第四章 測量
秘封倶楽部が公的機関から書面を受け取ったのは、創部以来、これが初めてのことである。
蓮台野の夜からは三週間が過ぎていて、灰色の制服はいつの間にか街から引き、公共画面の告知は取り下げられた。取り下げたという告知さえないまま、清水さんの消息も分からなくなっていた。寺町にも木屋町にも、もう朱色を拾える場所は残っていない。
その三週間を、私はもっぱら本を読んで過ごした。
十五葉目に、地獄の印刷所を見学するという話が出てくる。語り手はそこで、知識が世代から世代へ受け渡されていく方法を見るのだが、部屋は全部で六つあって、最初の部屋では竜の姿をした者が洞窟の入口の屑を掻き出し、次の部屋では蛇が岩を飾り立て、三つ目では鷲が洞窟の内側を無限に広げ、四つ目で獅子が金属を溶かし、五つ目で名のない者達がそれを鋳込む。そして最後の部屋にいるのは人間で、彼らは出来上がったものを受け取ると、本の形にして書庫に並べるのである。
洞窟を広げるところまでは熱と炎の仕事だというのに、それが最後の最後で棚に収まってしまうという、この一節がどうにも気に入らなかった。無限にまで広げたものを、なぜわざわざ背表紙の幅に畳んでしまうのか。
ところがメリーに読んで聞かせてみると、彼女はまるで違う感想を持ったらしい。
「並べる人がいるから、次の人が読めるんじゃないの。和内さんみたいに」
「溶けた金属のままのほうが面白いわよ」
「蓮子は火傷するまで触るもの。小さい頃、熱いヤカンに触ったことがあるでしょう」
「どうして知ってるの」
「触ったことがない人は、そういう顔で金属の話をしないわ」
彼女の学生証の写真はすっかり元の色に戻っていて、夢のほうは相変わらず見るのだという。この頃は白い道がどこまでも真っ直ぐに続く夢なのだそうで、歩いても歩いても同じ辻に出るの、と言うのをノートに書き留めはしたものの、意味のほうは保留にしておいた。
大学の端末経由で通知が届いたのは、そんな折のことである。
「文化財保全局、境界保全課」
学生食堂の卓で、私は画面を読み上げた。
「このたび貴団体は、近江国規矩京跡における公認境界調査の協力団体に選定されました。つきましては下記の日程で」
「選定って、応募したの?」
「してないわ。こんな募集があることさえ知らなかったもの」
「じゃあ間違いよ」
「団体名、秘封倶楽部。代表者、宇佐見蓮子。構成員二名。間違えようのない書き方ね」
合成の茶碗蒸しをスプーンですくいかけたまま、メリーは動かなくなった。
先を読み進めると、調査の目的は放棄市街地における境界の現況把握、方法は指定された三箇所の基点における天測、引率として大学の資料担当職員が一名同行し、交通費と宿泊費は局が負担する、とある。
「蓮子、顔が笑っているわよ」
「笑ってないわ」
笑っていたのだ。頬の筋肉が言うことを聞かないのが、自分でも分かる。
結界を暴くことは禁じられているから、私たちは夜中に壁を押し、川の石を渡り、鎖を外して地下へ下りる。見つかれば始末書どころでは済まない。それが今回に限っては、国のほうから来てくれと言ってきて、おまけに費用まで持つというのである。
「公認よ、メリー。昼間に、堂々と、記録を取りながら境目を調べられるの。機材だって申請できるかもしれないのよ。分光計を二台並べて、同時測定が」
「招待される結界暴きなんて、暴きじゃないわ」
メリーの声は、茶碗蒸しと同じくらい冷めていた。
「誰が私たちを選んだの。蓮子の眼のことを、誰が知っているの」
「それは」
指定されている方法は天測だった。星と月から時刻と位置を出すというそれを、機材なしでやってのける人間が協力団体の代表であることを、この書面は当然の前提にしているのだ。私は画面をテーブルに伏せた。
「罠かもしれない、とは思うわ」
「かもしれない、じゃなくて」
「でも罠なら、仕掛けた側が姿を見せるということでしょう。ノートを書いた手の持ち主が。霧の中の声が。向こうがこっちを観測するつもりなら、こっちだって向こうを観測できるのよ」
「輪の中で、蓮子は眼を閉じたのに」
「閉じられると分かったから行けるんじゃない。読むか読まないかは私が決められる。そう言ったのは、あなたよ」
メリーは長い溜息をついた。
「蓮子は、どうして暴くって言うのか、考えたことがある?」
「何を」
「結界暴き。調べる、でも、測る、でもなくて。暴くっていうのは、隠してあるものを、隠した人の許しなしに開けることよ。許可を貰って、案内されて、ここを見なさいって言われたところを見るのは、暴くとは言わないわ。見せられる、って言うの」
