。全部の紙に共通の、動かない角。だから、私がそれをやめればいいの」
「やめる?」
「基準であることを。自分から」
「どうやって? 蓮子は見れば読んでしまうでしょう。規矩京でも、そうだったじゃない」
「読めない場所があるわ」
メリーが、こちらを向いた。
「余白よ。星も月もなくて、腕時計の秒針まで止まった。あそこでは、私の眼は何も言わない。紙の外なんだもの。見当が、紙の外へ出てしまえば」
「待って」
「紙の上にない印は、印じゃない。削った跡さえ残らないわ。校合者が時刻を言えと迫ってきたら、私は言わずに、自分から紙の外へ歩く。誤植として消されるんじゃないの。自分で降りるのよ。基準の席から」
「待ってって言ってるでしょう!」
メリーの声が、初めて大きくなった。
「あそこから、どうやって帰ってくるの。この前は紫が落としてくれたわ。あの人は今、縫い留められているのよ。余白には境目がないの。私にも何も見えなかった。縁側だって、あの人が引いた線の上だけだったじゃない」
「知っているわ」
「知っていて言っているの?」
「それだけじゃないのよ」
ここから先が、いちばん言いにくいところだった。
「見当が紙から外れたら、たぶん、もう元の角には戻らない。帰ってこられたとしても、私の眼は星を見ても何も読まなくなるわ。理の刷の私みたいに。それから」
息を、深く吸い込む。
「紙の外へ出た者は、紙の上では、いなかったことになる。和内さんや清水さんと同じに。カフェの店員も、ゼミの同期も、実家の親も、宇佐見蓮子なんていう学生は最初からいなかったと思うようになる。椅子が一つ余っている、というだけのことになるの」
「蓮子」
「持っている人がいれば、消えきらない。一人でも覚えていれば、縁に引っかかって残る。清水さんの店がそうだったし、和内さんの字もそうだった。だから」
メリーの顔を見た。これは、見て言わなければならないことだった。
「あなたが覚えていて。それで、迎えに来て」
生まれて初めて、口にする言葉である。
連れて帰るのはいつだって私の役だった。時刻と場所を押さえ、手を引いて。頼まれもしないのにそれをやり続けてきて、頼む側がどんな心持ちでいるものなのかを、私はただの一度も知らずにいたのだ。
「方法は分からないわ。余白であなたの眼が効くのかどうかも、計算できない。清水さんの記憶に命を預けられないと言ったその口で、あなたの記憶に全部を預けるの。初めてよ。計算できないことを、人に頼むのは」
「私が忘れたら?」
細い声だった。
「私、札を付けるのが下手なのよ。夢と現の。蓮子がいなかったことになった世界で目が覚めて、ああ、長い夢を見ていたんだわ、って思ってしまったら。黒い帽子の人なんて、最初からいなかったのよ、って」
「そのために、これがあるのよ」
私は親指で、自分の背中を指した。
「和内さんの図面。あなたが抱えて離さなかったから、字が残ったでしょう。あれには私の読んだ時刻が書いてある。十七時四十一分二十秒。二十時五十五分。あなたの所見の隣に、私の数字が。忘れそうになったら、あれを見て。秒まで言う変な女が、確かにいたって」
「変な女」
「気持ち悪い眼の」
メリーは長いこと答えず、川下で水鳥が一度だけ鳴いた。
「嫌よ」
二度目のそれは、最初のよりもずっと小さい。
「蓮子が星を読めなくなるなんて。あなた、あの眼が自慢だったじゃない。子供みたいに。秒まで言って、得意そうにして」
「気持ち悪いって言ってたじゃない」
「気持ち悪いわよ。でも、嫌いだなんて一度も言っていないわ」
彼女は膝を抱え込んだ。
「蓮子は知らないのよ。扉が開いて、あなたが入ってきて、二分十九秒遅刻、って言うでしょう。あれを聞くと、私、ああ今は現なんだって分かるの。夢の続きじゃなくて。私にはもう、自分ではそれが分からないから」
「メリー」
「見つけてもらうのは、嫌じゃなかったの。頼んでいないって言ったけれど。頼まなくても来てくれるのを、当てにしていたのよ。ずるいでしょう」
「お互い様だわ。私は、待っていてもらうのを当てにしていたんだから」
「その蓮子が、もう秒数を言わなくなるの?」
「言わなくなるわ。たぶん、何分遅れたのかも、自分では分からなくなる」
「じゃあ誰が、私にここが現だって教えてくれるの」
答えなど用意していなかったのに、用意していない答えが、口から勝手に出てきた。
