Coolier - 新生・東方創想話

私の幻想、あなたの理性

2026/10/17 00:46:32
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第二章 筆跡

 私の眼は、翌日の夜には直っていた。
 下宿のベランダから北の空を見上げ、腕時計と突き合わせてみると、二十一時六分四十秒で秒針とぴたり一致していて、次の晩も、そのまた次の晩も合っていたのだ。ずれたのはあの一度きりということになる。ノートには「原因不明」と書くよりほかになかったのだが、私はこの四文字を書くのが、歯医者の予約を入れるのと同じくらい嫌いである。
「時差ぼけみたいなものじゃないかしら」
 閉架へ下りていく階段の途中で、メリーが暢気なことを言った。
「向こうの色が服に移るくらいだもの。時刻だって、少しは移るわよ」
「向こうとこっちで、星の位置は同じだったのよ。線が共通なんだから時刻も共通のはずで、移る余地なんてどこにもないわ」
「じゃあ、蓮子のほうがずれたのね」
 さらりと、いちばん嫌なところを突いてくる。
 鉄の扉の前では、和内さんがもう手帳を開いて待ち構えていた。
「宇佐見さん、今日は一分の遅刻です。新記録ですね」
「褒められている気がしません」
「褒めています。なお、ご依頼の件ですが、見つかりました」
 緑の布を張った机には薄い冊子が一冊載っていて、錆びたホチキスの針が紙に茶色い輪をこしらえている。その表紙には、活字よりも少し滲んだガリ版の字で、こう刷ってあった。
 刷界解釈試論。
 著者の名前はどこにもなく、所属の欄に、この大学の旧い学部名が入っているきりである。
「物理学科が統廃合される前の、内部回覧用の資料です。電子化の対象外でした。正確には、対象にする価値がないと判断された箱の中に入っていました」
「誰が書いたか、分からないんですか」
「分かりません。それに、ここを見てください」
 鉛筆の先が示した表紙の右上には、回覧した者が読んだ印を押すための枠が六つ並んでいたのだけれど、その六つが六つとも、真っ白なのだった。
「誰にも回らなかったんです。刷られて、綴じられて、そのまま箱に入った。読まれるために作られたのに、結局一度も読まれなかった紙というのは、案外多いものなんですよ」
「もったいない」
「ええ。ですから宇佐見さんが最初の読者です」
 そんなふうに言われると、借りた手袋の中で指が少しこわばってしまう。
「読んでも?」
「そのためにあるんですよ、紙は」
 表紙をめくってみると、文章は拍子抜けするほど簡潔だった。世界を一枚の原版から刷られた有限枚の刷として記述する。原版に刻まれた法則と初期配置を線刻と呼び、刷ごとに異なる偶然的な内容のほうを彩色と呼ぶ。そこまでは東京の閲覧室で思い出した脚注のとおりだったのだが、この論文には、まだ先があったのである。
「複数の刷は、共通の線刻を基準点として重ね合わせることができる。この操作を、書誌学の用語を借りて校合と呼ぶ」
 声に出して読み上げた私の肩越しに、メリーが覗き込んでくる。
「きょうごう?」
「写本を何冊も突き合わせて、違っているところを洗い出す作業のことです」
 和内さんが補ってくれた。
「ちなみに、洗い出したあとでどうするかは流儀によります。違いを全部注記して残しておく流儀と、正しいと決めた一つだけを残して、あとを捨ててしまう流儀です」
 論文がしていたのは、後者の話だった。
 刷と刷を寸分違わず重ね合わせると、一致する部分は濃く残り、一致しない部分は互いに打ち消し合って消えてしまう。しかもその消えた部分は、消えるのではなく、どの刷にも初めから存在しなかったことになるのだという。著者はそれを誤植と呼んでいて、校合を繰り返していけば、刷界は最後には異同のない一枚に収束する、と続けていた。
「物騒な論文ね」
「思考実験よ。重ね合わせるには、全部の刷に共通する基準点を、刷の内側から正確に読める観測者が要るって書いてあるもの。そんな都合のいい観測者はいないから、実行は不可能。それが結論」
 そう言いながら最後のページをめくったとき、裏表紙との間から、何かが机の上へ滑り落ちた。
 ノートである。
 大学の購買で売っているいちばん安い方眼のやつだ。表紙の角が丸く潰れているところまで含めて、私の鞄に三冊入っているのとまったく同じものだった。
「挟まっていたんですか、これ」
「挟まっていました。箱を開けたのは、私が最初のはずなんですが」
 和内さんが鉛筆で頭を掻く。この人がそういう仕草をするのを、私は初めて見た。
 開いてみると数式が並んでいた。恒星の位置から時刻を出す式に、月の視差から観測点を逆算する式。どれも見慣れたものばかりで、それもそのはず、子供の頃から誰にも教わらずに頭の中でやってきたことを紙に書き下せば、ちょうどこうなるのだろう。
 見慣れているのは、式だけではなかった。
 七の縦棒に横線を一本入れる癖。積分記号の上を小さく、下を大きく書く癖。
「蓮子の字ね」
 私よりも先に、メリーが言った。
「同じノートを使う学生は何百人もいるわ」
「字の話をしているのよ」
 ページをめくっていくと、式は途中から私の知らない方角へ進みはじめる。時刻と位置を出したところで終わらずに、その値を、別の刷の同じ値と等号で結んでいるのだ。二枚の紙の四隅を、ぴたりと合わせるようにして。
 それは、私がまだ考えていないことだった。もっとも、考えはじめれば一週間ほどでここへ辿り着くだろうという見当はつくが、その一週間ぶんが、私の字で先回りして書いてあるのである。
 和内さんの鉛筆が動いていた。
「帳面一冊、試論に挟入。筆跡、利用者本人のものに酷似。本人は関与を否定」
「否定はまだしてません」
「しますか?」
「……します」
「では、否定、と」
 ノートを閉じて、借りて帰っていいかと訊ねると、和内さんは少し考えてから、蔵書印がないので私の管轄外です、と答えた。

