第五章 未知の病
その朝、私は遅刻しなかった。
約束は九時で、カフェの扉を押したのが八時五十八分。昼間は星が読めないので腕時計で確かめたのだけれど、とにかく生まれて初めて待つ側に回ってみて分かったのは、窓際の席に座ってしまうと、待っている間に何をすればいいのかがさっぱり分からない、ということだった。
メリーはいつも、ケーキを半分食べて待っている。あれは時間の潰し方として、なかなかよく出来ていたのだ。
私は珈琲だけを頼んだ。九時になり、九時二分十九秒を過ぎ、その秒数を自分で数えていたことに気づいて少し笑う。仕返しのつもりなら、可愛いものである。
九時十五分には、もう笑っていられなくなった。
端末に応答はなく、伝言も入っていない。九時二十分、珈琲代を卓の上に置いて、私は走り出していた。
メリーの下宿は、白川沿いに建つ古い木造の二階である。
その門の前に、灰色の車が停まっていた。窓のない箱型で、側面には療養施設の徽章。脇には制服が二人立っていて、さらに白い上着の男が一人、板状の端末を手にしている。
二階から続く階段を、メリーが下りてくるところだった。
誰に腕を取られるでもなく、自分の足で歩いている。白い帽子をかぶり、小さな鞄を一つ提げ、もう片方の腕には画板を抱えていて、まるでこれから旅行にでも出かける人のようだった。
「メリー!」
顔を上げた彼女は、私を見つけると、困ったように笑った。
「蓮子。今日は早いのね」
「何してるの! どこへ行くの!」
「また山ですって。今度は奥の棟らしいわ」
門へ駆け寄ろうとして、あと五歩というところで足が重くなる。理由は分かっていた。五十メートルどころの話ではない。制服まで、三メートルしかないのだ。
白い上着の男が、穏やかに会釈をした。
「ご友人の方ですね。ご心配には及びません。経過観察のための、短期の療養です」
「何の病気ですか」
「診断名は、まだありません。未知の症状ですので」
端末に目を落として、男は読み上げる。
「実在しない人物についての、持続的で具体的な確信。当該人物の氏名、職業、外見、口癖に至るまで詳細に述べられますが、あらゆる記録と一致しません。検査上の異常は認められません。既知の疾患のいずれにも該当しないため、規定により」
「実在したわ」
舌が、思うように回ってくれない。
「和内さんは実在した。私も覚えている。それなら、私も同じ病気ということになるけど」
「あなたからは届けが出ておりません」
そのとおりだった。届けを出したのはメリーだけで、私は止めた側だったのである。
「それに、治せないものは病気じゃないはずでしょう」
頭の奥から言葉を一つずつ引きずり出しながら、関心が砂のように流れ出していくのを、歯を食いしばって堰き止める。
「先天的な、治せない特性は、個性と呼ぶ決まりのはずよ。社会のほうが合わせる。彼女の眼は生まれつきで」
「治せるかどうかは、経過を見なければ分かりません」
親切な、と言ってもいい声だった。
「治せないと分かれば、個性として尊重されます。分かるまでは、病気です。そして分かるためには、観察が要ります。論理的でしょう」
論理的だった。それを綺麗だとカフェで評したのは、他ならぬ私である。
反論なら、あったはずなのだ。観察する場所がなぜ電波も届かない山奥なのか。分かった例が過去に何件あるのか。名前の付かないまま帰ってきた人間が、いったい何人いるのか。問いは頭の中にちゃんと並んでいて、あとは順番に口に出すだけでよかったのに、その並んでいた問いが一つ、また一つと、どうでもよくなっていく。
気がつくと、私は車の灰色を眺めていた。むらのない、綺麗な灰色だった。
「蓮子」
目の前にメリーがいた。いつの間に門を出てきたのかも分からない。彼女は抱えていた画板を、私の胸に押しつけた。
「持っていて」
「メリー」
「持っている人がいれば、でしょう。私が持っていくと、たぶん向こうで取り上げられるわ」
紙の重さが腕にかかって、その重さのぶんだけ、頭が少し戻ってくる。
「すぐ迎えに行く」
「そうね」
メリーは、私の帽子のつばを指でぴんと弾いた。
「でも、来るなら数えずに来てね。空を見ないで。約束よ」
「どうやって。私は星がなきゃ、山の中で」
「蓮子なら何とかするわ。遅刻してもいいから」
そう言い残すと彼女は自分で車の後ろへ回り、自分で扉の中へ入っていった。制服の一人が、四小節の鼻歌を歌いながら扉を閉める。
車が動き出した。
門の前に突っ立ったまま、私はそれを見送っていた。追いかけなかった。追いかける、という考えが、そもそも浮かんでこなかったのである。車が角を曲がり、音が消え、白川の水音だけになってから三十秒ほどして、ようやく膝が震えはじめた。
画板を抱えたまま、道の真ん中に座り込む。
追いかけなかった。
頭が戻ってくるにつれて、その言葉だけが、何度でも戻ってきた。
世界のほうは、何も起きていないという顔をしていた。
学生課の窓口によれば、ハーンさんからは休学届が出ていて、本人の署名があり、理由は療養、手続きに不備はないのだそうだ。
「連れていかれたんです」
「ご本人が同意書に署名されていますよ」
