Coolier - 新生・東方創想話

私の幻想、あなたの理性

2026/10/17 00:46:32
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第六章 校合済みの刷

 余白には、縁側があった。
 あった、と言ってしまっていいものかどうか、実のところよく分からない。紫が扇で線を一本引くと、そこに板敷きの縁が現れて腰を下ろせるようになったというだけの話で、その先に庭があるわけでも、後ろに家の本体があるわけでもなく、板一枚ぶんの幅だけが、何もないところにぽつんと浮いているのである。
 私はそこに、ずいぶん長いこと座っていた。
 どのくらいの間だったのかは分からない。腕時計は止まっていて、それも壊れたというのではなく、秒針が動く理由をなくしてしまったような止まり方だった。空がないものだから、私の眼も、何一つ言ってこない。
 それが、思いのほか楽だったのだ。
 読もうとして読めないのとは違う。読むべきものが、そもそもないのである。数字の落ちてこない静けさというものを、私は生まれて初めて知った。隣に座ったメリーは何も訊かず、ときおり手を伸ばしては、私の帽子のつばの傾きを直してくれた。
「あそこ」
 彼女が指さした縁側の先、何もないはずの遠くに、山があった。
 墨で引いた稜線が幾重にも重なっていて、手前は濃く、奥へ行くほど淡くなる。麓には筆の腹で置いたように滲んだ竹の緑、湖らしい青、古い家の屋根らしい茶色。そして稜線の上には、白い月が一つ掛かっていた。
 その線は、揺れている。印刷の線ではないのだ。筆の入りと抜きがあって、掠れがあって、ところどころに塗り残しまである。
「絵なの?」
「描いたのよ。私が」
 縁側の端で傘を畳みながら、紫が答えた。
「刷ったのではないわ。だから一枚きり。あれに重ねられる紙は、どこにもないの」
「誰か住んでいるの」
「大勢。賑やかなところよ」
「行ってみたいわ」
 メリーがそう言うと、紫は扇を開いた。
「見るだけになさい。あそこは忘れられたものの行くところ。あなた達はまだ、誰にも忘れられていないでしょう。といっても、あなたは前に来たことあるようだけれども」
 それ以上のことは教えてもらえなかった。山は遠く、月は明るく、絵の中の竹は風に揺れているように見えた。
 お茶が出た。
 いつ、どこから出てきたものやら、気がつくと縁側に盆があって、湯呑みが三つ載っていたのである。口を付けてみると温度だけがあって、味も香りも、色さえもない。旨くも不味くもなかった。清水さんの評は、実に正確だったのだ。
 そう思い出した途端に、湯呑みを持つ手が震えだした。メリーは黙って私の手からそれを取り上げ、盆の上に戻してくれた。
「どうして隔てるの」
 しばらくしてメリーが紫に訊ねた口ぶりには、責めるような響きはなくて、講義のあとで教員を呼び止める学生のそれに近かった。
「境目は、あったほうがいいの? 私には見えてしまうから、ないほうが楽だと思うときもあるのよ」
「なくなれば楽になる、と思うでしょう」
 紫は自分の湯呑みを、両手で包むように持っている。
「逆よ。境があるから、こちらとあちらが在るの。塀を取り払えば庭が広くなる、というものではないわ。庭というものがなくなるの。どこまでが自分の庭で、どこからが隣なのか分からない土地を、人は庭とは呼ばないでしょう」
「でも、塀が高すぎたら隣が見えないわ」
「だから、隙間を残しておくのよ。覗ける程度に。越えられない程度に」
「越えた人は?」
「連れ戻すか、向こうの者にするか。どちらかね」
 少し黙ってから、メリーは言った。
「あなたは、どちらだったの」
 紫は答える代わりに湯呑みを口へ運んだのだが、その仕草はひどくゆっくりしていて、色のない茶を惜しんでいるようにも見えた。

