3日目の朝はほんの少しの怠さで幕を開けた。
昨日まで少なくとも活力に満ちていたはずの体に陰りが見えた。
私はそのことに愕然とする。しかし思えばもう3日目だ。人間で言えばおそらく40歳近くになってしまったのだろう。
そう考えると、弱り、というのもあながち反発するものではないのかもしれない。
ガラリとお店の戸を開ける音が部屋にいる私の耳に入る。誰か来たようだ。
「すまんのう、小鈴ちゃんはおるかい」
いつものお得意様だ。なんでわざわざこんなときに来るのだろうか。お母さんが出ていって、すみません、小鈴はちょっと具合が悪くて……と告げる。
「そうか、それなら仕方がない。それじゃあ、また今度にするか」
待ってください。
思わず発した大きな鳴き声が店の中に響いてしまう。店を出ようとしたあの人が歩みを止めた。
「……この店にはアブラゼミでもおるんかのう?」
どうしよう、今の私の姿を見たらなんて思うだろうか。
そんなことを考えると胸が張り裂けそうになる。自分のこんな姿を憧れの人に見られたくなんてなかった。
母の深刻な顔を見たあの人は、ずかずかと店の中に入り込んでくる。
「ちょいと失礼するぞ」
そう言って私の部屋の中に入る。お願いだからやめてほしい。
「悪いの、儂は年の割には耳が良くてな。こう見えてアマチュア無線の免許持っとるから、モールス信号も会得済みなんじゃ」
布団に転がる蝉を見たあの人は驚いた顔を見せる。ああ、やっぱり。
「……そうか」
しかしその後に見せたのは、期待していた、私を蔑んだり哀れんだりするような、そんな顔ではなかった。
ただ、悲しみの混じった微笑みを返してくれただけだった。
微笑みの中に悲しみを見るのは正直苦しかった。半分固定された眼をなんとか逸らそうともぞもぞと動かす。
「辛いな。儂も姿を変える。でもそれは自分の意志によるものじゃ。たとえそんな紛い物の変身であっても、儂は自分が一生戻れなくなるんじゃないかとか理由もない不安にたまに襲われる。だけれどもお前さんの気持ちをわかってやることはできないんじゃろうな、すまんのう」
そう言って私をぎゅっと抱きしめてくれた。とても長い時間に感じられた。
「……儂ではきっと良い助言をすることはできん。何を言ったところで気休めにしかならんのはわかっとる。だから、一人儂の旧知の者に会ってもらいたいんじゃ」
その日の昼過ぎ、あの人に連れられて私の部屋に来たのは奇妙な形をした羽を備え、黒い服を身にまとった可愛らしい女の子だった。
「こやつは封獣ぬえ。儂の古くからの友人じゃ」
「マミゾウさんの頼みじゃなかったらこういうところには来ないけど、仕方ないわね」
なるほど、初めて名前を知ったが、この人はマミゾウさんというのか。
ちょこんと座ったぬえさんの羽は、私の茶色く油染みた羽と違ってすごく綺麗だった。
「それでこの大きな蝉が元々は人間だったわけ?」
「まあ、そういうことになる」
「それで何を話せばいいのよ」
「お前さん自身のことを聞かせてやればいい」
「まあ……私の場合は変身、というわけではないんだけどね」
そこでぬえさんは一つため息をつく。
「怖いの? 自分が蝉になったことが。もうすぐ死んでしまうかもしれないということが。でもね……悪いけど私はそのことについてはあまり良いアドバイスをあげることはできない。私は元々妖怪だし、お迎えが来るのもきっと当分先。そのことについては悔しいけどあなたのほうが先輩というわけ。私が語れることといえば、未知の存在に抱く気持ちについて、ぐらいかな。……私は昔から正体不明の者として恐れられてきた。ああ、勘違いしないでほしいんだけど、今目の前にいるこの姿は正真正銘本物だから。小鈴さんはなぜ誰もがが死を恐れると思う? 恐怖は常に無知から生じる、とか誰かが言ったように、一般には死んだあとのことがよくわからないからだと思われている。だから天国とか地獄とか輪廻転生だとか無だとか、そんなものを規定するって。ええ、だからこそ人間は夜の闇を恐れ、光を作り照らし出してきた。だけれども……私は一日の中で一番怖い時というのは、夜ではなく逢魔が時、すなわち夕方が夜に移り変わる時だと思っている」
あまり意識したことはなかった。ただ、逢魔が時を境にして人里にも妖怪が多く出没するのはよく見知っていた。
「どれだけ恐ろしい者であっても、姿が規定されてしまえば抱く恐れは半減する。私が古来から恐れられてきたのはその姿からではない。物の怪が潜む夜の闇以上に逢魔が時が恐ろしいのは、世界が光から闇へと変容してしまうから。人は眠っているから気づかないけど、闇から光へも同じなのかもしれない。ある私、への認識が途端に別の私、への認識に次々に変貌するからこそ私は恐れられてきた。世界が変わらなければ人は次第にその世界に順応する」
よく分かる。私が一日目に抱いていた訳のわからない強い恐怖は、三日目に至り大分軽減されているからだ。
「それでさっきの話に戻るけど、死を恐れるのは、死んだ後のことがわからないという前提のもとで、生きているという状態から死という全くわからない状態へと連れ出されざるをえないからだと思う。つまりは、死という結果ではなく、死の瞬間という、過程の中にある一瞬を真に恐れる。あなたが恐れるのは蝉の姿や目前に控える死そのもの以上に、姿が変わったことによる周囲との関係の変容、そして生から死への移り変わり、それに尽きるのではないかしら」
おそらくそうだ。そして前者の変容が微妙なものであればあるほど、後者の変容が急激なものであればあるほど、私はそれらをきっと強く恐れるのだろう。
「私は結構無茶をする方だから、良い方向であれ悪い方向であれ変化を楽しむタイプなんだけど、あなたはどうなの? なになに? きっとわたしもそうです、だって? へえ。あなた、若いのに前途有望ね。まあ、こんなこと言ってしまうから私も怖がられなくなるんだろうけど。でも好奇心の強い人間って私は好きなのよ。正体の分からないものを無闇矢鱈に恐れない奴って色々なものを備えるだけの資格があると思うの。強さとか優しさとか蛮勇とか。だからさ、自信を持って。私が言えた義理では全くないけど、あなただったら大丈夫よ……変化にも静寂にも耐えられるのだったらね」
ぬえさんはそう言ってケラケラと楽しそうに笑った。それを見たマミゾウさんもコロコロと嬉しそうに笑ってくれた。私もジャージャーと一緒になって快く笑った。