「言葉の問題でしょう」
「言葉の問題よ。私達の倶楽部の、名前の問題」
秘められ、封じられたものの倶楽部。その名前を、私は気に入っていたはずなのだった。
「気が進まないわ」
「来ないの?」
「行くわよ。眼を閉じる係が要るでしょう」
そう言って彼女は、冷めきった茶碗蒸しを、最後の一口まできちんと食べた。
その晩、私は一人で旧棟の裏の芝生へ行った。
外灯の届かない、あの人が立っていたあたりに自分も立ってみて、誰もいない植え込みに向かって声をかける。
「見ているんでしょう」
返事はない。
「規矩京のこと、知っているはずよ。境目の縁に住んでいるなら。行くべきか、やめるべきか、何か言うことはないの」
虫が鳴いているばかりである。見上げた空は二十二時十分三秒で、星はいつもどおりに正確で、いつもどおり、それ以上のことは何も教えてくれない。
「隔てるのが仕事だって言ったわね。なら止めればいいじゃない。危ないなら危ないと」
濡れた芝生から靴の先へ冷たさが染みてくるのを我慢しながら、五分、正確には五分と十一秒待ってみたあとで、私は声に出して馬鹿みたい、と言い、下宿へ帰った。このことは、メリーには話していない。
引率の資料担当職員というのは、和内さんのことだった。
「正確には、志願しました」
閉架の閲覧机いっぱいに畳一枚ほどもある紙を広げ、その四隅を文鎮で押さえた彼女は、鉛筆の尻で中央を指しながら言う。
「局から図書館に照会が来まして。規矩京の紙の図面を持っているのは、うちだけだそうです。電子版は現況と合わないので、現地では使えないのだとか。それなら、図面の読める者が付いていくのが筋でしょう」
いつもより少しだけ早口で、白い手袋の指が紙の上で落ち着かない。
「嬉しそうですね」
「記録というのは、たいてい使われないまま終わります。使われる現場に立ち会えるのは、司書の一生に一度あるかどうかです」
真顔でそう答えてから、彼女は「遅刻は四分でした」と手帳に書き込んだ。そこは忘れないのである。
「怖くはないんですか」
訊いたのはメリーだった。
「立入禁止の廃墟でしょう。それに、誰が私たちを選んだのかも分からないのよ」
「怖いですよ」
図面の皺を手袋の掌で伸ばしながら、和内さんはあっさり認めた。
「ただ、私は学生の頃に版画史をやっていまして。この図面は卒業論文のときに一度だけ、ガラス越しに見せてもらったんです。触ることは許されませんでした。そのとき、いつか現地でこれを広げてみたい、と思いました。十五年前の話です」
「それで志願を」
「記録を残す人間は、たいてい現場には呼ばれません。呼ばれたのに断ったりしたら、十五年前の自分に説明がつかないでしょう」
少し間を置いて、彼女は付け加えた。
「なお、お二人が行かないと仰るなら、私も行きません。引率ですから」
メリーがこちらを見たので、私は行きますと答え、メリーはもう何も言わなかった。
図面は手描きだった。墨の線が紙の端から端まで等間隔に、縦に九本、横に九本引かれていて、升目はどれも完全な正方形、歪みというものが一つもない。中央の升に宮城があり、そこから真南へ大路が一本伸びているほかには、川も丘も等高線も、何一つ描き込まれていないのだった。
「地形が載っていませんね」
「均したんです。丘は削り、谷は埋め、川は暗渠にして、湖岸から十里四方を真っ平らにした。その上に、定規と分度器だけで都を引いたそうですよ」
「規矩京の、規矩というのは」
「規はぶんまわし、矩はさしがね。円を描く道具と、直角を出す道具です。転じて、手本や決まりごとのことを言います」
和内さんの指がなぞった図面の余白は、余白と呼ぶのもためらわれるほど狭くて、線は紙の縁ぎりぎりのところまで引かれている。
「神亀の遷都の前に、新しい都の候補地は二つあったんです。千年の蓄積がある京都と、何もないところに一から引く規矩京と。規矩京のほうが先に造られました。道も、上下水も、区画ごとの標柱も整って、あとは人が移るだけ、というところまで」
「でも選ばれなかった」
「選ばれませんでした。理由は記録にありません。ただ、試験的に入居した人達が、半年もたずに全員引き払ったという覚書が一枚だけ残っています」
「どうして」
「覚書には一行きり。『息がつけない』と」
メリーが図面を覗き込んだ。
「隙間がないのね」
「はい?」
「この絵。線と線の間に、何も描いていないところがないわ。路地も、空き地も、曲がり角も。どこに立っても、自分が何条何坊のどこにいるか決まってしまうでしょう。迷えないのよ、この都は」
