『ーーこんにちは』
『ーーお空』
『ーーほら、見て』
『ーー月が嗤ってるよ』
『ーーくすくす。悪趣味だね』
【空】ーーっ!!
吐息を感じそうな程の距離から声がして、
弓形になりそうな程に飛び起きる。
銃を構える。引き金に指を掛ける。
周囲を見渡しても、声の主は居ない。
【空】気持ち悪い……っ!
ベタベタと声の残響がへばりついてる気分。
耳を乱暴に拭いながら舌打ちをする。
虚空は影もなく、銃弾をブチ込む眉間もない。
血が上った頭が冷えてくるにつれ、
遅ればせながら状況を把握していく。
蒸気路面車の中。揺れる車体。そしてーー
【空】……え?
車窓に駆け寄る。
勢い余って鼻をぶつけそうになりながら、
窓の外を流れる景色を見つめる。
長屋が並んでる。それはいい。
蟲群街の光景と大差ない。
様々な妖怪たちが歩いてる。それもいい。
無限雑踏街の景色と大差ない。
でも、この光景は予想外に過ぎた。
こんな有り様、今まで想像すらしなかった。
ーー花。
道中、ありとあらゆるところに咲く花々。
ーー月。
雲ひとつない夜空に浮かぶ金色の月光。
それはどちらもあり得ないモノだった。
日の差さない地底で植物は育たない。
岩盤に覆われた地底で月は浮かばない。
月には顔があった。
それは確かに、笑顔の形に見えた。
虚空に浮かびながら、月が嗤ってる。
見たこともない景色に目が釘付けになる。
呆然とする心が奪われそうになる。
こんな。こんな綺麗なものーー
【さとり】……んぅ。
……あれ、お空さん……?
夢見心地の声で、さとりが言う。
さとりも、いつの間にか寝てたらしい。
やや間を置いて、慌ただしく
椅子から飛び起きる音。
さとりが私の隣に駆け寄って、
【さとり】こ、これは……いったい……!?
な、何が、いったい何が……!!?
【空】ね。どういうことだろう?
【空】私、初めて見る……。
月も、花も……。
【さとり】そ、そんなことじゃなくて!!
いや、それも確かに奇妙ですがーー!!
時計を手にした白ウサギみたく
慌てふためいた彼女は、
胸の辺りの第三の眼を手に取って、
【さとり】こ、心が! 読めません!!!
わ、わ、私の、読心の能力が!!
【さとり】何を、お空さんが何を考えてるのか、
わ、ぜんぜん判りません!!!
【さとり】あわわわ……!!
何を、誰が、いつ、どこで、どのように!!?
どうしてっ!!?
奥歯をガタガタ言わせながら、
さとりがいっそ愉快なほど取り乱す。
うずくまったり、頭を柱に打ち付けたり。
見た目には何も変わったように見えない。
でも、当人の様子的には本当なんだろう。
第三の眼を撫で回したり、叩いてみたり。
気持ちは判る。って思った。
私も起きて手元に銃がなかったら、こうなる。
心底不安で、死んでしまいそうなくらい。
【空】ま、まぁまぁ、落ち着いて……。
ほら、座って。
息を吸って。大きく。
【空】息、吸うだけじゃ駄目だよ。
ちゃんと吐いて。
とりあえず、第三の眼を両手で抱えて
壁に叩きつけようとしている彼女を宥めつつ、
私も座席に腰掛ける。
状況の整理が必要だ。
自分の立ってる位置も判らないようじゃ、
何も判らないまま真っ先に死んじゃうから。
【空】さとりは、いまさっき起きたの?
私は、蒸気路面車の振動で、
うとうとしたところまで覚えてるけど。
【空】さとりも、眠かった?
そうは見えなかったけどな。
【さとり】……眠気を自覚した記憶は……。
【空】どっち?
あるの? ないの?
【さとり】ひぃ! ご、ごめんなさいっ!
眠気は記憶にありません!!
すみませんでした!!