 私が口をきいたのは、それからだいぶ経ってからである。
「最後の見当、と言ったわね」
「ええ」
「じゃあ簡単よ。この眼を潰せばいい」
 手首を握るメリーの指に力が入り、紫は扇の陰で溜息をついた。
「あなたなら、そう言うと思ったわ」
「違うの?」
「潰した眼は、潰れた見当として残るのよ。紙の隅の印を削り取っても、削った跡が印になるでしょう。あれはそれで十分に合わせられる。現に、よその刷のあなたの中には、そうした方もいたわ」
 どこかの私が同じことを考えて、実行までしたのだと聞かされても、驚く気にはなれなかった。いかにも、私の考えそうなことだったからだ。
「では、どうすればいいの」
「それをお見せするために、ここへ上げたのよ」
 立ち上がった紫が、扇の先で目の前の何もないところに縦の線を引くと、線は左右に開いて、障子一枚ぶんほどの窓になった。

 窓の向こうは、カフェだった。
 ガラス屋根に、窓際の席に、壁の公共画面と、どこを取っても私たちのカフェなのだが、色が薄い。褪せているのとは違っていて、初めから少ない色数で刷ってある、という薄さである。
 扉が開いて、客が一人入ってきた。
 灰色の上着に灰色のスカート、襟には文化財保全局の徽章。黒い髪を後ろで束ね、濃い色の眼鏡をかけていて、帽子はかぶっていない。
 私だった。
 十歳ほど年を取っていて、背筋が伸び、歩幅は一定で、椅子を引く音までが静かである。窓際の席に着いた彼女が壁の時計に目をやったとき、公共画面の隅の表示は、十八時三十分ちょうどを示していた。
「遅刻しない蓮子ね」
 信じられないものを見た、という声でメリーが言った。
「この刷では、あなたのお友達は海を渡ってこなかったの」
 紫が説明を加える。
「留学の話が一枚だけ流れた。それだけの違い。蓮子は一人で卒業して、境界保全課に入って、よく働いているわ。結界を暴く側ではなく、塞ぐ側で。優秀よ。一度も間違えない」
 窓の中の私は珈琲を一つ頼み、運ばれてきたそれを自分の前に置くと、向かいの席の椅子を、ほんの少しだけ引いた。
 誰かが、座りやすいように。
 向かいには誰も来なかった。彼女は一人で珈琲を飲み、十九時ちょうどに立ち上がって椅子を元に戻し、店を出ていく。ガラス屋根の上には宵の明星が出ていたというのに、ただの一度も見上げようとしなかった。
「眼は」
「見えてはいるわ。ただ、星を見ても何も落ちてこない。本人は、子供の頃の思い込みが治ったのだと考えているの」
「あの椅子は」
「毎日ああするのよ。なぜそうするのかは、本人も知らない。あれが、この刷で消された違いの、消し残り」
 その窓を閉じた紫が、隣にもう一本線を引く。
 二つ目の窓の中は、大学の旧い部室棟の一室だった。机が一つに椅子が二脚、床には埃が積もり、窓硝子は割れていて、誰も使っていないことが一目で分かる。その机の天板に、小刀の先で引っ掻いたような下手な字が彫ってあった。