「同意しなければ、どうなったんですか」
「さあ。同意されなかった例を存じませんので」
窓口の台を掌で叩いても、係は眉一つ動かさずに端末へ何か入力し、心身の不調を感じたら利用できる相談窓口の案内とやらを、私の端末に送ってよこした。
ゼミの同期は、休憩室で合成の菓子をかじりながら言う。
「未知の病なら仕方ないじゃない。治ったら帰ってくるんでしょ。ハーンさん、前も帰ってきたじゃない」
「あれは、あとから名前の付いた病気よ。今度のは違うの。名前が付かなかった人が帰ってきた話を、聞いたことがある?」
「ないけど。ないってことは、みんな普通に治って普通に帰ってきて、話題にもならないってことじゃないの」
悪気など、かけらもないのだ。彼女は本当にそう思っている。治療法のない病気は存在せず、存在しない病気で人が戻らないなどということはありえない。命題は、きれいに閉じているのである。
相対性精神学の研究室にも足を運んだ。メリーの指導教員というのは、白髪を短く刈った、声の静かな人だった。
「ハーン君のことは聞いています。残念です。優秀な学生でした」
「でした、じゃありません。先生の学問では、真実は主観の中にあるんでしょう。彼女は自分の見たものを言っただけです。それがどうして病気になるんですか」
「病気だと言ったのは、私ではありませんよ」
教員は机の上で指を組んだ。
「私達の立場では、客観とは多数の主観の一致です。彼女の主観は、他の誰とも一致しなかった。それは誤りではありません。ただ、一致しないものを社会がどう扱うかというのは、学問の外の問題です」
「外に置いていいんですか」
「君の専攻では、観測できないものをどう扱いますか」
返事に詰まった。存在しないものとして扱う。それが、私の学問の作法だったからである。
「同じことですよ。一致しない主観は、社会にとっては観測できないものです。学問的には、たいへん興味深い症例でした」
症例、とこの人は言った。私は礼も言わずに研究室を出たのだが、扉を閉める手が思うように動かず、二度もやり直す羽目になった。
カフェの店員は、いつものお連れ様は今日はご一緒じゃないんですね、と言い、事情を話すと、お大事に、と言った。それで終わりだった。
白川の下宿にも、もう一度行ってみた。大家さんは、荷物はそのままにしてあるから、じきに戻るでしょうから、と気軽に鍵を貸してくれる。
メリーの部屋は片づいていた。整えられた寝台、窓辺に置かれた替えの白い帽子、そして机の上には、ガラスの文鎮で押さえた経木が一枚。川向こうの屋台で貰った、あの筍の包みである。捨てずに取ってあったのだ。
その下に、ノートが一冊あった。
夢の記録だった。日付と、その晩に見たものとが、丸い字で短く書きつけてある。寺町の本屋さん。輪っかの廊下。白い道、何度も。最後の頁は、連れていかれる前の晩のものだった。
白い道の先に山。山の上に白い屋根。
蓮子は来ないでほしい。でも来る。数えながら来る。
ノートを閉じて、元の場所に、元の向きで置き、経木を載せ、その上に文鎮を載せた。
来ないでほしい、と書いた人が、数えずに来てね、と言ったのだ。来ることのほうは、初めから勘定に入っていたのである。
誰も嘘をついていないし、誰も何も隠していない。だからこそ、殴りかかる相手がどこにもいないのだった。
夜になって、旧棟の裏の芝生へ行った。蓮台野へも行ったし、四条の橋の上にも立った。
「見てるんでしょう!」
今度は怒鳴った。夜中に墓石を回したことはあっても、墓地で怒鳴ったのは、これが初めてである。
「隔てるのが仕事だって言ったわね。隔てられたわよ。見事に。満足? あなたは回収員を畳めるんでしょう。あの車を畳めばよかったじゃない。見ているだけなら、いないのと同じよ!」
船岡山の夜鳥が、一声鳴いた。
それきりだった。裂け目は開かず、日傘も現れない。墓石の間で息を切らしながら二時三十分になるのを待ち、二時三十分に何も起きないのを確かめてから、私は帰った。メリーがいなければ、たとえ境目が開いていたところで、私の眼には見えやしないのだ。
下宿の机の上には、本と、画板と、ノートが載っている。
それから三日間、私はほとんど外へ出なかった。
『天国と地獄の結婚』を、一葉ずつ、線の一本まで読んだ。なぞりはしなかった。それだけは守ったのだが、守っている自分のことを、頭の隅で誰かが嗤っている。約束を守って、それで誰が帰ってきたというのか、と。
格言のページに、こういう一行があった。
憤怒の虎は、訓育の馬より賢い。
私はこれまで、ずっと馬のほうだったのだ。教わった道を、教わった速度で、誰よりも正確に走れることが自慢だった。虎というのは、たぶん道の上など走らない。
ノートに訳を写しているうちに、気がつくと頭の中で、メリーと議論を始めていた。
――治せないものは病気じゃないのよ。定義の問題だわ。
――定義で人は連れていかれないのよ、蓮子。連れていかれたの。それが本当のこと。
――あなたの本当は、主観でしょう。
――そうよ。主観の中にしか、本当はないの。蓮子が今怒っているのは、客観的な事実? それとも、蓮子の中にあるもの?