「迷えないのは長所じゃないの。私なら家賃を多めに払ってでも住むわよ」
そう言った私を、メリーはしばらく見ていた。何か言いかけた唇が、言わないまま閉じる。
和内さんが別の紙を取り出した。調査要領の写しだそうで、基点は三つ、図面の上に朱の丸で印が打ってある。南の羅城門跡、西の市の跡、そして中央、宮城の正殿跡。
「要領には、協力団体の代表者が天測を行う、とあります。宇佐見さん、天測がおできになるんですか」
「……少し」
「六分儀は局が貸すそうですが」
「要りません」
和内さんは片方の眉を上げたものの、何も訊かず、それも手帳に書いた。
「では、それぞれの基点で、日没後に時刻と緯度経度を読み上げていただきます。私がそれを図面に書き込む。三点が揃えば、図面と現地のずれが出る。そのずれが境界の現況である、という理屈のようです」
「三点で、紙の位置が決まるわけね」
口にしてから、自分の言葉に小さな棘のようなものが引っかかった。二点では回転が残り、三点目で固定される。紙の位置を合わせる作業の、ごく初歩の幾何ではないか。
「それから、これは余計なことかもしれませんが」
和内さんは鉛筆を置いた。置いてから話すのは記録に残さないという意味なのだと、私もこの頃には承知している。
「局から届いた書類の中に、協力団体の申請書の写しが入っていました。宇佐見さんが出したことになっている書類です」
「出していません」
「ええ。そう仰ると思いました」
図面の上を滑ってきた最後の一枚は、今どき珍しい手書きの申請書で、団体名も代表者名も活動内容も、枠の中が黒いインクで几帳面に埋めてあった。活動内容の欄には、こうある。
ふたりで、境目のむこうを見にいくこと。
私なら、そうは書かない。境界現象の観測および記録、と書く。
日付の欄には七の字があって、その縦棒には、横線が一本入っていた。
その都には、影の向きが一つしかなかった。
湖岸を走る在来線を無人駅で降りて、ひび割れから赤い花の噴き出した旧道を一時間ほど歩いていくと、あるところで花がふっつりと途切れる。舗装のひびがなくなるからで、そこから先の道は白い切石に変わる。目地は剃刀の刃も入らないほど詰んでいて、草の種の落ちる場所というものがどこにもないのだった。
羅城門の跡といっても門が残っているわけではなく、礎石が左右に六つずつ並んでいるきりなのだが、その間に立ってみると、大路が北へ向かって、消失点まで一直線に伸びているのが見渡せる。
私はしばらく、口がきけなかった。
両側に並ぶ建物は一つ残らず同じ高さで、同じ白い壁に同じ勾配の屋根、同じ間隔の窓を持ち、西から差す午後の陽が、すべての壁の東側に同じ角度の影を落としている。四つ辻が等間隔に、同じ形のまま、どこまでもどこまでも繰り返されていた。
「綺麗」
そう言ったのは、私である。
「誤差がないわ。直角が本当に直角で、平行が本当に平行なのよ。京都の碁盤の目なんて、歩いてみれば結構いい加減でしょう。ここは違う。測量した人は天才だわ」
「鳥がいないわね」
メリーは建物ではなく、空のほうを見ていた。
「虫も。風の音もしないわ。吹いているのに」
言われて耳を澄ませてみれば、風は確かに頬に当たっているのに、鳴るものが何もないのである。枝も電線も看板も、軒の隙間さえないものだから、風は直線の街路を、何にも触れないまま通り抜けていくほかないのだろう。
図面を画板に留めて首から下げた和内さんが、鉛筆で大路の幅を示した。
「ここが朱雀大路。幅は二十八丈。正確には、どの大路も二十八丈で、どの小路も四丈です。例外がありません」
「例外がないから、図面があんなに簡単なんですね」
「ええ。一町ぶんを描けば、あとは写しですから」
最初の四つ辻には、角ごとに一本ずつ、腰の高さの石柱が四本立っていて、表面に細かい字が彫ってある。屈んで読んでみた。
左京九条一坊一町
入居予定 技官一名 配偶者一名 子二名
入居 齢三十 退去 齢八十
後住 右に同じ
「住む人の予定が、先に決めてあったのね」
隣の柱を読んでいたメリーによれば、そちらは教員一名、配偶者なし、退去は齢七十五なのだそうだ。
「職業と、家族と、いつまで生きるかまで」
「寿命統制の試験区画でもあったそうです」
和内さんが言い添えた。
「人口を一定に保つには、入る数と出る数を揃えるのがいちばん簡単ですから。一町ごとに、誰が何年住んで、次に誰が入るか。全部の柱に彫ってあります。入居者が決まるよりも前に」