  秘封倶

 三文字目の途中で、刃が止まっているのだ。
「ここでは、二人は出会って、半年で境目の向こうへ行ってしまった。帰る時刻も、入った場所も、誰も数えなかった。数えるのが野暮に思えたのでしょうね。三日ほど、踊るように歩いて、それきり」
「死んだの?」
「どの紙にもいなくなった、と言うのが正確ね。どこにも降りなかったのだから。部屋は残ったけれど、使っていた者のことは誰も覚えていない。あの彫りかけだけが残っているの」
 メリーは窓の中の机を、長いこと見つめていた。
「楽しかったかしら、その三日」
「さあ。楽しかったのではなくて」
 紫の声は、乾いていた。
 三つ目の窓は、庭である。
 古い平屋の縁側に、白い髪を短く切った老女が、膝に毛布を掛けて座っている。目は開いているのに、どこも見てはいない。草の伸び放題になった庭の中に柿の木が一本あって、風もなく草もそよとも動かないのに、その柿の枝の一本だけが、手招きでもするように揺れているのだった。
 老女は、その枝のほうへ顔を向けた。唇が動いて何か言いかけ、けれど言わずにやめてしまうと、手探りで湯呑みを取って、庭へ向けて少しだけ持ち上げてみせた。
「あれも私?」
「八十四になったあなた。この刷のお友達は、少しずつ人でなくなっていったの。境目を見すぎた者は、いずれそうなる。あなたは最後まで傍にいたわ。相手が、木の揺れと区別がつかなくなっても」
「メリーは、あそこにいるの」
「いる、と言えばいるわ。ただ、名前がもう届かない。蓮子が呼ばなくなったから。呼んでも返事がないと分かってから、六十年、一度も」
 老いた私が湯呑みを膝に下ろしても、柿の枝はまだ揺れている。
 紫は扇の一振りで、三つの窓を閉じた。
「理に寄りすぎた一枚。情に寄りすぎた一枚。体だけが残った一枚。どれも、もう重ね終わっているわ。あれに綴じ込まれて、動かない」
「眼は、三人とも」
「貰われたあと」
「どうやって」
 聞かずには、いられなかった。
「あれは、正しい時刻を言わせるの。その刷の、いちばん深く開く場所で。一度言えば、その眼はあれのものになる」
「三人とも、言ったの」
「理の刷のあなたは、職務として読み上げたわ。境界の現況報告の一部として、書式どおりに。情の刷の二人は、向こうへ発つ前の晩に、並んで星を数えた。楽しそうに。それで足りたの」
「体の刷は」
 紫は少し間を置いた。
「老いたあなたは、庭で名前を呼ぶ代わりに、毎晩、時刻を呟いていたのよ。返事の来ない相手に、今は何時何分よ、と。あれは、それを聞いていただけ」
 膝の上で組んだ自分の指が、ひどく冷たい。
 三人とも、私だった。どの一人を取っても、私がなりうる形をしている。一度も遅刻しない自分を、羨ましいと思わなかったと言えば嘘になる。
「綴じ目を外す方法は」
「違いを、思い出させること」
 紫は縁側に座り直した。メリーとは、私を挟んで反対の側に。
「あれが重ねるとき、合わないところは消える。けれど、消し残りが必ず出るの。椅子を引く癖。彫りかけの字。口にしかけてやめる名前。それを誰かが拾い上げて、そこに何があったのかを、その刷の者に思い出させる。そうすれば、その一枚は他の紙と合わなくなるわ。合わない紙は、綴じておけない」