【空】怒ってない、怒ってないよ。
落ち着いて。謝らなくていいから。
うーん、眠気が記憶にないなら……。
【空】……眠らされた、とか?
蒸気路面車は物盗り、
けっこう多いみたいだから。
【空】盗られちゃった、のかも……。
他に無くしたものはない?
私も、確認してみる。
【さとり】ううぅ……はい……。
探してみます……。
涙目になったさとりが懐を確認する。
私もポケットを改める。
とはいえ、ほとんど持ち物もないけど。
拳銃。銃弾。タバコ。ライター。
私がいつも持ち歩いてるもの。
何も無くしていなかった。
ひとつたりとも。
ひどくしおしおになったさとりが、
鼻をスンスン鳴らしながら、
【さとり】何も無くしてないです……。
路銀も、ぜんぜん減ってません……。
【空】なるほどね。
そもそも、この蒸気路面車には
私とさとりの2人しか乗ってない。
物盗りの線は薄いとは思ってた。
でも、それじゃ、どういうことなんだろう?
さとりの能力って言ったって、
そう簡単に無くせるものでもないだろうに。
何かが起きている。
私たちが寝ている間に、
何か、得体の知れないことが。
それは、この車窓から見える
得体の知れない花や月と、
何か関係があるんだろうか。
ゆるゆると蒸気路面車の速度が落ちていく。
もうすぐターミナルに着く。
状況もロクに把握できてないまま。
私は立ち上がって、さとりの手を取る。
どうあれ私は何も失ってない。
私がしっかりしなくちゃいけない。
もしくは、このままトンボ返り、
という手も無くはない。
逆方向に向かうターミナルを探して。
いずれにせよ、
この蒸気路面車からは降りなきゃいけない。
私はうん、と決心して頷くと、
さとりを怖がらせないように、
努めて明るく見えるように笑顔を浮かべ、
【空】ほら、行くよ。
【さとり】うぅ……。
【さとり】何の笑みなのか判らなくて、
怖いです……。
【空】うーん。前途多難。
あれだけ大見得を切っていたのが嘘みたい。
もう並大抵の足手まといじゃない。
どう考えても仕事どころじゃない。
やっぱり帰るべきだ。
いちど無限雑踏街に戻って、
お燐に土下座でもすればいい。
乗降口へ向かう。
蒸気路面車が蒸気を吹き出しながら、
ターミナルへとたどり着く。
圧縮蒸気が機関に充填される音。
それと同時にドアが開いて、
私たちはターミナルへ降り立つ。
ターミナルは、やけに活気があった。
集まっている妖怪たちの目が、
いっきにこちらに向けられる気配。
さとりが私にしがみ付く。
私は胸元の銃に手を伸ばす。
わらわらと妖怪たちが歩み寄って来て、
【蜥蜴】ようこそ、白蓮教徒の街へ。
【【【妖怪たち】】】ようこそ。
いっせいに深々とお辞儀をされて、
さすがの私も毒気を抜かれてしまう。
呆気に取られていると、
先ほど口火を切った蜥蜴が
柔和な微笑みを浮かべながら、
【蜥蜴】観光ですか? 入門ですか?
いえ、どちらでも構いません。
御仏の心のままに。
【蜥蜴】何もない街ですが、
どうか楽しんでいってくださいね。
お二方、親子には見えませんが……。
【空】あ、その、親子じゃなくて……。
仕事の、上司と部下で……。
【蜥蜴】そうですか、そうですか。
それはそれは、大変ですね。
【蜥蜴】よろしければ、
街をご案内しましょうか?
いえ、強制ではないのですが。
【空】あー、えっと。
お、お願いします?
【蜥蜴】ありがとうございます。
かしこまりました。
では、こちらへ。
蜥蜴妖怪が促すと、
集まっていた妖怪たちが、
これまたいっせいに道を譲る。
蟲群街の蟲妖とは違う。
統率された動きというより、
銘々が我先に、と行動したみたいな。
みんな笑っている。
みなが笑っていた。
嗤う月明かりの下。
静かに。穏やかに。
【空】(変な感じ。
気持ち悪い……)
身震いするような気分。
無限雑踏街じゃ、大金を払っても
こんな光景を見ることはできない。
当たり前に存在するものが、ここにはない。
あるいは、その逆なのかも。そんな感覚。
それに何という名前がつくのか、私には判らない。
【蜥蜴】どうかなさいました?