 超統一物理学のゼミ室には、椅子が十二脚ある。
 発表の順番を決めるために助教が回してきた名簿を受け取り、自分の名前の横に日付を書き入れてから、何の気なしに人数を数えてみる。たぶん午前中に読んだ論文のせいで、ものを数える癖がいつもより過敏になっていたのだろう。
 十一人だった。
 顔を上げて部屋を見渡せば、長机を囲んだ椅子は十二で、座っているのは十一人。窓際の一脚だけがぽつんと空いていて、その座面に午後の陽が当たっている。
「あそこ、誰か休み?」
 隣の同期に聞いてみると、彼女は窓際を見て、それから怪訝そうに私を見た。
「誰かって?」
「あの席の人」
「あそこは最初から空いてるでしょ。予備の椅子じゃない?」
「……っ」
 そう言われてしまうと、そうだったような気もしてくるから始末が悪い。
 私は自分のノートを先月のゼミの日までめくった。発表の要点を書き留めた下に、走り書きが一つ残っている。

  ペン貸出中 →

 何故か矢印の先には、何も書いていないのである。
 名前を書いた覚えは確かにあるし、第一書きもしないのに矢印だけ引く理由がない。紙の表面を指でなぞってみると、そこだけ鉛筆の粉が載っていないのが分かった。消しゴムをかけた跡があるわけでもなく、それは初めから白かった紙の手触りだった。貸したはずのペンは戻ってきておらず、筆入れの中には一本ぶんの隙間が空いたままになっている。
 窓際には、誰かがいたのだ。数式を写すのが遅くて、よく私のノートを覗き込んできた誰か。声も顔も思い出せないのに、覗き込まれたときに陽を遮った影の形だけは、妙にはっきりと覚えている。
「宇佐見さん、どうかした?」
「ゼミ生は、これで全員ですか?」
「全員だよ。今年は十一人」
 誤植、という文字が頭に浮かんだが、私はゼミが終わるまでどうにか隅のほうへ押し込めておいた。