「清水さんの店が、境目の中に残っていたのは」
「あの方が奥様を覚えていたから。一人でも覚えていれば、誤植は誤植になりきらないのよ。ずれたまま、縁に引っかかって残る」
 私は顔を上げた。
「じゃあ、消えた人は」
「綴じ目がすべて解ければ、覚えている者のいた誤植は、刷り戻されるでしょうね」
 そう言ってから、紫は付け足した。
「理屈の上では」
 理屈の上では、で十分だった。理屈の上にさえ道があるなら、私はそこを歩ける。
 和内さんのことは、私とメリーが覚えている。清水さんのことは、私が覚えている。裕子さんの唐辛子のような金魚を、覚えていろと言われた。あの部屋の人々が忘れさせられた名前だって、壁に書かれていたぶんは私が全部読んだのだ。読むのだけは速いのだから。
 胸の中で何かが動きはじめた。止まっていた秒針が、また進み出すように。
「あなたがやればいいじゃない」
 私は紫に向かって言った。
「境目を裂けるんでしょう。どの刷へでも行ける。私たちより、ずっと早く済むはずよ」
「私は紙の内側には立てないの。縁に立つだけ。思い出させるには、内側の者が、内側の言葉で言わなければ」
 扇の骨を一本ずつ指で撫でながら、彼女は言う。
「それに、あれと私は、近づきすぎると具合が悪いのよ」
「どうして」
「磁石のようなもの、とでも」
 答えになっていない。
 メリーはさっきから、紫の手元ばかりを見ていた。扇を持つ手の、人差し指が一本だけ、骨から離れて立っている。彼女が何をそんなに見つめているのか、そのときの私には、分からなかったし、気に留めもしなかった。
「最初の一枚は?」
 メリーが訊ねる。
「理と、情と、体と。三つ見せてもらったわ。あの人が生まれた一枚が、まだあるでしょう」
 紫の指が止まった。
 ややあって引かれた四本目の線は細くて、覗き穴ほどの幅しかない。
 その向こうは、夜だった。墓石が並んでいる。蓮台野だ。彼岸花の赤が、他のどの窓で見たよりも濃い。石の間に人影が二つあって、一つは膝をつき、もう一つを抱えている。
 どちらが、どちらなのか。確かめる前に、線は閉じてしまった。
「あれが初刷。あれの生まれたところ」
「何があったの」
「取り返しのつかないことを、取り返そうとした者がいたの」
 扇が、ぱちりと音を立てて閉じられる。
「あれはね、鏡の中にしか、会いたい人がいないのよ。だから鏡の外を、全部同じにしようとしている。どこを向いても、その人が遅れずに来るように」
「会いたい人って、誰」
 訊いたのは私である。
「あなたによく似た人よ」
 それきり、紫は何も言わなくなった。いつの間にか立っていた縁側の柱に背を預け、傘を膝に載せて、目を閉じてしまったのである。
 メリーが身を乗り出した。私を越えて、紫の顔を覗き込むように。
「ねえ」
 小さな声だったけれど、逸らすことを許さない声でもあった。
「あなたは、どの刷の、誰だったの」
 紫の睫毛は、ぴくりとも動かない。
 胸がゆっくりと上下していて、寝息まで聞こえる。眠ったのだ。あるいは、眠ったことにしたのだ。
 メリーは長いこと、その顔を見ていた。自分の寝顔を初めて外から見る人のように。
 遠くの手描きの山の上で、月がほんの少し、動いた。


