5日目。鈴奈庵の一室で私と白蓮さん、そして神子さんは顔を合わせた。
白蓮さんは深々とお辞儀をされる。
命蓮寺には大きなネズミがおられるらしいけど、こんなに大きな蝉を見たことはないだろう。
「お会いしていただきありがとうございます……本居小鈴さん。命蓮寺の聖白蓮と申します。何度か顔を合わせたことはあると思います。……あなたに興味が湧きました。人ならざるものに姿を変えたあなたのことをもっとよく知ってみたい、今日はそのために来ました」
「豊聡耳神子です。私の方も同じく。まあ、この部屋にいる三人は皆、人から姿を変えた者と言っても良いのだろうね」
話の発端はつまりこういうことだ。
どうやらぬえさんから命蓮寺の方々に私の事情が伝わったらしい。
まあ別に口止めをしたわけでもなかったから、それは仕方のないことだけど。
「早速ですが」
神子さんが口を開いた。
「本居さんは死ぬことが怖くないのですか?」
随分率直に尋ねてこられる。
白蓮さんの方もそれについては私に一番聞きたかったようだ。
本音を言ってしまえば、怖くないといえば嘘になる。
だが先の私の考えに則れば、仮に目前の死が避けられないとしても、それを過剰に恐れる必要はそれほどないように感じられた。
私はこの姿に変わった時、自分が世界で一番不幸なのだと思った。
でも私は本当にそれほどまでに不幸なのだろうか?
ただの強がり、気休めなのかもしれない。だけれども今、私は自分が世界一不幸とは思えない。
私にとって蝉になったことは、非劇とか喜劇などではなく、人生の一つのエピソードに過ぎないのだと思いたいのだ。
……そりゃ、怖くないといえば嘘になるけどね。
思うのだ。
死とは生の終着点などではなく、ただ延長線上にある、一つのチェックポイントにすぎないのかもしれない。
この幻想郷では死ぬと向こう側へと旅立つ。閻魔様の裁きを受ける。そして地獄とか極楽とかそういうところに行く。
だが――それで終わりなのだろうか?
地獄で永遠に苦しみを受容する、極楽で永遠に幸せを享受する、そのいずれもが私にはしっくりこない。
幻想郷の理から外れているのはきっと私の方だ。現実に地獄や極楽がある以上、間違っているのは私に違いない。
でも……例えば妖精などはどうなのだろう? 妖精は死を「一回休み」と表現するらしい。
妖精が消滅するのはその母体である自然が消えさるときだ。
もしかしたら、生物とは皆妖精のようなものなのかもしれない。
地獄や極楽に行かざるをえない人間という生き物こそ、悲しい特別さを有している、そんな風にすら思えてくる。
焼場で塵となり煙が風に吹かれたとき、人は一体どこに行くのだろうか。
魂はおそらく向こう側へと行くのだろう。でも、肉体はどうなる?
私は肉体と魂という、この幻想郷では特に当たり前とされている二元論に今、懐疑を抱き始めている。
八意さんは、私の思考は魂により担われていると仰った。
だったら魂が抜けたら今の蝉の肉体はただの抜け殻にすぎないのだろうか?
外の世界では人間の臓器を別の人間へと移植することが普通に行われているらしい。
脳が機能を停止したら、たとえ自分の心臓が動いていたとしても他の人への臓器移植を希望する人もいる。
興味を惹かれたのは、それらの人の中にも自分が他の人の中で生きる、という表現を使う人がいるということだ。
脳の死、というものはそれなりに多くの人達にとっては魂の死にも等しい。
だけれども、魂こそ人間の命の基だという立場に近い位置に立つ人にも、自分の肉体というものを無碍にしたくはないという意識を働かせる人はそれなりにいる。
そしてそれ以上に脳≒魂の死は死そのものではないと考える人も大勢いる。
だからこそ、誰もが遺体を弔うのではないだろうか。
いつだったか、人里の外で野良妖怪に食べられてしまった人がいた。
その人の親族は、食い荒らされてほとんど原型を留めていない身体から歯を一本取り出してもらい、弔った。
おそらくだが、たとえ小さな歯一本であってもなにもないままで悼むのは耐え難い、たとえ小さな歯一本であってもその人だ、そういう意識が働いたのではないだろうか。
外の世界でかつて起きた巨大な戦争の戦没者遺族の手記を読んだことがある。ある方は戻ってきた父親の遺骨を手にされて涙をこぼした。
外の世界で以前起こった津波を伴う巨大な震災に関わった方々を取材したルポタージュを読んだことがある。皆懸命に、身元がわからないご遺体の身元を明らかにしようとしていた。
肉体は本当に魂のただの依代にすぎないのだろうか。
精神的に豊かであることは精神的な存在である妖怪の跋扈するこの楽園では重要視される。
しかし極端な話、脳を水槽に浮かばせる生を求める者がどれほどいるというのだろうか。
たとえその肉体が機械であっても、その瞬間魂はきっと繋がっているのだから。
だからこそ、肉体を備えた私達は再び世界へと還るのではないだろうか。
無論この世界に生きる以上、違えているのはきっと私。
それでも――私は自分自身にとっての正しさを貫き通したいのだ。
「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)『涅槃経』の一節です。草や木々だけでなく、大地に触れているすべてのものに仏の働きは生きている、というぐらいの意味です。もっとも……私はまだまだ修行の身です。その境地に到れるまでに私はどの程度の時を要するのでしょうか。ええ、「空」の思想ではここにある棒は短いとか長いとかそんなものではなく、ただそこにあるものとして捉えるのです。……あなたはいかがでしょうか」
きっと命そのものはそういうものであって、私自身が意味付けをしているにすぎないのだろう。
私のいまここにいるということを悲劇と捉えるか喜劇と捉えるかで演じ方も幕の下り方も違ってくる。
だけど私にとってこれは永遠に来ることのない誰かを待ち続けるような不条理な劇などではなく、自らが脚本を書き、主役を張り、カーテンコールまで至る舞台そのものなのだ。
観客がいなくとも構わない。ただ、共演してくれる人たちがいる、それだけであまりに十分ではないか。
そして共演者たちが私のことを覚えていてくれる、こんなに嬉しいことはない。
神子さんが再び口を開く。
「私にしても白蓮さんもここで生まれた者ではない。この地に生を受けたあなたはこの地で生きてこの地に眠る。……そうですか、私も我が身を振り返りたくなりましたね、少しだけ」
「ふふ……すごく、悔しいですね。お若い方に先を越されたようで」
白蓮さんはそういって私に微笑んでくれ、神子さんもそれに続いた。
「短いですが……聞きたかったことを聞けましたので、これで御暇します。ありがとうございました、本居小鈴さん」
神子さんは私の方を向き、手を固く握ってくれた。
「ねえ、小鈴さん、今度、命蓮寺に来ませんか? 一緒に勤行されるのも良いかもしれませんよ』
冗談か本気かわからない調子で白蓮さんはそう仰った。
そうですね、今度お訪ねしてもよろしいですか。
それを聞いた白蓮さんはすごく嬉しそうだった。