鉛筆が止まった。
彼女がいれば、ここで私が言い返し、彼女がそれを感覚でひっくり返し、そのうちにケーキが運ばれてきて全部がうやむやになる。その相手がいないものだから、私の頭の中で、私が彼女の役まで引き受けているのだった。しかも下手なのである。本物のメリーなら、もっと短い言葉で、もっと痛いところを突いてくる。
相対性精神学の講義要目を、初めて端末で引いてみた。真実は観測者の主観の内に成立し、客観とは多数の主観の一致にすぎない。一致しない主観は誤りではなく、少数であるにすぎない。
その、少数であるにすぎないものを、この社会は山へ送るのだ。
自分の専攻の教科書のほうは、床に積んだまま、三日間一度も開かなかった。
二十葉目に、妙なところを見つけた。
ページの下端、挿絵と余白との間に、帯のように濃い藍が塗ってあって、大蛇の尾のうねりを塗り込めた続きのようにも見えるのだが、灯りに透かしてみると、その下に線がある。文字だ。一行ぶん、彫った字の上から絵具で塗り潰してあるのだった。
東京の一冊では、ここはどうなっていただろう。思い出そうとしても、あのときは炎のページしか測らなかったので、何も出てこない。
読めないその一行のことを、私は帳面に「二十葉下端、塗抹あり、未読」と書いた。和内さんなら、きっとそう書く。
四日目の夜、物干し場に上がった。
数えずに来い、とメリーは言った。空を見るな、と。
私という人間は、約束を破る前に、まずそれを解釈する。空を見ないで来い、というのは迎えに行く道中の話であって、私はまだ出発していない。出発前に状況を観測しておくのは約束の範囲外である、というのがその夜の解釈で、だいいち他に手段がないのだから仕方がないではないか。
校合者は、私の眼を持っている。私が星を読むと彼女の見ているものが重なり、彼女の見たものは私に見えて、私の見たものは彼女に見える。ノートの夜も、規矩京の夜もそうだった。
それなら、こちらから覗いてやればいい。
手すりを握りしめて、北の空を見た。
二十三時五十分十二秒。
数字と一緒に、白いものが来た。
今度は目を逸らさず、瞬きも堪える。白い天井に白い壁、格子の嵌まった四角い窓。視界が下へ動いていくのは私が動かしているのではなくて、その先に白い洗面台があり、その上に、鏡があった。
鏡の中に、私がいる。
帽子をかぶっていない、寝間着の襟の私。唇が動いていて、音は聞こえないけれど、口の形なら読める。三つの音を、ゆっくりと、繰り返しているのだ。
れ、ん、こ。
手すりを握る指が痺れてきても、見続けた。視界は鏡を離れ、扉を抜けて、廊下へ出ていく。長い白い廊下の両側に、同じ扉が等間隔に並んで番号が振ってあるさまは、まるで規矩京の辻のようで、しかも私には見覚えがあった。前にメリーを迎えに行って、退所の手続きを延々と待たされた、あの廊下である。
扉が一つ、開いていた。
寝台があって、白い敷布の上に、金色の髪が広がっている。
メリーは目を閉じていた。眠っているように見える。白い帽子は枕元に置いてあり、胸はちゃんと上下している。
その輪郭が、薄いのだった。
肩の線も頬の線も、敷布の白との境が滲んだように曖昧になっている。規矩京の基壇の上で、白い手袋がそうなっていったのと同じように。指先などはもう、敷布の皺と見分けがつかない。
視界の端から、手が伸びた。私の手だ。指を寝かせたその手が、メリーの額の上に、撫でるようにかざされて――
瞬きをしてしまった。
星空だった。二十三時五十分三十一秒。
十九秒間。観測時間としては十分である。白い施設、番号のある扉、寝台、薄くなっていく輪郭、あの手。
観測できるなら、それはもう物理だ。
気づいたら、私は走り出していた。
下宿の扉を叩く音は、三回で止んだ。
零時を二十分ばかり過ぎた頃で、鞄に本とノートと分光計を詰め終えた私は、残る画板をどうやって背負ったものかと思案しているところだった。こんな時刻に訪ねてくる知り合いなど、メリーを除けば一人もいないはずなのである。
扉を開けてみると、頭が鴨居よりも高い老人が、廊下に立っていた。
「夜分に一人か」
「清水さん」
「入れてくれ。廊下は目立つ」
背を屈めて入ってきた彼は、床に散らばった計算用紙を踏まないように大股で跨ぎ越し、一つしかない椅子に腰を下ろした。上着の紺は元の色に戻っているし、顔色もいい。余白というところは、少なくとも年寄りの体には悪くなかったとみえる。
「どうやって出てきたんです」
「あの女が隙間を開けた。出たければどうぞ、と言ってな。茶は本当に出たよ。旨くも不味くもなかった」
「紫が」
「ついでに独り言を言っていた。聞こえるように。あの子が山へ行くわ、と」
詰めかけの鞄に目をやると、清水さんの視線も同じところへ落ちた。
「行くのか」
「行きます」
「何を見た」
私は話した。物干し場で見たものを、白い廊下も、番号のある扉も、寝台も、薄くなっていく輪郭も、十九秒間の観測の内容を順番どおりに、何一つ省かずに。老人は最後まで黙って聞き、聞き終えると、額の眼鏡を鼻の上まで下ろした。
「餌かもしれんぞ」
「餌?」
「あんたは、あれの見ているものが見えると言った。なら、あれはあんたに、見せたいものを見せられる。違うか」
「見えたのは実際の施設です。廊下の構造も、扉の番号も、前にこの目で見たとおりだった」
「合うさ。本物の廊下に立って、偽物の寝台を見せればいい」