【空】あ、いや、別に。
【蜥蜴】そうですか。そうですか。
何かありましたら
遠慮なくおっしゃってくださいね。
【空】うん……。
蜥蜴妖怪に先導される私。
さとりは、私のコートの端を掴みながら
おっかなびっくり付いてくる。
【さとり】うぅ、居心地悪いですね……。
キョロキョロと周囲を見回しながら、
さとりが小さく呟く。
【さとり】歓待を受ける謂れがありません。
それにこの人たち、私を見ても驚かない……。
【さとり】今は何故か、
読心能力が使えないとは言え、
悟り妖怪なのは見れば判るでしょう?
【さとり】信じられません。
こんな経験、初めてです。
是非曲直庁ですら……。
【空】そうだよね。
私がおかしいわけじゃない、よね。
妖怪たちに譲られた道を通りながら、
ひそひそ声で返す。
私もさとりと同じ気持ち。
歓迎される理由が判らない。
それもそう。そして彼らが、
ターミナルで待ち構えてた理由も。
商会から事前に話が行っていた?
饕餮さんから、会長さんを経由して?
違う。それじゃ意味がない。
抜き打ち検査を事前に告知するような真似。
もっと違う理由だ。
たぶん。確証はないけど。
【蜥蜴】他の街から来られたなら、
きっと驚かれたでしょう?
月も花も、初めて見たのでは?
ターミナルから離れて、
主要な大通りと思しきところに
差し掛かったあたりで、蜥蜴が尋ねてくる。
【空】うん。初めて見た。
あれ、どういう理屈?
【空】花はまだしも、月なんて。
それも、なんか顔あるし。
【蜥蜴】不思議な模様ですよねぇ。
シミュラクラ現象、というらしいですよ?
何でもない形が、顔に見えるんだそうで。
【空】何でもない形?
そんな馬鹿な。
【空】あれが顔じゃなかったら、
この世に顔なんて言葉は無いよ。
なんか、邪悪な顔してるし。
【蜥蜴】そうですよねぇ。
私も、最初はそう思ってました。
【蜥蜴】私も地上の月を見たことがありますが、
あんな模様ではありませんでしたし。
【空】そうなの?
さとりに訊くと、彼女は力強く頷いた。
心が読めなくなっても、断言できるらしい。
絶対に、月はあんな感じじゃないと。
【蜥蜴】本物の月では無いのでしょう。
邪悪な顔をしているようにも、
確かに見えます。
【蜥蜴】ですが、何も問題はありません。
別に悪さをするわけでもなし。
表情を変えることさえありません。
【蜥蜴】もう私は、そういうものだ、
と思っています。
あるがままを受け入れれば良いのです。
【空】そうかなぁ……?
達観した風の蜥蜴の言葉を聞き流しつつ、
頭上に浮かぶ巨大な月の顔を見上げる。
笑っている。嗤っている。
可愛くはない。親しみも覚えられない。
馬鹿にされてる気分にさえなる。
でも言われてみれば確かに、
表情が変わったようには見えない。
車窓で見た時と全く同じ。
そもそも、どういう原理で
空に浮いてるんだろう。
地下世界の空は有限なのに。
【空】じゃ、花は?
どうして、ここには花が咲いてるの?
【蜥蜴】それでしたら説明できます。
あれらは極楽蓮華。
御仏の導きの賜物です。
【蜥蜴】蓮華は御仏の悟りの象徴。
世間の法に染まらざること、
蓮華の水にあるが如しと申します。
【蜥蜴】蓮華は汚れた泥の中で育ち、
美しい大輪の花を咲かせます。
私もそのように在りたいものです。
【空】それが説明?
ぜんぜん何も判らないよ。
【空】ひょっとして説明とかヘタな感じ?