「あなたが私に教えるのよ。今、何時か。ここが、どこか。私はもう自分じゃ分からないから、あなたに聞く。そのたびに、あなたは腕時計を見て答えるの。それが現じゃなかったら、いったい何が現なのよ」
メリーは顔を上げた。
泣いてはいない。泣く一歩手前の顔を、長いこと保っていて、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「反対しても、行くんでしょう」
「行くわ」
「止めたら、蓮子はまた理由を見つけて行くのよね。約束の範囲外だとか言って」
「今回は、理由は一つしかないの」
「なあに」
「あの人を、あのままにしておけない。私の顔で、あなたの泣き方で泣いている人を」
私の帽子のリボンに、メリーの手が伸びてくる。結び目の内側には畳んだ紙の固さがあって、彼女はそこに指を置いたまま言った。
「正しい手順のほうは? 遅れずに、二人で辿れば、勝てるって」
「使わないって決めたじゃない」
「確かめただけよ。蓮子が、気が変わっていないか」
「変わっていない。あなたは」
「変わらないわ」
指を離した彼女は、川のほうへ向き直った。
「あの人、山の食堂で、蓮子の顔を挟んでこう言っていたわね。私の幻想、あなたの理性、って」
私の真後ろで、メリーも聞いていたのだ。私の顔をしたあの人が、私の眼を覗き込んで囁いた、それで全部揃うのに、というあの言葉を。
「私ね、自分の見ているものを幻想だなんて思ったことは、一度もないのよ。全部本当だもの。でも、あの人がそう呼ぶなら、それでいいわ。名前なんて、どうだって」
流れに目を落としたまま、彼女はもう一度、自分の声でそれを言った。
「私の幻想、あなたの理性」
同じ言葉なのに、メリーの口から出てくると、まるで違う重さを持っていた。
「混ぜないで、並べておきましょう。向かい合わせの席に、一つずつ。そのほうが、ケーキも半分こできるもの」
「結論がケーキなの」
「大事なことよ」
笑ってしまった。こんな夜に笑えるものなのかと自分で呆れていると、メリーも笑った。水の音に紛れてしまうくらいの、小さな声で。
それから彼女は私の背中の紐を解いて、画板を自分の腕に抱えた。
「これは私が持つわ。持っている人が、要るんでしょう」
「重いわよ」
「蓮子よりは軽いわ。たぶん」
船岡山の西へ回っていく道は、最初の活動の夜と少しも変わっていなかった。
街灯が途切れて土塀が続き、その向こうに墓石の頭が並んでいる。石段の下まで来て、私たちは足を止めた。上は暗く、彼岸花の季節はとうに過ぎていた。
石段の上を見上げたメリーが、わずかに身を固くする。
「もう、いるわ」
「見えるの?」
「鋭い輪郭が、上から下りてきているの。それから、もう一つ。縫い目のある柔らかいのが、一緒に」
紫だ。縫い留められたまま、連れてこられているのだろう。
私は帽子のつばに手をやった。
最後に一度だけ、読んでおきたかったのである。読めばあの人にも見えるのは分かっていたけれど、場所ならとうに知られているのだし、それにこれは、見当を打つために読むのではない。
別れの挨拶だ。
顔を上げると、墓地の木立の上に冬の星が掛かっていた。視線を向けただけで、数字が落ちてくる。考えるよりも先に、子供の頃から一度も途切れることなく。空というのは、私にとって最初から文字盤だったのだ。
その文字盤が、今夜はたまらなく綺麗だった。
「二時二十八分」
秒は、言わなかった。
言えなかったのではない。秒までちゃんと落ちてきていたのだ。四秒、五秒、六秒。それを口の中で転がして、そのまま呑み込んだ。こんなことをするのは初めてである。
北緯も東経も、分かっている。蓮台野。ここは蓮台野だ。それだけでこと足りる。
「行きましょう、メリー」
手首を差し出した。握られるほうの手を。
「今度は、遅刻しないわ」
彼女の指が、脈の上に置かれる。
私たちは、石段を上りはじめた。
石段の上には、彼岸花が咲いていた。
季節はとうに過ぎたはずなのに、墓石と墓石の間をびっしりと埋めて、火のように咲いているのである。これまでに渡ったどの刷で見たよりも濃い赤で、余白の覗き穴から一瞬だけ見えた、あの色だった。
私たちの蓮台野に、初刷の蓮台野が重なっているのだ。
いちばん大きな墓石の前に、彼女は立っていた。白い寝間着に肩の合わない黒い上着を羽織り、裸足で花の茎を踏みしめて、胸には厚紙の表紙の薄い本を抱いている。
その隣に、紫がいた。
