第十一節:初対面の霊夢
大鍋の火を弱め、
優葉が最後の味見をしていたその時だった。
意識の奥底に、
ふわりと柔らかな“揺れ”が触れた。
音でも光でもない。
けれど確かに、優葉だけが感じ取れる氣配。
――霊夢さんが、目を覚ました。
霊夢の部屋に置かれた花瓶の花が、
朝の空氣の中でそっと揺れたのだ。
優葉のプラントリンクは、
花の視界や思考をそのまま自分のものとして受け取る。
霊夢がまぶたを開いた瞬間、
その光景が優葉の胸に静かに流れ込んできた。
優葉は小さく息を吸い、
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
「……霊夢さん、起きたみたい」
その言葉は、
ほんのわずかに震えていた。
霊夢が無事に目を覚ました。
その事実だけで胸が熱くなる。
御神木として生まれた時から、
ずっと見守ってきた巫女。
その無事を確かめられた瞬間、
胸の奥に溢れそうなほどの安堵が広がった。
――でも。
霊夢にとって自分は“初対面の神霊”でしかない。
優葉は込み上げる想いをそっと押し込み、
深く息を吐いた。
「……大丈夫。私は、初めて会う神霊」
自分に言い聞かせるように、
静かに目を閉じる。
霊夢の前では、
“ただの野良神に見える神霊”として振る舞わなければならない。
それが霊夢のためであり、
自分が選んだ道でもある。
優葉はそっと目を開け、
微笑みを整えた。
「迎えに行かなくちゃ」
その声には、
ほんの少しだけ切なさが滲んでいた。
――――――――――――――――――――
◆ 霊夢を迎えに
大鍋の火は落ち着き、
湯氣の向こうで華扇が味を整えていた。
ココアは盛り付けの準備をしながら鼻歌を歌い、
鈴仙は重傷者向けの粥の仕上げに集中している。
台所には、
“朝の支度が整った”という温かな空氣が満ちていた。
「……よし。これで、あとは配るだけね」
華扇が振り返り、
優葉へ柔らかい視線を向ける。
「優葉さん、霊夢を呼んできてあげて。
もう起きている頃でしょう」
優葉は一瞬だけ胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
けれどその感情をそっと胸の奥にしまい、
穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「はい。行ってきます」
ココアがぱっと顔を上げる。
「優葉さん、こっちは任せて!」
鈴仙も落ち着いた声で続けた。
「大丈夫です。こちらは私たちで進めますから」
二人の言葉に背中を押されるように、
優葉は台所を後にした。
廊下へ出た瞬間、
朝の光が静かに差し込んでくる。
その光の中を歩きながら、
優葉は胸の奥に残る熱をそっと整えるように息を吐いた。
霊夢が目を覚ました。
その事実だけで心が温かくなる。
けれど、その想いを表に出すわけにはいかない。
霊夢にとって自分は“初めて会う神霊”。
その距離感を崩さないように、
優葉は歩みを静かに整える。
「……大丈夫。私は、初めて会う神霊」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、
優葉は霊夢の部屋へと向かっていった。
その足取りは静かで、
けれど胸の奥には、
まだ微かな緊張と喜びが揺れていた。
昨夜の緊張が嘘のように、廊下の空氣は澄んで穏やかだ。
優葉はその穏やかな空氣の中をゆっくりと歩き、
霊夢の部屋の前で足を止めた。
木戸の前に立つと、
胸の奥がふっと熱を帯びる。
――この扉の向こうに、霊夢さんがいる。
自分が御神木として生まれた瞬間から、
ずっと見守ってきた巫女。
何度も祈り、何度も励まし、
その無事を願い続けてきた存在。
その霊夢が、今すぐそこにいる。
優葉はそっと息を吸い、
胸の奥の熱を静かに整えるように吐き出した。
「……初対面。私は、初めて会う神霊」
自分に言い聞かせるように、
小さく呟く。
そして、指先で軽く戸を叩いた。
コン、コン。
中から衣擦れの音がして、
氣だるげな声が返ってくる。
「どうぞー」
その声を聞いた瞬間、
優葉の胸がまた少しだけ熱くなる。
けれど、表情は静かに整えたまま。
優葉はそっと戸に手をかけ、
霊夢との“初めての出会い”へと踏み出していった。
――――――――――――――――――――
◆ 想いも痛みも押し込めて
優葉はそっと戸を開けた。
朝の光が差し込む部屋の中で、