清水さんは、自分の指のインクの染みを眺めている。
「私は機械に本を読ませていた。機械というのはな、見せられたページしか読まないんだ。裁ち落として、一枚ずつガラスの上に置く。置かなかった頁は、機械にとっては存在しない。置く順番を変えれば、別の本になる。見たものと、見せられたものは、違う」
「じゃあ、あれが本当だったら」
声が大きくなるのを、抑えられなかった。
「私が餌だと疑って、ここで三日考えて、その間にメリーが和内さんみたいに消えたら! 誰が責任を取るの! 私は一度、追いかけなかったのよ。目の前で車が出ていくのを、立って見ていたの」
「あれは制服のせいだろう」
「関係ない。追いかけなかったのは私よ」
老人は溜息をつくと、長い体を折り畳むようにして立ち上がり、私の鞄を持ち上げて重さを確かめてから、中の分光計を取り出して机に置いた。
「これは要らん。山道で膝をやる」
「清水さん」
「止めても行くんだろう。あんた、道は」
「前回、メリーを迎えに行きました。麓の駅から施設の車で。窓のない車だったので、道は見ていません」
「正門から入るつもりか。面会の許しも出んのに」
そこまでは考えていなかったので、答えようがない。
「なら裏の道を知っている者が要る。私はあそこから歩いて逃げてきたんだ。帰り道を逆に辿ればいい」
始発の在来線には、私たちの他に乗客が二人しかいなかった。
東海道を外れて北へ入ると車両は一両きりになり、駅と駅の間隔が開いて、窓の外には本物の山が現れる。カレイドスクリーンの富士とは違って形が悪く、左右も揃っておらず、稜線には送電塔の残骸が斜めに突き刺さっていた。
三度乗り換えた先の終点で降りると、そこから先に線路はない。
道ならあった。かつては車の走っていた道で、舗装は亀の甲のように割れ、その割れ目という割れ目から、茎と赤い花弁だけの花が噴き出している。葉というものがなく、地面から真っ直ぐに立った茎の先に火のような花が開いていて、それが道の形のとおりに、赤い帯となって山の奥へ続いているのだった。
「踏んで歩くんですか」
「踏まずには歩けんよ。来るときも踏んだ」
先に立った清水さんは歩幅が広く、私は彼の二歩に三歩で追いつくように足を速めなければならなかった。画板は、紐で背中に括りつけてある。
昼のうちは迷いようがなく、赤い帯を辿っていけばよかった。谷を二つ渡り、落ちた橋は河原へ下りて迂回し、傾いた道路標識の下で握り飯を食べたのだが、米は合成でも握ったのは清水さんで、塩がものの見事に片側へ寄っていた。
標識の根元でも舗装の割れたところから、あの花が咲いている。
「この花は、何という名前なんですか」
「知らん。図鑑には載っておらんそうだ。車が走らなくなって、道を直す者がいなくなってから出てきた」
清水さんはその一本を、指の背で軽く弾いた。
「土の上には咲かんのだよ。畑にも、山にも。舗装の割れ目にだけ出る。隙間がなければ生えんのだ」
「京都にも咲いていますね。旧い道には」
「あんたらの大学の地下にも、そのうち出るさ。蓋の落ちた竪坑があったろう」
握り飯を持つ手が止まる。加速器の輪の話を、この人にしただろうか。
「あの女が茶を出しながら喋ったんだよ。独り言でな。よく喋る独り言だった」
老人は鼻を鳴らした。
「裕子さんは」
一日じゅう我慢していた質問を、握り飯を頬張りながら口にする。
「どういう人だったんですか。金魚の絵以外で」
「うるさい女だったよ」
彼は残りの握り飯を二口で片づけてしまった。
「最初に会ったのは、私の職場だ。裁断場の受付に、若い娘が本を一冊抱えて来てね。これは祖母の本だから切らないでくれと言う。規則だから無理だと言うと、じゃあ切るところを見せてくれと言う。見せたら泣いた。泣いたあとで、私の手際を褒めた。真っ直ぐ切れている、とね」
「変わった人ですね」
「変わっていた。翌週また来た。今度は、切り落とした背の屑を貰いに来たんだ。糊の付いた、何の役にも立たん紙の束だよ。それに色を塗って、栞にして、配って歩いていた。下手な絵でな」
私も最後の一口を呑み込み、二人で標識の根元から腰を上げて、また赤い帯の上へ戻った。
午後の陽を受けて、花の赤がいっそう濃くなっている。
「顔は」
言いかけて口を閉じた清水さんは、しばらく歩いてから、その続きを言った。
「顔が、近ごろ怪しいんだ。目が二重だったか一重だったか。黒子が右だったか左だったか。写真は一枚も残っておらん。全部、最初から撮らなかったことになっている。頭の中の一枚きりで、そいつが、擦れてきた」
「覚えているんでしょう」
「金魚のほうは覚えている。唐辛子みたいな金魚なら、線の一本まで描ける。おかしなもんだ。下手な絵のほうが残って、描いた本人のほうが薄くなる」
道端の花を一本、踏まずに跨いで、彼は続けた。
「私が忘れたら、あれは本当に誤植になる。誰も覚えておらんのだから。それが怖くてね。山で医者に、症状は軽くなっていますよ、と言われたときが、いちばん怖かった」
かける言葉が見つからなかった。背中の画板に三分の一だけ残っている、鉛筆の字のことを考える。持っている人がいれば、と和内さんは言った。今それを持っているのは、私だ。
「あんたは」
前を向いたまま、清水さんが言った。
「あの子に、言い忘れたことはないのか」
「どうしてですか」
「言い忘れのない奴は、夜中に山へ走らんよ」
赤い花を二十本ぶん、黙って歩いた。
「私、遅刻するんです」