立っている、と言っていいものかどうか。紫の服の縁が黒い上着の縁に針目のように重なっていて、肩と肩、袖と袖とが留められ、腕には畳んだ傘が掛かっている。その目は、眠っているように閉じられていた。
顔を上げた校合者が、私を見つけた。
その顔が、ぱっと明るくなる。
「蓮子」
私の声が、弾んでいた。
「間に合ったのね。今度は、間に合ったのね。二時半よ。ちょうど二時半に、来てくれたのね」
胸の奥を、素手で掴まれたような心地がした。
この人は、千年待っていたのだ。石段を駆け上がってくる足音を。遅れずに来る、その足音を。
「間に合ったわ」
嘘ではない。
「でも、私はあなたの蓮子じゃないの」
「同じよ。同じ線から刷られたんだもの。色が少し違うだけ。それも、もうすぐ直るわ」
彼女は本を開いた。炎の頁。二人の指が辿った、あの題字の頁である。
「ここで読んで。あのときと同じ場所で、今度は正しい時刻を。二時三十分ちょうど。そうすれば最後の一枚が重なって、全部が一枚になる。あなたは遅れなかったことになる。私は、裂けなかったことになる」
「そのあとは」
「そのあとなんて、ないのよ。ずっと二時半のまま。誰もいなくならない」
手首の上で、メリーの指に力がこもった。
私は目を伏せていた。帽子のつばの下から見えるのは、花の赤と、彼女の裸足だけである。空は見ない。見れば読んでしまうし、読めば、彼女に見えてしまう。
「規矩京を見たわ」
足元の花に向かって、私は言った。
「あなたが足場にした都。線だけで、色がなくて、どの刷でも同じ姿をしているんでしょう。綺麗だった。私は好きだったのよ、あそこが。でも誰も住めなかった。入った人は半年で出ていったの。息がつけない、って」
「それが何」
「あの都には余白がなかったのよ。何のためでもない場所が。あなたの作る一枚だって同じでしょう。全部が合っていて、どこにも隙間がない。そこには、あなたの立つ場所もないわ。鏡の前のほかには」
裸足が、一歩近づいてくる。
「立つ場所なんて要らないの。蓮子がいれば」
「いないのよ」
それを言うのには、ずいぶん力が要った。
「あなたの蓮子は、遅れて、間違えて、あなたの体で紙の外へ落ちた。千年前に。今、あなたの隣で目を閉じているのがその人よ。私は別の刷の、別の遅刻魔」
「違う」
「違わない」
「違うわ!」
伸びてきた手に顎を掴まれた。私の手の力である。顔が、上へ向けられていく。
私は目を閉じた。
その瞼の上に、指が置かれる。寝かせた指が、撫でるような手つきで、けれども強く、瞼を押し上げようとしていた。
「見て。見るだけでいいの。あなたが見れば、私に見える。声は要らないわ」
「蓮子に触らないで」
すぐ横で、メリーの声がした。
顎を掴む手が止まり、瞼を押す指の力が、ほんの少しだけ緩む。
「あなたは黙っていて」
私の声が、低く言った。
「何も失っていない子に、分かるわけがないの」
「分からないわ。でも、あなたが誰だか知っているの」
ゆっくりと、メリーは続ける。
「朝、鏡を見るでしょう。蓮子の顔が映る。名前を呼ぶと、蓮子の口が動く。でも声は、自分のものにしか聞こえない。骨を通って来るから。それが、いちばん辛いのよね。呼んでも、蓮子の声で返事が来ないのが」
瞼の上の指が、震えていた。
「どうして」
「私だったら、そこが辛いと思うから」
誰も、何も言わなかった。花が風に鳴り、墓地のどこかで枯れ枝が一本、乾いた音を立てて落ちる。
その沈黙の中に、紙を繰る音が混じった。校合者が片手で本の頁を繰っているのだ。速く、終わりのほうへ、終わりのほうへと。
音が、止まった。
「……足りない」
囁くような声だった。
「一枚、足りないわ。二十六で終わっている。最後のページが」
顎から手が離れている。
今だ。
「メリー」
「三歩よ」
彼女は、聞き返しもしなかった。
「大きな石の右。花の切れているところ。紙が破れたままになっているわ。まっすぐ、三歩」
加速器の輪の中で、同じ声を聞いた。あのとき私は、彼女に向かって歩いたのだ。
今度は、離れていく方へ歩く。
一歩。靴の下で、茎が折れた。
二歩。
「行かないで!」
背中に、私の声が縋りついてくる。
「また置いていくの。また私だけ残して、あなただけ外へ。蓮子、お願い。時刻を言って。一度だけ」
足が止まりかけた。
止まらずに済んだのは、手首のおかげである。メリーの指が、まだそこにあった。脈の上に。
三歩目の手前で、その指が離れた。
離してくれたのだ。彼女のほうから。
目を開けた。