それとも、私が馬鹿なのが悪いのかな?
さとり、判る?
さとりが即座に首を横に振る。
彼女が心を読めたら、判ってただろうか。
少なくとも、私には判らない。
いきなり御仏とか導きとか言われても、
どんなものかピンと来ない。
【空】そうだよね。
私、理屈を聞いたつもりだったんだけど、
聞き方が悪かったかな?
【空】精神論とか言われても、
私、馬鹿だからよく判らないよ。
【蜥蜴】…………。
【蜥蜴】あぁ、いえ。失礼しました。
ふふ、つい熱がこもってしまいまして。
理屈。そう、理屈でしたね。
【蜥蜴】ご存じの通りこの街は、
仏門に入った者たちで成り立っています。
【蜥蜴】ここはかつて地獄であった場所。
本来ならば、御仏の加護も届かぬ場所です。
【蜥蜴】ですが、この地に落ちた信徒が、
それでも尚、熱心に御仏に救いを求め、
その結果として法力が遣わされました。
【蜥蜴】このような地でも、
蓮の花のように心清らかにあれ、と。
御仏がお伝えになってると聞きます。
【空】ふぅん。
【蜥蜴】えぇ、そうなのです。
御仏の慈悲は普くこの世界を
尊き法のご加護で照らされてーー
【空】あ、そうだ。
私たち、無限雑踏街に帰りたいの。
【空】帰りの蒸気路面車はどこ?
ターミナルは別の場所?
案内してくれるんだよね?
何だかまた話が脱線しそうだったので、
早めにこちらの意向を伝えることにした。
このヒト、話がまわりくどい。
歩いてるのに寝ちゃいそうになる。
適度にサポートしなきゃ駄目なタイプみたい。
状況はややこしくなってるけど、
やらなきゃいけないことは変わらない。
さとりの読心能力に頼れない以上、
私が独断で動いても大した成果にならない。
とりあえず、戻りたい。
行動の指針を判断できるヒトがほしい。
お燐に何て言えば許されるかな。
蜥蜴妖怪からの反応はない。
ただ黙って、私たちの前を歩いている。
【空】あれ? 聞こえなかったのかな?
耳もあんまり良くないのかもしれない。
仕方がないなぁ、もう。
【空】もしもーし?
私たち、戻りたいんだけどー?
聞こえるかなー? おーい?
【さとり】ちょっとちょっと、空さん!
聞こえないわけではないと思いますよ……!
さとりが私のコートをぐいぐい引っ張りながら、
慌てたように小声で囁いてくる。
私は首を傾げる。
聞こえてるなら、どうして反応しないの?
ちょっぴりイラッとする。
私、仕事で来てるから、
暇じゃないんだけど。
【空】じゃ、なに? 無視?
無視してるの?
どうして?
【空】さっきまで御仏、御仏って、
押し売りみたいに言ってたくせにね。
意地悪なヒトだなぁ。
【さとり】もう!
お空さんって本当にアレですね!
聞いててヒヤヒヤします!
さとりが悲痛な声音で絶叫する。
どうしたんだろう。
急に興奮したりして。
私がキョトンとしていると、
さとりは私の顔を指で差して、
【さとり】もっとこう、あるでしょう!?
デリカシーというか、
話を合わせるというか!
【さとり】私は心が読めなくて不安なのに!
どうして喧嘩を売るみたいな
言い方をするんですか!?
【空】喧嘩なんて、売ってないけど。
普通にしてるだけだよ。
うだうだ煩いな、とは思ったけど。
【さとり】あぁ、もう! そうでしたね!
まったく、悪気ないんですもんね!
むしろ性質悪いですけどね!
【さとり】心も読めないくせに、
考えずに話しすぎです!
【さとり】どうせあのタイプは、
薄っぺらい自説に酔ってるだけですから!
適当に聞き流していればいいのに!!
【蜥蜴】…………。
【空】どういうこと?
綺麗事ならべた程度で、
気持ちよくなってるってこと?
