第一章 幕間 霊夢視点
まぶたの裏に、柔らかな光が差し込んでくる。
霊夢はゆっくりと目を開けた。
視界に入ったのは、見慣れない天井。
「……ここ、人里の宿か」
寝起きの頭で、昨夜の出来事をぼんやりと思い出す。
布団の温もりが身体にまとわりつき、
まだ少しだけ夢の中にいるような、そんなだるさが残っていた。
上体を起こそうとした瞬間、霊夢は動きを止めた。
――痛くない。
昨夜は肋骨が折れたような激痛で、
息をするだけでも苦しかったはずなのに。
腕も、脚も、腹も。
どこにも痛みがない。
「……は?」
素で声が漏れた。
霊夢は布団をめくり、
まずは腕を、次に腹部を、そっと指先でなぞるように触っていった。
昨夜は、触れただけで息が詰まるほど痛かったはずなのに――
どこにも痛みがない。
腫れも、熱も、傷跡すら残っていない。
「いやいや、こんな一晩で治るわけ……」
口では否定しながら、
指先が伝えてくる“健康そのもの”の感触に、
霊夢はどうしても困惑せざるを得なかった。
治癒の専門家ではない。
けれど、自分の身体の状態くらいは分かる。
これはどう考えても、
“普通じゃない治り方”だ。
霊夢は眉を寄せ、
布団の上でしばし固まった。
「……えっと、昨日は……」
霊夢はぼんやりと天井を見上げながら、
昨夜の出来事を順に辿っていく。
聖魔との戦闘。
結界の破損。
人里への避難。
そして――
激痛に耐えながら、意識が途切れた瞬間。
そこまでははっきり覚えている。
だが。
治療された記憶は、どこにもない。
「……誰が治してくれたのよ」
小さく呟いた声は、
寝起きのだるさと困惑が混じったものだった。
霊夢は周囲を見回すが、
部屋には自分以外の氣配はない。
“治してくれた誰か”がいるはずなのに、
その姿も、氣配も、記憶もない。
霊夢は深く考えようとしたが、
寝起きの頭はそこまで働かない。
身体の状態を一通り確かめ終えた霊夢は、
ふと部屋の隅に置かれた籠に目を留めた。
「……ん?」
昨夜、血まみれでボロボロになったはずの巫女服が、
そこに綺麗に畳まれて置かれている。
まるで新品のように、
汚れひとつなく、布の張りまで戻っている。
「……は?」
霊夢は思わず声を漏らした。
誰が?
いつ?
どうやって?
疑問は次々に浮かぶが、
寝起きの頭では深く考える氣力が湧かない。
眉をひそめたまま、
霊夢は「まあいいか」と思考を切り上げた。
霊夢らしい、あっさりとした反応だった。
霊夢は籠から巫女服を手に取った。
その瞬間――
深緑の鎮守の森の中に立っているような、
静謐で清々しい“緑の香り”がふわりと身体を包んだ。
「……なにこれ」
霊夢は思わず鼻を近づける。
草の匂いとも違う。
香木とも違う。
けれど、どこか懐かしくて、
胸の奥がすっと落ち着くような香り。
「変なの……でも、悪くないわね」
霊夢は首を傾げながらも、
その香りに不思議な安心感を覚えていた。
理由は分からない。
けれど、心が静かに整っていく。
霊夢は帯を締め、
いつもの巫女服へと着替えを終えた。
その背後で、
衣服に宿った“神霊の浄化の氣”が
静かに揺れていることに――
霊夢はまだ氣づかない。
袖を整え、
ようやく“いつもの巫女服”の感覚が身体に馴染んできた頃だった。
コン、コン。
軽いノックの音が部屋に響く。
霊夢は帯を軽く引き締め直しながら、
氣だるげに返事をした。
「どうぞー」
誰が来たのか、特に考えもしない。
宿の人か、華扇か、鈴仙か――
その程度の認識しかなかった。
まさか、
“自分を治した相手”と初めて対面する瞬間だとは、
霊夢はまだ思っていない。
戸が静かに開く。
差し込む朝の光の中から、
見知らぬ少女がそっと姿を現した。
淡い緑の氣配をまとった、
どこか神聖で、けれど柔らかな雰囲氣の少女。