 夕方の学生食堂でその話をすると、合成の親子丼を前にしたメリーは、箸を止めたまま最後まで聞いてから、少し考えてこう言った。
「窓際の人って、ノートの隅に猫を描く人?」
 私の手から箸が落ちた。
「……知ってるの?」
「蓮子を迎えにゼミ室へ行ったとき、何度か見たわ。発表を聞かないで、ずっと猫を描いていたの。尻尾の長い、目つきの悪い猫。上手だったのよ」
「名前は」
「知らないわ。話したことはないもの。でも、いたわよ。猫の人」
 私に残っているのは影の形だけで、メリーには猫が残っている。毎週同じ部屋に通っていた私よりも、廊下から覗いただけの彼女のほうが、多くを覚えているのだった。
「どうしてあなたのほうが覚えているの」
「さあ。私、夢と現の札を付けるのが下手だから。消すほうも、どっちの箱から消せばいいのか分からなかったんじゃないかしら」
 冗談めかした口ぶりとは裏腹に、箸を持つ指は止まったままである。
 私はノートを出して、白い矢印の先に鉛筆で書き足した。尻尾が長く、目つきが悪い猫を描く人。メリーの証言による。
 書いた字は、消えなかった。
「蓮子、それは何のおまじない?」
「記録よ。論文には、消えた部分は初めから存在しなかったことになる、とあったわ。でも、あなたは覚えているでしょう。それなら存在したのよ。覚えている人がいる限り、初めからなかったことには、なりきらない」
「じゃあ、私が忘れたら?」
「そのために書くんじゃない」
 和内さんの受け売りである。記録することと信じることは別です、というあれだ。自分ではもう思い出せない同期のことを、私はメリーの眼を借りて紙の上に留めた。けれども、名前の欄だけは、どうしても白いままにしておくしかなかった。

 その夜はよく晴れていた。
 ベランダに出て、手すりの上にノートを二冊、自分のと閉架から持ち帰ったものを広げて押さえてみたのだが、月明かりの下でいくら見比べても、やはり字の区別はつかない。諦めてノートを閉じ、手すりをつかんで顔を上げた。いつものように空を見た。
 二十三時十七分。
 そこまで読んだところで、視界が二枚になった。
 星空の上に、白い天井が重なっているのである。染み一つない四角い天井で、その下には手があって、白い袖口から出たその手が、方眼の帳面に何かを書きつけている。爪の形で分かった。あれは私の手だ。けれども私の手は今、ベランダの手すりを握っていて、何も書いてなどいない。
 それに、ペンの持ち方が違っていた。私は人差し指を立てて握るのに、その手は指を寝かせて、紙を撫でるようにして書いているのだ。
 瞬きを一つすると天井は消え、星が戻ってきた。二十三時十七分八秒。
 膝が笑ってしまって、私はベランダの床にそのまま座り込み、しばらくのあいだ自分の右手を、他人のもののように眺めていた。それから持ち帰ったノートを膝に載せ、まだ見ていなかった最後のページを開いた。
 式は一行もない。ページの上端に、私の字で、見出しだけが書いてある。

 メリーを失わない方法

 その横には、小さく日付が入っていた。
 明日の日付だった。


 メリーの左腕には、指の形をした痣があった。
 外側に四本ぶん、内側に一本ぶん。誰かに手首の少し上を掴まれればちょうどそういう跡がつくはずだ。学生食堂の白い卓の上で袖をまくってそれを見せた当の本人は、定食の合成魚を箸でつつきながら、天気の話でもするような顔をしている。
「夢の中で掴まれたの。輪っかになった廊下みたいなところで」
「誰に」
「見えなかったわ。暗かったし、すぐ目が覚めたもの。痛くはないのよ。それより見て、この魚、今日も骨が一本もないわ。昔の魚には骨があったって、本当なのかしらね」
 魚の骨どころではなかった。
 夢で負った傷が朝になっても残っている、ということ自体は、今に始まった話ではない。メリーの夢というのはよその刷を歩くことなのだから、歩いた先で転べば膝くらいは擦りむいて帰ってくる。私が目を離せなくなったのは、そこではなくて、痣の指と指の間隔のほうだった。
 卓の下でこっそり開いた自分の右手を、あの痣に重ねて比べてしまったのである。
 合うとも合わないとも言えなかった。人間の手などというものは、誰のであっても、だいたいは合ってしまうのだから。
「蓮子、顔色が悪いわよ」
「寝不足よ……メリー、今夜は出歩かないで」
「活動は?」
「休み。しばらく休み」
「どうして……」
 理由なら、並べる準備ができていた。あの夜、私の眼は二分十九秒遅れた。星を読んだ瞬間に、知らない天井と自分の手が見えた。私の字で書かれたノートが、私の知らない場所から出てきた。ゼミ室から一人消えて、私のペンも一本消えた。どの項にも、きっちり私が入っているのだ。これを偶然と呼ぶには、いくらなんでも変数が揃いすぎている。
「理由は、まとまったら話すわ」
「まとまってから話す蓮子なんて、見たことないけれど」
 メリーは痣の上に袖を下ろし、それ以上は何も聞いてこなかった。私は冷めかけた味噌汁を一息に飲み干して、椀を置く音が思ったより大きく響いたのを、咳払いでごまかした。
 午後の講義は右の耳から左の耳へ抜けていく。帰り道は空を見ないで済むように足元の舗石ばかりを数えて歩いて、星が出る前に下宿へ辿り着くなり窓のカーテンを引いた。読まなければ、何も起きない。それが、その日の私の立てた作業仮説だったのである。