【さとり】そうですよ!
聞いてれば判るでしょう!?
【さとり】聞き齧った程度の知識!
なんの面白みもない解釈!!
【さとり】教わったことを、
右から左に垂れ流してるだけですよ!
空気の読めない九官鳥と変わりません!!
【さとり】それをお空さんと来たら、
まるで、頭の正常な妖怪を
相手にするみたいに!!
【蜥蜴】……………………。
【空】そうなんだ。なるほどね。
つまり、私が間違ってたんだね。
【空】ごめんね、蜥蜴さん。
私、確かに考えなしだったかも。
【空】私、自分よりも
頭の悪いヒトってあんまり見ないから、
接し方、あんまり判らなくて……。
【空】馬鹿でも判るように言うね?
ターミナル。判る?
行きたい。判る?
【蜥蜴】………………………………………………
……………………………………………………
……………………………………………………あ。
【空】あ?
不意に蜥蜴が立ち止まる。
どうかしたのか、と訝しむ私たちを他所に、
蜥蜴は頭を抱えて、
【蜥蜴】ああぁぁあ……駄目だ、駄目だ。
修行が足りない……。
悪心が満ちて、あ、あぁ……。
【蜥蜴】あぁあああああああああ……!
あああああ、あ、あああぁぁぁ……っ!
【空】ど、どうかした?
頭痛い? 怒った?
ご、ごめんね……?
【さとり】っ!?
お空さん、離れてください!!
蜥蜴に近寄ろうとした私の手を、
さとりが引く。
途端、妙な不協和音。
ガラス同士が擦れるような。
鼓膜がつんざかれるような。
両耳を抑える。吐き気を堪える。
膝をついた蜥蜴の身体が、
メキメキと隆起する様を見る。
これは。
この有り様はーー。
【蜥蜴】ああぁ、アアあぁア……!
あ、ア、アァ、……あ……!!
私は知っている。
この叫びを。この狂気を。
【蜥蜴?】アアアAAAaーー!
ーーAAAAAーー!
蜥蜴だったモノの背を突き破って、
白き翼が天へ伸びるこのザマを。
【蜥蜴?】ーーAAAAAAAAーー
肉が膨張する。白く引き延ばされて、
くすんだ輝きが膨らんだ身体を覆い尽くす。
濡れた刀のような鋭い鉤爪。
砕けた氷のような歪な犬歯。
それは、歌うように絶叫するーー
【空】ーー天使。
ーーAAAAAAAAーー
それは、確かにそうだった。
蟲群街で見たそれよりも小ぶりな。
でも、おかしい。
どうして、こんな。
あの仮面の者の顕現も、
略式裁判も、浮遊する仮面も、
何もなかったのにーー?
さとりが私の前に躍り出る。
その手には、既に起動した
悔悟の棒を強く掴んで。
【さとり】閻魔代行者、
古明地さとりの名において――
【さとり】ーー再審を、
――GRRRRRRRR!!!!!――
【空】っ!!?
空気そのものがひび割れるくらい
大きな唸り声が轟いてくる!
でも、まださとりは何もしていない。
彼女自身も、何が起きたか判らず、
キョロキョロと困惑した目を四方にやって。
地面が震える。長屋の窓が割れる。
何か、何かがここに走ってくる!
【空】危ない!!
私は反射的にさとりを抱いて、
長屋の壁際に飛び退く。
その瞬間、月光が黒く切り取られてーー
ーーーー!!!
さっきまで私たちがいた場所に、
巨大な何かが地響きを立てて着地する!
――GRRRRRRRR!――
長屋一軒分よりも巨大な獣が、
音圧が見えるほど猛々しい唸りを上げて。
【さとり】な、な、な……っ!!?