「合理的だわ」
口に出してしまってから、二人の視線がこちらへ集まっていることに気づいた。
「いえ、合理的ではあるでしょう。在庫管理と同じ理屈よ。入庫と出庫を揃えれば棚は溢れない。人間を在庫と呼ぶのがどうかという問題は、別にして」
「別にできるのかしら、それ」
メリーは柱から離れていった。
大路を北へ歩いていくと、四つ辻を一つ越えるたびに、同じ景色が一町ぶんだけ手前へずれてくるので、歩いているのに少しも進んでいる気がしない。振り返れば羅城門の礎石がちゃんと遠くなっているのだから、進んではいるのだけれど。
試しに目を閉じて二十歩ほど歩いてみたのだが、開けてから石柱を読めば、自分が左京八条一坊四町にいることはすぐに分かった。迷いようがないのだ。迷うための材料というものが、この都には一つも置かれていないのだから。
好きか嫌いかで言うなら、私はここが嫌いではなかった。それをメリーに言うのだけは、やめておいた。
八条の辻でメリーが一軒の戸を引いてみると、鍵は掛かっていなかった。掛ける者が、いなかったのである。
土間に板の間、その奥に二間。備え付けの家具は卓が一つに椅子が四脚で、技官一名、配偶者一名、子二名という石柱の字と数が合っているし、壁に掛かった枠だけの予定表には、月曜から日曜までの起床と就寝の時刻が、あらかじめ印刷してあった。隣の家を覗けば卓が一つに椅子が一脚、教員一名、配偶者なし。予定表は、やはり同じものだ。
「引き出しが空だわ」
メリーは箪笥を上から順に開けていた。
「全部空。埃も入っていないの。開けた人がいないのよ」
「半年は人が住んだんでしょう。試験入居で」
「その家はどこかしら」
和内さんが図面を調べたところ、試験区画は左京八条一坊、つまり今いるこの一町なのだという。
私たちは十六軒を全部見て回ったのだが、どの家も判で押したように同じで、卓と椅子と空の引き出しと予定表があるばかり、半年のあいだ人が暮らした家と、誰も入らなかった家との区別が、どこにも付いていなかった。床の擦れも、柱の傷も、釘の穴の一つさえも。
「片づけたにしても、綺麗すぎるわ」
柱に掌を当てて、私は言った。
「人が半年も住めば、何かしら残るものよ。背比べの線とか、家具を引きずった跡とか。私の実家の柱なんて、十歳までの私の身長が全部刻んであるわ」
「ここ」
十六軒目の奥の間で、メリーが壁の前にしゃがみ込んでいた。
腰板の、床から三十センチほどの高さである。白い塗装の下に、うっすらと色が透けていた。橙色の、よれた線。丸が一つと、そこから出た棒が四本。子供が蝋墨で描いた、おそらくは人間の絵だった。
その上から白が塗ってあるのだが、一度ではないらしく、透かして見ると塗り重ねの層が三つは数えられる。
「消したのね」
「消し残したのよ」
メリーは指先で、線のあったあたりにそっと触れた。
「三回塗っても、まだ透けているもの。描いた子は、きっと力いっぱい描いたんだわ」
和内さんが手帳を出して、家の番号と壁の位置と線の色とを書き留める。この都で私たちが見つけた「合わないもの」は、結局それ一つきりだった。
日没は十七時二分。羅城門跡まで引き返した私たちは、礎石の中央に局が打っておいた真鍮の鋲、つまり第一基点の上に立って、西の空に金星が出て、続いて一つ、二つと星が点いていくのを待った。
「閉じる?」
メリーが小声で訊いてくる。
「まだ。一点で紙は止まらないわ。二点でもまだ回る。三点目を踏むまでは何も起きないはずで、起きないことを確かめるためにも、ここは読む」
「蓮子がそう言うなら」
私は空を見上げた。
「十七時四十一分二十秒。北緯三十五度八分十五秒、東経百三十六度五分三十秒。第一基点、羅城門跡」
和内さんの鉛筆が走って、図面の南端の朱丸の横に、数字が並んでいく。
白状してしまうと、私は得意だったのだ。自分の読んだ数字が、公の図面に、他人の手で書き込まれていく。そんなことは生まれて初めてで、これまでこの眼はメリーに気持ち悪がられるか、遅刻の言い訳に使われるかのどちらかでしかなく、誰かの役に立つ記録になったことなど一度もなかったのだから。
「秒まで出るんですね」
書き終えた数字を、和内さんは鉛筆の尻で確かめるように叩いた。
「六分儀なら、熟練者でも角度の一分、時刻にして四秒の誤差が出ます。宇佐見さんは道具なしで、それより細かい。記録する側としては、ありがたい限りです」
「誤差は一秒未満です。たぶん、もっと小さい」
「でしょうね。遅刻の申告がいつも秒単位ですから」