目の前には、何もなかった。花も、石も、夜もなく、黒くも白くもない。紙の、破れた縁の向こう側。
私の眼は、何も言わなかった。
私は、そこへ降りた。
静かだった。
落ちたという感じはなく、足の下にはまた、あの見えない床がある。腕時計に目をやれば、秒針は止まっていた。
眼の奥で、何かが外れた。
痛みはない。きつく締めてあった螺子が最後の半回転で抜け落ちたような、角張っていたものが丸くなったような感じで、それが何だったのかは、失くしてみて初めて輪郭が分かった。私は生まれてからずっと、頭のどこかで、世界の四隅を押さえ続けていたのである。
手を離してみても、世界は別に、落ちてはいかなかった。
「遅かったわね」
縁側があった。
板一枚ぶんの幅しかない、何もないところに浮いたあの縁に、紫が座っていた。傘も扇も持たず、膝の上に両手を置いて、こちらを見ている。
「墓地にいたでしょう。縫われて」
「あちらにあるのは縁だけよ。眠っているほうは、いつもここにいるの」
断りもせずに隣へ座ったけれど、向こうも咎めはしなかった。遠くには、あの山が見える。墨で引いた稜線と、手で置いた竹の緑と、月と。
「読んだわ。紙の裏」
「そう」
「あなたは私なの」
「だったわ」
胡散臭い抑揚の抜け落ちた、数を読み上げるときのような平らな声である。
「今は、あなたの知らない千年ぶん、別の誰かよ。あなたの癖のいくつかと、あの子の手を持っている。それだけ。あなたが歳を取ってもこうはならないし、こうなるべきでもないわ」
「後悔してる?」
「計算違いを後悔とは呼ばないことにしているの」
紫は自分の、細くて白い手を見下ろした。
「ただ、数えるのは、やめられなかった。百三十九。あれだけは、どう変形しても消えない項だったのよ」
「やめたんでしょう」
「あなたが山で七回読んだあとにね。数えている者が二人いても仕方がないと思って」
ひどい言い草だと思ったら、少し笑ってしまった。
「山で聞いたこと、答えて」
「書けば写しになると言ったはずよ」
「もう写しにはならないわ。私は降りたんだもの。あなたと同じところには、もう立っていない」
紫は、しばらく黙っていた。
「……私は答えを知っていたの。知っていて、あなたに言わなかった。言えば、あなたは義務としてそれをやるでしょう。私と同じ手順で、私と同じ場所へ着く。それでは困るのよ。あなたには、私の式の外から来てほしかった」
「あの子の手みたいに?」
「あの子の手みたいに」
遠くの山の上で、月が少し動く。
「あなたが誇っていたのは、正確さではないわ。迎えに行けること。あの子がどこまで行ってしまっても、自分なら時刻と場所を押さえて連れて帰れる、ということ。それがあなたの誇りだった。私の誇りでもあった。だから、連れて帰れないと分かった夜に、私は耐えられなかったのよ。迎えに行かずに済む形にしてしまえばいい、と考えた」
「一つにすれば」
「迎えに行く必要も、待たせる心配もない。完璧な解よ。ただ一つ、迎えに行く相手がいなくなるという点を除けば」
私は膝を抱えた。川辺でメリーがそうしていたように。
「私は今、迎えに来てもらうのを待ってる」
「知っているわ」
「来ると思う?」
「計算できない」
それを恥じる様子もなく、紫は言った。
「余白には境目がないの。あの子の眼は、ずれて重なったところを見る。ここには重なるものがない。私が線を引いてやれば別だけれど、あちらの私は縫われていて、指一本動かせないわ。あの子が自分で見つけなければ、道はないの」
「見つけられなかったら」
「あなたはここで、私になる。千年かけて。山を描くのを手伝ってくれるなら、歓迎するけれど。あなたは線を引くのが上手いもの」
脅しではない。ただの見通しである。
怖い、と思った。そして、怖いと思えることに、胸の底のほうで小さく息をついた。あの庭の柿の木はもう何も怖くないのだと、メリーが言っていたからだ。
「どうして描いたの。あの山」
「写しの取れないものを、一つ作っておきたかったのよ。重ねられないもの。誰の定本にも入らないもの。入らないから、忘れられたものが安心して流れ着ける」
「あなたは、あそこでは」
「煙たがられているわ。胡散臭い、何を考えているか分からない、いつも寝ている。正当な評価ね」
少し笑って、紫はすぐに真顔へ戻った。
「私は変われないの。描き上げて乾いた絵は、塗り直せない。妖怪というのはそういうものよ。千年前の計算違いを、千年後も同じ形で持っている。それはそれで構わないわ。あそこを守るには、変わらない者が一人要るから」