ーーAAAAAAAA!!!ーー
小ぶりな天使が、
獣を恐れてか、けたたましい絶叫を放つ。
でも、傍目から見て勝敗は歴然に見えた。
天使の鉤爪も牙も、獣のそれに遠く及ばない。
それでも天使は決死の攻撃を仕掛ける。
鋭く叫びながら、見上げるほどの獣に向かって。
ーーAAAAAAAA!!!ーー
――GRRRRRRRR!!!!――
目にも止まらぬ速さで、
獣が片方の前足を振るう。
瞬間、天使が長屋の壁に叩きつけられた。
その白く輝く身体から、
真っ黒な血を噴き出して。
【空】……っ!
ーーAA、A、AAーー
あれでは、もう立ち上がれまい。
そう思った。どこもかしこも、
めちゃくちゃに破壊されて。
それでも、獣の攻撃は止まない。
ボロクズのようになった天使を咥え、
ブンブンと振り回し、地面に叩きつける。
まるで、遊んでいるかのよう。
破壊を楽しんでいるかのよう。
天使が助けを求めるように叫ぶ。
ーーA、AA、A!!ーー
思わず目を背けそうになる。
あれは、惨い。
あんなに砕かれても、死ねないなんて。
さとりの身体をキツく抱く。
彼女も呆然として、声も出ないみたい。
アレが終われば次は誰か、想像したくもない。
ーー不意に、また地面が揺れる。
先ほどあの獣が走ってきた時のように、
連続で爆裂してるみたいな音と共に、
何かがこちらに近づいてくる!
【さとり】こ、今度は何ですかっ!?
そんなさとりの叫びをかき消すようにーー
突如、空中に出現した巨大な拳が、
獣の鼻面を殴り飛ばす!
――GRRRRRRRR!!!?――
ーーOOoOOOoo!!ーー
手首から先だけの巨大な拳。
長屋を丸ごと握り潰せそうなほど。
それが獣の咥える半壊の天使を
乱暴に掴んで引ったくろうとする。
まるで犬の玩具を取り返すみたく。
もう保たない天使の身体が砕ける音。
もう悲鳴はない。もう絶叫はない。
喝采はない。
そんな気持ち、露ほども湧かない。
超越的な暴力を目の当たりにして。
爆発したシャンデリアのように、
天使の欠片が千々に落ちてくる。
それを受け止めるモノたちがいた。
不定形の、しかし人の形に似た、
粘着質の液体で構成されたモノども。
どこからともなく支流となって
流れ込んでくる、鉄錆びた血液のうねり。
それが、幾十もの人形を成していく。
ーーUuuuUuuuuUUUUuーー
血液の流れが形作る、
痩せ細った亡者の群れ。
それがフラフラと銘々に動き出す。
天使の破片を拾い集めたり、
獣や拳の怪物に群がったり。
【空】何なの、これ……。
悪夢のような眼前の光景に、
私は誰知らず呟いていた。
バラバラに引きちぎられた天使。
獰猛に唸り続ける黄金の獣。
獣の喉首を掴み上げる巨大な手。
天使の破片を収集する血の人の群れ。
花が咲いている。
蓮華の花々が、風に揺れている。
月が煌々と照っている。
顔色も変えず、嘲笑し続けている。
この光景。この有様。
理さえもねじ伏せるような。
律さえも上書くかのような。
私はこんなザマを知っている。
かつて針が山をなし、
かつて血が湧いた地の底の在り方。
かつて獄卒たちが雄叫びを上げ、
かつて亡者どもが責苦を受け、
かつて閻魔が全てを統治した。
ここは、かつての。
まるで、そう、まるで。
ここだけ、地獄に巻き戻ったみたいに。
――GRRRRRRRR!!――
ーーOOoOOOoo!!ーー
ーーUuuuUuuuuUUUUu!!ーー
【???】ーーまったく、馬鹿みたい。
何が御仏よ。何がご加護よ。
【???】けっきょく、聖がいないと、
浮かれて羽目を外してさ。
誰かの声がした。
冗談のような化け物どもの
狂喜乱舞の最中、それでも
平然と、ため息さえ吐いて。
【???】あーあ、退屈。
つまんない、つまんない。
【???】この私が。この私が!!
風紀委員長なんて気取ってさぁ。
柄じゃないっての。そうでしょう?
