7日目。その日私は店に立った。
体はひどく苦しかったけど、店に立ってみると少しだけ心持ちが楽になる。
私の姿を見てぎょっとする人は多かった。
だけど私は貸本屋鈴奈庵の看板娘なのだ。
お昼前、私のところに一人の方が尋ねてきた。
「こんにちは、本居小鈴さん。幽々子から大体の話は聞いているわ。大変ね、随分と」
その方、八雲紫さんは私に問いかける。
「私は知ってるわよ。あなたが外来本を好んで読んでいること」
あんまり紫さんはここに来たりはしていないと思っていたが、いつの間にか観察されていたようだ。
案外誰かが逐一紫さんに報告なんかをしているのかもしれない。
「ねえ、小鈴ちゃん、私、あなたが望むのなら、あなたを外の世界へと開放して良いと思っているわ。本当はいけないことだけど、あなたに残された時間は長くはないから」
私を試しているのだろうか、まずはそう思った。
紫さんは幻想郷の管理者の一人だ。
ただ、妖怪を率いて月に攻め入ったこともあるとか聞いたことがあるから、案外私情が入り込んだりするのかもしれない。
いずれにせよ、答えは決まっていた。
幻想郷で生を受け、幻想郷で生を営み、幻想郷で生を終える。
それこそが幻想郷をつくる者たちの役割なのだから。
だいたい何を言っているのだ、私に時間はまだたっぷりとある。
それまでの間、私は精一杯楽しみ、苦しんでやるから。
「そう……」
突如紫さんは私をぎゅっと抱きしめた。
私は紫さんのそんな顔を見るのは初めてだった。
いや、紫さんがそんな顔をできるなんて思ってすらいなかった。
「小鈴ちゃん、本当にありがとう、そう言ってもらって。光栄よ、あなたは私たちのかけがえのない誇り」
ひどく驚いた。なぜそういうことをされたのかも一瞬理解できなかった。
いつも胡散臭くて何を考えておられるのか分からない紫さんが、おそらくは二心なくそう思っていることが、私を抱きしめる力の強さから伺えた。
それでも本当にそれが本心なのか、完全にはわからなかった。
「そうだ、小鈴ちゃん、一緒に海、行かない?」
まあ、たしかに今は夏だけど、突然そんなことを言われたのも驚いた。
そりゃ外の世界を覗いてみたいなんてことは何度も思ったことはあるけど。
海の青を想起したことはある。無論外来本で。
だけれども生憎、写真ですら目で見ることは叶わなかった。
それにしてもどうしてそんなこと言いだすんですか?
「ただの気まぐれよ。……おそらくあなたが思っているとおりね」
紫さんは相も変わらずどこか裏があるような笑顔を浮かべてくれた。
もっとも今回に限ってはその「裏」はそれほど危なっかしかったりするものではない、素直に、好意的に受け止めればよいもののように思われた。
わかりました、行きましょう。
でも、他に何人か一緒に連れて行ってもいいですか?
初めて見る海はとにかく広いという印象だった。
私は水平線という言葉だけは知っていたが、なるほど確かに人がそう呼ぶのも頷ける。
一緒に来てほしいと頼んだのはお父さんとお母さん、阿求、そして霊夢さんと魔理沙さんだった。
霊夢さんと魔理沙さんについては色々とお世話になってるからね。
霊夢さんが少しの間とはいえ幻想郷を空けることが心配だったが、紫さんは、そこはこっちがなんとかするから、と仰った。
まあ、私の手の届かないところは任せておこう。
魔理沙さんは海の水を舐めてみて、随分しょっぱいんだな、と言う。
霊夢さんは呆れたような顔で、当たり前じゃない、と返す。
「でもさ、こんなに広いのをみると、私達はなんてちっぽけな存在なんだって思わざるを得ないな、霊夢」
「まあ、生命は海から来たっていうからね。私達はどこかで海を恋い焦がれているのかもしれないわ」
「阿求は海を見たことはあるのか?」
「ええ、阿求になる前に何度か。もっともうろ覚えだったからこうやって改めて見るのはすごく新鮮ですけどね」
「なあ、小鈴」
魔理沙さんが私に話しかける。
「……ありがとうな、誘ってくれて。霊夢もそう思ってるんじゃないか?」
霊夢さんはこちらを見ると、私に黙ってぺこりと頭を下げた。
……やっぱりうきうきした気持ちは隠せないみたいだったけどね。
ザアッ、ザアッ、と波が打ち付ける音が聞こえる。
塩辛い匂いを感じる。
砂浜には石ころが交じる。
波打ち際に足を浸す。
複眼と単眼で見る海は他の6人がそれぞれ2つの目で見ているものそのままではない。
だがそんなことは関係がない。
だって各々見ているものは必ず異なるのだから。
お父さんとお母さんは共に水平線に沈む夕日を見つめていた。
幻想郷で何百何千回と見たはずの夕日。
だけれどもこの夕日はお父さんとお母さんの人生の中でただ唯一の、かけがえのないものだ。
そしてまた、かけがえのない夕日を見るはずである。
お父さんとお母さんは何を思ったのだろうか?