 紫が目を開けたのは、縁側の板が鳴ったからだった。
 私もメリーも動いてはいなかったのに、板のほうがひとりでに、乾いた木が締まるときのような短い音を立てたのである。続いて板の木目が一本ずつ、定規を当てて引き直したかのように真っ直ぐになっていく。その鋭さには覚えがあった。規矩京の基壇の上で、そして山の施設の食堂で、目の奥に刺さったあれだ。
「早いこと」
 畳んだ傘を手に取って立ち上がった紫の声には、寝起きらしいところが少しもなかった。
「山で近づきすぎたわね。糸を付けてきてしまった」
「来るの? ここへ? ここは刷られていない場所でしょう。星もないのに、どうやって重ねるの」
「重ねに来るのではないわ」
 彼女の目は、縁側の先の何もないところに据えられている。
「私に引かれて来るの。私があれに引かれるのと、同じに」
 その何もないところに、白い線が一本、縦に入った。
 紫の引く線とは、まるで違う。扇で開く裂け目は縁が縫い目のように柔らかいのに、こちらは剃刀の跡だった。真っ直ぐで、幅というものがなく、向こう側からは影を作らないあの強い光が漏れている。
 線の向こうに、人が立っていた。
 こちらへ入ってはこない。入れないのだろう、裸足の爪先が、線のちょうど手前で止まっている。白い寝間着に黒い上着、そして私の顔。
 校合者は、私のことも、メリーのことも見なかった。
 紫だけを、見ていた。
「久しぶりね」
 私の声が、柔らかく言う。
「いつも逃げるんだもの。縁から縁へ。私が近づくと、すぐ眠ったふりをして」
「眠るのは本当に好きなのよ」
 傘を縁側の柱に立てかけた紫が扇を開いたのだが、その扇の先が、わずかに震えているのが私にも見えた。
「お帰りなさい、墨。ここはあなたの来るところではないわ」
 すみ。
 あの人が名前で呼ばれるのを、私は初めて聞いた。
 呼ばれたほうの顔が歪む。私の顔が、私のしたことのない歪み方をしていた。
「その名前で呼ばないで!」
「他に呼びようがないもの」
「あるわ……あなたは知っているでしょう! それは、あなたが勝手に割って、半分だけ寄越した名前よ。私は頼んでいない。私の名前は」
 そこで言葉が止まった。口は次の音の形のまま開いていて、その視線がほんの一瞬、メリーのほうへ流れ、それから唇が固く結ばれる。
「返して」
「何を」
「全部よ。あなたが持っていったもの、全部。その手も、その髪も、その眼も。私のだったのに」
「返せるものなら、千年前に返しているわ」
 紫の声から、あの胡散臭い余裕がすっかり抜け落ちていた。
「計算が合わなかったのよ。足して一つになるはずが、二つ余った。あなたと、私と。割り戻す式は、まだ見つからない」
「見つけなくていいわ。私が全部重ねるもの。そうすれば、余りは出ない」
 校合者が一歩前へ出て、その爪先が白い線を踏む。踏まれたところから、光がこちら側へ滲み出してきた。
 そして紫もまた、一歩出ていたのである。
 自分の意思でそうしたのではない、ということは見れば分かった。扇を持った腕が前へ引かれていて、もう一方の手は縁側の柱を掴み、その指の節が白くなっている。
「蓮子」
 メリーが私の袖を掴んだ。
「あの二人、輪郭が寄っていくわ。別々の紙なのに、同じ絵みたいに」
 私の眼に境目は映らないけれど、向かい合って立つ二人の姿がよく似ている、ということくらいは分かる。背丈も、髪の色も、顔も違う。それなのに肩の線や首の傾け方が、鏡に映したようにぴたりと対になっているのだ。
 磁石のようなもの、と紫は言っていた。
 私は立ち上がっていた。何をするつもりだったのかは、自分でも分からない。間に割って入ったところで、どうなるものでもなかったろう。
 紫が、こちらを振り向いた。
 ぱちりと閉じられた扇の先が、私の鞄を指す。
 口を閉めてあったはずの鞄の内側で、何かが動いた。布越しに指の形が浮き上がり、留め金に手をやるよりも早く、鞄の脇の何もないところに小さな裂け目が開いて、そこから白い手が、薄い一冊を引き出していったのである。
 厚紙の表紙に、糸綴じ。
「それは」
 声が裏返った。
「返して! 清水さんが言ったのよ、読み終わるまで誰にも渡すなって。あなたも聞いていたでしょう、あの墓地で!」
「ええ。聞いていたわ」
 本は、柱を掴んでいたはずの紫の手の中にあった。
「だから、私が渡すの」
 彼女は白い線のほうへ、腕を伸ばした。
 校合者の目が、本に吸い寄せられる。両手が出て、指を寝かせた撫でるような手つきでそれを受け取ると、子供がなくした人形を抱きしめるように、胸に抱いた。
「私の本」
 囁くような声だった。
「ずっと探していたの。色が違ってしまう前に、って」
 紫に掴みかかろうとした私の手は、届かなかった。足が板に貼りついたように動かない、と思ったのは間違いで、動いていたのは板のほうだったのだ。縁側が、私とメリーを載せたまま、紫から離れていく。
「何をしたのよ! あれは清水さんの、あの人が最後に」
「本は」
 遠ざかりながら、紫は言った。乱れた金の髪の間から、目だけがこちらを見ている。測る目だった。けれども同時に、測り終えた者の目でもあった。
「読み終わっていなかったでしょう。それでいいのよ」
「意味が分からない!」
「行きなさい。三つとも、消し残りは見せたわ。あとは内側の者の仕事」
 足の下で、板が割れた。
 落ちていく寸前に、私は見たのである。
 本を抱いたままの校合者が、白い線を越えて、こちら側へ片足を踏み入れていた。紫の体が支えを失って前へ傾き、二人の間の距離が零になる。
 溶け合いはしなかった。
 紫の袖の縁が、校合者の上着の縁に、針で留めたように重なる。次に肩が。次に、扇を持つ手と、本を抱く腕が。一針、また一針と、紫の輪郭が校合者の輪郭に縫い留められていくのを、紫は少しも抗わずに受け入れていた。
 最後に見えたのは、扇を持ったほうの手である。骨から離れて立った人差し指が一本、私に向かって、小さく横に振られた。
 数を数えるな、という合図のようでもあり、ただの別れの挨拶のようでもあった。