長屋の屋根の上に、その誰かは居た。
眼前の光景を物憂げに見下ろして。
長尺の得物を気だるげに携えて。
たん、っと呆気なく死地に降りてくる。
弓なりに反った身体、月を背負うように。
――GRRRRRRRR!!――
屋根から飛び降りた誰かの姿を目にして、
獣の化け物が機敏に反応する。
それは拳の化け物を前足で
ぶっ飛ばしたかと思うと、
落ちてくる彼女に飛びかかってーー
【???】ナズ、援護。
【???】応ともさ。
もうひとりの誰かの声。
声のした方から甲高く笛の音。
その笛の音に導かれるように、
立ち並ぶ長屋のあちこちから、
黒々とした何かの塊が獣に飛びついて。
――GRRRRRRRR!!――
【さとり】……あれは、ネズミ?
黒いネズミの塊が黄金の獣にまとわりつく。
獣は引っ付くネズミを振り払おうと暴れ、
音もなく着地した少女から注意を逸らす。
ーーUuuuUUuu!!ーー
散開していた血液の人形が
地獄の風のような不気味な唸り声とともに、
降り立った少女を取り囲む。
彼女はそれに臆することなく、
長尺の得物をクルクルと回し、
先走った血液の化け物を打ちのめす。
【???】ひとつ!
次いで、背後から襲いかかってきた
血液の化け物に得物を突き刺して、
【???】ふたつ!
彼女のねじ伏せた2体の化け物が弾ける。
形を失って粘性のある液体に戻っていく。
怪物たちが怯んだ様子はない。
しかし、彼女もそれを気にもとめない。
【???】三つ、四つ、五つ!!
血液の化け物の渦中を、まるで舞うように、
押し寄せてくる化け物を端から順に
蹴散らしていく。
【空】すごい……。
洗練された動きだった。
無駄のない動作で、流れるように
化け物たちを処理していく。
けれど、包囲網はどんどん大きくなっていく。
理由は私でもすぐに判った。
あの血の化け物たち、
どんどん再生していく。
倒された化け物を構成していた血が、
すぐまた別の化け物の身体を構成して。
あれじゃ、ジリ貧だ。
目の前の化け物を倒しても、
すぐまた別の化け物として再生する。
ーーそこに、
ーーOOoOOOoo!!ーー
【空】っ!!?
先ほど獣の化け物にぶっ飛ばされた
拳の化け物が、少女を叩き潰そうと
開いた手のひらを振りかぶる!
周囲の血の化け物もろとも潰す気だ。
包囲網は破れそうにない。
逃げる場所がどこにもない!
【さとり】危なーー!
【???】雲山、防御。
少女が呟くや否や、
彼女を守るように別の拳が現れて、
振り下ろされた掌をガードする!
もうひとつの拳の化け物。
でも、あれはもう片方とは雰囲気が違う。
色合いとか、纏ってるオーラとか。
よく見ると先にいた片方は右手で、
後から出たもう片方は左手のようだった。
だからそれは、
両手が喧嘩してるような光景になる。
拳を打ち付け合い、握り合い、拮抗する。
拮抗、そう拮抗していた。
あの3種の化け物たちを相手に。
獣はネズミの大群に。
拳はもうひとつの拳と。
血は1人の少女に。
それ自体がすごいことだ。
でも、すごいだけじゃ駄目だ。
そう思った。
決定的な決め手がない。
何か状況をひっくり返せるような、
何かが必要だ、そう思った。
なら、どうするの?
私はここで見ているだけでいいの?
いま拮抗している戦いが、
化け物たちの優位に傾いたら?
あの正体不明の彼女が負けたら?
あの化け物たちに、私の銃は効くの?
さとりの再審が、何とかしてくれる?
何もしないで、楽観的に見てるだけで良い?
