さて、昼過ぎに八意さんが連れてこられたのは不思議な気配を身に纏った銀髪の女性だった。背中の右の方から白い翼を覗かせる。
「こちらは稀神サグメといいます。訳あってちょっと無口なんですけど、優しい方ですのでご安心を」
サグメさんは籠に入っている私の方をあまり見ない。無口なのも相まって、少し近寄りがたい雰囲気を感じざるを得なかった。
「私の方から説明させていただきます。彼女は口に出した事柄を逆転させる能力を有しているのです。それこそ運命すら変えてしまい得るほどの能力を」
「娘を元に戻すことはできるのですか?」
「申し訳ないのですが……期待はしないでいただきたいのです。勘違いしないでほしい、彼女は運命の操作を行うことはできません。少しややこしいのですが、彼女のできることは『口に出した事柄を逆転させること』だけです。どのような方向に逆転するのか、それが小鈴さんの望む方向に行くのか否かなどわかりません。どのような過程を経るのかも。そしてこれが一番重要なのですが、彼女が逆転させるのはあくまでも『事態』であり『結果』ではありません。つまり、小鈴さんが蝉に変わったという結果のみを逆転させることはできない。ただ小鈴さんが今身に受けている『事態』をそっくりそのまま逆転させることしかできないのです。その逆転した『事態』の趨勢によって『結果』が変わるということはあり得ますが」
それならばなぜ、八意さんはサグメさんを私のところに連れてきたのだろうか。
「小鈴さん、今のあなたの途上にはおそらく避けられない別離が待っている。そして彼女がたとえば『本居小鈴について』何かを口に出したのなら、あなたの運命は逆方向に向かうことになるでしょう」
ああ、そういうことか。私は二者択一を迫られているのだ。
サグメさんが能力を用いることで私は6日後におそらく元に戻り、そして一生を孤独に過ごす。
そして用いなければ私は周りとの縁を保ったまま寿命が尽きる。
お父さんもそのことには薄々感づいていた様子だった。
「八意さん、サグメさん、私の命などいくらでも差し上げますし、妻も同意見でしょう。ただ、その決定は娘にさせていただきたいのです」
まいったな、人前で親にこんなことを言わせるのは恥ずかしかった。でも、心づもりは決まっていた。
だいたい阿求はどうなるのだ? 霊夢さんは? 魔理沙さんは? 他にもお得意様がいるというのに。
そうだ、私は姿を変えたとしても、貸本屋鈴奈庵のたった一人の看板娘に違いないのだ。
「ジャージャージャージャジャー、ジャジャジャージャジャー、ジャージャジャジャー、ジャジャージャージャージャ、ジャジャージャジャージャ、ジャジャージャジャ、ジャジャ、ジャジャージャジャジャ、ジャージャージャージャー、ジャジャジャージャジャ、ジャージャジャー、ジャージャージャ、ジャージャージャジャージャ、ジャージャジャジャー、ジャージャージャージャジャー」
「そうですか」
言葉を発したのはサグメさんだった。サグメさんの私を射抜く眼差しは先程までのものとは変わっていた。
さっきまで、どこか冷たさを少し宿していたのに。
「私もそうだから。少しは分かる」
サグメさんが告げたのはその二言だけ。でもサグメさんの仰るところの意味はよくわからなかった。
それは果たしてどのことについて述べているのだろうか。意思疎通が難しいという点? 運命というものに翻弄される点? それとも他に何かあるのだろうか?
「帰りましょう」
「ええ……すみませんね、小鈴さんに余計な決断を迫ってしまって。そして小鈴さん、本当に苦しくなったらこの薬を打ってもらってください。そこまで不安になる必要はありません。打ったからといって直ちに死に至るものではないですから」
私は二人にお礼を述べた。確かに八意さんの仰るようにこれは辛い決断だ。だが、私は名もなき虫のように死ぬよりも名のある者として死にたかった。
いつだったか、これも昔読んだことがある。
外の世界のとある聖者は死にゆく者、例えば貧困や病気で死を避けられない者たちを別け隔てなく自分たちの施設に運び入れ、手を取り、看取っていったという。
きっと誰もが腕の中で生まれ腕の中で眠りにつくのだ。
「最後に」
サグメさんは私の方に伸びた翼をバサリと一度羽ばたかせた。
「不条理とは自分で認識も支配もできないからこそ不幸なのであって、自らのどうにもならない運命を、少しの笑いと大いなる悲しみとに満ちた自分の世界をはっきりと認識した結果、自分で自分の人生を支配しているのだと知ることはきっと幸福なことなのでしょう。孤独に生きようとも、囲まれて死のうとも、そのいずれでなくとも。それでは」
私はサグメさんの後ろ姿が消えるまで、ずっとその背中を見つめていた。
サグメさんの仰ったことは正直よくわからなかった。
その意味を十分に理解するには私はきっとあまりに若すぎる。
でも心の奥にそっと置いておきたい、そんな気分になった。