 ノートの最後のページが埋まっていることに気づいたのは、日付が変わる少し前だった。
 昨夜は確かに白かったはずの見出しの下に、番号を振った手順が増えている。しかもそのインクはすっかり乾き、書かれてから何日も経ったような顔をしている。

 一 輪の中に立たせること。
 二 竪坑の下から天頂を読むこと。
   秒まで、声に出して。
 三 続けて位置を読むこと。
   そうすれば、あの子は一枚に留まる。もうどこへも行かない。

 輪、という単語が目に刺さった。
 椅子を蹴って立ち上がり、端末でメリーを呼んでも応答はなく、代わりに二時間前の伝言が一件残っている。
『輪っかの夢の場所、見つけたわ。大学の地下よ。旧い物理学棟の下。蓮子は休みらしいから、先に見てくるわね』
 語尾には舌を出した顔の絵文字まで付いていた。
 物理学棟の下に何があるのか、物理の学生で知らない者はいない。観測すべきものがまだ残っていた時代の末期に掘られた環状のトンネルで、周長は六キロ。粒子を光の速さ手前まで回して正面からぶつけ、その破片の中に世界の情報を読み取ろうとした装置である。読み尽くしてしまったあとは電源を落とされ、磁石も外されて、輪だけが地下に残された。
 私はノートを掴み、帽子を忘れかけて取りに戻り、それから一度も空を見ないまま走った。