「知っている。あの子が言っていた」
「わざとじゃないんです。少なくとも、わざとだとは思っていなかった。でも考えてみると、私には時刻が秒まで分かるんだから、間に合わないわけがないんですよ。間に合わないのは、間に合わせていないからで」
こんなことを言葉にするのは初めてだった。メリーに対しても、自分に対しても。
「扉を開けたときに、彼女が待っているのを見たいんです。たぶん。ケーキを半分食べて、呆れた顔をして、それでもそこにいるのを。毎回、確かめているんだと思います。二分十九秒ぶんだけ。向こう側へ行ったきりになっていないかどうかを」
「それを言ってやれば喜んだろうに」
「言ったら、気持ち悪いって言われます」
「言われればいいじゃないか」
老人は咳のように笑ったけれど、私のほうは、笑う気になれなかった。今朝、私は初めて間に合ったのだ。初めて待つ側になって、そうしたら、彼女は来なかったのである。
日が落ちてしまうと、赤い帯はもう見えない。
細い月が山の端に引っかかっているきりで、闇の中では花も黒く、足の裏で舗装の破片と土を区別しながら、どうにか道の上にいることを確かめていくしかなかった。二度あった分かれ道では、清水さんは二度とも少し考えてから左を選んだのだが、三度目の分かれ道で、とうとう立ち止まってしまった。
「右、だったと思う」
「思う?」
「来たときは明け方だった。逆から見ると、景色が違ってな」
私は空を見上げていた。
見上げてしまってから、約束を思い出したのである。数えずに来てね、空を見ないで、というあれを。思い出したときにはもう、数字は落ちてしまっていた。
「十九時三十八分。北緯三十六度十一分、東経百三十七度五十二分」
「それで道が分かるのか」
「施設の座標は、前の記憶とあなたの話から逆算してあります。ここから北北東へ四キロ。右です」
歩き出した背中で、森が鳴ったような気がしたが、風だろうと思うことにした。
道は登りになり、谷川の音が左から右へ移っては、また左へ戻っていく。暗い中を一時間も歩いていると、自分が正しい場所にいるのかどうかが、足の裏だけではどうにも心許なくなってくる。
もう一度、読んだ。二十時五十一分。北北東へ二キロ半。合っている。
読んだあとで、木の幹の輪郭が少しはっきりしたように感じたのは、目が闇に慣れたからに違いない、と私は解釈した。
「さっきから、木の影が濃くなっておらんか」
「目が慣れたんですよ」
「慣れるほどの明かりがあるかね。三日月はもう山に掛かっている」
「じゃあ、気のせいです」
老人は足を止めた。
「あんた、あの子に何と言われた」
「……数えずに来い、と」
「なら数えるな」
「電波も地図もないんですよ。現在地を知る手段が、他にありますか」
「私が道を覚えている」
「さっき迷ったじゃない。夜の山で、擦れてきた記憶に二人ぶんの命を預けろって言うんですか?」
口から出てしまってから、舌を噛み切りたくなった。顔が思い出せなくなってきた、と昼に聞いたばかりではないか。
清水さんは何も言わなかった。暗くて表情は見えない。少ししてからまた歩きはじめたので、私もついていき、謝る言葉を探して見つけられないまま、三度目を読んだ。沈みかけた月の、最後の縁を使って。
二十一時四十分。あと一キロ。
四度目、五度目、六度目。月が落ちてしまってからは時刻だけを読み、それに歩数を掛け合わせて距離を出した。尾根を巻くたびに読んだ。読むたびに数字は正確で、その正確さが、ささくれた胸の内を撫でてくれるのだった。星は裏切らない。星だけは、どの刷でも同じ場所にある。
七度目に読んだとき、森の音が消えていることに気がついた。
谷川の音も、葉擦れも、夜鳥の声もしない。聞こえるのは自分の靴が花を踏む音だけで、空気は張りつめた糸のよう、息を吸えば冷たさがどこにも引っかからずに、肺の奥まで真っ直ぐ届く。
規矩京の風と同じだ、と思いかけて、その考えを向こうへ押しやった。山の夜というのは静かなものだし、高度が上がれば空気だって澄む。説明なら、いくらでもつくのである。
八度目は、もう必要なかった。
尾根を回り込んだ先の、谷を一つ隔てた斜面に、灯が見えたのだ。四角い窓が等間隔に三段、その上に白い屋根という、公共画面で見たあの遠景と同じ形をした、白い灯だった。
「着いた」
清水さんが低く言い、それから首をひねった。
「妙だな」
「何がです」
「門だ。夜は閉める。私が出たときは、柵の破れ目を半月かけて探したんだぞ」
目を凝らしてみると、斜面の下に、背の高い両開きの鉄の門がある。
その扉が二枚とも、内側へ、いっぱいに開いていた。
門柱の灯りが、開いた門の間の道を、招くように白く照らしている。
門の内側に、灰色の制服が立っていた。
左右に二人ずつ、足を揃え、手を体の脇に付けて、じっと正面を見ている。門柱の陰で息を止めながら私が不思議に思ったのは、五十メートルどころか五メートルも離れていないのに頭がはっきりしていることだったのだが、考えてみれば屋根のある玄関の下にいるのだから、星は最初から見えていないのである。
清水さんが、私の肩を押した。
「歩け。あれらは今、止まっている」
「止まっている?」
「見るものがないときは、ああなる。こっちを見てもおらんよ」
そのとおりで、四人とも瞬きひとつせず、視線は門の外の闇に据えられたまま、私たちが鼻先を通り過ぎても動こうとしない。ただ一人の唇だけが、音を出さずに、四小節ぶんの形に動いていた。