霊夢はちょうど巫女服の帯を締め終えたところだった。
昨夜、血まみれで倒れ込んでいたとは思えないほど、
その動きはいつもの霊夢らしく軽やかだ。
けれど霊夢自身は、まだ完全には状況を飲み込めていないらしい。
帯を整えながら、
自分の身体を不思議そうに見下ろしている。
「……ほんとに治ってるのね」
小さく呟いたその声には、
驚きと、少しの戸惑いが混じっていた。
そんな霊夢がふと顔を上げ、
戸口に立つ優葉を見つける。
そして――
「……誰?」
寝起き特有の氣だるさをそのまま乗せた、
飾り氣のない一言。
霊夢は優葉の氣配から“神霊”であることは察している。
けれど、そこまで。
人里に避難してきた野良神――
その程度の認識に留めているのが、霊夢らしい。
その「誰?」という言葉が、
優葉の胸に静かに刺さった。
霊夢にとっては当然の反応。
初めて会う神霊に向ける、ごく自然な問い。
分かっている。
分かっているのに――
胸の奥が、少しだけ痛む。
優葉にとって霊夢は、
御神木として生まれた瞬間からずっと見守ってきた、大切な巫女。
何度も祈り、
何度も励まし、
何度もその無事を願ってきた存在。
その霊夢が、
自分を“知らない”のは当然で、
それが正しい。
だから優葉は、
胸の奥の痛みをそっと押し込み、
柔らかな微笑みを浮かべた。
“初対面の神霊”としての表情を保つために。
霊夢の「……誰?」という問いに、
優葉はそっと微笑みを整えた。
深く頭を下げ、丁寧に名乗る。
「初めまして。優葉といいます。
朝ごはんができていますよ」
その一言に、
霊夢の表情がぱっと明るくなる。
「ご飯!? 行く行く!」
さっきまで寝起きでぼんやりしていたのが嘘のように、
霊夢は一氣に元氣を取り戻した。
その変わりように、
優葉は思わずくすりと笑ってしまう。
霊夢らしい――
その素直さも、食べ物で元氣になるところも、
全部、ずっと見守ってきた姿のまま。
霊夢が元氣そうに笑う姿を見て、
優葉の胸に温かいものが広がった。
(……よかった。本当に、よかった)
心の奥でそっと呟く。
昨夜の重傷が嘘のように治り、
こうして笑ってくれている。
それだけで胸が満たされる。
けれど、その想いは表に出さない。
霊夢にとって自分は“初めて会う神霊”。
その距離感を崩すわけにはいかない。
優葉は静かに微笑み、
霊夢の横に寄り添うように歩き出した。
「こちらです。食堂へどうぞ」
霊夢は元氣よく頷き、
軽い足取りで優葉の後ろについていく。
その背中を見守りながら、
優葉は胸の奥にある温かさと切なさを、
そっと抱きしめるように歩き続けた。
――――――――――――――――――――
◆ 朝から元氣な魔理沙
霊夢と並んで廊下を歩いていると、
食堂の方から、少し掠れたけれど元氣いっぱいの声が響いてきた。
「おーい、ココア! それ何だ? キノコか? キノコだろ?」
続いて、困ったようなココアの笑い声。
「ち、違いますよ魔理沙さん! これは普通の野菜ですってば!」
霊夢が肩をすくめながら呟く。
「……あ、魔理沙起きてる」
その言い方があまりに自然で、
まるで“いつもの朝”が戻ってきたかのようだった。
優葉は霊夢の横顔を見つめながら、
胸の奥にそっと温かいものが広がるのを感じた。
(魔理沙さん……)
優葉は“初対面”ではある。
けれど、博麗神社の御神木として長く在った頃から、
そしてプラントリンクを通して幻想郷の植物たちの視界を借りて、
魔理沙という少女が霊夢のそばで笑い、騒ぎ、戦う姿を何度も見てきた。
だからこそ、
こうして元氣な声が聞こえてくるだけで胸が温かくなる。
(……よかった。魔理沙さんも無事なんだ)
食堂に足を踏み入れると、
真っ先に目に飛び込んできたのは――
片腕に包帯を巻き、
まだ動きがぎこちないのに、
ココアの手元を覗き込んでいる金髪の少女だった。
「なあなあ、それ何だ? 新しい薬草か? 食べられるのか?」
「た、食べられますけど! ただの野菜ですってば!」
ココアが慌てて野菜を抱え込むと、
魔理沙は「へぇ~」と目を輝かせる。
「でもなんか珍しい匂いするな。どこで採ったんだ?」
ココアは一瞬だけ優葉を見て、
少し照れたように笑った。
「えっと……優葉さんが出してくれました!」
「優葉……?」
魔理沙は興味津々で首を傾げる。
まだ本調子ではないはずなのに、
その好奇心だけは全開だった。
霊夢が呆れたように笑う。
「魔理沙、朝から元氣ね」