「あの人……墨は」
「あれも乾いているわ。私と同じ晩に」
「どうするつもり」
「どうもしない。向かい合うだけ。それが千年、できなかったの。近づけば縫われる。離れれば追われる。あなたが角を抜いてくれたから、今夜は、ただ立っていられるかもしれない」
こちらへ向けられた目は、もう測る目ではなかった。
「あなたは、まだ濡れているのよ。色が乾いていない。だから、ここに長くいてはいけないわ」
「待つわ」
「数えるの?」
「数えない。数えられないもの」
本当に、そうなのだった。脈に指を当ててみても、それが一秒なのかどうか、もう確信が持てない。
待つというのは、こういうことだったのか。
どれだけ経ったのかが分からない。あとどれだけなのかも分からない。来るのかどうかさえも。メリーは窓際の席で、毎回これをやっていたのだ。ケーキを半分食べながら、夢か現かも定かでないままで。それを私は二分十九秒と名付けて、得意そうに申告していたのである。
「蓮子の眼の方が気持ち悪いわ、か」
「あの子は、よくそう言ったわね」
紫の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
私たちは並んで、手描きの山を眺めていた。同じ癖で膝を抱えて。けれど、同じ人間ではない。それが、今ならよく分かる。
音のない場所だった。風もなく、匂いもなく、ただ遠い山の上で、月だけがゆっくりと動いていく。
「蓮子」
声がした。
山のほうからではない。上でも下でもなく、どこからとも言えないところから、私の名前が届いたのである。
気がつくと、立ち上がっていた。
「メリー!」
「蓮子、動かないで。そこにいて」
近づいてくる。足音はしないのに、声だけが少しずつ大きくなる。
何もないところに、白い帽子が見えた。金の髪と紫の襟、両腕に抱えた画板。メリーは目を凝らすようにしながら歩いてきたのだが、見ているのは私ではなく、私の少し手前の、何もない空中だった。そこにある何かを、指で辿るようにして。
縁側の端まで来て足を止めた彼女は、片手を伸ばし、その指が、私の手首に寸分の狂いもなく巻きついた。
脈の上に。
「見つけた」
「どうやって。ここには境目がないって」
「あったのよ」
息を切らしたメリーの額に、汗が光っている。
「何もないと思ったわ。入ったときは。真っ白で、真っ黒で、どっちでもなくて。でもね、歩いていたら、一本だけ線が見えたの。細い、人の形をした」
「人の形?」
「蓮子の輪郭よ」
握った手首を、彼女は少し持ち上げてみせた。
「蓮子と、蓮子じゃないものの境目。それだけは、ここでもちゃんとずれていたの。蓮子は紙から降りたって、蓮子の形をしているんだもの。私じゃない誰かの形を」
何か言おうとしたのに、言葉が一つも出てこない。
一つになっていたら。正しい手順で、余りなく溶け合っていたら。この線は、どこにもなかったのだ。
「遅くなったわ」
メリーが言った。
「どのくらい、待った?」
腕時計を見た。止まっている。空を探した。空はない。
「分からない」
口に出してみると、それは案外悪くない響きをしていた。
「分からないけど、そうね。二分十九秒、ってところかしら」
縁側で、誰かが短く笑った。
振り向けば、紫が口元を手で押さえている。扇がないので、隠しようがなかったのだろう。その笑い方は、私のものでも、メリーのものでもなかった。
「帰り道は、ご自分でどうぞ」
もう、あの胡散臭い声に戻っている。
「来た道を、その子が覚えているでしょう。私はそろそろ、起きなければ」
蓮台野に、花はなかった。
彼岸花の赤は墓石の間からすっかり引いて、季節どおりの枯れ草の色があるばかり。空気は普通の夜の柔らかさをしていて、石の角も卒塔婆の縁も、もう目に痛くない。
いちばん大きな墓石の前に、彼女は座り込んでいた。
膝の上で、本が開いている。二十六葉目と、その先の、何もない裏表紙。
縫い目はほどけていて、紫は数歩離れたところに、目を開け、傘を差して立っていた。
校合者が顔を上げ、私を見た。眼を、ではなく。
「消えたと思ったのに」
掠れた声である。
「あなたが降りたとき、全部の紙から角が抜けたわ。合わせようとしても、滑るの。どこも押さえられない。なのに、どうして戻ってくるの」
「迎えに来てもらったのよ」
「見当は」
「もうないわ。確かめる?」
私は空を見上げた。