 旧棟の地下へ下りる階段の鎖は、もう外されていた。メリーの仕業だろう。こういうときの彼女は、私よりもずっと手際がいい。
 トンネルは、思っていたよりも広かった。コンクリートの筒がゆるく左へ曲がりながら闇の奥へ続いていて、壁に沿って太い配管の跡が走り、床に薄く溜まった水が非常灯の緑を映している。壁に残された真鍮の銘板を、走りながらでもつい読んでしまうのは性分というものだ。そこには最終運転の日付と、到達した衝突の規模と、関わった人々の名前とが、三段にわたって刻んであった。
 白状すると、私はこの輪が好きだったのだ。
 一年生の春、鎖の外から中を覗き込んだことがある。ここで人間は物質をこれ以上割れないところまで割り、割った破片を数え、もう数えるものはないと結論した。その結論を抱えてこの階段を上がっていった人々は、いったいどんな顔をしていたのだろう。できることなら、その場に居合わせたかった。終わったあとに生まれてくるのではなく、終わらせる側に、世界の線を最後の一本まで読む側にいたかった、とあのときの私は本気で思っていたのである。
 その同じ足音が、今夜は輪の中で、ひどく嫌な響き方をしている。
 三百メートルほど進むと、天井に丸い穴が開いていた。機材を地上から下ろすための竪坑で、蓋はとうに腐って落ちてしまったらしく、その真下の床だけが青白く明るい。空が見えているのだと気づいて、私は反射的に目を伏せた。
 その光の輪の中に、メリーが立っていた。
「蓮子」
 声が二度聞こえた。同じ声が、ほんのわずかにずれて届くのだ。
「来てくれたのね。休みじゃなかったの?」
「メリー! そこを出て!」
「出られないのよ」
 困ったように笑った彼女は、トンネルの奥へ向かって歩き出した。五歩、十歩と進むうちに背中が闇に溶け、足音が遠ざかって消え、そして今度は私の背後で水が鳴る。振り向けば、メリーが、私の来た方向から歩いてくるところだった。
「ね。どっちへ歩いても、ここに戻るの」
「輪なんだから当たり前でしょう。六キロ歩けば一周するわ」
「十歩で一周するのよ。おかしいでしょう」
 光の輪の中へ戻った彼女の足元では、竪坑から落ちてくる光は一つきりだというのに、影が二つに割れていた。
 私の眼に境目は映らない。それでも、金髪の縁が二重になり、白い帽子の輪郭がぶれ、声が二度届くことくらいは分かる。少しずれた二枚の紙に、一人の人間が跨って刷られているのだ。
「継ぎ目が閉じかけているの」
 メリーは痣のある腕をさすった。
「ここは境目が輪になっていて、端がないのよ。入ったら最後、どっちの紙にも降りられない。昨夜の夢で掴まれたのは、たぶん引っ張り込まれたのね」
「誰に」
「知らないわ。蓮子みたいな手だったけど」
 喉の奥を、冷たい水が落ちていくような心地がした。
 ノートを開いたものの、開くまでもなく手順は頭に入っている。輪の中に立たせること。メリーはもう立っている。竪坑の下から天頂を読むこと。竪坑は彼女の真上にある。私があそこへ並んで空を見上げ、秒まで声に出しさえすれば、二枚にぶれた輪郭は一枚に定まるはずだった。星の位置は全部の刷に共通の基準点であって、それを読み上げるということは、紙の四隅を合わせるのと同じことなのだから。式を見れば分かる。メリーは留まる。こちらの刷に、こちらの座標に、一秒の狂いもなく。
 もうどこへも行かない。
「蓮子、それは何?」
「あなたを助ける手順よ」
 自分の声が、板のように平らだった。
「私の字で書いてあるの。私が考えそうな式で。読めばあなたは出られるわ。その代わり、たぶん、もう夢でよそへは行けなくなる」
「蓮子が書いたの?」
「分からない。書いた覚えはないわ。でも私の眼は一度狂ったし、ゼミの子が一人いなくなったし、あなたの腕の痣は、私の手と同じ大きさなのよ」
 一度口にしてしまうと、あとは堰を切ったようだった。
「全部に私が入っているの。消したのは私かもしれない。あなたをここへ引っ張り込んだのも、私かもしれない。自分で知らないうちに、この眼が」
「見せて」
 光の輪の縁から指先だけを出して、メリーはノートを受け取った。最後のページを非常灯のほうへ傾けて読み、読み終えてもう一度読み、それから、ふっと小さく息を吐く。
「字は蓮子ね」
「だから」
「でも、言い回しは私よ」
 何を言われたのか、すぐには呑み込めなかった。
「『あの子は一枚に留まる。もうどこへも行かない』。蓮子はこんなふうに書かないわ。あなたなら『位置が確定する』とか『自由度が一つ減る』とか書くもの。だいたい『あの子』なんて言わないし、『どこへも行かない』なんて、寂しがりみたいなことは絶対に書かないでしょう」
「……寂しがりって」
「これを書いた人は、蓮子の手を持っていて、私みたいに喋るのよ。霧の中の声と同じ」
 彼女はノートを閉じて、私に返した。
「蓮子じゃないわ。だから、数えないで」
「数えなきゃ出られないのよ」
「継ぎ目は見えているの。ただ、私一人じゃ手が届かないだけ。蓮子がこっちへ来て、私の手を取ってくれれば届くわ」
「そこへ入ったら、空が見える」
「閉じればいいじゃない」
 当たり前のことのように、メリーは言った。
「蓮子の眼が何であっても、閉じるかどうかは蓮子が決められるのよ。あなたが数えるたびに、輪郭が締まっていくの。だから今は数えないで、眼を閉じて、こっちへ歩いてきて」
 水の滴る音が、どこか遠くでしていた。
 私はこの眼を誇りにしてきたのだ。誰にも教わらずに時刻が分かり、どこにいても迷わない。メリーが境目の向こうでふらふらしていたって、入った時刻と座標を私が覚えているから連れて帰れる。それが自分の役目なのだと、ずっと思ってきた。その眼を閉じてしまったら、私には、彼女に差し出せるものが何も残らない。
 帽子のつばを下げ、それでも足りない気がして、掌で両目を覆った。
「三歩よ。まっすぐ」
 一歩目で水が跳ねた。二歩目で、瞼の裏が青白く明るくなる。竪坑の真下なのだ。見上げれば読める。読みたい、と首の後ろが言っている。今が何時何分何秒なのかを知らずにいるということに、私という人間は、まるで慣れていないのだった。
 三歩目で、手首を掴まれた。
 いつもの、脈を取るような握り方である。
「そのまま。右へ半歩。そう。屈んで」
 言われるままに体を動かすと、耳の横を、冷たい紙の端のようなものが掠めていき、そのあたりからメリーの声が、すうっと一つに重なった。
「もういいわ」
 眼を開けてみると、竪坑の光は十メートルも後ろにあって、彼女の足元の影は、ちゃんと一つきりになっていた。