『ーーそれは駄目だよね』
『ーーだって、私たちには力があるもん』
『ーー黙って見てるなんてもったいないよ』
『ーーそうでしょう?』
くすくす、笑い声がする。
甘く囁きかける声がする。
何も考えていなかった私は、
この有り様にただ茫然としていた私はーー
【空】…………。
……そう、なのかも……。
と、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、そう思ってしまって。
ーーそして、その一瞬の揺らぎだけで。
ーー虚空は、願いを受理してしまう。
『ーーくすくす。良いよ』
『ーー私の力を貸してあげる』
『ーーお祭りに参加しよう』
『ーーきっと楽しいよ』
内なるその言葉とともにーー
私の身体が変わってくーー
【さとり】ーーっ!!!?
そんな、お空さんっ!!?
絶叫にも似たさとりの声もどこか遠く。
私は、私という個の局地へと成り果てる。
制御棒を構える。
体内の核融合を制御する。
現象数式をフル活動させる。
【空】ーー核融合シーケンス、開始。
原子核、収束。セルフトカマク、形成。
放射性物質発生、制御。
空気を切り裂くような高音が轟く。
発生し始めたエネルギーの振動。
化け物たちが一斉にこちらを向く。
――GRRRRRRRR!!――
ーーOOoOOOoo!!ーー
ーーUuuuUuuuuUUUUu!!ーー
【???】な、なにこれっ!?
【さとり】逃げて!! 離れてください!!
この一帯まるごと消し飛びます!!
【さとり】お空さん! お空さん!!
やめてください!!
アナタの力はーー!
【空】ーーうるさいな。
舌打ちをする。
さとりの身体を払いのける。
絶句する彼女の顔。
それを横目に化け物どもを見据える
私の口元は、たぶん笑っていた。
全身を巡る圧倒的な力が心地いい。
誰もが私を恐れてる。
化け物どもさえ、俺を恐れてる。
誰も、抗えない。誰も、逃げられない。
カミサマからの贈り物。
俺だけの現象数式。俺だけの力だ。
特別な力だ。生死を自由に扱う力だ。
俺だけのオーパーツ、俺だけの武器。
【さとり】お空、さん……!!
さとりがギリ、と歯噛みする。
些事だ。どうでもいい。
そんなもの、何の意味もない。
楽しい。
愉しい。
力で屈服させるのは。
暴力で蹂躙するのは。
ーー楽しくて、堪らない。
【???】やばいやばいやばいよ!!
ナズ、雲山! 早く逃げて!!
【空】遅い。
――GRRRRRRRR!!――
ーーOOoOOOoo!!ーー
ーーUuuuUuuuuUUUUu!!ーー
【空】喚くな。
【さとり】…………っ。
【空】出力解放方向制御、完了。
エネルギー圧縮率…80%…90%…100%、完了。
出力解放…2…1、イグニッション。
【さとり】閻魔代行者、
古明地さとりの名において、
ーー再審を、請求する!
【空】スペルカード制限、撤廃。
【さとり】出よ!
ヤマの権能宿せし風の神龍!
【空】『ギガフレア』
【さとり】――現象数式『ククルカン』!!
ーーーーーーーー!!!
私の構えた制御棒から、
核融合の超高圧熱線が放たれる刹那。
さとりが召喚した現象数式の龍が、
私の目の前に踊り出して。
核熱をその身に受けた神龍は、
端から蒸発しながらも、
エネルギーのほとんどを相殺する。
それでも、相当の爆発が起きた。
爆炎と爆煙に遮られて、
化け物や少女の姿が見えなくなる。
私はそれを残念に思う。
放出の悦楽冷め切らない頭で。
私はとても苦々しく思う。
邪魔さえ入らなければ、
思うままに圧倒的な力を振るえたのに。
あの緑色の龍が割り入らなければ、
目に入る世界のすべてを
焼き尽くせたのに。
くすくす。残念。
とっても、残念だったね。
でも、大丈夫。
私は気にしないよ。
だってまた、すぐにでも、
チャンスは訪れる。
すぐに、また私の力に頼る時が来る。
そうでしょう?
嬉しそうに囁く声が、
脳髄の奥から響いてきて。
そして、私は急激にやってきた
虚脱感と睡魔に引き込まれるように、
意識を失っていくーー。