星が出ている。
西へ傾いた冬の星座。光の点が、大きいのも小さいのも、青白いのも少し赤いのも、数えきれないほど。
何も、落ちてこなかった。
回収員の前で読めなくなったときとは、違う。あのときは文字盤が模様になったのだが、今は、最初から文字盤などではなかったのだ。ただの、星である。一つ一つが別々の遠さで、別々に燃えている。
こんなにあったのか、と思った。
「メリー。今、何時?」
隣で、腕時計の文字盤を傾ける気配がする。
「二時、三十四分くらいよ」
「くらい、ね」
「秒針のない時計なの」
私が訊き、メリーが答えるのを、校合者はじっと見ていた。その顔から、何かがゆっくりと抜けていく。
「蓮子は、そんなこと聞かないわ」
彼女は言った。
「人に時刻を聞いたりしない。分からないなんて言わない。手首を、自分から差し出したりしない」
「ええ。あなたの蓮子は、しなかったでしょうね」
「あなたは」
「私は、あなたの蓮子じゃないの」
三度目である。今度は、違うとは言われなかった。
彼女は膝の上の本に目を落とし、それからもう一度、私を見た。同じ顔を。同じ線から刷られた、色の違う顔を。
「……蓮子は」
声が割れた。
「蓮子は、もう、いないのね」
誰も答えなかった。答えなら、彼女自身がいちばんよく知っている。
墓地は静まり返っていた。遠くで夜鳥が一声鳴いて、それきり何も聞こえなくなる。
彼女は、泣いた。
声を殺し、肩を震わせ、膝の上で両手を握りしめて。私の顔で、メリーの泣き方で。山の食堂で目の縁に溜めていたものを、千年ぶんの鏡の前で溜めてきたものを、残らず。
メリーが、私の手首を離した。
墓石の前まで歩いていった彼女は、座り込んだその人の隣にしゃがんだ。何も言わないし、抱きもしない。ただ隣にいて、泣き終わるのを待っている。待つのは、彼女の得意技なのだ。
どれほどの間、そうしていただろう。冬の星座が半分がた木立の向こうへ沈んだ頃になって、私は帽子を脱ぎ、リボンの結び目の内側から、畳んだ紙を取り出した。
「これ、あなたの本の最後のページよ」
差し出した紙を、濡れた目が見る。
「閉じるためじゃなくて、読むために。一行だけでいいから」
受け取った彼女は、指を寝かせた手で折り目を伸ばした。唇が動く。声は、私のところまでは届かなかった。
読み終えてからも長いこと、彼女はその一行を見つめていた。
それから紙を本の最後に、二十六葉目のあとに挟み、表紙を閉じた。綴じるようにではなく、読み終えた人がするように、掌で一度、表紙を撫でて。
「これは」
本が、私のほうへ差し出される。
「色が違っていて、いい本だったのね。私、ずっと、違ってしまう前に、って」
「預かりものなの。持ち主に返す約束をしてる」
「返してあげて」
戻ってきた本は、思っていたより軽かった。最初の夜と、同じように。
周りで、何かがほどけていく。
音はしないのに、それでも分かった。束ねてあった紙の糸が切れて、一枚ずつ、ずれていくのだ。立ち上がったメリーが、あたりを見回して目を細めた。
「色が戻っていくわ。そこらじゅうで。重なっていたのが、ばらばらに。縫い目だらけよ、蓮子。どこもかしこも」
「綺麗?」
「ええ。とても」
私には見えない。見えなくて、構わなかった。
傘が、ゆっくりと回る気配がする。
「墨」
紫が呼んだ。泣き腫らした顔が、そちらを向く。
「その名前、嫌いよ」
「知っているわ」
「あなたが勝手に付けたのよ」
「ええ。他に、分ける名前を持っていなかったから」
二人は向かい合っていた。金の髪と、黒い髪で、数歩の距離を置いて。寄っていく気配はもうなく、糸で引かれるようなあの傾きも、消えている。
「私、メリーじゃないのね。もう」
「私も蓮子ではないわ」
紫が扇を出して目の前に線を一本引くと、人ひとりが通れるくらいの、縁の柔らかい裂け目が開いた。
「お茶くらいは出るわ。色のないお茶だけれど」
その先を、私は見ていない。
東の空が白みはじめていて、メリーが私の袖を引いたからである。振り返ったときにはもう、墓石の前には誰もいなかった。裂け目も、傘もない。枯れ草に降りた霜の中に、裸足の跡が二つ残っているだけだった。
いや。
墓地の入口に、傘が一本、立っていた。
「結界暴きは、禁止されているのよ」
傘の影の下から、八雲紫は言った。胡散臭くて、余裕たっぷりの、あの声で。
「今夜のことは見なかったことにしてあげる。次は、見逃しませんわ」