玄関を入ると、白い廊下が伸びている。
ベランダで見たとおりであり、前回、昼間に正面から迎えに来たときに通された廊下でもあった。両側に同じ扉が並び、等間隔に番号が振られ、床は磨き上げられて、天井の灯りは影というものを作らない。開いていた扉は奥から三つ目の右だ、と走り出しかけた私の腕を、清水さんが掴んだ。
「聞こえるか」
人の声がしていた。
廊下の突き当たりにある両開きの扉の向こうから、大勢の低い話し声が、それも笑い声まで混じって漏れてくるのである。夜の十時を回った療養施設にしては、どう考えても賑やかすぎた。
それでも私は、まず奥から三つ目の扉を開けた。寝台は空で、敷布には皺一つなく、枕元に白い帽子もなくて、誰かが寝た形跡というものがまるでない。
突き当たりの扉は、清水さんが押した。
色が、溢れ出してきた。
食堂か集会室だったのだろう、広い部屋である。その白いはずの壁が、少しも白く見えなかった。
字で埋まっているのだ。
床から、手の届くいちばん高いところまで、鉛筆で、絵具で、口紅で、何かの煤で、壁という壁に名前が書いてある。良太。先生の組の七番目の子。みどり、母。佐々木のおじさん、角の豆腐屋。一つ一つ筆跡が違い、大きさが違い、色が違っていて、名前の横に似顔絵を添えたものもあれば、日付や、好きだった食べ物まで書き込んだものもあった。
その壁の前で、三十人ばかりが卓を囲んでいる。寝間着の上に、毛糸の襟巻だの、染めた手拭いだの、子供が描いたような柄の前掛けだのを思い思いに羽織っていて、卓の上には茶碗と、本物の蜜柑の皮とが散らばっていた。
「清水さんじゃないの!」
太った女の人が立ち上がった。
「戻ってきたの。捕まったの?」
「歩いて入ってきたよ。門が開いていた」
「弟の名前、まだ覚えてる? あんたに頼んだでしょう、外で誰かに言ってくれって」
「健次だ。左利きで、蛙が怖い」
女の人は両手で顔を覆ったけれど、指の間から漏れてきたのは、泣き声ではなく笑い声だった。
部屋を見回すと、金色の髪はすぐに見つかった。
メリーは奥の卓で、老人二人と若い男に挟まれて紙に何かを描いている。頬には血の色があり、髪は灯りの下で蜂蜜のように濃くて、あの褪せた学生証の写真とはまるで別人だった。隣の老人に紙を見せ、老人が首を振ると、笑って描き直す。
その輪郭はどこも薄くなどなっていなかった。
「メリー」
一度目の声は、部屋のざわめきに紛れてしまった。もう一度呼ぶ。
彼女が顔を上げて、目が合った。その顔を、私の見たことのない順番で表情が通り過ぎていく。最初に驚きが来て、次に花が開くような明るさが来て、そしてそれが開ききる前に、何かに気づいた人の顔になったのである。
立ち上がって卓の間を縫ってきたメリーは、私の前で足を止めると、顔ではなく眼を覗き込んだ。
「蓮子」
「無事なのね。薄くなってない。寝台で、あなたが」
「空を見て来たのね」
静かな声だった。
「何回?」
「……七回」
「そう」
メリーは目を閉じた。それから私の背中の画板に気づいて、紐に指をかけ、少しだけ笑った。
「持っていてくれたのね。ありがとう」
「メリー、私、見たのよ。あなたが寝台で消えかけていて、あの手が」
「見せられたんだろう」
後ろで清水さんが言った。責める調子は少しもなかった。
私はもう一度、部屋の中を見渡した。色の濃い人々に、壁の名前に、茶碗から上がる湯気。誰一人、消えかけてなどいない。ここは、ベランダで見たあの白い施設と同じ建物の中にある、まったく別の場所なのだった。
「ここね、楽だったの」
メリーが言う。
「前に入ったときは、個室で一人きりだったの。奥にこんな部屋があるなんて知らなかったわ。初めてよ、こんなの。境目が見えるって言っても、誰も変な顔をしないの。夢の話をしたら、続きを聞かせてくれって言われるのよ。みんな、いなくなった誰かを覚えていて、それを壁に書いて、毎晩読み合うの。灰色の人達も、この部屋には入ってこないわ。色が濃すぎて、見えないんですって」
彼女は卓のほうを振り返った。
「私、今夜は和内さんの名前を書かせてもらう番だったの」
この数日というもの、私は彼女が紙のように薄くなっていくところばかりを思い描いて、ろくに眠れなかった。その同じ数日を、彼女はここで蜜柑を食べ、夢の話をし、頬を赤くして過ごしていたのである。
肩の力が抜けてもよさそうなものなのに、抜けていったのは足元の床のほうだった。私は約束を破ったのだ。破る必要など、どこにもなかったのに。
誰かが袖を引くので振り向くと、メリーの隣で紙を覗いていた老人が、こちらを見上げていた。
「あんたが、秒まで読む子かね。この子から聞いとるよ。読むのが速いそうだな」
「速い……とは」
「壁を読んでくれんか。毎晩、順番に声に出して読むんだ。わしらはもう目が遠くてな、一晩かかっても半分も行かん」
断る理由は思いつかなかったし、断ったところで、他に何をすればいいのかも分からなかった。
壁の端に立って、上から読んでいく。良太。先生の組の七番目の子、名前は千鶴。みどり、母。佐々木のおじさん、角の豆腐屋、がんもどきが大きい。健次、弟、左利き。声に出すたびに、卓のどこかで誰かが頷くのは、自分の書いた名前が読まれた人なのだろう。
三十人ぶんの、いなくなった人々。その一枚の壁を、私は四分ほどで読み終えた。秒は数えなかった。数える気に、なれなかったのである。