それはもしかしたら二人が出会った日であり、私が生まれた日であり、孫の顔を見る日なのかもしれない。
紫さんは幾度となく海を見ていることだろう。
でも私は紫さんにとっても「今こうやって」見る海は初めてのものだと思うのだ。
霊夢さんはあんな感じだから、もしかしたら海と自分を重ねているのかもしれない。
霊夢さんのぼやーっとしたような、それでいてぴしりとした眼差しを見ているとそう思えてくる。
魔理沙さんはどうなのだろう。友達の多い魔理沙さんのことだから、アリスさんやパチュリーさんにも見せてあげたい、そんなことを思っているのだろうか。
阿求。またいつか来ようね。
外の世界を垣間見ることで私は幻想郷の狭さと広さの両方を目の当たりにした。
あんな小さな世界であっても、私は一生をかけたって回れっこない。
そうだ。同じように、生へと向かう可能性がたった1%でもあるからこそ、私はこの光景に感じるものを有したのではないか。
それを0%にする選択肢をとっていたのならば、私はこの光景をどう感じたのだろうか。
今となってはもうわかるまい。だが、私はいま見ているこの光景はあり得たどんなものよりも尊い、そう感じざるを得ないのだ。
傍らにお父さんが、お母さんが、阿求が、紫さんが、霊夢さんが、魔理沙さんがいる。
思えば私がこの地で生まれたのも、稗田阿鉢や稗田阿拾ではなく他ならぬ稗田阿求と出会ったのも、霊夢さんや紫さんや魔理沙さんと出会ったのも、他のいろいろな方と出会ったのも、全てはただの偶然の産物に過ぎない。
選択だけではこの場所にはたどり着けない。そこには偶然が複雑に絡み合う。
私にとっての運命とは避けられない死、などではない。そんなものは生きとし生けるものが皆有しているものだ。
意思や選択を超えたところにある、意味を有するかもしれない、有さないかもしれない、全くの偶然こそむしろ運命といえるのでははないか。
そしてそれをどう受け止めていくかこそが自分の選択であり生きるということなのだ。
だからもしかしたら私はまたこんな光景を見られるかもしれない、そう強く感じた。
帰ってきた私を待っていてくれたのは変わらぬ鈴奈庵だった。
お父さん、お母さんにおやすみなさいと言って床につく。
ところでだ、外の世界を覗いてみたい、というのは実は二番目にやりたいことだった。
前々から思っていた。
少し恥ずかしいのだけど、読むばかりでなく自分で何かを書いてみたい、と。それこそが私の一番やりたいこと。
無論、書き終えるまで結構時間はかかりそう。
一日二日ではとても書き終えられない。何かをつくるとはそういうもの。
さてと、はじめの一文はどうしようか。
……思いついた。
結構シリアスな話になりそうだ。
ここから始めよう。
僕ら正直村はもともと……
永琳に診察を受けた最初の段階で、ほとんど諦念に至っていた心情は、悲劇の登場人物のそれに近く、いささか重苦しいものがありました。
さらに七日間で小鈴の知り合いや友人に会って死や失うことに対する価値観を聞いていくという展開は、結末をじわじわと嬲るように想起させてきて、辛いものがあります。終わるまでに健気に前を向こうとした小鈴が痛ましく、愛おしいです。死生観について存分に語った怪作だと感じます。
この小鈴は諦念の先、死の手前にある何かを確かに感じ取ったのでしょう。
我々もいざその場に立ったとき、彼女のように、冷静に自分の死を見つめ、受け入れる事が出来るのでしょうか……。
素晴らしいお話ありがとうございました。
1日目の緊迫感が素晴らしかったです
ありがとうございました。