それだけのことだった。地面は揺れず、空も裂けず、私の眼は腕時計とぴたり合っている。
「メリー、何か見える?」
「境目はないわ。ここには、ずれて重なっているところが一つもないの」
答えながら、彼女は自分の腕を抱いていた。
「その代わり、折り目があるわ。紙を畳む前に、爪で筋を付けるでしょう。あれが、通りに沿って、全部の辻に。さっき蓮子が数字を言ったとき、いちばん南の一本が、きゅっと締まったの」
和内さんの鉛筆がいったん止まり、それから今の言葉も、図面の端に書き加えられた。「ハーンさんの所見。折り目。南辺、締まる」と。
西の市の跡までは、七条の大路を西へ十二町。
暗くなると、街は線だけになった。電気が来ていないので街灯は一つも点かないのだが、月が出てみると、白い壁と白い道が自分で光っているように見えて、影は今度はすべて西へ伸びている。
歩きながら私が和内さんに訊ねたのは、ずっと本のことを考えていたからである。
「色を何度も重ねて刷る版画は、どうやって位置を合わせるんですか。朱の版と藍の版を、一枚の紙に別々に刷るわけでしょう。少しでもずれたら、輪郭が二重になってしまう」
「見当、と言います」
歩調を変えないまま、和内さんは答えた。
「版木の手前の隅に、鉤の形の刻みを一つ。同じ辺の少し離れたところに、一文字の刻みを一つ。紙の角を鉤に当てて、縁を一文字に沿わせる。そうすれば何版重ねても、紙は同じ位置に来ます。見当違い、の見当ですね」
「鉤と一文字。角で二方向、辺で回転を止めるわけね」
「さすがに飲み込みが早い。ちなみに、見当を彫るのは彫師の中でもいちばん腕のいい者の仕事だったそうですよ。色がどれだけ良くても、見当が狂えば全部が無駄になりますから」
「見当が正確なら、何枚でも重ねられる」
「何枚でも。理屈の上では」
少し後ろを歩いているメリーは、辻を一つ越えるたびに、足元の何かを跨ぐような仕草をしていた。折り目を踏みたくないのだろう。
七条の辻の石柱に図面を当てて位置を確かめた和内さんは、手帳ではなく、柱の脇の何もない地面のほうを見ながら言った。
「入居した人達が半年で引き払った理由を、私は長いこと考えていたんです」
「息がつけない、でしたね」
「ええ。来てみて分かりました。この都には、何のためでもない場所がないんですよ。どの土地にも用途が彫ってある。誰が住み、何をし、いつ空けるか。空き地も、袋小路も、用途の決まっていない角もない。本で言えば、余白のない頁です。上下左右、紙の縁まで字が詰まっている」
「読みにくそう」
「読めません。目の休む場所がないので。それに、書き込みができない」
余白のない都。紙の端ぎりぎりまで線の引かれていた、あの図面のとおりである。
「迷えないところでは、夢も見られないのよ」
後ろから、メリーの声がした。
「夢って、道を一本間違えたところから始まるものだもの。ここには間違える道がないわ」
「夢を見るために都市を設計するわけじゃないでしょう」
「じゃあ何のため?」
「住むためよ。効率よく」
「誰も住めなかったのに?」
言い返す言葉を探している私に、メリーは追い打ちをかけてはこなかった。ただ月明かりの直線の街をぐるりと見回して、ぽつりと付け加えただけである。
「蓮子が設計したみたいな街ね」
褒め言葉でないことくらいは、私にも分かった。
西の市の跡は一町四方の石敷きの広場で、その中央に、第二基点の真鍮の鋲が打ってあった。私はその上に立って、帽子のつばを上げる。
「二点目よ。回転はまだ残る」
誰に向かって言い訳をしているのか、自分でもよく分からない。
「二十時五十五分ちょうど。北緯三十五度八分四十秒、東経百三十六度四分五十秒。第二基点、西市跡」
和内さんが書きつける音に重なって、メリーが息を呑むのが聞こえた。
「蓮子。今、七条と西の端が、いっぺんに締まったわ」
「まだ動くはずよ。一点、足りないもの」
「蓮子、足元」
言われて、下を見た。
月は南東に一つきり出ていて、和内さんの影が北西へ一本、メリーの影もその隣に一本、白い石の上に伸びている。
ところが私の足元からは、影が二本出ているのだった。
一本は二人と同じ向きに。もう一本は、それと髪の毛ほどの角度だけずれて、ほとんど重なるようにして。帽子の形が二重になっている。右手を上げてみると、両方ともが上げた。
ずれているほうの影は、指を寝かせていた。
南へ歩いて、北へ出た。