霊夢はその姿を見て、
首を傾げながら素直に言った。
「……誰?」
寝起きの氣だるさをそのまま乗せた、
飾り氣のない一言。
霊夢は優葉の氣配から“神霊”であることは察している。
けれど、
人里に避難してきた野良神か何かだろう――
その程度の認識に留まっていた。
この瞬間、
霊夢はまだ知らない。
目の前の少女が、
自分を救い、
自分をずっと見守ってきた存在であることを。
そして、
この“初対面”が、
優葉にとってどれほど切ない瞬間なのかも。
霊夢はただ、
いつものように自然体で、
目の前の神霊を見つめていた。
――――――――――――――――――――
◆ 優葉という変な野良神
人里を出てしばらく歩いた頃、
霊夢はふと、さっきまで一緒にいた優葉のことを思い返していた。
幻想郷に長くいると、
神霊や妖怪の顔ぶれなんて大体覚えてしまうものだ。
自分で言うのもなんだけど、私は顔が広い方だと思う。
……なのに。
「こんな神霊、いたっけ?」
本氣で首を傾げるしかなかった。
あの優葉って子、どう考えても初対面だ。
でも――
初対面のはずなのに、どこか懐かしいような、落ち着くような氣配がある。
「……なんか変な感じ」
言語化するとそれくらい。
直感は働くけど、深く考えるのは面倒だから、
その“変な感じ”の正体を追う氣はさらさらない。
そういえば朝食の時、ココアが言っていた。
「優葉さんが出してくれた野菜なんですよ!」
あの時は思わず箸が止まった。
ココア――
紅魔館の小悪魔の生き残りで、なぜか“ココア”なんて名前を名乗っている子。
紅魔館には同じ姿の小悪魔が何体もいたはずなのに、
名前なんて普通つけないのに。
……まあ、別にどうでもいいけど。
「へぇ、食材出せる神霊って便利じゃん」
素直にそう思った。
だって便利なものは便利だ。
しかも人里の炊き出しにも大量に提供していたらしい。
「野良神のくせに、やけに働き者ね……」
普通、野良神ってもっと氣まぐれなものなのに。
あの子は妙に世話焼きで、妙に働き者で、
妙に人里に馴染んでいた。
私の中での優葉の評価は、
“変だけど便利な神霊”
という方向に固まりつつある。
出発前に弁当を渡された時は、本氣で驚いた。
「初対面なのに弁当? なにこのお人好し」
思わずそう思ったけど、
次の瞬間にはもう別の感情が上書きしていた。
「タダ飯ラッキー」
……いや、だってタダ飯だし。
ありがたいに決まってる。
あの子がどんな氣持ちで作ったのかなんて、正直よく分からない。
深く考えるのも面倒だし、
私にとってはただの
“氣前のいい野良神”
くらいの認識だ。
歩きながら、私はふと呟いた。
「変な奴よねぇ……」
でも、嫌な感じはしない。
むしろ、あの緑の匂いはなんだか落ち着く。
「……あの匂い、なんか好きなんだよね」
理由は分からないし、考える氣もない。
そして最後に、私は本氣でこう思った。
「肉も出せるならもっと便利なのに」
……まあ、そう思うあたりが私らしいんだろう。
人里を出て、いつもの山道へ足を踏み入れた瞬間だった。
「……あんたら、どこから湧いてきたのよ」
見覚えのない聖魔が、
まるで待ち伏せしていたかのように飛び出してきた。
形も動きも初見。
妙に素早いし、妙に跳ねるし、妙にうるさい。
「初見殺しじゃないの、ほんと……」
文句を言いながらも、
体は勝手に動いて退治していく。
けれど、倒しても倒しても、
少し歩くとまた別の初見聖魔が現れる。
「今日はなんなのよ……」
眉間にしわが寄る。
そのうちの一体が、
霊夢めがけて一直線に飛びかかってきた瞬間――
バサッ。
足元の草が突然伸びて絡みつき、
聖魔は盛大に転んだ。
「……え?」
別の聖魔は、
霊夢の背後から襲おうとした瞬間に――
パキッ。
頭上の枝が折れて落ち、
見事に動きを止めた。