「それ、最初の晩に言うべき台詞じゃないの」
「あら。言ったつもりでいたのだけれど」
扇が口元を隠し、目だけが笑っている。測るような、あの目で。
「では、ごきげんよう。相変わらず、遅い子達」
傘がくるりと一つ回って、あとには朝の墓地があるばかりだった。
私は空を見上げた。
星が、薄くなっていく。東から順に、一つずつ消えていく。夜が明けるのだ。
今が何時なのかは、分からなかった。
ここがどこなのかは、知っている。蓮台野。メリーの隣。
それで、十分だ。
閉架書庫の鉄の扉は、開いていた。
地下二階、摂氏十八度。緑の布を張った閲覧机の向こうでは、白い手袋をはめた人が、手帳に何やら書き込んでいる。
「宇佐見さん、十一分の遅刻です」
和内さんは、顔も上げずにそう言った。
私は扉のところで棒のように立ち尽くしていて、メリーが背中を押してくれなかったら、たぶん閉館までそのままでいたと思う。
「……そんなに遅れましたか」
「ご自分で分からないんですか。いつもは秒まで仰るのに」
「分からなくなったんです」
鉛筆が止まった。眼鏡の奥から私を見た和内さんは、それから手帳に目を戻して、一行書き足す。
「本人、秒数を申告せず。初めて、と」
メリーが画板を机に置いて紐を解き、図面を広げた。縦に九本、横に九本の墨の線の上に、鉛筆の字が散らばっている。南端の朱丸の横に数字があり、西端にもある。そして「ハーンさんの所見。折り目。南辺、締まる」。
書き込みは、全部戻っていた。
図面の上に屈み込んだ和内さんは、ルーペを当てたまま、長いこと動かなかった。
「私の字です」
「ええ」
「書いた覚えがありません。なお、この図面を書庫の外へ出した記録もありません。ところが手帳には」
彼女は手帳を何枚かめくった。
「先月のある晩の日付で、『宇佐見さん、遅刻なし』とあります。これも私の字です。その晩、私は図書館にいなかったはずなんですが」
「どう解釈しますか」
「記録にあって、記憶にない。その場合の扱いは決めてあります」
鉛筆の尻が、図面の余白を軽く叩く。
「記録のほうを正とします。記憶は、あとから追いつくこともありますから。追いつかなければ、注記して残すだけです」
例によって真顔で、冗談なのかどうかは、やはり分からない。
笑い出した私は、笑っているうちに目の前が滲んできてしまい、和内さんは見なかったふりをして、新しい手袋を一組出してくれた。
寺町通の、新茶道の教室と合成菓子の店との間に、間口一間ほどの店がある。
壁ではない。引き戸があって、その上に「反故堂」の看板が掛かっているのだ。通りを行く人が誰も足を止めないのは、店が見えないからではなく、紙の本に用のある人が少ないからにすぎない。
軽い戸を引くと、乾いた糊と埃と、あの甘い匂いがした。棚は床から天井まであって、帳場の後ろの一箇所だけ、隙間が空いている。
「いらっしゃい」
声は、レジからではなかった。
入口の脇に据えた小さな机で、白髪の女の人が絵筆を握っている。絵具の点々と付いた前掛けをして、机の上には細長く切った紙を何十枚も並べ、その一枚一枚に、赤くて細長いものを描いているのだった。先が少し曲がっていて、端のところに緑が差してある。
私は、その一枚を指さした。
「金魚、ですか」
顔を上げた女の人は、目を丸くした。一重の目で、右の目尻に小さな黒子がある。
「あら、分かる? みんな唐辛子って言うのよ。うちの人なんか、四十年言い続けているわ」
「昼間に二人か」
帳場の奥で、痩せた背中が半分こちらを向いた。額に押し上げた眼鏡に、インクの染みた指。
「売りはしないよ。うちは読む人に預けるだけだ」
清水さんは、私たちのことを覚えていなかった。山道のことも、旧型酒のことも、握り飯の塩が片側に寄っていたことも。
それでいいのだ。私が覚えているのだから。
鞄から本を出して、帳場の上に置いた。
「お返しします」
眉を上げた老人は、厚紙の表紙を開き、ページをめくって最後まで行ってから、私を見た。
「うちの本だな。いつ預けたか覚えがないが、うちの本だ。この棚の隙間に入る」
「読み終わりました。二十七葉、全部」
「版は」
「なぞっていません」
返す前に、私はもう一度だけ、二十葉目を開いておいた。
頁の下端、挿絵と余白との間に帯のように塗ってあったあの藍は、淡い水色に変わっていて、その下の一行が透けて読める。蔓の文字で、こう彫ってあった。
Opposition is true Friendship.