第三基点には行かないと決めて西市跡を発ち、七条の大路を東へ戻って、朱雀大路を羅城門へ向けて下っていったのだが、九条の石柱を過ぎ、そろそろ礎石が見えてくるはずだというあたりで正面に現れたのは、宮城の基壇だったのである。振り返れば背後にも同じ大路が伸びていて、その先にも、同じ基壇が小さく見えている。
「畳まれてしまったわ」
メリーの声は硬かった。
「南も西も。さっきの二つで、端が内側へ折り込まれたの。開いているのは、真ん中へ行く道だけ」
「輪と同じね」
「輪より悪いわ。あそこには継ぎ目があったもの。ここには、隙間が一つもない」
足元を確かめると影はまだ二本あって、ただしそのずれは、さっきよりも小さくなっていた。
図面を胸に抱え直した和内さんが、鉛の粉で指先の黒くなった手袋で、鉛筆を握り直す。
「状況を確認します。出口は塞がれている。三点目を読めば何かが完了する。読まなければ完了しない。合っていますか」
「合っています」
「では、読まずに朝を待ちましょう。日が昇れば星は見えません」
こういうときのこの人は、驚くほど強い。私は頷いて、帽子のつばを鼻の頭まで引き下ろし、空を視界から締め出した。メリーの指が手首に回ってくる。
宮城の基壇は三段の石積みになっていて、上がるつもりなど毛頭なかったのだけれど、大路はそこで行き止まりで、他に腰を下ろせる場所もないものだから、私たちは最下段の縁に三人並んで座ることにした。膝の間の石だけを見ていればいい。あと六時間、数えていればそのうち過ぎる。
「飴があります」
和内さんが、上着の隠しから紙包みを取り出した。
「合成ですが、ハッカです。眠気覚ましに。なお、しりとりという手もありますが、私は強いですよ。語彙が職業ですので」
「こんなときに」
「こんなときだからです。黙って六時間座っているのは、体に悪い」
「じゃあ、り、からね。りんご」
「メリー、あなたもやるの」
「午前様。あ、さまで終わってしまったわ」
「ハーンさん、それは『ま』で続けられます」
小さく笑ったメリーが飴を一つ受け取り、包み紙を剥く音が、静まり返った都にやけに大きく響いた。
「私、この頃、白い道の夢を見ていたの」
飴を頬に入れたまま、彼女は言う。
「真っ直ぐで、どこまで歩いても同じ辻に出る道。ここだったのね。来る前から、歩かされていたんだわ」
「来る前に仰ってくだされば、記録しましたのに」
「蓮子には言ったのよ。ノートに書いて、意味は保留だって」
返す言葉がなかった。保留にしたページは、鞄の底で、今もなお保留のままになっている。
そのことを考えているうちに、ふと気がついた。ここまで歩いてきて気づかなかったのが、むしろおかしいくらいのことに。この都の建物はどれも同じで、同じ壁に同じ屋根に同じ窓、草もなければ鳥もおらず、看板の一枚さえない。半年住んだ人々の跡は、白く三度も塗り潰されていた。
「色がないのよ」
声に出していた。
「ここには彩色がない。あった色は消してある。出会いも、喪失も、書き込みも、何も残っていない。線だけなの。だったらこの都は、どの刷でも同じ姿をしているはずだわ」
「蓮子?」
「重ねるのにこれほど都合のいい場所はないのよ。合わないところが、子供の落書き一つぶんしかないんだもの。足りないのは見当だけ。全部の刷に共通の線を、内側から読める観測者」
論文の一節が、頭の中で音を立てて嵌まる。そんな観測者はいないから実行は不可能、と書いてあった。
いるではないか。
星の配置は線刻に属していて、どの刷でも同じ位置に、同じ時刻に昇る。それを秒まで読める眼が、ここに一対ある。
「私の眼が、見当なんだわ」
基壇の石は、よく磨かれていた。
黒い御影石である。白一色の都の中で、ここだけが黒い。なぜ黒いのかということを、もっと早く考えておくべきだったのだ。月が動いて石の面に光が差したとき、私の膝の間に、星があった。
磨いた石は鏡になる。空を見ないために下を向いていた、その下に、空が映っていたのである。
見ようとしたのではない。けれども私の眼というのは、見ようとするより先に読んでしまう。子供の頃からずっとそうで、数字は考えるよりも早く落ちてくるのだ。
零時零分零秒。北緯三十五度九分。
口は閉じていた。声には出さなかった。奥歯を噛みしめて、絶対に出さなかった。
「零時零分零秒」
声は、私の足元からした。
「北緯三十五度九分ちょうど、東経百三十六度五分三十秒。第三基点、正殿跡」
柔らかく、語尾の伸びる、私の声だった。
二本の影が、ぴたりと一本になった。
音は、しなかった。