 石畳に尻から落ちた。
 痛い。痛いということは床があるということで、床だけでなく色もあった。街灯の白に、石の灰色に、軒の黒。隣ではメリーが、帽子を押さえながら起き上がるところである。
「蓮子、怪我は」
「ない。あなたは……」
「画板が背中に当たったわ」
「それは私の背中の話でしょう」
 紐は、まだ私の肩に掛かっていた。
 落ちたのは路地で、両側に町家が並んでいるのに格子窓に灯は一つもなく、造りには見覚えがあるのに、その静けさには見覚えがない。角を一つ曲がると、アーケードの下へ出た。
 寺町通である。
 新茶道の教室の看板があり、その隣に合成菓子の店があり、二軒の間には目地の揃った煉瓦の壁がある。ただ、色が少ないのだった。看板の朱は朱というより褐色に近く、菓子店の日除けの縞は二色で済ませてあり、アーケードの照明は私たちの京都より一段白くて、通りに落ちる影の縁が硬い。深夜なのだろう、人通りはなかった。
「理に寄りすぎた一枚、ね」
 メリーが言う。
「遅刻しない蓮子のいるところだわ。境目が、ほとんど見えないもの。縫い目がみんな、綺麗に塞いであるの」
 塞ぐ側で働いている、と紫は言っていた。優秀だ、とも。
 分かってはいたけれど、私は鞄を開けてみた。ノートが二冊に鉛筆、空になった握り飯の包み。底まで手を入れてみても、厚紙の表紙には触れない。
 本がなければ、どこが開いているのかを私は測れないし、清水さんに返すものもなくなってしまった。
「裏切ったのよ」
 思っていたよりも低い声が出た。
「あの女。最初から、あれを渡すつもりで私たちを泳がせていたんだわ。清水さんを余白に匿ったのも、山で拾ったのも、信用させるため。見ているだけ、隔てるだけ。全部嘘」
「そうかしら」
「他にどう見えるの。目の前で敵に渡したのよ、あの本を」
 アーケードの柱に凭れたメリーは、少しの間考え込んでいた。
「私、分からないの」
「何が」
「あの人、本を渡すとき変な顔をしていたわ。蓮子がたまにする顔。試験で、答案を出す直前の」
「私はそんな顔しない」
「するのよ。解けたと思っていて、でも出してみるまでは分からなくて、それでも出すしかないときの顔。あれと同じだった」
「メリー、あの女を庇うの」
「庇ってないわ。見えたものを言っているだけ。それに、あの人、名前を呼んだでしょう。墨、って」
「呼んだわね。嫌がられていたけど」
「割って半分だけ寄越した、って言っていたわ。名前を割るって、どういうことかしら。自分の名前を半分に切って、片方をあげたの?」
「知らないわよ。紙の外に住んでいる人の命名規則なんて」
「あげたほうは、悪気はなかったと思うの。あげられるものが、それしかなかったのよ。でも貰ったほうは、要らなかった。欲しかったのは半分じゃなくて、元の」
 メリーはそこで口をつぐみ、自分が今何を言いかけたのかに自分で驚いた、という顔をした。
「元の、何」
「分からない。今、何か分かりかけたのに。夢の端みたいに、逃げたわ」
 言い返そうとして、やめた。尻は痛むし、背中には画板の角が食い込んでいるし、目の奥には、清水さんの唇が最後に作った三つの音の形が、まだ焼きついたままなのである。
 下宿を見に行ったのは、行ってどうしようという当てがあったからではない。
 白川から二本入った路地の、木造の二階。建物はちゃんとあったけれど、私の部屋の窓には知らない柄のカーテンが掛かっていて、郵便受けの名札には、三文字の、聞いたこともない姓が入っていた。
「向こうの蓮子は、もっといいところに住んでいるのよ、きっと。お役所勤めだもの」
 メリーは、慰めるつもりで言ってくれたのだと思う。
 自分の部屋だったはずの窓を、私は見上げていた。あの机の上の計算用紙も、床に積んだ教科書も、物干し場の手すりも、ここにはない。ここでの私は下宿を出て、遅刻をやめて、空を見なくなったのだ。
 帰る場所がないというのは、こういう感じなのか。メリーが夢から覚めるたびに確かめているのは、これなのか。
 アーケードの切れ目まで戻ってきて、私は足を止めた。動く前に時刻と場所を押さえるのは、癖である。見ないほうがいい、という声が頭のどこかでしている。山道で七回読んで何が起きたのかを、もう忘れたのか、と。
 けれども、ここは既に重ね終わった刷なのだ。校合者はとっくにここの見当を持っているのだから、私がこれ以上読んだところで、打つべき印は残っていないはずである。
 そう解釈して、空を見上げた。
 冬の星座が、南の空に高い。
「一時十四分七秒。北緯三十五度〇分、東経百三十五度四十六分」
 寺町通。入ったことのない刷の、よく知っている座標だった。星の位置は変わらない。どの紙でも、線は同じところに彫ってあるのだから。
 左の手首で、小さな音がした。
 腕時計の秒針が、動いているのである。余白で止まったきりだったものがいつ動き出したのか、文字盤は一時十四分を指していて、秒針は七から八へ、八から九へと進んでいく。
 一秒も、ずれていなかった。
 見知らぬ京都で、合っているのは、私の時計と星だけだった。

  ◇

 数えるのをやめた。

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