「対立こそ、真の友情」
私が訳すと、隣からメリーが覗き込んでくる。
「蓮子の好きそうな言葉ね」
「あなたのことが書いてあるのよ。私の反対側にいる人のこと」
「それ、褒めているの?」
「褒めているわ。今度は」
清水さんが受け取った本をレジの後ろの隙間に差し込むと、隙間はちょうど埋まった。それから彼は棚の別の段へ手を伸ばし、別の一冊を抜き出してくる。
「読む人だな。なら次を預けよう。条件は二つある」
「読むだけにすること。版はなぞらないこと」
「……前に言ったか」
「いいえ。初めて伺います」
老人は咳のように笑い、入口の机からは裕子さんが、金魚の栞を二枚、メリーと私に一枚ずつ持たせてくれた。裁ち落とした本の背の、糊の跡が残っている紙だった。
カフェの壁の公共画面は、その週、短い告知を何度か流した。信州の療養施設において、経過観察を終えた方々の退所が続いています。皆様の日常への復帰に、ご理解とご協力を。
ゼミ室の椅子は十二脚で、座っているのも十二人になった。窓際の席の男子学生が、借りっぱなしだったと言ってペンを一本返しに来たので名前を訊ねたら、ちゃんと答えてくれた。帳面の隅には、尻尾の長い、目つきの悪い猫が描いてあった。
灰色の制服を街で見かけることは、もうない。一度だけ、鴨川の土手で、制服を脱いだ若い男が歌を歌っているのに行き合った。四小節の、その先まで。知らない歌だったけれど、私は最後まで聞いた。
カフェのガラス屋根の向こうに、宵の明星が出ていた。
扉を押す前にそれを見上げたのは癖のようなもので、明るい点が一つあるのを綺麗だと思い、そして、それだけだった。
メリーは窓際の席で、合成苺のケーキを半分まで食べ進めている。
「遅刻よ」
「どのくらい?」
「自分で数えて、自分で申告しなさいよ」
「数えられないのよ。教えて」
彼女は腕時計に目をやった。わざと、ゆっくりと。
「七分くらいね」
「くらい」
「七分と、ケーキ半分」
向かいに座って、帽子を膝に置く。
眼は、あれきり戻らなかった。夜空を見ても時刻は落ちてこないし、月を見たところで、今いる場所を教えてもらえるわけでもない。下宿からここまでの道を、私はこの頃、看板と曲がり角とで覚えているのだが、一度などは一本手前で曲がってしまって、知らない路地で知らない猫と鉢合わせをした。
迷うというのは、思っていたほど悪いものではない。
「あの人、どうしたかしら」
フォークの先で苺を転がしながら、メリーが言った。誰のことなのかは、聞かなくても分かる。
「書いていないページは読めないわ」
「お茶、飲んだと思う?」
「飲んだなら、驚いたでしょうね。色も味もないんだもの」
「それでも、向かいに誰かが座っているお茶よ」
鏡の前でなく、というところまでは口に出さなかった。
「よその私たちは、どうしているかしら。灰色の上着の蓮子とか」
「椅子を引いて待っているわよ、毎日。十八時半ちょうどに」
「誰か、遅れて来るといいわね。あの人のところにも」
「来るわ。向こうのあなたは、ただ船に乗り遅れただけだもの。次の便があるでしょう」
根拠はない。根拠のないことを口にするのに、私はこの頃、少しずつ慣れてきている。
「今夜の議題は?」
「夢を見たの」
昨日の買い物の話でもするような調子で、メリーは言った。
「山があったわ。筆で描いたみたいな山。麓に古い神社があって、赤い鳥居が見えたの。それだけ。くぐる前に目が覚めたわ」
「見るだけになさい、って言われた場所じゃない」
「見ただけよ。夢だもの」
「メリー、それは夢じゃなくて」
言いかけて、やめた。
「いいわ。どっちでも。今夜、行けるところまで行ってみましょう」
「入った時刻と場所は、誰が押さえるの」
「あなたが腕時計を見て。私は曲がり角を覚える。二人で半分ずつ」
「頼りない倶楽部ね」
「部員が二人いるうちは、認可は取り消されないわ」
残ったケーキを箱に詰めてもらって店を出ると、外はもうすっかり夜になっていた。
アーケードの切れ目で、私たちは並んで空を見る。癖というのは抜けないもので、動く前にはどうしても、まず見上げてしまうのだ。
星が出ていた。
東山の上に、春の星座が昇りはじめている。名前なら知っているし、軌道も距離も等級も、講義で習った。けれども今、私の眼に映っているのは、そのどれでもなかった。
一つ一つが、違うのである。色も、瞬き方も、暗さも。隣り合って見える二つが、本当は何百光年も離れている。同じものは一つもなくて、数えようとすると、数えているそばから増えていく。
あれを文字盤だと思っていたのだ、私は。二十年もの間。
「何が見える?」
メリーが訊いた。
「星」
「それだけ?」
「それだけ。すごいのよ、それだけ、って」
私の横顔を見ていた彼女は、何も言わずに手首を取った。脈を取るように。
そうして、私たちは歩き出した。
「ねえ、蓮子」
「何」
「私ね、待つのは嫌いじゃないわ」
「知ってる」
少し歩いてから、その続きを言った。
「今度は、私にも待たせて」
メリーは答えなかった。
答える代わりに、提げていた箱を開けて、食べ残した半分を、歩きながら樹脂のフォークで二つに切り、その片方を私の口に押し込んだのである。
賛成の意味だった。