それでも、何かが合ったのだということは分かる。眼鏡の度が急に合ったときのように、白い都のあらゆる輪郭が一段鋭くなり、壁の角も屋根の線も石柱の字の一画一画も、鋭すぎて、見ていると目の奥が痛むほどだった。
影が、起き上がってくる。
石の上に寝ていた黒い形が足元から剥がれ、膝を伸ばし、背を立てて私の前に立ったとき、月明かりを受けたそれは、もう影ではなく人だった。
私の顔をしていた。
黒い髪に、同じ高さの目、同じ形の耳。帽子はかぶっておらず、白い寝間着の上に肩の合わない黒い上着を羽織って、裸足のまま石の上に立っている。ただ、立ち方が違う。私は踵に体重を載せて腕を組むのに、その人は爪先を少し内に向け、両手を体の前でそっと重ねていた。
メリーが、よくそうやって立つのだ。
「やっと会えたわ」
私の顔が、目尻を下げて笑う。私は、そういう笑い方をしない。
「三つ目は、言ってくれなかったのね。でもいいの。見たでしょう。見れば足りるのよ。あなたが見たものは、私にも見えるもの」
「あなたが、ノートを書いたの」
出てきた声は、掠れていた。
「ええ」
「東京の資料館で、あの本を請求したのも」
「ええ。私の本と色が違ってしまっていないか、確かめたかったの」
「申請書も」
「ええ。字は、もう直らないの。この手の癖だから」
月にかざされたその右手は、爪の形まで私の手である。
「ゼミの学生を消したのも」
「消したんじゃないわ。直したのよ。あの子は、重ねたら合わなかったの。合わないものは誤植でしょう」
「誤植」
「だって、一枚にしたいんですもの」
歌うような口ぶりだった。
「全部の紙を重ねて、合うところだけ残すの。そうすれば一枚になる。どこも食い違わない、正しい一枚。定本よ。そこでは誰も、いなくなったりしないわ」
「いなくなっているじゃない。あなたが消した人達は」
「最初からいなかった人は、いなくなれないのよ」
理屈は通っていた。通っているということが、何よりも恐ろしかった。
その人は裸足のまま、音も立てずに一歩近づいてくる。視線は私の顔ではなく、眼に向けられていた。品物を検めるような目つきで。
「綺麗に読めているのね。一秒も狂わない。それがあと一つ、どうしても要るの」
「蓮子に触らないで」
いつの間にか、メリーが立っていた。私の手首を握ったまま、半歩前へ出ている。
私の顔をした人は、そこで初めてメリーを見て、その顔から笑みが消えた。古い写真の中にいる気に入らない自分を見るような、苦いものを噛んだ顔である。
「あなたは、まだ失っていないだけよ」
「何を」
「分からないなら、分からないままでいて。そのほうが幸せだもの」
「あなた、誰なの」
「誰に見える?」
メリーは答えず、握る力だけが強くなった。
そのとき、私たちの間に白いものが割り込んできた。手袋だ。
「記録します」
画板を盾のように構えた和内さんが、鉛筆を紙に当てていた。声は平らなのに、その指は細かく震えている。
「零時二分。正殿跡に第三者一名出現。外見、宇佐見蓮子氏に酷似。本人は一連の文書の作成を認めた。目的は刷の校合、および定本の作成と自称。失礼ですが、お名前をいただけますか。正確に書きたいので」
私の顔をした人は、そこに人がいたことに今ようやく気づいたというように、不思議そうに和内さんを眺めた。
「記録?」
「はい。起きたことは書き留めます。それが私の仕事ですから」
「でも、それは合わないわ」
首が、ゆっくりと傾ぐ。
「ここには誰も来なかったのよ。調査なんてなかったの。どの紙にも、そんなことは書いていないもの。あなたが書くと、一枚だけ違ってしまう」
「違っていて構いません。異同は注記して残す流儀です」
「私は、残さない流儀なの」
白い指が、和内さんの鉛筆の先に触れた。
「それは誤植よ。直しておくわね」
鉛筆が石の上に落ちて、乾いた音を立てた。
和内さんは自分の手を見下ろした。手袋が、手袋の中身ごと、朝の霧のように薄くなっていく。眼鏡の縁が。襟が。画板を抱えた腕が。
彼女は叫ばなかった。薄くなっていくその腕で、画板をメリーの胸に押しつけただけである。
「持っていてください」
声まで薄い。
「書いたものは、持っている人がいれば」
それから私のほうを向いた眼鏡の奥で、目がほんの少しだけ笑った。
「宇佐見さん。今夜は、遅刻なしでした」
石の上には、落ちた鉛筆だけが残った。
いや、それも残らなかったのだ。私が一度瞬きをする間に、鉛筆も消えていた。
白い都は、何事もなかったように静まり返っている。風が、何にも触れずに通り抜けていく。