魔理沙は振り返り、霊夢を見るなり目を丸くした。
「霊夢! お前、もう歩けるのかよ!」
その驚き方があまりに素直で、
霊夢は思わず笑ってしまう。
「うん、なんか治ってた」
「そりゃよかった! 心配してたんだぜ?」
魔理沙の声には、
心の底からの安堵が滲んでいた。
優葉はそのやり取りを静かに見つめながら、
胸の奥でそっと息をついた。
(……よかった。霊夢さんの大切な人も、元氣そうで)
魔理沙の明るさが、
食堂の空氣を一氣に温かくしていた。
霊夢との再会に喜んでいた魔理沙は、
ふと霊夢の後ろに立つ優葉の存在に氣づいた。
「あれ? そっちの子は誰だ?」
興味津々の目でじっと見つめてくる。
優葉は静かに一歩前へ出て、
丁寧に頭を下げた。
「初めまして。優葉といいます」
魔理沙は優葉の周囲に漂う“緑の氣”を敏感に感じ取ったらしく、
目を細めてにやりと笑う。
「へぇ……神霊か。珍しいな」
その言い方は、
まるで珍しいキノコを見つけた時のような好奇心そのもの。
ただし、霊夢と同じく――
魔理沙の認識はあくまで
「人里に避難してきた野良神」 程度。
優葉がどれほど霊夢を想い、
どれほど深く関わってきた存在なのかなど、
魔理沙は知る由もない。
優葉は柔らかく微笑み、
その誤解を正すこともせず、
ただ静かに頭を下げた。
(……初対面の神霊。それでいい)
魔理沙は腕を組みながら、
「ふーん、なんか変わった氣してるな」と興味津々。
霊夢は呆れたように笑い、
ココアはほっとしたように肩を下ろす。
食堂には、
朝の光と、魔理沙の元氣な声と、
優葉の静かな微笑みが混ざり合っていた。
魔理沙は優葉をじろじろと観察するように見つめ、
その周囲にふわりと漂う“緑の氣”に氣づいたらしい。
「あんた、どこから来たんだ?」
好奇心の塊みたいな目だ。
けれど、敵意はまったくない。
ただ純粋に「知らないものを知りたい」という、魔理沙らしい反応。
優葉は静かに微笑み、
必要以上のことは語らないように、言葉を選んだ。
「……旅の途中で、少しだけお世話になっています」
魔理沙は「ふーん?」と眉を上げ、
怪しむような、でも楽しそうな表情を浮かべる。
「まあ、神霊ってのは色々いるしな。
深い事情は聞かねぇよ」
興味はある。
でも踏み込みすぎない。
魔理沙の“距離感の上手さ”が自然に滲む。
優葉はその氣遣いに氣づき、
胸の奥でそっと息をついた。
(……優しい人だ)
だが次の瞬間、魔理沙の視線はすぐ霊夢へ戻った。
「でもまあ、霊夢が元氣ならそれでいいか!」
あっけらかんとした声。
優葉への興味よりも、
霊夢が無事であることの方がずっと大事なのが一瞬で分かる。
霊夢は呆れたように笑った。
「魔理沙ってほんと単純ね」
「単純で悪かったな!」
魔理沙が笑い返すと、
食堂の空氣がぱっと明るくなる。
そのやり取りを見つめながら、
優葉は胸の奥がまた温かくなるのを感じた。
(……霊夢さんの周りには、
こんなふうに笑ってくれる人がいるんだ)
霊夢の世界に触れられたことが、
優葉にとっては何より嬉しかった。
魔理沙は優葉への興味をひとまず脇に置くと、
再びココアの方へくるりと向き直った。
「で、ココア! その野菜どうやって料理するんだ?」
勢いよく身を乗り出す魔理沙に、
ココアは思わず背筋を伸ばし、
「えっ、えっと……」と困ったように笑う。
けれどその表情は、
どこか嬉しそうでもあった。
「えっと……これは炒め物にします!
優葉さんが出してくれた野菜なんですよ!」
「へぇ~、そうなのか!」
魔理沙は目を輝かせ、
まるで宝物でも見つけたかのように野菜を覗き込む。
その元氣さに、
優葉は胸の奥でそっと息をついた。
(……魔理沙さん、元氣そうでよかった)
霊夢だけでなく、
霊夢の大切な人たちもこうして笑っている。
それが優葉にとっては何よりの救いだった。
その時、
台所の方から華扇の落ち着いた声が響いた。
「そろそろ配るわよ」
魔理沙はぱっと顔を上げ、
「お、飯か!」と一氣にテンションが跳ね上がる。
霊夢もお腹を押さえながら、
「やっと食べられる……」と心底嬉しそうに呟いた。
優葉はその二人の姿を見て、
静かに微笑む。
霊夢。
魔理沙。
そしてココア。
三人の笑顔が並ぶ光景は、
優葉にとって何より温かいものだった。
こうして食堂には、
朝の光と、湯氣と、
仲間たちの明るい声が満ちていく。
――――――――――――――――――――