「……え、何これ。偶然?」
霊夢はしばらくその場で固まったが、
すぐに肩をすくめた。
「まあ、楽できるならいいか」
深く考えるのは面倒だ。
直感は働いているけど、
“なんか変”と思っても、そこで終わり。
山道を抜けたところの河原で、
霊夢はひと息つくことにした。
簡易結界を張り、
腰を下ろすと、
さっき優葉からもらった弁当を取り出す。
「さて、タダ飯タイム」
包みを開けた瞬間、
霊夢の顔が少しだけ曇った。
「やっぱり肉は無いのね……」
文句を言いながらも、
玉子焼きをひと口。
その瞬間、
霊夢の表情がふわっと緩んだ。
「……なにこれ、めっちゃ美味しいじゃない」
煮物も、おにぎりも、山菜も、
どれも優しい味がする。
霊夢は満足げに頬を緩めながら呟いた。
「変な野良神だけど、料理は上手いのね」
霊夢の中での優葉の評価は、
“便利で氣前のいい神霊”
という方向に、ますます固まっていく。
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◆ 謎の盛り塩結界
山道を抜け、見慣れた鳥居が視界に入ってきた頃。
霊夢は大きくため息をついた。
「どうせ結界ボロボロなんでしょ……」
昨夜の騒ぎを考えれば、
神社の結界が無事なはずがない。
そう思いながら境内へ足を踏み入れた瞬間――
霊夢はぴたりと立ち止まった。
「……あれ? 壊れてない?」
結界は、むしろいつも通り。
いや、いつも以上に“張り”がある。
霊夢は目を丸くし、
結界の氣配を確かめるように周囲を見回した。
「なんで……?」
自分がいない間に、誰かが補強したとしか思えない。
社殿へ近づくにつれ、
霊夢はさらに眉をひそめた。
「……ちょっと待って。強すぎない?」
結界が、明らかにいつもより濃い。
まるで何重にも重ねられているような、
そんな“守りの氣配”が漂っていた。
「誰よ、勝手に結界いじったの……?」
霊夢は半ば呆れ、半ば警戒しながら住居の方へ向かう。
部屋に入った瞬間、
霊夢は思わず足を止めた。
四隅に、見覚えのない木製の小皿が置かれている。
「……なにこれ?」
小皿はどれも同じ形で、
まるで誰かが意図して配置したように整然としている。
霊夢は眉を寄せ、
そっと一歩近づいた。
「結界の……道具? でも見たことないし……」
手を伸ばそうとした、その瞬間――
背後から声がした。
「それ、動かさない方がいいわよ」
背後から落ち着いた声が響いた。
「ひゃっ……!」
霊夢は肩を跳ねさせて振り返る。
「ちょっと紫! 脅かさないでよ!」
紫はいつものように、
扇子で口元を隠しながら微笑んでいた。
「驚かせるつもりはなかったのだけれど?」
絶対わざとだ。
霊夢は改めて小皿を覗き込む。
中には、
綺麗な三角錐に盛られた白い塩。
「……盛り塩?」
紫は扇子を軽く揺らしながら、
意味深に微笑む。
「ええ、そうね。盛り塩よ」
霊夢は結界の氣配を感じ取り、
思わず息を呑んだ。
「これ……結界の補強になってる。
しかも、かなり強い……」
誰が置いたのか、まったく見当がつかない。
「紫、これ誰が置いたの?」
霊夢は紫に向き直り、
ストレートに問いかけた。
「紫がやったんでしょ?」
紫は扇子の影から目だけを細め、
わざとらしく肩をすくめる。
「さあ、どうかしら」
絶対知ってる。
絶対わざととぼけてる。
霊夢は呆れたようにため息をついた。
「またそうやって誤魔化す……」
紫は何も言わず、
ただ微笑むだけ。
霊夢は結界の強さをもう一度確かめながら、
小皿に視線を戻した。
(……まあ、壊れてないならいいけど)
霊夢は深く考えるのをやめた。
第一章 幕間 霊夢視点 了
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