「速いなあ」
感心したように言ってから、老人は手の甲で目を拭った。
「一晩に全部聞けたのは、初めてだ」
卓の端からメリーが私を見ていた。何か言いたそうな、けれど言いあぐねているような顔で。
「今夜ずっと、山が締まっていくのが見えていたの」
彼女の目は、格子の嵌まった窓の、その向こうの闇へ向けられる。
「南の尾根から、一本ずつ。誰かが数えながら近づいてくるみたいに。蓮子じゃなければいいと思っていたわ」
最初に変わったのは、灯りだった。
天井の灯りが瞬きもせずに明るさを増した、ように見えたのだが、増したのではないと気づくまでに一秒かかった。影が消えたのである。茶碗の影も、卓の脚の影も、人々の襟元の影も、一斉に同じ向きを向いたかと思うと、床に吸い込まれるようにして薄れていった。
輪郭が鋭くなる。
卓の角も、窓の格子も、蜜柑の皮の縁も。規矩京の基壇の上で味わったのと同じ、眼鏡の度が合いすぎたような、目の奥のあの痛みだった。
部屋のざわめきが、潮のように引いていく。
「来たわ」
メリーの指が、私の手首を掴んだ。
開いたままの扉の向こう、白い廊下の奥から、足音のしない人影が歩いてくる。その後ろには灰色の制服が、門にいた四人だけでなくさらに何人も、同じ歩幅で一列に、句読点のように等間隔で並んでいた。
先頭の人影が敷居を跨ぐ。
白い寝間着に、肩の合わない黒い上着。裸足。そして、私の顔。
校合者は部屋をゆっくりと見回し、壁の字に目を留めて悲しげに眉を寄せた。
「こんなに」
私の声が、柔らかく言う。
「こんなに違ってしまっているのね。直すのが大変だわ」
扉に近い壁から、字が消えはじめた。
良太、が薄くなる。先生の組の七番目の子、が薄くなる。口紅の赤も、鉛筆の黒も、塗ったばかりの絵具も、端から順に壁の白の中へ沈んでいき、似顔絵は目が消え、口が消え、輪郭だけになって、最後にそれも消えた。
太った女の人が、自分の書いた字の前に立ち塞がった。
「やめて! 健次、健次よ、左利きで、蛙が」
その声が、途中で止まる。
口は開いているのに、次の音が出てこない。彼女は瞬きをして、自分がなぜ壁の前で両腕を広げているのか分からない、という顔になり、腕を下ろした。それから卓へ戻って腰を下ろし、茶碗を手に取る。穏やかな、何の心配もない人の顔で。
治ったのだ、と私は思った。少なくとも、この施設の定義では。
一人、また一人と、壁の前で叫びかけた人が叫びの途中で黙り込んでは座っていく。羽織っていた色とりどりの布が、灰色になる。部屋の半分が、行儀よく茶を飲む人々に変わってしまった。
誰も騒がない。茶碗が受け皿に触れる音だけが、やけに澄んで聞こえる。
「蓮子」
校合者が、私を見つけた。目尻が下がる。私のものではない、あの笑い方である。
「来てくれると思っていたわ。あなたは必ず確かめに来るもの。見たものを、そのままにしておけない人だから」
「偽物を見せたのね」
「偽物?」
彼女は首を傾げた。
「いいえ。あれは本当のことよ。少し先のことだけど。この部屋が済めば、そうなるわ」
壁の白は部屋の奥へ奥へと進んでいて、メリーの座っていた卓の後ろの壁には、まだ乾いていない鉛筆の字が見える。和、の一字だけ。その先は、まだ書かれていない。
背中の画板が、熱を持ったような気がした。
「七つも道を作ってくれて、ありがとう。ここは色が濃すぎて、どこから重ねればいいか分からなかったの。あなたが外から、見当を打ってくれた」
七回とも、一秒も狂っていなかったのだ。私はそれを確かめるたびに、胸を撫で下ろしていた。
校合者が歩いてくる。裸足が床を踏むごとに、踏まれたところから木目が消えていく。
動けなかった。制服のせいではない。あの灰色の列は、まだ廊下にいる。動けないのは、彼女の言うとおりだったからだ。道を作ったのは、この私なのである。
白い手が伸びてきた。私の手が。
その手と私との間に、背の高い影が割って入った。
「裕子、という」
清水さんは校合者を見下ろしていた。背筋を伸ばすと、やはり棚の三段目に届くほどの高さがある。
「清水裕子。旧姓は覚えておらん。目が一重か二重かも怪しい。だが金魚を唐辛子のように描く。裁断屑に色を塗って栞にする。泣いたあとで人の手際を褒める」
「それは合わないわ」
困ったように、校合者は言った。
「どの紙にも、その人はいないの。忘れれば楽になれるのよ。みんな、そうしたでしょう」
「忘れんよ」
「覚えているほうを、消すことになるわ」
「好きにしろ。私はあんたの前任者だ。本を何千人も殺した。溶かす前には必ずめくった。めくったものは覚えている。一人残らずだ」
老人は一歩も退かず、振り向きもしないで、私に言った。
「宇佐見さん」
「清水さん、退いて」
「金魚だ。唐辛子みたいな。あんたが覚えていろ。それと、本は読み終わったら返しに来い。店は開けておく」
白い指が、彼の胸に触れた。
「誤植よ。直しておくわね」
インクの染みた指先から、薄くなっていった。
紺の上着が。額の眼鏡が。高い肩が。清水さんは最後まで前を向いていて、消える間際に、唇だけが動いた。声は聞こえなかったけれど、形は読めた。
ゆ、う、こ。
床には何も落ちなかった。
私は叫んだのだと思う。何を叫んだのかは、覚えていない。
部屋の中は、しんとしていた。茶を啜る音。蜜柑の皮を剥く音。誰もこちらを見ていない。
校合者の両手が、私の顔を挟んだ。