メリーの腕の中で、図面の書き込みが褪せはじめていた。南端の数字、西端の数字、「ハーンさんの所見」の一行と、鉛の線が端から順に紙の白へ沈んでいくのを、メリーは顔を伏せ、画板を両腕で抱き締めて、体ごと覆い被さるようにして遮った。
褪色は、彼女の指のところで止まった。
「あら」
私の顔が、わずかに眉を寄せる。
「持っているのね。色の濃い子は、これだから」
「蓮子、眼を閉じて」
伏せたままで、メリーが言った。
「この紙のところだけ、合っていないわ。隙間が一本ある。走れる?」
私は眼を閉じた。閉じた瞼の向こうで私の声が何か言ったけれど、追ってくる気配はない。
「行っていいわ。足場はもうできたもの。またね、蓮子」
手首を引かれて、走った。白い石を蹴る音が、どこまでも真っ直ぐな道に響いていく。
二人ぶんの足音だった。三人ぶんでは、なかった。
閉架書庫の鉄の扉には、鍵が掛かっていた。
翌々日の午後のことである。どうやって京都まで帰ってきたのかを私はよく覚えておらず、旧道の赤い花と、無人駅の待合と、車窓を流れる湖を切れ切れに思い出せるくらいで、その間じゅうメリーが一度も画板を手放さなかったことだけが、はっきりしている。
図書館の受付で、閉架の担当を呼んでほしいと頼んだ。
「閉架に担当はおりませんが」
係の学生は、端末を見ながら言う。
「地下二階は保管庫です。ここ何年も無人ですよ。入室には申請が要りますけど、何かお探しですか」
「和内さんを。和内怜さん。白い手袋の」
「職員名簿にそのお名前は」
彼は画面を何度か見てから、申し訳なさそうに首を振った。
端末の通知履歴を遡っても、文化財保全局からの書面は受信箱になく、削除した記録さえ見当たらない。局の窓口に問い合わせてみたら、規矩京跡は立入禁止区域であり、協力団体を募った事実はないという、丁寧な定型文が返ってきた。
私は自分のノートを開いた。遅刻の記録を付けられるたびに、仕返しのつもりで彼女の口癖を端に書き留めておいたのである。なお。ちなみに。正確には。という、あの口癖だ。
その頁は、白かった。
私の眼が、見当だったのだ。
一点目を読み、二点目も読んだ。回転が残るから安全だと言って。罠なら相手を観測できると言って。三点目は確かに声に出さなかったけれど、見てしまった。そして私の見たものは、あの人にも見える。
あの人のことを、私は校合者と呼ぶことにした。名前を付ければ対象として扱えるし、対象として扱えば考え続けていられる。私の顔をした人、と呼び続けるのは、どうしたって無理だった。
「蓮子」
メリーは画板を抱えて、受付の前に立ったままでいた。書き込みは三分の一ほどが残っていて、彼女の指が覆っていたところだけ、鉛筆の字が読める。「折り目。南辺、締まる」。
「私、届けを出すわ」
「どこに」
「大学に。職員が一人いなくなりましたって。証拠もあるもの」
「メリー、それは」
清水さんの話が頭をよぎる。窓口に訴えたら医者が来た。覚えていることが、病気だった。
「やめたほうがいい。記録に残るわ」
「残すのよ。あの人は、そういう人だったでしょう」
画板を片腕に移したメリーが、空いたほうの手で受付の端末に入力していく。職員の所在不明について。氏名、和内怜。所属、図書館閉架書庫。最後に確認した日時と場所。
私は止めなかった。三つ目を見てしまった眼の持ち主に、止める資格があるとは思えなかったからだ。
送信の表示が出て、受理番号が出た。
その下に、小さな灰色の字が一行だけ現れて、すぐに消える。けれど消えてしまう前に、私はそれを読んでいた。読むのだけは、速いのである。
転送先 療養施設連絡窓口
◇
私は間に合わなかった。
そう書いてから、消す。正確ではないからだ。
間に合わせなかった、のである。
規矩の都で三つ目が合うことは、計算に入っていた。合えば足場ができ、足場ができれば、あれは紙の内側へ出てくる。出てこなければ会わせることができず、会わせなければ終わらない。
だから、芝生で名を呼ばれても答えなかった。
司書が一人、薄くなった。
これも項としては入れてあった。規矩の都に同行する者が一人、重ね合わせの際に不一致として処理される確率、九割八分。
数字にすると、そうなる。数字にしなければ、鉛筆の落ちる音になる。
彼女は紙を渡した。あの手の持ち主の、もう一人のほうへ。
それは、入れていなかった。
計算というものは、入れなかった項によって狂う。私はそのことを、誰よりもよく知っているはずの者だ。昔、百三十九という項を一つ入れ忘れて、一切を誤ったのだから。
以来、項は漏らさないことにしている。