 壁際では地下水が染み出しているらしく、床の水溜まりが膝ほどの深さになっている。私はノートを開くと、最後のページを下にして、そこへ沈めた。
 インクが煙のようにほどけていく。私の七も、私の積分記号も、あの柔らかい言い回しも、みんな灰色の水に溶けて、見分けがつかなくなった。
「もったいなくない? 式は合っていたんでしょう」
「合っていたから沈めるのよ。あれを書いたのが誰だろうと、私が使わなければ、ただの紙だわ」
 メリーは少し黙っていたが、やがて手を伸ばして、私の帽子のつばを指でぴんと弾いた。
「寂しがりは蓮子のほうだったわね」
「はぁ? 何の話」
「私がよそへ行けなくなるのが、嫌だったんでしょう」
「サークルの活動に支障が出るって意味よ」
「はいはい」
 笑いながら先に歩き出した彼女のあとを追って、旧棟の非常口の扉を押し開けると、裏庭の植え込みの匂いと一緒に夜風が頬に当たった。もう空を見ても平気だろうか、などと考えながら、私はまだ自分の足元ばかりを見ていたので、先に気づいたのはメリーのほうである。
「蓮子。あそこ」
 植え込みの向こう、外灯の届かない芝生の上に女性が一人立っていた。
 長い金髪に、濃い紫の服。夜中だというのに日傘を差していて、傘の縁から下はよく見えるのに、顔のあたりだけが影の中に沈んでいる。こちらを見ている、と思った。少なくとも、傘はまっすぐこちらを向いていた。
 私が一歩踏み出すと、女は傘をわずかに傾けたのだが、それは会釈のようでもあり、顔を隠したようでもあった。
 瞬きを、一つした。
 芝生には、もう誰もいなかった。

  ◇

 鏡は見ない。
 磨いた硝子も、静かな水面も、夜の窓も避けて通る。傘を差すのは陽を遮るためではなく、顔に影を置くためであって、影の下にあるものなら、たとえ映ったところで見分けがつかないからだ。

 映るのは、よく知っている顔である。
 知りすぎている、と言ったほうがいい。目尻の下がり方も、笑う前に一度きゅっと結ばれる唇も、百回でも千回でも見てきた。あれは向かい合って眺めるための顔であって、内側から使うための顔ではなかったのだ。
 その計算違いについて、私は弁明というものを持たない。

 鏡を見るのをやめられない者を一人知っている。
 あちらは逆で、映るものしか残っていないから覗き込むのである。覗き込めば、そこにいる。手を伸ばせば、ガラスがある。

 境界とはそういうものだと、教える立場に私はいる。
 向こう側が見えるということと、向こう側へ届くということは違う。隔てているものを取り払えば両側が一つになるのかといえばそうではなく、両側とも、なくなってしまうのだ。
 それを知っているのは、試したからである。

 あの子達は今夜、輪の中で眼を閉じた。
 閉じる、という解があることを、私は式に入れていなかった。

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