冷たくはない。私の体温と同じ温度だった。同じ体なのだから、当たり前のことである。親指が、私の目の下をそっと撫でる。間近で見る自分の顔は鏡で見るのとは左右が逆で、その目が、私の眼を底の底まで覗き込んでいた。
「私の幻想、あなたの理性」
囁くような声だった。
「それで全部揃うのに。あと一つなの。あなたの眼で、最後なのよ。そうしたら一枚になる。誰もいなくならない。誰も遅れてこない」
彼女の目の縁に、水が溜まっている。
「正しい時刻を言って。一度だけでいいの。あなたは知っているでしょう」
窓があり、格子の向こうに、空があった。
見れば、読む。私の眼はそういうふうにできている。
視界が暗くなった。
後ろから伸びてきた掌が、私の両目を覆っていたのだ。細い指で、少し冷たい。
「見せないわ」
耳のすぐ後ろで、メリーの声がした。
「この人の眼は、この人が決めるの。あなたじゃなくて」
「退いて」
校合者の声が震えた。
「あなたには分からないのよ。まだ失っていないから。あなただって、いつかこうするわ。必ず。私には分かるの」
「分からないわ。でも、あなたが誰に見えるかは、さっき分かったの」
顔を挟んでいた手が、びくりと強張る。
そして、床がなくなった。
落ちた、という感覚はほんの一瞬だった。
気がついたときには何もない場所に座り込んでいた。それも本当に何もないのである。床の感触はあるのに床は見えず、暗くもなければ明るくもない。メリーの手はまだ私の目を覆っていたけれど、覆われていようがいまいが、たぶん同じことだったろう。
ここには、色という性質そのものがなかった。
「七回」
頭の上から、低い声が降ってくる。
「数えておりましたわよ。一回目で引き返すかと思ったのだけれど」
メリーの手が離れた。
八雲紫は、何もないところに日傘を差して立っていて、その足元では、裂け目の縁が縫い目のように閉じていくところだった。
「他の人達は」
メリーが聞く。
「あの部屋は、済みました。忘れた方達は無事よ。忘れたのだから」
「清水さんは」
紫は答えず、開いた扇で口元を隠した。
私は立ち上がったが、膝が自分のものではないようだった。
「見ていたのね。最初から。門が開いていたのも、餌だったのも、全部知っていて」
「ええ」
「どうして止めなかったの!」
「止めたでしょう。古本屋の主人をお返ししたわ。あの方は、ちゃんと仰ったはずよ。餌かもしれないと」
「遠回しに伝言させるのが、止めたうちに入るの? あなたが直接言えば」
「言えば、聞いたかしら」
傘の影の下から、あの目が私を測っている。
「あなたは、自分で見たものしか信じない人よ。昔からそう」
昔から、という言葉を聞き咎めるだけの余裕が、もう残っていなかった。
紫は扇を閉じた。
「一つだけ、お教えします。これは、あなたが自分で見ても分からないことだから」
「何」
「あれは、もうほとんどの刷を重ね終えているの。重ねた刷は、あれに綴じ込まれる。あれがここに留まるための錨になっているのよ。重ねるには、その刷ごとの見当が要る。刷の内側から、星を読める眼が」
私は、自分の瞼に触れていた。
「どの刷にも、あなたはいるわ。宇佐見蓮子という、星で時刻を読む娘が。あれは一枚ずつ訪ねていって、一つずつ、その眼を貰ってきた」
「貰って」
「残っているのは、この一枚だけ」
紫の声は平らで、数を読み上げるときの私の声に、少しだけ似ていた。
「あなたの眼が、最後の見当よ」
何もない場所に、その言葉だけが落ちて、どこにも転がっていかなかった。
笑おうとしたのに、喉から出てきたのは、笑いとは似ても似つかない音である。
「正確だったのよ」
誰に向かって言っているのかも、分からない。
「一秒も狂ってなかった。規矩京でも、今夜も。七回とも。合ってるって、確かめるたびに安心してた。それで人が消えたの。和内さんも、清水さんも、あの部屋の壁の名前も。ねえ」
紫は黙っていた。メリーも、黙っていた。
「私は、何を誇っていたの」
メリーの手が、手首に戻ってくる。脈を取るように。
それからしばらく、誰も口をきかなかった。時間が経ったのかどうかさえ分からない。なにしろここには、星がないのだ。
やがてメリーが、独り言のように言った。
「蓮子。あの人ね」
「……校合者?」
「蓮子の顔をした人が、私の喋り方で泣いていたわ」
握る指に、力がこもる。
「私、ああいうふうに泣くのよ。一人のときに」
◇
あの子達を、拾ってしまった。
手順にはなかったことである。山の施設では、あの子が眼を使われるところまでを観測し、然るのちに介入する、と組んであったのに、眼を覆う手が後ろから出てくることまでは組んでいなかった。
あの手は、いつも式の外から来る。
助けるたびに手順が狂う。
輪の中で一度、墓地で一度、山で一度。三度が三度とも余分な項を増やしてくれたので、それを消去するのに、紙の内側の数え方で幾晩かを使う羽目になった。眠る暇がない。眠るのは、好きなのだけれど。
古本屋の主人のことは、項として入れてあった。
茶を出したとき、彼は礼を言わずに、旨くも不味くもない、と言った。正確な評価である。あの茶には、色がない。
あの子は、自分が何を誇っていたのかと聞いた。
答えなら持っている。持っているが、渡さない。渡せば写しになり、写しは重ねられてしまうからだ。
あの子達、と書いた。
二人、と数えられることを、書いてから確かめてみる。
一、二。
それだけのことを確かめるのに、ずいぶん掛かった。